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2008年3月 9日 (日)

ホームズとワトソンの拳銃(2)

Stud02

 スタンフォードが
「ドクター・ワトソン、ミスター・シャーロック・ホームズ」
と言って二人を引き合わせたのは、『まだらの紐』の事件より2年前、1881年1月のことだった。翌日ホームズとワトソンはもう一度会い、二人でベーカー街221Bの部屋を検分し、すぐに一緒に住むことに決めたのだった。
 ただし、この1881年1月という年月は正典には書いてない。元インド陸軍所属、医学博士ジョン・H・ワトソンの回想録の書き出しは
 
 1878年にロンドン大学で医学博士の学位をとった私は、軍医の過程を修めるため、引き続きネトリーの陸軍病院へと進んだ。そこで修業を修了してから、順調に第五ノーサンバランド・フュージリア連隊付きの軍医補に任命されたのである。

 ワトソンがジザイル銃の銃弾によって負傷したマイワンの戦いは、1880年6月27日のことだった。

Jezail_b

 この戦いでは、総勢2476名の英印軍が2万5000人のアフガン人に包囲された。英印軍は死者969名、負傷者178名という大損害を出して敗退した。(従卒のマレーがワトソンを助けてくれなければ、死者970名、負傷者177名となっていたはずだ。)

 ワトソンはペシャワールへ後送され、やや回復したと思ったら腸チフスにやられた。結局、ロンドンで「1日11シリング6ペンスの収入の許す限り自由」にしているときに、シャーロック・ホームズに紹介されたのは1881年1月のことである----というのは、ベアリング=グールドの考証による。
 ローリストン・ガードンの怪事件がホームズのところに持ち込まれたのは3月のことだったという。

Stud05

 後に『緋色の研究』という題名でまとめられた回想録には、ワトソンが拳銃を取り出すシーンがあったはずだ。(続く)

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