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2008年3月 5日 (水)

評伝

 以前から気になっていたことだが、わが国には評伝というジャンルがあって、これが独自の人気を博している。<人物評伝>などという言い方は特に好まれる。ところで<評伝>に相当する外国語は何かと考えると、ハタと当惑する。日本における<評伝>という語の成立を調べてみたら、さぞ面白かろう。資料をふんだんに使って人物を浮き彫りにする<伝記>の分野は、イギリス人のお家芸で、イギリスぐらい堂にいった伝記に富む国は珍しい。そのイギリスにも、日本のような意味での<評伝>というジャンルはない。<伝記>の事実尊重主義と<批評>の分析判断主義とが、別枠になっているためであろう。これらを混淆し、何となく事実に沿った伝記のような体裁をとりながら、実は筆者の好悪をコッソリ織り込むやり方が<評伝>。二つの分野を峻別するのも、混淆するのも、それぞれに得失はある。優れた見識を持つ筆者の手になる<評伝>は、筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物になる。個性による個性の照明であり、出会いであり、読者までその出会いに感動し満足させられる。
 こういう秀れたものの場合は良い。しかし本格的伝記を書くだけの事実追求の執念もなく、批評といえるだけの分析能力も価値判断力もなく、手頃な規模と手間でお茶を濁すのに、<評伝>というジャンルは実によい隠れ蓑を提供してきた。 
 わが国で本格的ノンフィクション文学が発達せず、辞典類の記述も評伝的恣意に甘く流れがちなのも、このことと関係があるだろう。
(由良君美『みみずく偏書記』pp.215-216)

『先生とわたし』は評伝でしょう。「筆者の個性の冴えが、対象の個性を描きあげ、いきいきとした読み物にな」ったといえる。

「伝記」対「評伝」は、私も以前から気になっていたことで、コナン・ドイルの伝記に関して触れたことがある。
  日本では、伝記と評伝を区別せず、何となく伝記の高級なのが「評伝」であるかのような認識がある。岩波書店からPenguin Livesというシリーズの翻訳が出ているが、ペンギン評伝叢書と称しているのはまことに見識がないと思う。

  ジュリアン・シモンズの『コナン・ドイル』は、イギリスには珍しい<評伝>である。
 コナン・ドイルの<伝記>としては、ジョン・ディクスン・カーの書いたものがあるけれども、失敗作である。
 イギリス式の本格的な伝記として、ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル』を紹介したいと私は思っているのだけれど。
 これについては、カテゴリーのコナン・ドイル、特に「コナン・ドイル伝の邦訳」をご覧下さい。

Arthurconondoyles

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