百年前のチベット討伐
ロンドンで妨害されたのは仕方がないと思うけれど、
しかし、英国人たちたちは、自分たちの祖先が100年前に何をしたかは忘れているだろう。
有名な探検家のフランシス・ヤングハズバンド(1863-1942)は、陸軍少佐としてシッキム・チベット国境紛争をめぐるチベット討伐(1903-04)を指揮し、ラサを占領した。ラサへの途上のギャンズェ(江孜)ではチベット人1300人を虐殺した。
『機関銃の社会史』によれば
だが、アジアにおいておそらく機関銃が最も血なまぐさい能力を発揮したのは、一九〇四年、イギリス軍のチベット討伐だろう。討伐に当たった軍隊には、ノーファク連隊第一大隊特別班も参加していた。この班はマクシム銃二丁を装備していた。討伐最後の戦いで、六〇〇から七〇〇人のチベット人が殺された。一方、イギリス軍はほんの一握りの戦死者を出したのみだった。戦いの山場はこう描かれている。
戦場では、マクシム銃が憎々しげにカタカタと音をたてていた。こんなに恐ろしい打撃を受ければ、どんな軍隊でも持ち場を死守することはできない。これは戦争ではない、虐殺だ。ノーファク連隊のマキシム銃をうけもったハドウは、その夜、母親にこんな手紙を書いた。「僕は一方的な虐殺に気分が悪くなって、撃つのをやめました。でも、将軍の命令はできるだけ大量にしとめろというのです」
(pp. 174-5)
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コメント
英帝国の植民地獲得は、東インド会社を隠れ蓑に、相当荒っぽ
いやり方でした。時代の風として、アフリカ、中東、インド、
アジアに新しい息吹を吹き込みました。
英国は、経済的収奪に専心し、それぞれの植民地の 伝統と文
化宗教には、触れていません。
その意味では、うまい統治をしたと言えます。インド人と中国
人を 番頭として使いました。これも上手いやり方です。
但し、2次大戦後の植民地解放政策は 悪い意味で適当で、お
座成りだたのではないでしょうか。
雨後の竹の子のような戦後の独立国は、民族、宗教、文化
を考慮した国境策定が為されていません。
インド、パキスタン、中東の騒乱の種は、これに在ります。
アフリカに付いても、同様、プラス、産業構造が、モノカルチ
ャー、大規模プランテーション、金属資源の単品生産構造で
旧宗主国に統合されてこそ生きる構造です。
アフリカは、この構造からの脱皮に苦しんでいる様に見えます
現在の混乱の種は、欧米が撒いて、今、刈り入れに苦しんで
いると、見ます。
投稿: rouuuoa | 2008年4月 9日 (水) 11時31分
仰る通り、イギリスのやり方は巧妙でした。遅れて乗り出した日本は持ち出しになって損をした。第二次大戦後の結果については、「日本のおかげで云々」というと、怒られるけれど……でも、毛沢東は「皇軍のおかげだ」と言ったのだ。
投稿: 三十郎 | 2008年4月 9日 (水) 20時42分