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2008年5月31日 (土)

柔道か柔術か(22)

 レスリングは古代ギリシャで行われたスポーツだ。
 ソクラテスもプラトンもアリストテレスもレスラーだった。プラトンはかなり強かったらしい。そもそも彼の名前は「肩幅の広いやつ」という意味のあだ名なんだそうです。
 彼らはどんなレスリングをしたか? グレコローマンスタイルですね。自分の下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。
 なぜ、そんな不自然なスタイルで戦ったか? 理由は明らかでしょう。

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 この絵では一本背負いをかけている。しかし内股なんかは危険である。フリースタイルにある「股裂き」なんぞは、おぞましい。
 やがて時代も進歩してパンツが発明されたけれども、レスリングは変わらなかった。ヨーロッパ大陸では相変わらずグレコローマンスタイルで戦っていた。
 イギリスでは、どこを掴んでもよろしい(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)というスタイルが発生した。
 このスタイルのレスリングは、あるいは18世紀からあったかも知れない。しかし、蒸気機関が発明された18世紀に「隆盛した」なんてことはあり得ない。19世紀でもまだ駄目でしょう。そんな余裕はなかったはずだ。
 ウィキペディアの記事は空想である。
 エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1844)を読めば分かるはずです。悲惨だったのだ。

 ヴィクトリア朝も末期になると労働者階級にもいくらか余裕ができて、ミュージックホールに行って楽しむなんてことも始まったようだ。20世紀になるとかなり盛んになった。
 そのミュージックホールでやるようなプロのレスリングをもとにしてアマチュアレスリングを作るときに、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」という舌をかみそうな名前の代わりに「フリースタイル」と呼ぶことにしたのだ。
 プロレスリングからアマチュアレスリングを作ったのであって、その逆ではありません。
 アマレスで実績をあげてプロレスに転向するという道筋が現在あるからといって、昔からそうだったとは限らない。アマチュアスポーツというのはごく最近に発見されたものだ。この辺の事情は、柄谷行人『西洋近代スポーツの起源』を読んで下さい。

 一つだけほかのスポーツの例を見ておこう。

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 1924年のパリ五輪。フランス代表のミドル級選手、シャルル・リグローが片手スナッチで87.5kgを挙げたところ。彼は金メダルを取った。片手スナッチなんて、やってみれば分かるけれど、ずいぶんむつかしい。左右不均衡な筋肉の発達を助長して体によくない。なぜ無理にこういう挙げ方をしたか? 
 重量挙げ競技のルーツは、職業的怪力芸だからだ。ユージン・サンドウ(コナン・ドイルとボディビル参照)のような職業的力持ちが派手でお客に受ける片手技をやったからです。そういうのを見て、素人が自分もやってみようというので、重量挙げ競技が始まった。現在の重量挙げは、両手によるスナッチとクリーンアンドジャークの2種目です。

 レスリングでも同じことだ。初めにプロレスがあった。プロレスに二種類があった。ヨーロッパ大陸はグレコローマンで、英国はキャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルだった。プロレスからアマレスができた。(続く)

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柔道か柔術か(21)

「柔道か柔術か」の最近の記事は、http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
を参考にして書いています。
 上記のサイトでは100年前の英国の新聞や雑誌を引用している。柔術家やレスラーが書いた本も挙げてある。
 マルクスみたいにブリティッシュミュージアムへ通って文献調べをすれば「柔術とレスリング」について画期的なモノグラフが書けるのだけれど。
 まあそんなことを言っても仕方がないか。
 上のサイトで一番よく引用しているのはThe Sporting Lifeという雑誌である。前に挙げた

パラゴン・バラエティー劇場
マイルエンド街
TO-NITE TO-NITE TO-NITE
アポロ提供、特別出演
日本人レスラー
ユキオ・タニ

 という広告はこのスポーティングライフ誌の1904年12月号に採録されている。

 次の記述もスポーティングライフ誌に基づいている(残念ながら何月号かが書いてない)。

 In 1904 he did beat Jimmy Mellor in a £100 match for the lightweight wrestling championship, catch-as-catch-can style.
 Mellor was Britain's best lightweight, and claimed the world's championship. So this victory was a terrific performance by Tani, as the newspapers of the time recognised. The Sporting Life praised "a thoroughly genuine sporting match," and then going on to say, "The little Jap showed what a wonder he is by beating the Englishman at his own game. Two falls to one was the decision, though the fall given against Tani was questioned by many."

 1904年にタニは、ジミー・メラーを相手に百ポンド懸賞試合をして勝っている。これはライト級レスリング選手権をかけて、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルで試合をしたのだ。
 メラーはライト級では当時英国一のレスラーで、世界チャンピオンを名乗っていた。だからこの勝利はタニには大変な偉業で、当時のマスコミもこれを認めた。スポーティングライフ誌は「まことにスポーツマンらしい試合だった」と賞賛した。続いてこう書いている。「小さなジャップは相手のイギリス人の得意分野に踏み込んで勝って見せた。実に感服の至りだ。タニは2フォール対1フォールで勝ったのだが、タニに対するフォールは成立していないのではないかと言う者が多かった」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が、フォールで勝負をつける、関節技なしのレスリングで、ほぼフリースタイルと同じだったことがうかがえるはずだ。
 ジョージ・ハッケンシュミットが1902年にヨーロッパ大陸から英国に渡ってきて、グレコローマンからフリースタイルに切り替えた――ということを前に書きました。英語では「フリースタイル」をcatch-as-catch-canと書いてあったのだ。
 本当ならば、この英語の用法を百年前の雑誌を手に取って確かめる必要がある。文献調べをしたいというのは、そのためだ。
 しかし、次のように考えてみることはまずできるだろう。

(1)タニはプロレスラーと戦って連戦連勝した。
(2)プロレスの第一人者、ハッケンシュミットはタニの挑戦を避けた。
(3)ハッケンシュミットを含むプロレスラーのスタイルは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」だった。
(4)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンには関節技などのサブミッションがなかった。

 仮に「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」についてウィキペディアの記述が正しいとすれば、スープレックスなどの投げ技も関節技もできる、カール・ゴッチみたいなレスラーが18世紀ごろからいたことになる。

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 ところが実際はハッケンシュミットでさえタニを恐れたのは、そもそも関節技や絞め技など、サブミッションを知らなかったからだ。
 どうでしょう? 
 (続く)

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2008年5月30日 (金)

お言葉ですが…別巻1

 河川協会というところにたのまれて話をしたあと、役員らしい人から突然質問された。
「ミズゴクンは黒田官兵衛の作とも言うし王陽明だとも言いますが、どちらが正しいのですか?」
 なんのことやらわからない。
「ミズゴクン、ですか?」
 キョトンとしていると相手は
「ハハハ、御冗談を」
 小生がとぼけているものと見て(あるいはそうとりなして)笑いにまぎらした。よほど知られたことらしい。
(高島俊男)

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 「水五訓」だったのですね。
 黒田官兵衛や王陽明のはずがない。
 だれが言いだしたのだろう? 高島探偵は愛読者数人の応援で昭和初年ごろまでさかのぼり、この通俗人生訓の作者をつきとめる。
 これはWeb草思で読んだのだけれど、インターネットで高島俊男なんて。本でなくちゃ。やはり野におけかな?

 十年以上前の文章も入ってます。『しにか』に書いた「両辞斉放、両典争鳴」など中国語関係のものはさずがにむつかしい。あとからひとことの説明を読まないとわからない。

 高島先生は
「現在はいたって元気、きげんよくすごしております」
 とのことだ。

目次とあとがき

形のない商品
漱石と是公が住んでいたへや)
「本文」とは何だろうね)
歌はみんなのもの
「彼女」はいやだ
「水五訓」の謎
新聞の算用数字
むかしの日本のいくさ馬
むかしの人の年齢
「どこそこ生れ」への疑問
向田邦子の強情
抔土未乾
「唱歌」の足どり
おれなら子供やめたくなる
「冥福」ってなあに?
かならず仲間がいるよ
校について
おかしうて、やがてかなしき和漢語注釈
短歌のふりがな雑感
奇々怪々もろこし裁判ばなし
中国の秘密結社
星を数えて波の音聞いて
ディアボロあがれ
両辞斉放、両典争鳴
没有、不在、不知道
新聞の文章
機械で書いた文章
「上海お春」と鷗外の母
正源寺墓地の人

あとがきは連合出版のホームページで

Okotobabetsu14

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2008年5月29日 (木)

柔道か柔術か(20)

 まず簡単なところから。catch-as-catch-canという英語はふつうはどういう意味で使われているのか? 辞書で調べてみよう。
 OEDには載っていない。
 インターネットでThe New Dictionary of Cultural Literacy, Third Edition.  2002.を引いてみる。

 catch-as-catch-can

  A phrase that describes a situation in which people must improvise or do what they can with limited means: “We don’t have enough textbooks for all of the students, so it’ll be catch-as-catch-can.”

限られたもので急場をしのぎやりくりする状況をあらわす言葉。「学生全員に行き渡るだけの教科書がないから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンで行こう」

ランダムハウス英和辞典 catch-as-catch-can

adj.(主に米・カナダ)あらゆる機会をつかんで利用する;思いつきの,出たとこ勝負の,手当たり次第の:a catch-as-catch-can life 行き当たりばったりの生活.

エンサイクロペディア・ブリタニカ(英語版を翻訳)

Catch-as-catch-can wrestling

立ち技と寝技の両方でほとんどあらゆる技と戦術が許されている基本的なレスリングの様式。ルールが禁じるのは通常相手を負傷させる行為だけである。すなわち、絞めること、蹴ること、眼に指を入れること、拳で叩くことである。競技の目的は相手の両肩を同時にグラウンドにつけることである。従来はイングランドで「ランカシア・スタイル・レスリング」として知られていたが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは英国と米国で一番人気のあるレスリングの形となり、わずかに修正を加えて、オリンピックや国際競技に「フリースタイル・レスリング」として採用された。

 catch-as-catch-canは、ウィキペディアの言うような「ランカシア訛り」(「ランカシア方言」のつもりか?)ではない。ごくふつうの英語である。

 レスリングでは、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」だと言えることは、ブリタニカで分かるだろう。
 ただ、「拳で叩くこと(hitting with a closed fist)」というところはブリタニカの記述が不正確だ。平手打ち、突っ張り、空手チョップなどはもちろん禁止である。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは
(1) フォールで勝負をつける。
(2) 関節技はない(「相手を負傷させる行為」として禁止)。
(3) グレコローマンとの違いは、上半身だけではなく「掴めるところをどこでも掴んでよろしい=catch as catch can」

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャッチ・キャン・レスリング」が100年前にどういう意味で使われていたかは、文献を調べればよい。検証あるいは反証である。
 徹底的に調べるには英国へ行かねばならない。私はそこまでできないけれど、調べる手掛かりだけは示しておきたい。(続く)

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2008年5月26日 (月)

柔道か柔術か(19)

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」――ウィキペディアの記述

キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch as catch can)はイギリス・ランカシャー地方発祥のレスリングの一種で、フリースタイルレスリングおよびプロレスのルーツ。18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。試合形式は通常リングを使用し時間無制限で行われた。勝敗はタップアウトまたはピンフォールで決まった。キャッチ・レスリング、または単にキャッチ、またはランカシャー・レスリングとも呼ばれる。

技術体系
多彩なテイクダウン(タックルと投げ技の総称)、ブレイクダウン(グラウンドでの攻防におけるポジショニング技術)、サブミッション(関節技と絞め技の総称)、ピン(フォール技)の技術体系を持つ。その多くは現代のプロレス、アマチュアレスリング、総合格闘技やグラップリングの技術にも影響を与えている。
テイクダウンには、タックル、スープレックス(後ろ反り投げ)、サルト(捻りを加えた反り投げ)、スロイダー(相手の腕を前から掴んでの投げ)、ラテラル(相手の胴をクラッチしての蹴手繰り)などがある。
サブミッションには、ハーフネルソン、ハーフハッチ、アームロック、ヒールホールド、ヘッドロックなどがある。
ピンには、体固め、エビ固めなどがある。

語源

語源はCatch Anywhere You CanまたはWho Can Catch Canのランカシャー訛りといわれている。

 残念ながら、この記述はほとんど全部間違っていると私は思う。
 少なくとも、ウィキペディアにいわゆる「独自研究」だろう。
 いや、独自に研究するのはまことに結構なのだけれど、研究の結果は検証できなければいけない。
 たとえば
(キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは)18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンのビリー・ライレージムなどで隆盛した。
 という。しかし
・18世紀(千七百何年?)にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンが「隆盛した」ことは、どういう文献から分かったのですか? 文献を引用しなくてもよい。他の者が文献で確かめる手掛かりだけは残しておくべきでしょう。

 私は、このウィキペディアの記述に対して、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
(1)「ランカシア地方発祥」ではない。
(2)フリースタイル・レスリングの「ルーツ」ではない。
(3)18世紀にはまだなかった。
(4)サブミッションはなかった。

 と考えている。以上は消極的な仮説である。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは何かについて、積極的な仮説もいくつかある。
 ただ、私はこれをあくまで仮説として提出するのである。典拠は示さないけれども、それは単にその暇がないからである。
 仮説は、検証(verify)できるか、少なくとも反証(refute)できなければならない。
 手間さえ厭わなければ検証あるいは反証できるかたちで、柔道/柔術とレスリングの関係について、いくつかの仮説を示したい。(続く)

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2008年5月25日 (日)

柔道か柔術か(18)

 タニ・ユキオは第一次大戦が始まったころには、ミュージックホール・レスリングの世界から引退したようだ。大戦の帰趨が定まり始めた1918年には、日本人のコイズミ・グンジが中心になってロンドンに設立したBudokwai(武道会)で柔道/柔術を教えるようになった。
 タニは1880年(明治13年)生まれで、1900年に19歳で渡英した。ミュージックホール・レスリングから引退したあとは、1950年に亡くなるまで英国にとどまってBudowkaiで教え続けた。

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 1920年に嘉納治五郎がロンドンを訪れたときにはタニ・ユキオに講道館二段を与えている。
 Budokwaiは2008年で90周年を迎えた。現在英国で柔道をやっている人たちは、タニ・ユキオの孫弟子くらいに当たるようだ。
http://www.thebudokwai.com/

 これとは別に、1920年代の英国ではランカシアにビリー・ライリーのレスリングジム、いわゆる「蛇の穴」ができた。このジムからはビル・ロビンソンやカール・ゴッチが育ったことで有名である。

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 ただ、いわゆる「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」スタイルのレスリングについては少々誤解があるようだ。柔術にも無関係の話ではないので、次はこれを見てみよう。(続く)

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2008年5月24日 (土)

ヒル次官補の風采

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 アメリカの国務省(つまり外務省)のヒル次官補は、テレビ報道で米鮮交渉が話題になるたびに、わが国の、茶の間での有名人に育ってきたように思います。
 が、生まれつき皮下脂肪が厚い日本人のかなしさでしょう、誰もあの異常なルックスを見て、「ピン」とは来ないようですね。
 あの顔は、「タフ・ネゴシエーター」の顔じゃないのですよ。
 ほんらい、あの顔では、「敵国」「強国」「大国」「重要相手先」との交渉役には、まかりまちがっても選任されない。それが、アメリカ人の間の常識ってもんです。
 国務省内に東洋通の有能な人材はいくらでも揃っているのに、あんなタマをわざわざ探し出し、(それも裏方の補佐役としてでなく)表の看板役者として起用したというところに、アメリカ政府の意図的すぎる思惑が示されています。
 もちろんそこにこそ、アメリカ/ブッシュ政権が内外に説明したいメッセージがこめられていた。
 すなわち、<アメリカは北朝鮮とはまじめな交渉はしないよ>と、最初から表明しているのです。<このレベルの担当者にやらせてますから><この担当者には、何の権限もイニシアチブも独創も許されていませんよ>と、言外に、あえて世界に知らせていたわけです。
(兵頭二十八)

 目からウコロとはこのことですね。
 兵頭氏の名前は「にそはち」と読む。
 兵頭二十八氏は軍学者を名乗っている。「軍学だなんて、山鹿流陣太鼓を叩いて吉良邸に討ち入るのか」と読まずに馬鹿にしていたのは、まことに不明であった。
 目からウロコは上の箇所だけではない。まことに創見に満ちた本である。
 
 米軍がフセインをやっつけるためにイラク侵略を始めたときに
「大量破壊兵器があろうとなかろうと、これはぜひ支持して、旗を見せて(show the flag)おかなくてはならない。アメリカには北朝鮮をやっつけてもらわなくてはならないのだから」
 という議論があった。大真面目でそういうことを言う人が多かった。
 どこが変か? 兵頭二十八氏の本を読んでみて下さい。

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2008年5月23日 (金)

交通標語

 アメリカの高速道路でなんといっても嬉しいのは、あの醜く愚劣な交通標語がひとつもないことですね。すっきりしていて、実に気持がいい。これは前々からしつこく力説していることなのだが、だいたい「交通事故ゼロを目指そう」なんて垂れ幕を歩道橋にかけておく位で、交通事故死が世界からひとつでも減るものだろうか。そんな何の意味もない、全く役にも立たないものを手間暇かけて仰々しく道路に出しておく神経が僕にはよく理解できない。書いてある文句もだいたいの場合センスがなくて、読んでいて不快である。何もアメリカが日本より偉いと言っているわけでは決してないけれど、少なくともアメリカ人は、交通標語を作らないという点に関しては日本人より偉い。(村上春樹)

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2008年5月22日 (木)

柔道か柔術か(17)

 ジョージ・ハッケンシュミットは1905年にはニューヨークで全米チャンピオンのトム・ジェンキンスを負り、最初の世界ヘビー級チャンピオンと認められた。
 ハッケンシュミットは1908年にシカゴでアメリカ人のフランク・ゴッチ(1878-1917)に負れるまで世界チャンピオンであった。

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 シカゴでのハッケンシュミット対ゴッチ戦では、ゴッチが体にオイルを塗る、目潰し、ひっかき、パンチなど卑怯な手を使ったと言われる。
 1911年にシカゴで行われた再戦では、ハッケンシュミットが一本目を取り、二本目と三本目をゴッチが取るという事前打ち合わせができていたが、ゴッチが約束を破って初めから勝ちに行き、二本を連取した。
 かなり現在の「プロレス」に似てきたわけだ。

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 しかし、ハッケンシュミットもヨーロッパ大陸では、前述のように真面目なグレコローマンスタイルでプロレスリングをしていたのだ。英国に来てからはフリースタイルで戦うようになった。
このフリースタイル・レスリングが20世紀初めの英国では「プロレス」だったのだ。1901年(明治34年)12月18日に夏目漱石がロンドンでプロレスを見た話は前に書きました。漱石曰く「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも、一、二と行事が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。」(柔道か柔術か(5))

 第一次大戦前のイギリスでは、だいたいこういう「真面目なプロレス」が行われていたらしい。これに対してタニ・ユキオをはじめとする日本人の柔術家たちが絞め技や関節技の威力で対抗していた。タニのほかによくレスラーと戦ったのはミヤケ・タロウという柔術家であった。
 体重210ポンド(95kg)のレスラー、アレック・マンローがタニと15分以上戦って賞金を得たのは1909年のはじめのことであった。この試合はスコットランドのグラスゴーで行われた。マンローは同じ日のうちに、キルマーノックという町(やはりスコットランド)でミヤケとも戦い、やはり15分以上戦って賞金を得た。
 ここで注目すべきは、タニにしてもミヤケにしても、負けることなど考えもしなかったし、実際負けなかったことだ。
(1)お互いに柔道着を着る
(2)フォールではなくギブアップで勝負をつける
という二つのルールがある限り、ずっと体が大きいプロレスラー相手でも自信があったのだ。だからこそ、タニは世界チャンピオンのハッケンシュミットに挑戦したのだ。1910年にはタニはインド人レスラーのグレート・ガマにも挑戦している。

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 英国のレスリング事情はだいたいこんなもので、日本人柔術家は、プロレスラーに対抗して優位を保っていた。
 こういう状況をめちゃめちゃにしたのが第一次世界大戦の勃発である。1914年8月4日に英国がドイツに対して宣戦布告すると、レスリングや柔術どころではなくなってしまった。
 60歳のシャーロック・ホームズも『最後の挨拶』をしたのだった。(続く)

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2008年5月21日 (水)

柔道か柔術か(16)

 タニ・ユキオは、もちろんプロレスラーとも戦った。プロレスラーの中には15分戦って賞金を獲得した者もごくまれにいたようだ。
 ランカシャーのライト級レスラー、ボビー・ビッケルや、スコットランドのヘビー級のアレック・マンローなどが15分以上戦った(しかし勝てなかった)という記録が残っている。このマンローは体重が210ポンド(95kg)あって、当時としては非常に大型のプロレスラーだった。
 プロレスラー相手の戦いは、相手も「こんなチビの外人に負けてたまるか」というつもりでかかってくるので、ラフな試合になることもあった。マンチェスターでトム・コナーズという男と戦ったときがそうだった。
 コナーズは、試合の初めに恒例によって握手をすると、そのまま握った手を引っ張ってタニを捕まえ、ボディスラムで叩きつけようとした。タニは空中で身を翻して逃れたが、二人はもつれ合ってオーケストラピットに転落した(ミュージックホールの舞台で試合をしたのだ)。
 上がってくると、コナーズが反則のパンチを出した。観客が盛んにブーイングする。タニは相手の襟を掴んで倒し、マウンティングポジションから締めにかかった。コナーズはまたもや下からパンチを出したが、タニは構わず締めて、1分55秒、ギブアップを奪った。
 タニは当時のプロレスのチャンピオンだったジョージ・ハッケンシュミット(1878-1968)にも挑戦した。

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 エストニア出身で「ロシアのライオン」の異名を取ったハッケンシュミットは、身長175cm、体重99kgの大男だった。彼はロシアでレスリングと重量挙げを覚え、プロレスラーとしてヨーロッパ大陸で連戦連勝した。当時大陸のプロレスはグレコローマン・スタイルであった。ルールは現在のアマレスのグレコローマンとほぼ同じである。下半身を使ってはならず、相手の下半身を掴んではならない。投げ技はプロレスでいう「バックドロップ」や「スープレックス」のような反り投げが中心である。投げて寝技に持ち込んでフォール勝ちを狙う。いわゆるサブミッション(関節技などで参ったと言わせること)はなかった。
 ハッケンシュミットは1902年に英国に渡り、ここでもたちまち第一人者になった。彼はグレコローマンから英国で主流のフリースタイルに徐々に切り替えて行った。
 1903年11月、ハッケンシュミットがアントニオ・ピエリというレスラーと戦ったときに、タニはマネージャーのアポロと一緒にリングに上がり、3000人の観衆の前で挑戦状を渡した。
 ハッケンシュミットは「グレコローマン・レスリングのルールならば戦ってもよろしい」と答えた。タニの体重は9ストーン(57kg)足らずなのだから、これでは話にならない。タニの要求は、もちろん柔術ルールによる異種格闘技戦であった。
 ハッケンシュミットほどの体力があっても、未知の柔術技は怖ろしかったものと見える。この少し前には、フランスの有名なグレコローマン・レスラーで小型ハッケンシュミットと言われたモーリス・デリアスがタニに挑戦して敗れている。デリアスは体重が190ポンド(86kg)ある超一流のレスラーだったが、「ちっぽけなジャップは彼を簡単に打ちのめした」という。(続く)

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2008年5月20日 (火)

柔道か柔術か(15)

(承前--「格闘技」参照)タニ・ユキオは遅くとも1904年(明治37年)ごろにはミュージックホール・レスラーとして大活躍していた。
 バーナード・ショーの『バーバラ少佐』(1905年初演)に登場する乱暴者は、「日本人レスラーと17分4秒も戦った男がいる」と聞いて怯えるのだった。「日本人レスラーに勝った」のではない。そんな強い者がいるはずがない。17分以上もギブアップしなかったのがすごいというのだ。
 タニ・ユキオは英国全土を巡業して懸賞試合を行った。「タニに勝てば100ポンド、勝たなくても15分ギブアップしなければ20ポンド進呈」という懸賞だったが、賞金を獲得する者はほとんどいなかった。
 タニは小柄だったから(身長は5フィートではなくもう少し高かったという説もあるが、小さかったことは確か)、組み易しと見て挑戦する力自慢は多かった。しかし全く勝負にならなかった。
 タニがどういうふうに戦ったか、いちいち調べてはいないので想像で書くのですが、相手が素人の場合は数秒で勝負がついたと思いますね。柔術は関節技や絞め技が決め手であるが、そういうのを出すまでもなく、投げ技で決まったと思う。
 最近の格闘技ファンは「投げ技偏重の柔道はたいしたことがない。寝技中心のブラジリアン柔術の方が強い」と思っているようだけれども、それは誤解である。
 これは、オリンピックなどの世界大会がよくないのだ。柔道を知り尽くした者同士が国の威信をかけて慎重な戦いをする。だから微妙な勝負になって、組み手争いが続いたり、腕を突っ張り腰を引いて逃げに回ったりする。そうすると審判が両手を胸の前でグルグルグルと回して選手を指さし「指導!」と言う。あれがまことに滑稽で、柔道弱い説の元になっていると思いますね。
 柔道/柔術は元来ああいうものではない。武道/武術であるから、非対称的な戦いのためのものだ。
 どういうことかというと、相手がこちらの技を知らないことを前提にしているのですね。アテネ五輪で絶対の本命だった井上康生選手が二大会連続の金を取れなかったのは、外人選手が井上のビデオを徹底的に研究してきたからだという。スポーツではなく実戦の一発勝負ではそういうことはあり得ない。いきなり物凄い内股をかければ、それで決まりだ。

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 その代わり、こちらも相手が何をしてくるか、全く分からない。タニが英国で試合をしていたときには、一応「パンチは反則」というルールがあったけれども、それでも反則をしてくる相手もいた。そういう相手にも何とか対応しなければならない。
 タニの場合、投げ技で十分効果があったのは、床が畳ではなく板張りだったことが大きいと思う。受身も知らない外人がいきなりズデンと倒されたら、それだけで戦意喪失したはずだ。大外刈りなどは、タニは自ら禁じ手にしていたと思いますね。きれいに決まったはよいけれど、相手が堅い床に後頭部から落ちて脳震盪を起こしては困るから。
 たいていの相手には投げ技で十分なのだけれど、大きくて力が強い者には技が決まらないことがある。そういうときは寝技に引き込んで関節を決めればよい。投げ技の場合のように数秒では済まないけれど、そう時間はかからなかったはずだ。――というような試合の様子がうわさとなって普通のイギリス人にも伝わっていたことが『バーバラ少佐』から分かるのである。(続く)

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2008年5月11日 (日)

ブニュエルと煙草

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 アルコールが女王ならば、煙草はその配偶者だ。常によき伴侶であり、雨の日も晴れの日も忠実な友だ。人は幸せを寿ぐため嘆きを隠すために煙草を吸う。一人でいても友達と一緒のときも、五感のすべてを愉しませてくれる。白いシガレットが銀紙に包まれて閲兵式の兵隊みたいに整列している――こんなにすてきな光景があるだろうか。ポケットから取り出し、箱を開けて、指で触る。唇で巻紙、舌で煙草の感触を味わう。火が赤く燃えて、だんだん近づいてきて、そのぬくもりを感じるのが好きだ。
ルイス・ブニュエル(1900-1983)

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