グリーンピース・ジャパンの諸君
平凡社『世界大百科事典』より。これくらいは常識だよ。ひょっとして知らないでアメリカの手先になって、泥棒したのかな?
[アメリカ式捕鯨] アメリカではニューイングランド地方において,1712年マッコウクジラをおもな対象としたアメリカ式捕鯨が興った。マッコウクジラから生産される鯨駐(げいろう)は,1750年ころアメリカのろうそく工業を飛躍的に発展させ,やがてアメリカの重要な輸出品目となった。その後,ニューイングランド沿岸へのマッコウクジラの来遊量は減少してきた。そこで,マッコウクジラ漁場は西インド諸島から遠洋へと移っていった。1775年にはアメリカの独立戦争が起こったため,捕鯨業は大部分が一時中断したが,戦争終結後再び復興した。その後,マッコウクジラの漁場は,大西洋から太平洋へと拡大し,アメリカ式捕鯨が確立された。そのアメリカ式捕鯨の操業形態は,約400トンの帆船に4隻の捕鯨艇を積載しており,約1ヵ年の航海準備をして出港した。クジラを発見すると,まず捕鯨艇を下ろしてクジラに接近する。捕鯨艇には艇長の士官が最後部で操舵(そうだ)を担当し,銛手オールと呼ばれる銛手が先頭に,次いで舳手,船央漕手,三番漕手および艇尾漕手の6名が乗り組んでいる。漁具は,手槍(てやり),錨爪銛,トグル銛,ボートのみ(鑿),グリーンナー銃およびボンブランス銃から構成されていた。
クジラから4~5mの距離に接近すると,手槍や銛を投げ,続いて銃で射撃する方法を用いた。
捕獲後は,クジラを捕鯨船の船側に係留した状態で解剖した。捕鯨船の乗組員は平均すると船長1名,士官4名,操舵手4名,大工1名,桶工(鯨油は伍詰にして貯蔵された)1名,司厨(しちゆう)員1名,給仕1名および水夫23名,合計36名程度であった。
アメリカ式捕鯨は,太平洋へ進出するようになって盛況を続け,1846年の最盛期には,アメリカ船736隻,その他の国230隻の捕鯨船が操業し,1年間に1万頭以上のマッコウクジラを捕獲した。とくにアメリカでは46年当時,捕鯨産業に関連した人口は,7万人以上といわれ,漁場はインド洋を含む全世界に拡大した。しかし,世界の海で重ねてきた乱獲は漁場の荒廃をきたした。そのマッコウクジラ資源の減少が,アメリカ式捕鯨を壊滅へと導いた要因とも考えられているが,それにも増して石油の発見はアメリカ式捕鯨史上見のがすことはできない。すなわち,59年にペンシルベニア州で発見された石油は,灯油としてそれまでの鯨油に代わって登場した。そのため,鯨油の需要は急速に激減することになるが,61年勃発した南北戦争も捕鯨業の衰退を加速した。南北戦争終結後アメリカ式捕鯨は再び復興したが,その基地はそれまでのアメリカ大陸の大西洋岸から太平洋岸へと移った。当時の主たる生産品は,鯨油が石油に淘汰されたため,クジラひげであったが,それも鋼の開発によりやがて需要が減少した。さらに,1848年カリフォルニアのサクラメントで発見された大砂金層はゴールドラッシュを招き,大量の労働者を吸収したため,捕鯨業は決定的な打撃を受けた。そして,アメリカ式捕鯨も98年にはほとんど消滅した。
メルビルの『白鯨』(1851年)も、小説を読めとは言わないけれど、DVDで見られるからね。
ペリーの来航も太平洋での捕鯨の基地が欲しかったのが大きな理由の一つだというのは知っていますね。
ところで、鯨肉というと「給食で食べたのがうまかった」という人が多いけれど、そうかなあ? 堅くてまずかったような気がするけれど。冷凍ではない、採れ立ての鯨肉はうまかった。柔らかくて、冷凍物のような血のにおいがなくて、牛肉よりずっとうまかった。小型の鯨が漁師の網にかかることがあったのです。
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コメント
この記事ではないですが、TBありがとうございます(笑)。
それにしても、よくある大きな勘違いをなさっているようです。ここに書かれてあるような「常識」はグリーンピース、というより捕鯨に関わりのある活動をしている人なら、まずほとんど知っているはずですよ。
たとえばグリーンピース・ジャパン事務局長星川淳氏の『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』という本の中でも、欧米の商業捕鯨による乱獲の話は相当に詳しく書かれています。近代以降の日本がそれに追随して、今とはなってはその第一の後継者になってしまった、という道筋も。
投稿: レイランダー | 2008年6月25日 (水) 11時56分
もちろん私は彼らが知っていることを知っています。「ひょっとして知らないで云々?」というのはレトリックというものです。何が言いたいかは、ブログの続きを読んでね。
投稿: 三十郎 | 2008年6月25日 (水) 12時14分