« コナン・ドイル卿? (1) | トップページ | 1901年のボディビル大会 »

2008年7月 4日 (金)

コナン・ドイル卿? (2)

 1902年1月9日、ドイルはパンフレットを書き始め、毎日16時間書いて、17日には
The War in South Africa: Its Cause and Conduct
南アフリカの戦争――その原因と経過
 という6万語のパンフレットを仕上げた。
「私の個人的見解はできるだけ表へ出さず、目撃者の言を、農家の炎上とか暴行とか集中キャンプとかその他の論争問題について、その多くはボーア人であるが、書き記した。説明はなるだけ簡単に短くしたが、事実の正確さについてはどこまでも一貫し、焼けた農家の実数についてだけは自身がないけれど、といっても重大な質問を受けたことは一度もない。私の記述が充実しており効果的であるのを重いながらペンをおいたときは、うれしくてたまらなかった」(『わが思い出と冒険』p.231)

ドイルはこのパンフレットの刊行のために寄付を募った。パンフレットを書き終えるころには1000ポンドほどが集まった。
「多くはあまり余裕もない中から無理をして送ってよこした少額の金であった。中でもきわだった特徴は、毎日のように目の前で行われる中傷に答えることができないのでみじめにされている外国在住の女教師(家庭教師)からの寄付の多いことだった。」(p.232)
  2ヶ月ほどで英語版は30万部ほどを売り上げた。フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ハンガリー語、ロシア語など20カ国語の訳本が出版された。これによって
「大陸の諸新聞の論調に急速な著しい変化が現れた。」(p.238)
 少なくとも「英軍の残虐行為」という悪評はドイルの努力によって払拭された。
「ここまできて私の胸底に深く印象の残っていることは、政府が自分のことなのに十分の説明と防衛策に出なかったことである。一個人が三千ポンドを費やして、一ヶ月という短い期間に世界中の世論に著しい感銘を与え得たのだから、真に資力も知能もある組織ならば、どんなことができるであろう?」(p.240)

Boers

 ボーア人の部隊。
 ボーア人はゲリラ戦を挑んだ。英軍は苦戦を強いられ、ゲリラへの補給を絶つために女子供を含む12万人をconcentration camp強制収容所に収容し、農地や農場を焼き払った。収容所では2万人が死亡した。
 しかし、大陸の新聞で伝えられたような「残虐行為」は、白人であるボーア人に対しては行われなかった。

 1906年、南アフリカは英国領となっていたが、ズールー族の酋長が徴税官を投槍で殺し、これをきっかけにズールー族の反乱がはじまった。
 当時南アフリカにいた37歳のガンジーは、大英帝国の忠良な臣民として英国に味方すべきだと思ったから、在住インド人による篤志救急隊を組織した
 ガンジーが救急隊とともにズールーランドに入ってみると、討伐隊は公開の絞首刑と公開の笞打ち刑で「反乱」を鎮圧しようとしていた。救急隊が看病した負傷者の大部分はズールー族だった。「私たちが行かなければ傷ついたズールー族は何日でも放っておかれたに違いない。ヨーロッパ人は黒人の傷の手当てなどしてやろうとはしなかった。……私たちは五日も六日も放置されて悪臭を放っていたズールー人の傷を消毒してやった。私たちは喜んで仕事をした。ズールー人は私たちと話は通じなかったが、手振りや目の表情から、神が私たちを救助に派遣されたと思っているようだった」討伐隊の蛮行は悪評を呼び、討伐はすぐに中止された。ガンジーの救急隊は六週間でヨハネスバーグに帰った。
(『ガンディーと使徒たち』より)

 この残虐行為はさすがに悪評を呼んだ。しかし、今回は英国の国際的な評価が問題になるような事態にはならなかった。相手は黒人なのだもの。

 ともかく、1902年のドイルは「南アフリカ大虐殺」の冤罪を独力で晴らしたのである。ナイトの位はこの功績に対して与えられた。
 しかし、まだ本題に入っていない。

|

« コナン・ドイル卿? (1) | トップページ | 1901年のボディビル大会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/22053773

この記事へのトラックバック一覧です: コナン・ドイル卿? (2):

« コナン・ドイル卿? (1) | トップページ | 1901年のボディビル大会 »