« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月20日 (水)

名前について(2)

 私の知っている限り、奇妙な名前という点でとどめをさすのは、19世紀後半から20世紀の初期にかけて、ドイツの哲学史家として令名をはせたヴィンデルバントである。ヴィンデルバントと聞いただけでは何ともないが、ドイツ語でWindelは「おしめ」、Bandは「紐」のことだったと思い出すと、この名字は「おしめの紐」という妙にはっきりした意味をもつのではないかと驚く。そして例えば銀行で、「おしめの紐さま!」と呼ばれる場面を想像してみるといい。呼ぶ行員は「オシメノヒモさまー。えっ、いいのかな」と一瞬たじろぐのではないだろうか。呼ばれた彼は彼で、素直に「はい」と返事ができただろうか。あるいは「おしめの紐」という姓は、その後の彼の人格形成に何の影響も及ぼさなかったのだろうか。それとも、こんなことに動ずるようでは、哲学者になれなかっただろうか。(柳沼重剛)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月19日 (火)

男のスカート(4)

 古代ギリシャやローマではまだあぶみがなかったから、本格的な乗馬はできなかったのだ。フン族がヨーロッパに攻め込んで、ヨーロッパ人ははじめて騎兵というものを知った。フン族は馬にあぶみをつけたから、馬上で刀や槍を使い弓を射ることができた。Huns2
 このフン族と匈奴が同じものかどうか? どちらもモンゴル系で、朝青龍や白鳳の先祖だという説がありますね。
 古代支那では匈奴に手こずって、ついには万里の長城を築くまでになった。紀元前の戦国時代には、やはり馬はもっぱら戦車を引かせるのに使っていた。匈奴はあぶみをつけた馬にまたがった騎兵である。これではどうも分が悪いというので、こちらも野蛮人のやり方を取り入れて、馬にまたがって弓を射る戦いをしよう、そのためには奴等のようにズボンをはかなくては――ということを言いだした(紀元前307年)のが趙の君主、武霊王である。いわゆる胡服騎射である。

Jun_jomuryeongwang

 それまでは、支那人もスカートだった。ローマのような短いのではなくて、裾を引きずるくらいの長いスカートだったようだ。その下にパンツはたぶん履かなかった。それでも歩兵の戦闘や戦車上の戦いには差し支えなかった。しかし馬にまたがるには、下半身がすっぽんぽんでは困る。ズボンを履かなくちゃ。中華の民ともあろうものが蛮夷の真似をしたくない。優雅なスカートを捨ててみっともないズボンなんか履きたくない。しかし背に腹は代えられない。
 しかしズボンはあくまで戦闘用の服装で、中華の正装はずっとスカートだった。

609_2007_1_19_771

 ギリシャ・ローマでも支那でも古代都市文明では、馬は戦車を引かせるのに用いられた。
 インドでもそうだ。2500年前に書かれたバガヴァッド・ギーター(叙事詩マハーバーラタの一部)の一場面。ただし、この絵自体はそんなに古くない。

God_b_39
 バガヴァッド・ギーターは、バンドゥー族の戦士アルジュナと彼の戦車の御者を務める英雄神クリシュナとの長い哲学的対話編である。対話は、パンジャーブのクルクシェートラの平原で、クル族とバンドゥー族の軍勢が王国の支配を求めて戦うべく対峙している場面から始まる。
 アルジュナもクリシュナもズボンではない。
 乗馬とズボン着用はどうやら中央アジアの野蛮な騎馬民族から始まったらしい。ヨーロッパにズボンが普及したのはいつごろだろう? アジアの騎馬民族がヨーロッパに侵入して乗馬とズボンを教えたのは確からしい。ズボンは便利だから馬に乗らなくても履くようになり、どんどん広まった。そのズボン化に取り残された地域がスコットランドのハイランド(高地)なのだろう。
 
 キルトの下はやはり「履かない」のですね。
 高地人 朕の隣でチンを出し

Queen_and_soldiers

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年8月18日 (月)

男のスカート(3)

『ベン・ハー』はカエサル暗殺より少しあとの話である。
 紀元26年、ローマ帝国支配時代のユダヤにローマから一人の司令官が派遣される。彼の名前はメッサーラ。メッサーラは任地のエルサレムで幼馴染のベン・ハーとの再会を喜び合う。ベン・ハーは貴族の子でユダヤ人とローマ人ながら2人は強い友情で結ばれていた。……(ウィキペディアより)

Chbenhurnew3

 チャールトン・ヘストンも「膝丈のスカート」をはいていますね。これでよかったのだ。馬に乗るにはぜひズボンをはかなくてはならないけれど、当時は乗馬の習慣はなく、馬は戦車を引かせるのに使ったのだから。

Benhur_chariot_race_2

 村上春樹がエッセイで「マラソンの起源の話で不思議に思うのは、どうして42キロも走ったのだろうか、ということだ。馬に乗ればよいのに」という意味のことを書いていた。どうも村上さんも物を知らないね。紀元前5世紀のギリシャでは、馬はほとんど戦車専用だったのだ。戦車が走れるのは道路が整備されたところだけだから、マラトンでは人間が走るしかなかったのだ。
 馬に車を引かせるのではなく、乗馬して使うにはアジアから伝わってくる「技術革新」を待つ必要があった。
 乗馬して並足で進むには、手綱だけつけて足は両側にぶらりと垂らしていても構わない。ギャロップで走らせるとなると、これでは鞍の上でお尻がはねてとうてい耐えられない。あぶみを付けなければならない。あぶみに足を踏ん張って腰を浮かせ膝の屈伸で衝撃を吸収するのだ。競馬の騎手の「モンキー乗り」のような極端な姿勢は取らなくても、お尻を浮かせる必要はあるのだ。

Uma

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月17日 (日)

男のスカート(2)

 スコットランドのキルトはズボンがヨーロッパに伝わる以前の古い服装が残ったのでしょうね。
 古代ギリシャにもローマにもまだズボンがなかった。
 ソクラテスやプラトンはシーツみたいなものを体に巻き付けていた。
 運動には適しない服装だから、オリンピックのときは脱いで全裸でやったらしい。

Lauf01

 でも、よくブラブラさせたまま走ったりできたものだ。僕は昔1500mを走っていたけれど、サポーターで押さえていました。
 ローマの時代も似たようなものだ。カエサル暗殺の場面。この服装はトーガというもので、だいたい長さ6mの一枚の布を体に巻き付けるのだそうだ。トーガを着るのはローマ市民の特権だった。

Cesarsa_mort

 しかし、これでは機能的でないので、ふだんはトーガの下着にも用いるチューニックを着ていた。どう見ても膝丈のスカートですね。夏は涼しくてよかっただろうけれど……

3207518main

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月16日 (土)

男のスカート(1)

 相変わらず暑い毎日が続いておりますが、いかがお過ごしですか?
 しかし、昔に比べれば楽になりましたね。冷房があるし、半ズボンとTシャツという恰好で過ごせるのだもの。
 昔は冷房がなかったし、小学生でもないのに半ズボンをはく習慣もなかった。外出は長ズボンに開襟シャツ、家の中ではランニングシャツにステテコだった。
 脛に外気があたるとずいぶん涼しい。いっそスカートにすればもっと涼しいかも知れん。
 もっと暑いところ、インドやビルマなんかは男もスカートをはくらしい。ルンギーというようだ。

0213_10_2

 マハトマ・ガンジーも一種のスカートをはいていた。しかし運動には不便だ。バットを短く持って当てに行こうというのはよろしいけれど、ファーストベースまで走るのは大変だ。

Gandhisideview_before01

 寒いところでも男のスカートがある。有名なのはスコットランドですね。

Gale21

 チャールズさんは将来は連合王国の王様になる人なので、スコットランドにサービスするために、ときどきはキルトをはいて見せなければならないのだ。

Charles_camilla_cp_7437506

 キルトの下にはパンツをはかないのが本式であるが、王様や皇太子の場合は用心してはくようだ。風が吹いてまくれて朕のチンが見えたりしては困るからね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月15日 (金)

8月15日

19453102

 朕深ク 世界ノ大勢ト 帝國ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ 忠良ナル爾臣民ニ告ク
 朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇 四國ニ對シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
 抑々 帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ 萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遣範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦 實ニ帝國ノ自存ト 東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他國ノ主權ヲ排シ 領土ヲ侵カス如キハ 固ヨリ朕カ志ニアラス
 然ルニ 交戰巳ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ盡セルニ拘ラス 戰局必スシモ好轉セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス
 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
 而モ 尚 交戰ヲ繼續セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
 是レ 朕カ帝國政府ヲシテ 共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ 帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
 帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ 職域ニ殉シ 非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク
 且 戰傷ヲ負ヒ 災禍ヲ蒙リ 家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ
 惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス
 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル
 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ
 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム
 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
 爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
 
Macarthur_hirohito
 昨夜襲い来たりし風雨、今朝十時ごろに至ってしづまりしが空なほ霽れやらず、海原も山の頂も曇りて暗し。昼飯かしぐ時、窓外の芋畑に隣の人の語り合へるをきくに、昨朝天皇陛下モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて、赤坂霊南坂下米軍の本営に至りマカサ元帥に会見せられしといふ事なり。
 戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至っては悲惨も極れりといふべし。南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り和を請はむとしてそのまま俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。
 数年前日米戦争初まりしころ、独逸模擬政体の成立して、賄賂公行の世となりしを憤りし人々、寄りあつまれば各自遣るかたなき憤惻の情を慰めむとて、この頃のやうな奇々怪々の世の中見ようとて見られるものではなし、人の頤を解くこと浅草のレヴュウも能く及ぶところにあらず、角ある馬、鶏冠ある烏を目にする時の来るも遠きにあらざるべし。
 これ太平の民の知らざるところ、配給米に空腹を忍ぶわれら日本人の特権ならむと笑い興ぜしことありしが、事実は予想よりも更に大なりけり。我らは今日まで夢だに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するがごとき事のあり得べきを知らざらりしなり。
 これを思へば幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下より遥かに名誉ありしものならずや。今日この事のここに及びし理由は何ぞや。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲のせんとする真の忠臣ありしがこれに反して、昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき智勇兼備の良臣なかりしがためなるべし。
 我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面において顕著たりしに非ずや。
 余は別に世のいはゆる愛国者といふ者にもあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられらるる者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能わざるものたるに過ぎざるのみ。これここに無用の贅言を記して、穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。
――断腸亭日乗昭和20年9月28日(会見は前日27日)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »