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2008年10月29日 (水)

みんなで嗤おう「チーム・マイナス6%」

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 チーム・マイナス6%というのは、何でも

京都議定書により、日本はCO2など温室効果ガスを6%削減することを国際社会に約束した。その達成に向けて、国民一人ひとりの行動に加えて、「チーム」となって力を合わせて取り組むことをコンセプトにしている。
http://eco.goo.ne.jp/word/issue/S00166.htmlから)
 ということなんだって。

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・クールビズなんかで削減に役立つの?
・「石油の消費量を減らす→生活水準をうんと落とす」以外にマイナス6%の方法があるの?
・国際社会に約束した? 約束が達成できなかったらどうするの?
・排出権取引? 外国から排出権を買うために金を払う――なんてまさか本気ではないでしょうね? 

 クールビズやウォームビズ、レジ袋をやめてマイバッグを使う――などという子供だましならば別に構いませんよ。やりたい人はおやりなさい。私はつきあわないだけだ。
 しかし私の税金を「外国から排出権を買う」ために使うのは許せん――のだけれど、どうやらこのまま進めばそうなりそうなのだ。

 日本政府は今、「チーム・マイナス六パーセント」などと称して地球温暖化防止策のために一兆円もの予算を注ぎ込んでいるが、CO2排出量は削減できておらず、逆に八パーセントも排出量が増えている。それで排出権を買うために必要な金は、一兆円とも二兆円とも言われている。……
 日本と同様、六パーセントの削減目標を定められていたカナダは2007年になって京都議定書の履行を断念すると表明した。数兆円もの金を出して排出権を買おうなどと言っている国はもはや日本ぐらいのものである。
(『正義で地球は救えない』p.50 池田清彦)

 どうしたら馬鹿な金を払わずに済むか?
 日本もすぐに
京都議定書は守りません
 と宣言すべきなのだ。
 ところが環境省は何をしているか? ちょっと
http://www.team-6.jp/
 を見て下さい。
「約束達成まであと1614日」
なんて書いてありますよ。
 みんなで嗤おう。わらいごとじゃないんだけれど。

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明治の運動会

 百年前、1908年(明治41年)の秋、小川三四郎は運動会を見物に出かけた。

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 運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山をいっぱいに控えて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和がよいので寒くはない。しかし外套を着ている者がだいぶある。その代り傘をさして来た女もある。

 三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自分が存外幅のきかないようにみえたことであった。新時代の青年をもってみずからおる三四郎は少し小さくなっていた。それでも人と人との間から婦人席の方を見渡すことは忘れなかった。横からだからよく見えないが、ここはさすがにきれいである。ことごとく着飾っている。そのうえ遠距離だから顔がみんな美しい。その代りだれが目立って美しいということもない。ただ総体が総体として美しい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかった。そこで三四郎はまた失望した。しかし注意したら、どこかにいるだろうと思って、よく見渡すと、はたして前列のいちばん柵に近い所に二人並んでいた。

 三四郎は目のつけ所がようやくわかったので、まず一段落告げたような気で、安心していると、たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連はことごとく熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子はもっとも熱心らしい。三四郎は自分も無分別にかけてみたくなった。一番に到着した者が、紫の猿股をはいて婦人席の方を向いて立っている。よく見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似ている。ああ背が高くては一番になるはずである。計測係りが黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向こうへなげて、こっちを向いたところを見ると野々宮さんであった。野々宮さんはいつになくまっ黒なフロックを着て、胸に係り員の徽章をつけて、だいぶ人品がいい。ハンケチを出して、洋服の袖を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。ちょうど美禰子とよし子のすわっているまん前の所へ出た。低い柵の向こう側から首を婦人席の中へ延ばして、何か言っている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いてゆく。柵の向こうとこちらで話を始めたように見える。美禰子は急に振り返った。うれしそうな笑いにみちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵のそばへ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸投げが始まった。

 砲丸投げほど力のいるものはなかろう。力のいるわりにこれほどおもしろくないものもたんとない。ただ文字どおり砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物のじゃまになると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も、もとの席へ復した。砲丸は時々投げられている。第一どのくらい遠くまでゆくんだか、ほとんど三四郎にはわからない。三四郎はばかばかしくなった。それでも我慢して立っていた。ようやくのことで片がついたとみえて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。
 
 
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 200メートルの一等は25秒74だった。末續慎吾選手の20秒03という日本記録と比べるとかなり遅い。しかし、東大の御殿下グラウンドでは400mトラックは取れなかったはずだ。一周250mくらいのトラックで多分スパイクシューズも履かずに走ったのだろうから、速い方である。でも百分の一秒までどうやって計ったのだろう? 東京オリンピックのときでも十分の一秒までだったはずだ。100メートルの金メダルはボブ・ヘイズで10秒0だった。
 砲丸投11m38はまあこんなものでしょう。日本記録は畑瀬聡選手の18m56。畑瀬選手は身長184cm、体重110kgだという。明治時代には100kgを越える男なんて滅多にいなかった。

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2008年10月28日 (火)

ヴィクトリア皇帝(8)

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 ヨーロッパで初めて皇帝になったのはオクタウィアヌス(前63-後14)である。
 ユリウス・カエサルが前44年に暗殺されたのち、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの第二次三頭政治となった。前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍を破った。クレオパトラもアントニウスも自殺した。

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 オクタウィアヌスは前31年にプリンケプス(第一人者)の称号を、前27年にアウグストゥス(崇高なる者)の尊称を受けた。ふつうはこの前27年からローマの帝政が始まったとされる。
 アウグストゥス(オクタウィアヌス)の養父カエサルは、王になるつもりなのではないかと疑われて暗殺された。
 アウグストゥスは、共和制という建前を崩さなかったけれども、最高司令官、執政官、護民官、大神祇官などを兼任し権力を一身に集めた。
「皇帝」は「王ではない」ということであって、この段階ではまだ「王より偉い」ということではなかった。
 最高司令官の職名imperatorから英語のemperorができた。ドイツ語のKaiserはアウグストゥスの名前Gaius Julius Caesar Octavianusから。ロシア語のツァーリもCaesarの崩れた形なんだそうです。

 伝説によればローマは前753年から前510年まで七人の王によって統治されたが、七代目タルクィヌス・スペルブスを最後に王政が廃止され、共和政になった。
  


「この間などは『貴様は学者の妻にも似合わん、ちっとも書籍の価値を解しておらん。昔、ローマにこういう話がある。後学のため聞いておけ』と言うんです」
「そりゃおもしろい、どんな話ですか」迷亭は乗り気になる。細君に同情を表しているというより、むしろ好奇心に駆られている。
「なんでも昔ローマに樽金とかいう王様があって……」
「樽金? 樽金はちと妙ですぜ」
「私は唐人の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。なんでも七代目なんだそうです」
「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふん、その七代目樽金がどうかしましたかい」
「あら、あなたまで冷やかしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食ってかかる。
「なに、冷やかすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金はふるってると思ってね……ええ、お待ちなさいよ。ローマの七代目の王様ですね。こうっとたしかには覚えていないが、タークィン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」
「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て、買ってくれないかと言ったんだそうです」
「なるほど」
「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を言うんですって。あまり高いもんだから少し負けないかと言うと、その女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焼いてしまったそうです」
「惜しい事をしましたな」
「その本の内には予言かなにか、ほかで見られない事が書いてあるんですって」
「へえー」
「王様は九冊が六冊になったから少しは値も減ったろうと思って、六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです。それは乱暴だと言うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったとみえて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと言うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても、代価は元の通り一厘も引かない。それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかもしれないので、王様はとうとう高いお金を出して焼け余りの三冊を買ったんですって……『どうだ。この話で少しは書物のありがたみがわかったろう、どうだ』と、力むのですけれど、私にゃなにがありがたいんだか、まあ、わかりませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促す。

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2008年10月27日 (月)

ヴィクトリア皇帝(7)

 ①皇帝は王より偉い。しかし、②馬の骨では王になれない。
  ナポレオンはこれが分かっていたはずだけれど、フランスの帝位について余りにうまく行ったので②を無視してしまった。

 1805年、ナポレオンはイタリア王を兼ねた。
 1806年、弟ルイをオランダ王に、兄のジョゼフをナポリ王にした。
 1808年5月、兄のジョゼフをナポリ王からスペイン王にした。
 
 特にスペインがよくなかった。ブルボン家のフェルディナンド7世を廃して兄の馬の骨を王様にしたのがまずかった。
 すぐにマドリードに暴動が起こり、イベリア半島戦争(スペイン独立戦争)が始まった。1814年のフェルディナンド7世の復位まで続いたこの戦争はゲリラ戦となって、ナポレオンの没落につながった。guerrillaはこのときできたスペイン語である。

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 ゴヤの『1808年5月3日』。フランス軍によるマドリード市民の虐殺である。(続く)

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2008年10月26日 (日)

リーマンと山一

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 米下院で証言するリーマンのファルドCEO

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 山一の社長。何という人でしたっけ?

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ヴィクトリア皇帝(6)

 王(女王)と皇帝はどう違うか? 皇帝の方が偉い? その通りだけれども、それだけが違いではない。皇帝にはなれても、王にはなれない場合があるのだ。
 ナポレオン・ボナパルトは1804年に元老院の決議によって皇帝に推戴され、12月2日にノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。
 
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  戴冠式では、皇帝や王になる人は冠をかぶせてもらうのがふつうなのに、ナポレオンは自分で勝手にかぶった。絵はナポレオンが皇后のジョゼフィーヌに冠をかぶせるところ。真ん中で長い杖をもっているのが教皇。ふつうは教皇に戴冠してもらう。

 フランス革命は1789年7月14日のバスチーユ襲撃に始まった(この日は日本では「パリ祭」だけど、おフランスでは単にle quatorze Juillet(7月14日)というざんす)。
 ナポレオン・ボナパルト(1767-1821)は1785年に士官学校を出て砲兵士官になり、革命後はヨーロッパ諸国を相手に戦って大功績を挙げた。1799年11月9日、ブリュメール十八日のクーデタで独裁権を握り、1804年に皇帝になったのだ。
 1793年に処刑されたルイ十六世はフランスのであった。ナポレオンはなぜ王ではなく皇帝になったのか? 皇帝の方がいいからといって選んだのではない。王にはなれなかったのだ。
 ルイ十六世はブルボン家の出で、フランク族の王家につながる血筋である。フランク族の王は神の子孫であった。日本の天皇が天照大神の子孫なのと同じだ。キリスト教になってからはもちろん「神の子孫」を自称できなくなったが、「王権神授説」は王家の血筋と無関係ではないだろう。
 そこへ行くと、ナポレオンはコルシカの馬の骨である。フランス人でさえなく、本名はブオナパルテというイタリア人だ(ボナパルトはフランス風に改めた名字)。フランス人が王(=一族の長)として仰ぐことはできない。
 ナポレオンのカリスマは彼を皇帝にしたが、王にすることはできなかった。
 ヨーロッパで初めて皇帝になったのはローマのアウグストゥスであったが、彼も王位は具合が悪いから避けたようだ。(続く)

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2008年10月23日 (木)

ヴィクトリア皇帝(5)

 1858年、インド大反乱を鎮圧したイギリスは、ムガール皇帝を退位させ、東インド会社を解散してインドの直接統治をはじめた。
 以後、インドの総督Governor Generalは副王Viceroyとも呼ばれた。viceが「副」でroyはフランス語のroiと同じ、「王」の意味である。
 王様の「副」がいたのだ。「正」の方は? もちろんイギリス本国の王(女王)である。インド皇帝はいても「インド王」はあり得ない。
 これは王=kingという単語の語源を考えてみると分かる。

 kingを大きな辞書で引くと、オールドイングリッシュではcyningという形であり、これはcynnの派生形で、cynnは現代英語ならばkinである――と書いてある。
 kinの意味は「親族、一族、血縁」であるが、口語の英語でふつうに使う言葉ではない。辞書の例文
I am no kin to him. 私は彼の親戚ではない。

 kinにaを付け足して形容詞にしたakinならばなじみがあるかも知れない。漱石の三四郎で広田先生が

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love.という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。
「日本にもありそうな句ですな」と今度は三四郎が言った。ほかの者も、みんなありそうだと言いだした。けれどもだれにも思い出せない。ではひとつ訳してみたらよかろうということになって、四人がいろいろに試みたがいっこうにまとまらない。しまいに与次郎が、
「これは、どうしても俗謡でいかなくっちゃだめですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を提出した。
 そこで三人がぜんぜん翻訳権を与次郎に委任することにした。与次郎はしばらく考えていたが、
「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。可哀想だた惚れたってことよ
「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。その言い方がいかにも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑い出した。

akinという単語は「血族の、似通って、類似して」という意味の形容詞である。憐れみは愛の親戚である、愛に似ている――を与次郎が意訳して広田先生に叱られたのだった。

 kingというのは、kin(同族、一族、一門)の長者ということである。
 現在のイギリス王室は元々ドイツ人の家系である。1714年アン女王が亡くなってスチュアート王家が絶えると、ハノーヴァー選帝侯だったジョージ1世が即位した。この人は純然たるドイツ人で英語は話せなかったが、現在のエリザベス女王の祖先である。ジョージ1世に始まったハノーヴァー王朝が、第一次大戦中に敵国の名前では拙いのでウィンザー家と改称しただけである。
 しかしアングロサクソン族自体が元々ドイツからブリテン島に移住してきたゲルマン民族であるから、ドイツ人を王様にいただいても差し支えがない。自分たちの一族の一番偉い人が王である――と国民が感じることができるのだ。
 インドではそうは行かない。誰が統治者になっても異民族なのだ。(続く)

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2008年10月18日 (土)

ヴィクトリア皇帝(4)

 なぜインド女帝ではなくインド皇帝なのか?
 そもそも皇帝と王(女王)はどう違うのか?
 ずっとむかし、高校生の時に世界史の教師に「皇帝と王はどう違うのですか?」と質問したことがある。「それはいい質問だ」と言う。「いい質問なのは分かっている。僕が知りたいのは答えです」と食い下がろうかと思ったが、やめておいた。あの先生はできない人だったなあ。
 今なら、王 皇帝 違い でグーグル検索をしてみるというところかな。実際にそうしてみると、よく似た内容がいくらでも見られる。誰かが怪しげなソースから引き写したのを、ほかの人たちがまた引き写しているようだ。
 インターネットで馬鹿が意見を言うようになった(©小谷野敦)だけでなく、危ない知ったかぶりも増えた。ウィキペディアなんかが正しいと思っているととんでもない目に遭いますぜ。使い方によっては便利なところもあるけれど。
 ブリタニカの項目emperorは案外短く簡単にしか書いてない。関連項目として西洋と支那の皇帝の名前がたくさん挙がっている。tennoという項目もちゃんとあるし、神武、推古、桓武、安徳、後醍醐などから大正と主要な天皇の項目まであるのはさすがだ。
 平凡社世界百科大事典の「皇帝」は5ページの大項目で、さすがにしっかり書いてある。

 
 
 さてヴィクトリア女王/皇帝について

・なぜインド女帝ではなくインド皇帝なのか?
・なぜイギリス皇帝(女帝)ではないのか? 大英帝国でしょう?
・イギリス女王兼インド皇帝は変ではないか? 皇帝は女王より偉いはずだ。
・何の権利があってインド皇帝になったのか?
・なぜインド王ではなくインド皇帝になったのか?

 どの辺から始めようか? (続く)

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2008年10月17日 (金)

ヴィクトリア皇帝(3)

 しかし、ヴィクトリア女王は実際に「皇帝」になっている。
 1877年(明治10年)、パークスが外務卿に苦情を申し込んでから3年後に、ヴィクトリア女王は「インド皇帝」になった。
 イギリスは19世紀初めにはムガール帝国を保護下に入れ、東インド会社を通じて支配を進めていた。1857年5月、東インド会社の傭兵であるセポイたちが反乱を起こすと(インド大反乱)、翌年これを鎮圧してムガール皇帝を退位させた。イギリスによる直接統治が始まった。
 インド大反乱は、シャーロック・ホームズの『四人の署名』の事件の発端ともなった。
 1869年生まれのマハトマ・ガンジーは、ポールバンダル藩王国の宰相であった父親がイギリス人に平身低頭するのを幼時から見てきた。

 イギリスのインド支配はすでに盤石であったのだが、1877年、ベンジャミン・ディズレーリ首相はヴィクトリア女王にインド皇帝を称させることにした。

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「女王さま、こちらの冠はいかがです? 豪勢なもんでげしょう?」と言っているのが、ディズレーリ。いかにもユダヤ人らしく描いてありますね。ヴィクトリア女王は身長150センチに満たない小柄な女性であった。晩年はずいぶんデブになったけれど、このころはそれほどでもない。1861年に夫のアルバート公を亡くしているから喪服姿である。
 ヴィクトリアは大英帝国British Empireの首長で、イギリスの女王兼インド帝国の皇帝ということになった。
 インドの「女帝」のはずであるが、たいていはそう言わないで「皇帝」と言う。英語でもEmperor of Indiaと言う方がEmpressより多いようだ。(続く)

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2008年10月16日 (木)

ヴィクトリア皇帝(2)

 そもそもなぜヴィクトリア女王を女王と呼ぶのがが怪しからんのか?
 日本語の女王は、天皇=皇帝よりもずっと格下だからだ。
 明治時代の日本にも現代の日本にも「女王」は複数いるけれども、そんなに偉くはない。皇族の一員の女子のことである。
 天皇の嫡出の皇女および天皇の嫡男系の嫡出の女子の皇孫を内親王という。現在は皇太子家の愛子さまと秋篠宮家の女の子お二人が内親王である。

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 紀宮さまは内親王であったが、結婚して黒田清子となり皇籍を離脱した。
 高円宮家に三人姉妹がいて、この人たちは内親王の要件を満たさないから「女王」である。三笠宮家にも女王が二人いる。明治時代には女王はもっとたくさんいた。
 パークスはそういうことをよく知っていたから、難癖をつけてみたのだろう。しかし、これは無理筋だ。英語と日本語が一対一に対応するはずはない。女王で構わんということになったはずだ。いつまで「皇帝」と書いていたかは、どなたか調べて下さい。

 しかし、漱石などはヴィクトリア女王ではなく女皇と書いていますね。1901年(明治34年)1月23日、ロンドン留学中の夏目漱石は日記に(→ヴィクトリア女王の葬儀

 昨夜六時半女皇死去すat Osborne. Flags are hoisted at half-mast. All the town is in mourning.……

 と日本語英語混じりで書いている。女皇は「じょおう」と読ませるのだと思う。漱石がまだ子供の時分に、Queenが女王であるか皇帝であるかという議論があった名残ではなかろうか。
 長谷川如是閑は1910年(明治43年)に渡英してエドワード王の葬儀を見ているが、この人も「ヴィクトリア女皇」と書いている。

……ヴィクトリア女皇ほど、帝王としても、婦人としても、細君としても、寡婦としても、理想的、標本的な女はないというのは、英人の我が仏尊しかも知れないが、とかく人望のないのは女天下で、エリザベス女皇のような女傑でも、下々は勿論御附の女官などにも蔭口を利かれ、余りおしゃれをするとて女官が冗談に紅を鼻の頭に塗ったりしたという話があるが、ヴィクトリア女皇に至っては、上下の評判頗る芳しく、時にはパーマーストーンやグラッドストンなどが、女皇(クヰン)はやはり女(ウーマン)だと嘆息した位の事はあったかも知れないが、女だったお蔭で英国憲法が最も完全に行われたという利益もあり、かたがたまず標本的の英国貴女(イングリッシュレディー)であったというので、その輿望からでも誕生地たるケンシントンが自から女の集まる所になるべきはずである。
(続く)

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2008年10月15日 (水)

ヴィクトリア皇帝(1)

 明治7年(1874年)7月25日公布の太政官達に
「締盟各国君主ノ称号、原語各種有之候処、和公文ニハ原語ニ拘ハラズ総テ皇帝ト可称定式ニ候条、此旨可相心得事。但シ共和政治、即チ米利堅、仏蘭西、西班牙、瑞西、秘露等ノ如キハ大統領ト称スベキ事」
 というのがある。
「外交関係のある各国の君主の称号は原語では各種であるが、和公文では原語に拘わらず皇帝とすることに決めるから心得るように。ただし、アメリカ、フランス、スペイン、スイス、ペルー等の共和制の国の場合は大統領とする」
 という意味である。

 イギリスは当時ヴィクトリア女王(在位1837-1901)の治世だったから、以後は和公文では「ヴィクトリア皇帝」となったはずである。
 どうしてこんなことになったのか?

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 これには当時のイギリス公使ハリー・パークス(1828-1885)が関係する。パークスはたまたま横浜駐在イギリス領事に宛てた日本側の書簡の和文を見てヴィクトリア女王と書いてあるのに目をとめた。パークスは支那駐在が長く漢文の知識には自信があったので、さっそく外務卿寺島宗則にねじ込んだ。曰く

 女王とは怪しからん、イギリスは帝国(エンパイヤ)である。攘夷論以来の外人蔑視で、とかく日本人は日本こそ帝国、イギリスなどは王国(キングダム)と見下したがる。だからこそ、こんな誤りもやるのだ。ミカドを男王とでもしたら、黙っているか。かりにも一国元首の呼称、問題は重大である云々。

 外務卿もこれには困り、当時横浜税関長であった星亨(1850-1901)を交渉に当たらせた。
 星はパークスを相手に英語の講釈をはじめた。
 現にイギリスは王国(キングダム)と称しているではないか。女王で何が悪い。
 パークスも妥協に出て、原語のカナ書クイーンではどうだと提案した。ところが星の答が一言多かった。クイーンの日本音は食い犬に聞こえるが、それでもよいか?
 パークスはかっとなり、拳骨でテーブルをガンとやった。卓上の紅茶カップがミジンに砕けた。だが、話はまとまらず、結局困った日本政府が冒頭のような太政官達を出したということらしい。
(淮陰生『完本 一月一話』より)

 淮陰生のテキスト(上掲書p.12 Queenの訳語が「皇帝」であった話)を少し改変した。
 淮陰生(中野好夫らしい)は
 但し、この太政官達、いつまで有効だったかは詳らかにしない。ヴィクトリア女王は明治34年1月に没しているから、問題そのものが自然消滅になったのかもしれぬ。
 と書いている。
 明治34年は1901年である。同年にヴィクトリア女王が没するまで和公文では「皇帝」と書くことになっていたかどうか?
 ハリー・パークスが1883年(明治16年)に清国公使となって離日するとこの問題はうやむやになってしまい、いつの間にか「女王」に戻ったのではないだろうか?
 ヴィクトリア皇帝でなければならないとすれば、次のエドワード王も「エドワード皇帝」のはずだ。現在の英国君主も「エリザベス皇帝」になる。
 明治時代の外交文書は公開されているはずだ。調べてみればいつまで「皇帝」と書いていたかが分かる。(続く)

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