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2008年11月12日 (水)

シャーロック・ホームズ学の課題と展望(1)

 シャーロック・ホームズ(1854-?)の生涯と業績を研究する「シャーロック・ホームズ学」は、百年近く前に始まった。
 オックスフォード大学の講師であったロナルド・ノックスが、1911年(明治44年)に学生や教員を相手に

Studies in the Literature of Sherlock Holmes 
(→全文はここ、翻訳はこちら

と題する講演を行った。
 ホームズ研究は、ここから始まった。
 ホームズの活躍は、引き続きアーサー・コナン・ドイルの名義でストランド・マガジンの誌上で紹介された。たとえば『恐怖の谷』は、1914年9月号から1915年5月号まで連載された。1927年4月号の『ショスコム・オールド・プレース』がドイル名義による最後のホームズ譚である。

Strand

 1911年にはホームズはまだ50代だったが、すでに犯罪捜査からは引退して、サセックスの丘陵で養蜂三昧の日々を送っていた。やがてドイツとの戦争が不可避だと分かってくると、ホームズは外務大臣の要請でフォン・ボルクのスパイ網をつぶす工作に取りかかった。1912年(大正元年)ころから、アルタモントと名乗ってシカゴで活動したらしいが、詳細は不明である。
 1914年8月2日、60歳のホームズは久しぶりにワトソンと再会して一緒に一働きする。この記録『最後の挨拶』を書いたのはワトソンではなく、コナン・ドイルだったらしい。

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 記録に残るホームズの登場はこれが最後である。
 チャリング・クロスのコックス銀行の金庫室のどこかにあるはずのブリキの文書箱(John H. Watson, M.D., Late of Indian Armyとふたにペンキでかいてある)が発見されれば別であるが。

A511

 しかし、むろん以後もホームズは健在であった。
 昭和の初めには、我が国の名探偵、明智小五郎から来日の要請を受けている。(明智小五郎からシャーロック・ホームズへ) 
 山本周五郎によれば、ホームズはどうやら本当に日本に来たらしいが、明智の要請とは無関係のようだ。(シャーロック・ホームズの来日(1)(2))
   
 一方、ホームズ譚の日本への紹介となると、これが意外に早いのである。北原尚彦氏によると、
 
 シャーロック・ホームズの日本語への翻訳は、明治27年(1894年)に始まる。確認されている最も古いものは、雑誌『日本人』に連載された「乞食道楽」(「唇のねじれた男」)である。英国『ストランド』誌に『シャーロック・ホームズの冒険』の連載の始まったのが1891年、「唇のねじれた男」は12月号の掲載。『日本人』での連載は1894年1月に始まっているから、原作発表からおよそ2年しか経っていない。(『シャーロック・ホームズ万華鏡』p.151)

  このように、
①シャーロック・ホームズ本人の実際の活躍
②ホームズを描いたワトソンの記録の発表(コナン・ドイル名義)
③上記①②を研究する「シャーロック・ホームズ学研究」
 の三つが時間的に重なっている(英国でも日本でも)ことも一つの原因となって、ホームズ学にはまだまだ多くの課題が残されているのである。(続く)

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