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2008年11月29日 (土)

柔道か柔術か(25)

 運動競技は色々だけれども、格が高いものと低いものがあった。本場イギリスの昔の話です。
 大学やパブリックスクールでやる競技が中流以上の階級の競技である。

The lower of the three is Gilchrist, a fine scholar and athletic, plays in the Rugby team and the cricket team for the college, and got his Blue for the hurdles and the long jump.

三人のうちで一番下の部屋にいるのがギルクリストです。よくできる学生で運動家です。カレッジのラグビーとクリケットの選手で、ハードルと幅跳びではブルーを持って(大学対抗戦代表に選ばれて)います。

 もちろん『三人の学生』ですね。ヒルトン・ソームズ先生がシャーロック・ホームズに説明しているところ。カレッジというのは「聖路加カレッジ」であった。陸上競技ではカレッジどころか大学全体の代表にも選ばれている。でも、どちらの大学なんだろう。オックスフォードかケンブリッジか、それが問題だ。
 ギルクリスト君はラグビーとクリケットと陸上競技の選手だった。これにボートを加えると、大学やパブリックスクールでやる主要な競技になる。運動競技は勉強よりも大切なくらいだった。

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 1901年渡英した夏目漱石は、留学先を決めるためにケンブリッジを視察した。

 ケンブリッジへつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内をゾロゾロ歩いている。これは船を漕いだり丸を抛げたりまたは自転車へ乗る先生方であって、そして大学生の大部分はこの先生方である。(1902年2月9日 狩野・大塚・管・山川宛書簡)

 夏目金之助は結局ケンブリッジなどには行かず、ロンドンの場末の下宿に籠城して必死に研究に没頭した。気が狂いそうになったくらいだ。あなたの見たケンブリッジの書生の生活が「文武両道」なんですよ――などと言えば怒り出しただろう。
 7年後の1908年(明治41年)、漱石は小川三四郎に運動会を見物させている。

 たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子がすわっている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見つめていた三四郎の視線のうちにはぜひともこれらの壮漢がはいってくる。五、六人はやがて一二、三人にふえた。みんな呼吸をはずませているようにみえる。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べてみて、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別にかける気になれたものだろうと思った。(明治の運動会

 運動には冷淡である。
 ところが、英国では運動競技が生活の一部であった。その中でもラグビー、クリケット、陸上競技、ボートが特に格式が高い競技だった。
 格式が高い競技、たとえばラグビーは、たとえばレスリングのような下層階級の競技の違いは何か?
 競技をめぐる言説のありようが違う。分かりにくい? 一度、こういう言葉遣いをしてみたかったの。
 ラグビーに関してはいくらでも文献があるが、レスリングの文献は少ない――ということを前から言っています。
 今回は少し回り道をした。(続く)

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2008年11月28日 (金)

柔道か柔術か(24)

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「柔道か柔術か」の記事、特にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンに触れた「柔道か柔術か(23)」あたりは、見えない道場本舗に取り上げてもらったおかげで、かなり注目を呼んだようだ。アクセスが急増しています。
 私は(23)まで書いて、そのあとは軍神広瀬武夫中佐とロシアのサンボの関係にでも行こうかな、と思っていた。しかし、ロシア語は読めないし、材料が足りないなあ、と悩んでいたところです。

 しかし、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンについて、少々補足しておくことはできる。(23)では、

 レスリングには、ボクシングと違って、アーサー・コナン・ドイルやクィンズベリー侯爵のような社会的地位の高い支持者がいなかったことが大きい。

 と書いた。社会的地位の高い支持者がいなかったので、「レスリング文献」がほとんど残っていない。だから、百年余り前の英国レスリングの実態はどうだったのかを知る手掛かりが少ない、というのです。
 サブミッションは元々英国のレスリングにあったものか、それとも柔術から取り入れたのか?
 文献があれば、こういうことはすぐに分かるのだ。
 ボクシングの場合と比べてみればよろしい。
 ボクシングもはじめは野蛮な殴り合いとして白眼視されていた。
 1891年、ストランド・マガジンにシャーロック・ホームズの短編の最初の6編を発表して大人気を呼んだコナン・ドイルが大のボクシング・ファンだったことは、このスポーツの地位向上に大いに役立った。
 コナン・ドイルとボクシングについては、このブログにも少し書いた。「シャーロック・ホームズとボクシング」については、材料がたくさんあるので、これから書くつもり。

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 ドイルのおかげで、ボクシングは立派なスポーツであるということになった。
 もう一人のクィンズベリー侯爵(1844-1900)は、ボクシングの歴史にとってドイル以上に大切な人だ。
 現在のボクシングの基本的なルール
・グローブを付ける
・ローブローは駄目
・テンカウントでノックアウト、等々
 を決めたのが、この人が1867年に提案したクィンズベリー・ルールである。

 このクィンズベリー侯爵という人は、オスカー・ワイルドの「愛人」の父親ですね。息子のアーサー・ダグラス卿がワイルドと仲良くなってしまった。許せん、というので、1895年、侯爵はワイルドを公然と侮辱した。ワイルドが侯爵を刑事告訴したが、逆にワイルドが同性愛罪で懲役2年の判決を受けることになった。

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 Oscar Wilde--最初の現代人-- を是非ご覧下さい。写真はこのサイトから
http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/

 サーの称号を受けたコナン・ドイルと、もっと偉いクィンズベリー侯爵というパトロンがいたおかげで、ボクシングがどのように発展して現在我々が知っているようなボクシングになったかについては、いくらでも文献がある。
 それに比べてレスリングはどうか? (続く) 

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ヴィクトリア皇帝(14)

 タタールのくびきはどれほど重かったか。ロシア人はこれを学校で習うらしい。
『ねじまき鳥クロニクル』では、皮剥ボリスが間宮中尉にこう説明している。

「彼らは、凝った面倒な殺し方をするのが大好きなんだ。いうなれば、そういう殺し方のエキスパートなんだ。ジンギス汗の時代から、モンゴル人はきわめて残虐な殺し方を楽しんできたし、その方法についても精通している。私たちロシア人は、いやというほどそのことを知っている。学校で歴史の時間に習うんだよ。モンゴル人たちがロシアでかつて何をしたかということをね。彼らはロシアに侵入したときには、何百万という人間を殺した。ほとんど意味もなく殺したんだ。キエフで捕虜にしたロシア人貴族たちを何百人も一度に殺した話を知っているかね。彼らは大きな厚い板を作って、その下に貴族たちを並べて敷き、その板の上でみんなで祝宴を張って、その重みで潰して殺したんだ。そんなことは普通の人間になかなか思いつけるもんじゃないよ。そう思わないかね? 時間だってかかるし、準備だってたいへんだ。ただ面倒なだけじゃないか。でも彼らはあえてそういうことをやるんだ。なぜなら、それは彼らにとって楽しみだからだ。……」

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 こういうふうに250年間痛めつけられて、ロシア人は逆にタタール(モンゴル)人のやり方を自分のものにしてしまった。
 スターリンの支配が貫徹したのも、モンゴルの圧政という下地があったからだろう。
 ゴルバチョフがもう一つ人気がなかったのは、徹底的な西欧派だったからだ。それに比べるとエリツィンにはタタール風のところがあって、それが強みだった。プーチンもタタール的だ。今の大統領、メドべージェフだったっけ。こいつはプーチンにはかなわんだろう――というのは、まあ、素人の観測です。

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 しかし、話が逸れた。インド皇帝のことでした。

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2008年11月27日 (木)

ヴィクトリア皇帝(13)

 ロシアの皇帝はツァーリである。
 ツァーリの正統性の根拠の少なくとも一部はチンギス・ハーンにある。

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 これは私の独自の説である。自慢しているのではありません。素人の憶説だということです。

 むかし、判例を読んでいると「弁護人の述べるところは畢竟、独自の説であって云々」というのがよく出てきた。独自の説をとなえるとは偉いとほめているのかと思うと、そうではなく、我妻先生や団藤先生の教科書に書いてないような説は問題外ということだ。どうも法学というのはかなわんと思ったね。 
  
 チンギス・ハーン(1167-1227)の死後しばらくしてモンゴル帝国は分裂したが、キプチャク・ハーン国がロシアを属国として貢租を取り立ててた。キプチャク・ハーン国によるロシアに対する間接支配をタタールのくびきという。13世紀前半から1480年までの約250年間である。

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http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/mongoria/mongoria_6.html

  ツァーリは中世ロシアでは最高の主権者という意味でビザンティン皇帝をさしたが,〈タタールのくびき〉のもとではキプチャク・ハーンにも使われ,その使用はやがて同じタタール系のカザン・ハーンなどにも及んだ。ロシアの君主ではイワン3世がリボニア騎士団との交渉でツァーリを称したのが最初であるが,その公的使用はなおしばらくは限られていた。モスクワ大公がタタールに代わるロシア平原の支配者として現れ,西方の神聖ローマ皇帝との対等意識もめばえた15世紀末~16世紀初め,〈双頭の鷲〉の紋章や,ウラジーミル・モノマフがビザンティン皇帝から受領したとされる王冠〈モノマフの帽子〉が使われはじめ,大公家の系譜をローマ皇帝アウグストゥスにさかのぼらせる伝承も生まれ,イワン4世が1547年,最終的にツァーリをその公的称号に取り入れた。(平凡社世界大百科事典)

 ツァーリ=皇帝は、はじめキプチャク・ハーンに対して使われた、というのだから、ロシア皇帝位の正統性の根拠を遡るとチンギス・ハーンに行き着くというのは、全くのデタラメとは言えないと思う。チンギス・ハーンは史上最大の大帝国を築いた正真正銘の皇帝だったのだから。
 とすると、インドの「ヴィクトリア皇帝」もチンギス・ハーンにゆかりがあるはずだ。

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2008年11月26日 (水)

ヴィクトリア皇帝(12)

 支那の次は朝鮮。「大韓帝国皇帝」という存在があった。1897年(明治30年)から1910年(明治43年)まで。初代皇帝と第二代皇帝がいた。
 朝鮮は清国の属国であった。1882年(明治15年)、米国海軍省発行の各国国旗図録 http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k089.html から

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「大清属国 高麗國旗」とはっきり書いてある。朝鮮の王は清国の皇帝に叩頭しなければならなかった。

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 日本にも土下座はあるけれど、ここまではしない。この叩頭はkowtowという英語になっていますね。へいこらする、ぺこぺこするくらいの意味らしい。
 日清戦争の結果、朝鮮は独立国ということになったので、国名を大韓帝国に変え、王が皇帝に昇格した。初代皇帝高宗は日本に逆らったので1907年に退位させられ、皇太子の純宗が二代皇帝になった。

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 1910年の日韓併合によって退位したが、その後は日本の王族としての待遇を受け、1926年に亡くなったときは国葬になった。純宗皇帝の皇太子であった弟の李垠には、梨本宮家から方子女王が嫁いだ。
 1917年に退位したロシアのニコライ2世が翌年には殺されたのと比べれば、ずいぶん恵まれていた。

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2008年11月25日 (火)

いいじゃないの

幸せならば

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2008年11月23日 (日)

明るい社会?

 いま翻訳しているものに「明るい社会を作る」という語句が出てくる。
 どう英訳すればよろしいか?
 別にむつかしくないでしょう。
 Create a bright society. でいいのでは?

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 そうかな?
 まずcreateはどうか?
 God created the world. というような文が聖書の初めの方に出てきた。「神は世界を作りたもうた」。神が作る前には我々のこの世界は存在しなかったのだ。createというのは、何もないところから一から作り出すことだ。Create a ---society. は変だ。そういう結構な運動を始める前から、この社会は存在したのだから。
 明るい社会の明るいはbrightでよろしいか? 
「この蛍光灯は明るい」の英訳には、もちろんbrightが使える。
「諸君の未来は明るい」も、brightでよいだろう。この明るい=brightは比喩ですね。
「明るい社会」もbrightでまかなえるか? a bright societyという英語はどうもインチキくさいね。
 いや、「明るい社会」という日本語自体がインチキなんじゃないの? 少なくとも由緒正しい日本語ではない。紫式部や松尾芭蕉は使わなかった。鴎外や漱石も使っていない。村上春樹も使わない。不肖私も使わない。
 では、どう訳せばよろしいか?
  どう訳してもよろしくない。「明るい社会を作る」などと言わなければよいのだ。

"create a bright society"をグーグルでフレーズ検索してみよう。全部で6件しかない。
 トップはTokyo Junior Chamberのページである。東京青年会議所?
 第2位は草加市。第3位が西宮市。4位、5位が英語のページで6位は中国語らしい。
 可哀想な私の同業者がおかしな英語を書かされている。ネイティブでも英語の感覚がおかしいやつがいるらしい。

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2008年11月14日 (金)

シャーロック・ホームズ学の課題と展望(3)

 シャーロック・ホームズ学の分野では、今後日本からもオリジナルな研究が出てくることが大いに期待されるのであるが、そのための大前提は、正典を正しく読むことである。 
 先に見たように、ホームズの翻訳史はすでに百有余年になる。明治以来、最近の光文社文庫版まで、何十種類の訳が出ていることか。ところが、正典Canonと呼ばれるほどのテキストなのに、誤訳がなくならないのはどういうわけだ。

 まあ翻訳に誤訳は付きものですがね。私なども仕事にしているから身に覚えはあります。うっかりや勘違いは誰にでもある。編集者がちゃんとチェックしないのがよくないのだ。
 直井明氏や古賀正義氏のような人による事後チェックも有効だ。

 しかし、特に古賀氏の本を読むと、ちょっと怖くなりますね。出てくる誤訳のほとんどが「受験生的間違い」なんだもの。
 私は昔そういうのを商売の種にしていたから、うんざりだ。検事になって摘発する気は起きない。
 ただ、正典の解釈に関わる問題だけは、斯学のために指摘しておくべきであろう、と考える次第であります。
 そういう問題は、大小取り混ぜて、たとえば

・牧師か神父か
・棍棒かステッキか
・モリアーティ元教授の職業?
・ホームズの棒術?
・コナン・ドイル卿?
・デブかガッチリか

 まだまだあるでしょう。少なくとも『ホームズの頭蓋骨』と『プロの美人たち』については言いたいことがある。

 「シャーロック・ホームズ学」の話であった。

 まず正典自体の研究が大切だ。信頼できる本文と挿絵が
http://www.ignisart.com/camdenhouse/canon/index.html
にあります。

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 正典をじっくり読み込むと、「シャーロック・ホームズの世界」の面白さが分かってくる。次は同名のサイト   
http://www5.ocn.ne.jp/~shworld/
を見ない手はないのだ。

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2008年11月13日 (木)

シャーロック・ホームズ学の課題と展望(2)

シャーロック・ホームズ学の研究は、まだまだ英米の方が進んでいるので、研究史上の古典の翻訳も大切な課題である。
 この面では、私もささやかながら学問に貢献している。ホームズの言葉を借りれば、I have contributed to the literature of the subject.
 ロナルド・ノックスの本職は学者兼カトリックの神父であったが、探偵小説作家としても有名である。

トスカ枢機卿の死』の原稿断片を発掘したS・C・ロバーツも学者であった。

 ドロシー・セイヤーズのようなプロの探偵小説作家がホームズ研究の面でも業績を上げているのは不思議ではない。私はこの人の『ドクター・ワトソンのクリスチャンネーム』は訳出したけれども、『シャーロック・ホームズの学生時代』は途中で不明な点が出て訳を中断している。どなたか、ご教示下さい。(→「シャーロック・ホームズ」のカテゴリ。以下同じ)

『ワトソンは女だった』というトンデモ説をとなえたのは、レックス・スタウトである。これは多くの真面目な研究者を憤激させ、スタウトはベーカーストリート・イレギュラーズの会合に、ボディガード付きでなければ出席できなくなったという。翻訳はかなり前に出ているはず。しかし、あまりおふざけが過ぎて感心できない。それよりも、この人が他の二人の研究者とともにラジオの座談会に出てホームズを論じた記録があるので、機会があれば紹介したい。

 作家であっても探偵小説に関してはファンにとどまっている人たちにも、ホームズ論の古典がある。
 一番の大物は、『荒地』のT・S・エリオットでしょう。この人はホームズの大ファンだった。劇団四季の『キャッツ』の原作にモリアーティ教授をモデルにした悪い猫が出てくる。『寺院の殺人』は『マスグレーブ家の儀式』から台詞を借りている(このことを指摘したのは、水野雅士氏『シャーロック・ホームズと99人の賢者』が最初だと思う)。 (→T・S・エリオットのホームズ論

『アクセルの城』のエドマンド・ウィルソン、メディア論のマクルーハン、詩人のケネス・レックロスグレアム・グリーンなどにもホームズ論がある。これらはこのブログで訳しています。
 
 しかし、英米人の研究ならば全部正しい、有り難がって翻訳し吸収すべきかというと、もちろん、そんなことはない。間違いはあります。
 日本人ならば漱石でも鴎外でも露伴でもちゃんと読めるか? むつかしいでしょう。同じように、英米人がシャーロック・ホームズを正しく読めるとは限らない。たとえばgasogeneなんて単語は、ふつうの英米人は知らないだろう。聞いたことはあっても、実物を見たことはないだろう。
 
   Pr4623a25b3vol1no2_00001
  こういうのはちょっと調べれば分かることだけれど、とんでもない誤解をしている場合がある。
 読み間違い(日本人にとっては誤訳になるわけだ)は多い。まず正確に読むということが、何といっても学問研究の出発点である。(続く) 

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2008年11月12日 (水)

シャーロック・ホームズ学の課題と展望(1)

 シャーロック・ホームズ(1854-?)の生涯と業績を研究する「シャーロック・ホームズ学」は、百年近く前に始まった。
 オックスフォード大学の講師であったロナルド・ノックスが、1911年(明治44年)に学生や教員を相手に

Studies in the Literature of Sherlock Holmes 
(→全文はここ、翻訳はこちら

と題する講演を行った。
 ホームズ研究は、ここから始まった。
 ホームズの活躍は、引き続きアーサー・コナン・ドイルの名義でストランド・マガジンの誌上で紹介された。たとえば『恐怖の谷』は、1914年9月号から1915年5月号まで連載された。1927年4月号の『ショスコム・オールド・プレース』がドイル名義による最後のホームズ譚である。

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 1911年にはホームズはまだ50代だったが、すでに犯罪捜査からは引退して、サセックスの丘陵で養蜂三昧の日々を送っていた。やがてドイツとの戦争が不可避だと分かってくると、ホームズは外務大臣の要請でフォン・ボルクのスパイ網をつぶす工作に取りかかった。1912年(大正元年)ころから、アルタモントと名乗ってシカゴで活動したらしいが、詳細は不明である。
 1914年8月2日、60歳のホームズは久しぶりにワトソンと再会して一緒に一働きする。この記録『最後の挨拶』を書いたのはワトソンではなく、コナン・ドイルだったらしい。

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 記録に残るホームズの登場はこれが最後である。
 チャリング・クロスのコックス銀行の金庫室のどこかにあるはずのブリキの文書箱(John H. Watson, M.D., Late of Indian Armyとふたにペンキでかいてある)が発見されれば別であるが。

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 しかし、むろん以後もホームズは健在であった。
 昭和の初めには、我が国の名探偵、明智小五郎から来日の要請を受けている。(明智小五郎からシャーロック・ホームズへ) 
 山本周五郎によれば、ホームズはどうやら本当に日本に来たらしいが、明智の要請とは無関係のようだ。(シャーロック・ホームズの来日(1)(2))
   
 一方、ホームズ譚の日本への紹介となると、これが意外に早いのである。北原尚彦氏によると、
 
 シャーロック・ホームズの日本語への翻訳は、明治27年(1894年)に始まる。確認されている最も古いものは、雑誌『日本人』に連載された「乞食道楽」(「唇のねじれた男」)である。英国『ストランド』誌に『シャーロック・ホームズの冒険』の連載の始まったのが1891年、「唇のねじれた男」は12月号の掲載。『日本人』での連載は1894年1月に始まっているから、原作発表からおよそ2年しか経っていない。(『シャーロック・ホームズ万華鏡』p.151)

  このように、
①シャーロック・ホームズ本人の実際の活躍
②ホームズを描いたワトソンの記録の発表(コナン・ドイル名義)
③上記①②を研究する「シャーロック・ホームズ学研究」
 の三つが時間的に重なっている(英国でも日本でも)ことも一つの原因となって、ホームズ学にはまだまだ多くの課題が残されているのである。(続く)

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2008年11月10日 (月)

ヴィクトリア皇帝(11)

 世界で初めて皇帝を名乗ったのは、秦の始皇帝(前259-前210)だ。
 秦王政は、韓、魏、楚、燕、斉、趙の戦国六雄を次々に滅ぼして統一帝国を築いた(前221年)。

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 王の支配する六国をことごとく滅ぼして天下を統一したのだから、王より上の称号を名乗るべきだ。どういう称号がよいか検討せよと大臣等に命じた。

 臣等謹みて、博士と議して曰く、古、天皇有り、地皇有り、泰皇有り。泰皇最も貴し。臣等昧死して、尊号を上つり、王を泰皇と為し、命を制と為し、令を詔と為し、天子自ら称して朕と曰はん、と。王曰く、泰を去り皇を著け、上古の帝位の号を采り、号して皇帝と曰はん。他は議の如くせん、と。制して曰く、可なり、と。(史記 秦始皇帝本紀第六)

 臣下は「泰皇」になさいませ、と言った。これは天皇(てんこう)より偉いらしい。
 ところが王は「皇帝」という称号を自分で考案した。以後、支那の天子は「皇帝」になった。
 西洋との違いは、はじめから皇帝の方が王より偉いことだ。皇帝は世界に一人、支那の天子だけである。周辺の国の支配者はいくら偉くても王止まりである。
 日本にも王がいて、金印をもらった。後漢の光武帝が建武中元2年(西暦57年)に「漢委奴國王」という金印を日本の王にくれたのだった。

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2008年11月 9日 (日)

寒くなってきました

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ウォームビズなのだ。

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2008年11月 6日 (木)

ヴィクトリア皇帝(10)

 天皇は皇帝ではなく王なのではないだろうか? kingが一門の長者という意味なのだから。
 私の曾祖父は江戸時代に百姓の身分に生まれたので、公式には名字を名乗れなかった。しかし、名字も紋所も昔からちゃんとあって、奈良県の二万五千石の譜代大名と同じなのだそうだ。

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 侍なら源氏か平氏か。徳川家が源氏だからたぶん源氏だ。清和天皇(在位858-876)の子孫であり、当今は我が家にとっては「本家の旦那」ということになる。

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 しかし、そもそも徳川家が源氏というのが怪しい。はじめは藤原氏だと言っていたのに、将軍になるには源氏に限るというので系図をでっち上げたという説もある。
 それはともかく、台湾と朝鮮を領有して多民族国家になったのが異常なので、日本は基本的には単一民族の親戚国家だ。「日本王」でよいはずだ。日本の王は天照大神の子孫である。これはアガメムノンがゼウスの子孫であったり、フンガドゥンガ族の酋長がやはり神の子孫だったりするのと同じで、特別のことではない。
 天皇を名乗り皇帝だと主張したのは、もちろん中国に対抗するためですね。

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2008年11月 5日 (水)

アメリカと日本

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アメリカは決まったけれど、日本は……

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2008年11月 4日 (火)

ヴィクトリア皇帝(9)

 はじめのころ、西洋の皇帝は共和政の第一人者で、王より偉いわけではなかった。
 その後いろいろ紆余曲折があって、
①皇帝は王より偉い
②皇帝は原則として世界(キリスト教世界)に一人
 ということになった。

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 800年、カール大帝(シャルルマーニュ)が皇帝imperatorになったときは、コンスタンティノープルに(東)ローマ皇帝がいるので②に抵触することになった。

 さらにまた紆余曲折があって、ナポレオンが皇帝になった1804年には、神聖ローマ皇帝がまだいたし、ロシアの皇帝もいた。皇帝のインフレである。
 非ヨーロッパでは、少なくともトルコ、ムガール帝国、清朝に皇帝がいた。このうちトルコの皇帝はスルタンである。ムガール帝国と清朝の皇帝を、当時のヨーロッパ人がエンペラーにあたる言葉で呼んだかどうか?
 それから半世紀ほどして、欧米諸国が日本に開国を迫ったときには、「日本のエンペラーは将軍かミカドか?」という議論があったというから、19世紀はじめにも非ヨーロッパ圏に皇帝がいることは認められていたのだろう。「単一の王国や単一の民族を越えた広大な領域の支配者」が皇帝である――という定義が成立していたようだ。
 しかし、それならば日本の天皇は皇帝ではなく王なのではないか? 日本は単一民族国家なのだから。
 
Nakayamana  
  アイヌがいる? しかし、アイヌはアメリカのインディアンやオーストラリアのアボリジニーとは違う。アメリカの黒人とも違う。日本人がアイヌを絶滅させようとしたわけではない。北海道では、ジョン・ウェインが駅馬車からアイヌ人を鉄砲で撃ったりはしなかった。アイヌ人を黒人みたいに奴隷にしていたのでもない。中国のチベット族などとも違うでしょう。(イヨマンテの夜がhttp://jp.youtube.com/watch?v=9BTM0jzRCiM で聞けます。)
 現在は、出自が分からない日本人とともに、アイヌ系、朝鮮系などの日本人がいる。欧米系、アフリカ系などの日本人も少数いる。私の親戚にもアフリカ系がいます。
 そういう人たちを含めて大まかに単一民族で何が悪いのか? 少なくとも単一民族という言葉を聞くと条件反射みたいに「差別だ!」と糾弾するのはどうだろう? (続く)

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