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2009年1月18日 (日)

柔道か柔術か(44)

タニ・ユキオ略伝(1)

 イギリスのBudokwai(武道会)の歴史のうち、タニ・ユキオにかかわる部分を訳出します。原文はhttp://www.budokwai.org/history_vol_i.htm
(武道会は1918年に、英国に帰化していた日本人コイズミ・グンジによって設立された。コイズミは1906年に渡英して柔術の教師などのアルバイトをしながら実業家として成功した。彼の開いた武道会は現在も続いている。)
 
 英国武道会の最初の職業教師はタニ・ユキオである。タニ (1881-1950)は1900年後半に兄とともにE・W・バートン・ライトに招かれて英国に来た。

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 ライトは各種の格闘技の熱心な実践者であり、日本に3年間滞在する間に柔術を学んだ。その流派は明らかではないが、古流のうち当時もっとも有力であった天神真楊流ではないかと考えられる。少なくとも嘉納流柔術(講道館柔道の初期の名称)でなかったことは確かである。1998年に帰国すると、ライトはロンドンのシャフツベリー・アヴェニューに武術学校を設立し、ここでボクシング、フェンシング、レスリング、フランスのサバットなどを教え始めた。タニ兄弟が到着すると柔術を教えさせた。それどころか、タニ兄弟が来る前から、ライトはすでに自身のいわゆる「バリツ」のデモンストレーションを開始していた。これは柔術にいくらか別の要素を付け加えたものであった。

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 まもなくタニ兄弟にヤマモトが加わった。ライトは自分の学校で教えさせるだけでなく彼らをミュージックホールにレスラーとして出演させようとした。タニの兄とヤマモトはこれを断り日本に帰国した。まもなくライトはもう一人の日本人ウエニシ・サダカズを呼び寄せた。ウエニシとタニ弟はステージに出ても構わないと思った。二人はたちまち大評判になった。どんなに体重が重く強い相手の挑戦も受けて立って打ち破ったからである。2年を経ないうちにタニとウエニシはライトと別れた。ライトの方は以後格闘技の歴史から消えることになる。しかし、エドワード・ウィリアム・バートン・ライト(1860-1951)には、柔術の英国と欧州への紹介者としての名誉が与えられべきであろう。彼は財産も家族も残さずに亡くなり、キングストン霊園の墓標のない墓に葬られている。いつの日か、どこかの柔道協会が彼にふさわしい記念碑を建ててやるべきだろう。

 バートン・ライトと袂を別って後、タニはウィリアム・バンキアと組んだ。バンキアはアポロの芸名で知られる怪力男であった。

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彼はタニやライトとは違ってショーマンとして経験が豊富だった。彼とタニが組んでいた4年か5年の間に、二人は英国各地を公演して回った。アポロは怪力芸を見せ、タニの柔術の助手をつとめた。商売の面もアポロの担当で、劇場やミュージックホールへの出演契約をまとめた。やがてこのパートナーシップは解消されたが、何年も経ってから、バンキアは武道会に加わり、再びタニといっしょに活動することになった。(46まで続く)

*谷幸雄の伝記的事項は、「柔道か柔術か」の11-18、21、47、52ー58などにも書いております。あまりたくさん書いたので自分でも分からなくなった。だいたいカテゴリ「格闘技」の「柔道か柔術か」のシリーズに含まれているはずです。
「見えない道場本舗」のグリフォンさんがウィキペディアの項目を作ってくれて、また別の篤学の士がこれを増補してくれたらしい。英語版ウィキペディアは私が上記のどこかで訳しています。 柔道か柔術か(47)でした。2009/4/22

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