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2009年1月24日 (土)

柔道か柔術か(47)

タニ・ユキオ伝――英語版ウィキペディアの記述

 タニ・ユキオ (1881-1950) は、日本人の柔術教師兼プロの挑戦試合レスラーである。
 タニの日本時代の柔術修業の詳細は不明であるが、不遷流の二箇所の道場と大阪の Handa School of Jiujitsu に通ったことが分かっている。また天神真揚流を学んだことがあるともよく言われる。

 1900年後半から、バリツの創始者であるエドワード・ウィリアム・バートン・ライトの影響により、19歳のタニはロンドンに渡り、ミュージック・ホールに出演して柔術のデモンストレーションを行い、同時に誰の挑戦でも受けて立つと宣言した。ステージ上のタニは「ポケット・ヘラクレス」として知られ、その名声はロンドンのあらゆる階層に響き渡った。もう一人の日本人柔術家のウエニシ・サダカズとともに、タニはバートン・ライトの「バリツ武術体育学校」(ロンドンのソーホー地区シャフツベリー・アヴェニュー67番B)で柔術教師を務めた。

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 1903年にバートン・ライトと別れた後、タニはショービジネスのプロモーターであるウィリアム・バンキアと組んだ。バンキア自身「スコットランドのヘラクレス、アポロ」という名前でミュージック・ホールに出演していた。バンキアのマネジメントによってタニはミュージック・ホールの巡業を始め、我と思わん者は誰でも挑戦して来いと宣言した。賞金として、5分間までの戦いで1分間(ギブアップしないで)戦い続けるごとに1ポンドを進呈する、もしタニに勝てば5ポンドから100ポンド進呈する――という触れ込みであったから、挑戦者には事欠かなかった。

(訳者注 賞金は「15分間ギブアップしなければ20ポンド」の場合と「1分間1ポンド」の場合があったらしい。はじめは「秒殺」で賞金なしの場合が多かったのだろう。やがて人気が上がり強い挑戦者が出てくると制限時間を延ばし賞金も高くしたのではないだろうか。)

 この挑戦試合では、タニの相手は柔術のルールで戦わなければならなかった。一定時間参ったを言わずに戦うことを求められたのである。この時期には、ヨーロッパのレスラーの多くは、サブミッション・レスリングの技法はおろかサブミッション・レスリングという考え方自体を知らなかったので(As the concept and practice of submission wrestling was foreign to most European wrestlers during this period)、このルールの挑戦試合はタニにとって戦術的に有利であった。

 タニは身長5フィート6インチ(167cm)であったが(バンキアによれば身長は5フィート)、ミュージック・ホールで負けたのはただ一度、同じく日本人のミヤケ・タロウを相手にした1905年の試合だけであるという。オックスフォードのミュージック・ホールで1週間公演したときは、タニは33人と試合して全員を打ち破った。この中には有名なグレコローマンのレスラーたちも含まれていた。ある年の6ヶ月にわたる巡業では、一週間平均で20人、全期間では500人以上を相手にしたという。
 1904年にタニとミヤケはオックスフォード・ストリート305番地に日本柔術学校を開いた。この学校は2年ほど続いたが、タニの弟子の一人に舞台女優のマリー・スタッドホームがいた。

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 タニはミヤケと共著で "The Game of Jujitsu"という本を1906年に刊行している。
 1918年にタニはロンドン武道会の最初の職業教師となり初めは柔術を教えた。1920年に講道館柔道の創始者嘉納治五郎が訪英したときには、タニに柔道二段を与えた。やがてタニは四段になった。
 タニ・ユキオは1937年に脳卒中を患ってからは直接手を取って弟子を教えることができなくなったが、1950年1月24日に亡くなるまで武道会で指導を続けた。

Budokwai

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