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2009年1月31日 (土)

柔道か柔術か(51)

 グーグルでscientific wrestlingを検索するとトップは
http://www.scientificwrestling.com/
 ここに

Dept19

 TMと書いてありますね。Scientific Wrestlingに商標権を主張したいらしい。ちょっと特殊な用法なのだろう。
 この写真では相手の両腕を制しているけれども、関節を極めているのではないと思う。ピンフォールを取るにはしっかり押さえつける必要があるからだろう。現在のアマレスのようにタッチフォールで一瞬だけ押さえればよいのならば、こういう念入りなやり方は不要だ。

 このサイトが有名なscientific wrestlersとして名前を挙げているのは、ジョシュ・バーネット、藤原喜明、カール・ゴッチ、ビル・ロビンソンなどである。

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 初めの方に、What is Scientific Wrestling? と書いてある。訳してみよう。

「サイエンティフィック・レスリング(別名キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング)は、明確に米国および西欧のスタイルのグラップリングであり、そのルールでは勝者はサブミッションまたはピンによって決まる。ポイント制はなく、politics(プロレスの筋書きという意味だろう)もなく、試合は三本勝負で二本を先に取った方が勝ちになる。」

 どうもいい度胸をしているね。ふつうの英語の用法を完全に無視している。 それに、真剣勝負なのに三本勝負?
「青木真也の足関節技が見事に決まって一本目は取ったけれども、二本目になるとエディ・アルバレスのパウンドが……」なんて馬鹿な試合があるはずがないだろう。
 プロレスはキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(サブミッションなしのレスリング)の伝統を受け継いで「六十一分三本勝負」だ。しかし、一本目はデストロイヤーの四の字固めが決まったが、二本目は力道山の空手チョップが冴え渡り――これではお客さんが納得しないよ。
 四の字固めは両者一本ずつフォールを取り合った後に出て、力道とデストロイヤーの両者はリング下に転落、そのまま無勝負、というのが定石でしょう。

Kao  
 しかし、続きをもう少し読んでみよう。

「嘉納治五郎が柔術から危険な技を省いて安全なスポーツとして柔道を創始したように、キャッチの危険なホールドとサブミッションが除かれ、人々が安全にレスリングに参加できるようになった。ここからアマチュアのフリースタイル・レスリングが生まれた。」

 これでは日本で従来言われていること、信じられていることと同じだ。
 日本語でも英語でもこの手の主張の特徴は漠然として具体性がないことだ。次の二つを比べてみよう。

(1)嘉納治五郎が柔術から危険な技を省いた。
(2) キャッチの危険なホールドとサブミッションが除かれた。

(1)については、天神真楊流と起倒流を学び、明治15年、東京下谷の永昌寺に講道館を開き……
 いくらでも具体的な細部を語ることができる。

(2)はどうか? 危険なホールドとサブミッションとは具体的に何々という技か? 除かれたのは何年のことか? サブミッション禁止は誰々が決めたのか? 一切不明である。こういう具体的な細部の記述は、どこでも見たことがない。
 いわゆる4W1H(いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか)が書いてない。『Gスピリッツ』誌の那嵯涼介氏の記事はよく資料を調べた労作であるが、やはりこの4W1Hを欠いている。
 
 GスピリッツVOL09の55頁には
…イギリス国内で柔術人気が高まることは、CACCスタイルにとって「危険で野蛮である」という理由から、試合では禁じ手とされていたサブミッションの解禁を行うよい契機になったのではないだろうか。「柔術、柔術と大騒ぎしているが、サブミッションなんて俺たちのスタイルにも昔からある技術なんだぜ」と。

  4W1Hはどうか?
・「解禁」は何年に、誰の提案で、どの試合から行われたか?
・「サブミッションは昔からある技術」→どういう名前のサブミッション技が、いつごろから、どこで、誰々に使われていたか?
――というような点に触れた資料がないから、書けないのだろう。
  言うまでもなく、資料が「存在しない」ことは証明できない。だから私は、「自分の見た限りの資料によれば、柔術起源の方がより本当らしい」という書き方をしている。

 那嵯氏のような真面目な記事と違って、このScientific Wrestlingというサイトについては「4W1Hを書け」などは無い物ねだりだろう。もう少し下までスクロールするとJOIN NOWと書いてあって、これをクリックするとクレジットカード情報入力欄が出てくる。
 これは科学的レスリングの通信教育のサイトらしい。色々な情報が多くて見るだけでも面白い。もう少し下まで見ると、こういうイラストもある。

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 これが関節技柔術起源の証拠だ、なんてことは言いませんよ。
 プロレス関係の記事では、とかく薄弱な根拠で断定的なことを言う人が多いのだ。
 このイラストは、たぶん1900年代に英国で出たレスリングの本にあったものだろう。上半身だけの技ばかりだから、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=フリースタイル)ではなくグレコローマンだ。ついでに近頃話題の柔術にも少し触れます、というのだと思う。
  次回は、タニ・ユキオについて更に具体的な情報を補います。

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2009年1月30日 (金)

柔道か柔術か(50)

 Catch wrestlingという英語はふつうの英米人には通じない。「それは何だ?」と言われるだろう――というのは、私の推定である。私は英米人とのつきあいがなくて自分で確かめられないけれど、たぶん正しいと思う。
 もう少し通じやすい表現は、scientific wrestlingだろう。
 Scietific boxerという英語は英和辞典にもMerriam-Webster Unabridged Dictionaryにも出ている。これはふつうの英語だ。英和辞典では「技巧派のボクサー」と訳している。サッカーやクリケットでもscientificという言葉はよく使う。

 Scientific wrestlingはプロレス業界用語かも知れない。かなり前に、アメリカのプロレス雑誌でヒロマツダのインタビューを読んだ覚えがある。

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 インタビュアーが、「マツダさん、あなたはサイエンティフィック・レスリングの達人ですが云々」と言っていた。「達人」にはadept, expert, masterのうちのどれを使っていたか覚えていないが、scientific wrestlingという英語は確かに使っていた。マツダはカール・ゴッチの弟子であるが、このときのインタビューではゴッチの名前は出なかった。日本での名声がアメリカに逆輸入されてから、向こうでも有名になったのだろう。

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2009年1月29日 (木)

柔道か柔術か(49)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのまぼろし

 前回(48)は前半はまずまずだったけれど、具体的なレスリング技の話では少々ボロが出た。
 今度は、英語の用法の話に絞ろう。これなら自信がある。英語では

ランカシャー・スタイル=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル

 であることは、これまでの話でもうお分かりでしょう。

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・キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは、カール・ゴッチが理想としたレスリングである。
・そのようなレスリングが20世紀初めの英国で行われていた。

 という二つの命題は、いずれも成り立たないのである。

catch as catch canというフレーズは、まともな英語では、これまで一般に日本人のレスリング愛好家が理解していたような意味ではない。
 catch as catch canをグーグルで検索してみると、従来型日本式の意味でこれを使っているサイトが見つかる。しかし、それは「まともでない英語」なのです(詳しくは後ほど)。
 英国人や米国人はcatch as catch canと聞くと、どう思うかというと

(1)「掴めるように掴む」→手当たり次第、行き当たりばったり、手段を選ばず
(2) レスリングでは「フリースタイル」の古い言い方

 だから、ゴッチの理想のレスリングには、別の英語を使わなければならない。
 Catch wrestlingというフレーズは、そのために発明されたのだろう。日本語版ウィキペディアの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」にあたる項目が、英語版ではCatch wrestlingとなっている。
 発祥地はアメリカ合衆国、源泉は「ランカシャー・レスリング」と「Rough and Tumble(開拓時代のレスリングを指すらしい)」だそうだ。有名なキャッチ・レスラ-は
 桜庭和志、ジョシュ・バーネット、フランク・シャムロック、田村潔司、エリック・ポールソン、山本のりふみ

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  この英語版の内容もかなりひどい。空想的である。
  しかし、英語について。
 catch as catch canは、大昔からある英語です。日本人が意味を取り違えていただけだ。
 Catch wrestlingは、近年になって発明された(でっち上げられた)英語だ。古い文献には出てこないはずだ。それに英米人でも格闘技オタク以外には通じない英語だろうと思う(英米人とつきあいのある人は確かめてみて下さい)。
(続く)

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2009年1月27日 (火)

ラシュワンと戦った話

 ラシュワンと戦ったのは、ずいぶん昔のことだ。1984年だったと思う。ただし戦ったのは私ではない。私の知人が戦った。

 ラシュワンというのは、ご存じですね。
 1984年のロサンゼルス五輪、柔道無差別級決勝は、日本の山下泰裕とエジプトのモハメド・ラシュワンの戦いとなった。
 山下は2回戦の試合中に右足ふくらはぎに肉離れを起こした。決勝のときは軸足の右足を引き摺っていた。決勝の相手ラシュワンは、180センチ、125キロの山下より一回り大きく、体重は140キロあった。
 苦戦が予想されたが、山下はラシュワンが体勢を崩した一瞬をとらえて押さえ込みに入り、横四方固めで一本を取った。

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http://jp.youtube.com/watch?v=nEOkSdw6IA4

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 ラシュワンと戦ったのは私の知人K氏で、ごくふつうのおっさんだった。1984年ごろ、私はウェイトトレーニングをしていて、K氏はトレーニング仲間だった。年齢は40歳に近く、身長は170センチ前後、体重は70キロ以下だった。「ベンチプレスで100キロを挙げたいものだね」と言い合ったことを覚えているから、力も特に強いわけではなかった。
 ある日、K氏が「来週は講道館へ行って二段の昇段試験を受けるのだ。楽しみだなあ」と言った。大人になってから柔道を始めて、仕事の合間に稽古をしているらしい。
 ところが翌週は出てこない。どうしたのかなと思っていたが、街で出会った。浮かぬ顔をしている。
「いや、ひどい目にあったよ」と言うのだった。
 講道館での二段昇段試験というのは、初段同士で戦って三人だったかを抜けばよいのだが
「出てきた初段がラシュワンだったのだよ」
「あのラシュワンか?」
「あのラシュワンだよ」

 K氏は払い巻き込みをかけられて、肋骨にひびが入った。

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 これは払い腰ですね。一番右の図の後、相手の襟を持っている右手は離し(場合によって左手も離し)、相手が倒れても自分は立ったままである。
 払い巻き込みは、相手の脚を払うところまでは同じだが、そのあとも手は離さず体を預けて相手にのしかかって倒れる。

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 140キロのラシュワンにこれをやられては堪らない。
 オリンピックの無差別級銀メダリストが初段のままというのが無茶苦茶である。二段の試験なんか受けさせられてラシュワンも腹が立っていたのかな。しかし自分の半分の体重しかない相手に払い巻き込みはないだろう。
 ラシュワンは山下の右足をあえて狙わなかったのでフェアプレー賞をもらったというのだけれど、本当だろうか?

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2009年1月25日 (日)

柔道か柔術か(48)

 西洋の関節技?

 プロレスの関節技は柔術が起源だという説があるが、本当か? 関節技は西洋のレスリングに元々あったはずだ。その証拠として、16、17世紀のドイツやオランダの格闘技術書の挿絵がある――というのは那嵯涼介氏の主張だった。(それに対しては柔道か柔術か(32)で反論した。)
 同じことは西洋人も考えるらしい。
 英語のディスカッション・フォーラムで似たようなことを論じているのを見つけた。
http://judoforum.com/lofiversion/index.php/t12670.html
 
 17世紀のオランダ語のレスリング教本に関節技らしきものが載っている、と言いだした人がいる。 
Nicholaes Petterという人が1674年に
Klare Onderrichtinge der Voortreffelijcke WORSTEL-KONST
という本を出しているというのだ。(Worstel=レスリング Konst=術(ドイツ語のKunst)らしい。)
http://jfgilles.club.fr/escrime/bibliotheque/petter/index.html
 この本の挿絵を見ると

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 関節技がちゃんとあるではないか、というのだけれど、これは無理筋ですね。
 (32)で書いた私の反論を、ほとんどそのまま繰り返せばよろしい。
 これは関節「技」と言えるレベルではない。相手の腕をねじ上げるくらいのことは特に研究しなくてもできる。それに、双方立ったままでは、関節技はほとんど極まらないはずだ。関節を極めるには、相手を倒してコントロールするのが先決だ。立ったまま双方動いていて、関節を極められるか? よほど実力差がなければ無理でしょう。
 これくらいのことが、西洋人にはなかなか分からなかったものと見える。20世紀のレスラーの「関節技」の写真にも随分変なのがある。

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 これで技が極まったら目出度いけれど、そうは問屋が卸さないよ。

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 この写真は前に出しました。やっぱり立ったままではだめだ、寝なければ。しかし、これからどうするつもりかね。相手の右腕を極めるのか左腕を極めるのか? 柔術の真似のし損ないですね。

「プロレスリングの関節技は柔術から取り入れたものだ
 これが私の提示する仮説です。これが証明できるとは言わない。「何年ごろこういう具合に取り入れました」という当事者の証言が出てくるとは思えないから。だから周辺から固めようというので、だいぶ固まってきたと思うけれど、どうですか。

 一つだけ、留保を付けておく。前回(47)で、英語版ウィキペディアは、英国のレスラーは「サブミッション・レスリングという考え方(concept)を知らなかった」と書いているが、これは言い過ぎだろう。サブミッションの技術は幼稚だったかも知れない。しかし、フルネルソンやヘッドロックでもギブアップは取れなくはない。
 次回から「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのまぼろし」

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2009年1月24日 (土)

柔道か柔術か(47)

タニ・ユキオ伝――英語版ウィキペディアの記述

 タニ・ユキオ (1881-1950) は、日本人の柔術教師兼プロの挑戦試合レスラーである。
 タニの日本時代の柔術修業の詳細は不明であるが、不遷流の二箇所の道場と大阪の Handa School of Jiujitsu に通ったことが分かっている。また天神真揚流を学んだことがあるともよく言われる。

 1900年後半から、バリツの創始者であるエドワード・ウィリアム・バートン・ライトの影響により、19歳のタニはロンドンに渡り、ミュージック・ホールに出演して柔術のデモンストレーションを行い、同時に誰の挑戦でも受けて立つと宣言した。ステージ上のタニは「ポケット・ヘラクレス」として知られ、その名声はロンドンのあらゆる階層に響き渡った。もう一人の日本人柔術家のウエニシ・サダカズとともに、タニはバートン・ライトの「バリツ武術体育学校」(ロンドンのソーホー地区シャフツベリー・アヴェニュー67番B)で柔術教師を務めた。

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 1903年にバートン・ライトと別れた後、タニはショービジネスのプロモーターであるウィリアム・バンキアと組んだ。バンキア自身「スコットランドのヘラクレス、アポロ」という名前でミュージック・ホールに出演していた。バンキアのマネジメントによってタニはミュージック・ホールの巡業を始め、我と思わん者は誰でも挑戦して来いと宣言した。賞金として、5分間までの戦いで1分間(ギブアップしないで)戦い続けるごとに1ポンドを進呈する、もしタニに勝てば5ポンドから100ポンド進呈する――という触れ込みであったから、挑戦者には事欠かなかった。

(訳者注 賞金は「15分間ギブアップしなければ20ポンド」の場合と「1分間1ポンド」の場合があったらしい。はじめは「秒殺」で賞金なしの場合が多かったのだろう。やがて人気が上がり強い挑戦者が出てくると制限時間を延ばし賞金も高くしたのではないだろうか。)

 この挑戦試合では、タニの相手は柔術のルールで戦わなければならなかった。一定時間参ったを言わずに戦うことを求められたのである。この時期には、ヨーロッパのレスラーの多くは、サブミッション・レスリングの技法はおろかサブミッション・レスリングという考え方自体を知らなかったので(As the concept and practice of submission wrestling was foreign to most European wrestlers during this period)、このルールの挑戦試合はタニにとって戦術的に有利であった。

 タニは身長5フィート6インチ(167cm)であったが(バンキアによれば身長は5フィート)、ミュージック・ホールで負けたのはただ一度、同じく日本人のミヤケ・タロウを相手にした1905年の試合だけであるという。オックスフォードのミュージック・ホールで1週間公演したときは、タニは33人と試合して全員を打ち破った。この中には有名なグレコローマンのレスラーたちも含まれていた。ある年の6ヶ月にわたる巡業では、一週間平均で20人、全期間では500人以上を相手にしたという。
 1904年にタニとミヤケはオックスフォード・ストリート305番地に日本柔術学校を開いた。この学校は2年ほど続いたが、タニの弟子の一人に舞台女優のマリー・スタッドホームがいた。

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 タニはミヤケと共著で "The Game of Jujitsu"という本を1906年に刊行している。
 1918年にタニはロンドン武道会の最初の職業教師となり初めは柔術を教えた。1920年に講道館柔道の創始者嘉納治五郎が訪英したときには、タニに柔道二段を与えた。やがてタニは四段になった。
 タニ・ユキオは1937年に脳卒中を患ってからは直接手を取って弟子を教えることができなくなったが、1950年1月24日に亡くなるまで武道会で指導を続けた。

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2009年1月23日 (金)

嘉納治五郎対夏目漱石

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 夏目金之助(1867-1916)は、1893年(明治26年)7月に26歳で帝国大学文科大学英文科を卒業した。10月に高等師範学校(→東京教育大学→筑波大学)の英語教師となった。年俸は450円であった。
 1914年(大正3年)に行った講演『私の個人主義』では、このときの嘉納治五郎(1860-1938)との縁を次のように語っている。嘉納は明治14年に帝国大学を卒業し、明治26年に高等師範学校校長になっている。漱石より7歳上の33歳であった。
 講道館を創設したのは明治15年である。同年、嘉納は22歳の若さで学習院教頭になっている。

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 その時分は今と違って就職の途は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届がちで、とうとう自分に祟って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事を云いながら、他にも相談をされては、仲に立った私が困ると云って譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、いっそ双方とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行がかり上否だとは云えませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。

 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
 しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。

 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。

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(松山中学時代の漱石。前から3列目、左から2番目)

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2009年1月22日 (木)

歴史認識について

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 某国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。某国のかつての首相は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしました。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げました。
 
 アメリカ合衆国の大統領は、次のような「談話」はたぶん発表しない。

 アメリカ合衆国は、一時期国策を誤ったのではありません。建国以来の歴史が間違っておりました。英国や欧州諸国からやって来た白人は、北米大陸で穏やかに暮らしていた先住民を追い立て、1890年(明治23年)に「フロンティアの消滅」を宣言するまで、インディアンの抹殺を続けました。このような西部開拓は神によって与えられた明白な使命であると信じたのであります。

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 アメリカ合衆国が多大の侵害と苦痛を与えたのは、ネイティブ・アメリカンに対してだけではありません。アフリカ大陸から、何の罪もない人々を鎖につないで強制連行し、奴隷として使役したのです。奴隷制を廃止した後も、黒人に対する徹底的な差別を続けました。
 
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 アメリカ合衆国の大統領は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 もし仮に上のような「談話」があったとしたら、田母神将軍のカウンターパートであるノートン・A・シュワルツ将軍(米空軍参謀長)は、どう反応するか?

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2009年1月21日 (水)

オバマ大統領就任演説の翻訳

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 オバマ大統領の就任演説は素晴らしかったですね。当ブログでもさっそくその翻訳を掲載いたします。

 エー、ただいまご紹介にあずかりました小浜、いやオバマでございます。
 本日はお忙しいところ、はるばるワシントンD.C.までお出でいただきましてまことにありがとうございます。
 さっそくですが、合衆国の直面する状況はまことに厳しいものである、というふうに私は認識いたしております。
 このような状況下で、若輩者の私がはからずも大統領という大任を引き継ぐこととなり、身の引き締まる思いであります。
 チェンジということが私どもの課題でございますが、これについては粛々と進めて参る所存でございます。なにとぞ、ご指導、ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。
 以上、簡単ではございますが、私のご挨拶に代えさせていただきます。

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2009年1月20日 (火)

柔道か柔術か(46)

タニ・ユキオ略伝(3)ミュージック・ホールでの活躍

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 1910年にコイズミがアメリカから英国に帰国したが、彼はミュージック・ホールの柔術、レスリング、怪力芸などは廃れはじめていると書いている。日本人柔術家たちも英国を去った。タニだけはとどまり、彼は1950年になくなるまで英国に残ることになる。
 タニは父親も祖父も柔術家であった。彼は英国人の心をとらえた。小さく体重は軽いのに、誰の挑戦でも受けて立ったからである。英国人なら誰でもタニのことは知っていた。彼は有名だった。ミュージック・ホールの挑戦試合では投げ技で一本ということはなかった。挑戦者が投げられても立ち上がってタニに向かって行けば試合は続いた。試合が終わるのは、挑戦者が絞め技、関節技、押さえ込みなどで参ったをいうか、何度も投げられて試合を続行できなくなったときだけであった。タニはまたキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(すなわちフリースタイル)のレスリングにも参加し、特にイングランド北部ではレスラーとしても相当の名声を得た。(終)

 もう少し詳しく書いてくれればよいのですが、筆者の関心は柔道/柔術にあってプロレスには無関心なのでやむを得ないでしょう。
  バーナード・ショーの『バーバラ少佐』に出てきた「日本人のレスラー」がタニであったことはほぼ確実でしょう(柔道か柔術か(12)参照)。

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(この写真はタニの年齢から見て、柔術の試合ではなくエキシビションでしょう。レスラー相手に試合をするときは双方とも上半身だけ袖の短い柔術着を着た。上の写真では、女性とタニの身長がほぼ同じであることに注目)

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2009年1月19日 (月)

柔道か柔術か(45)

 タニ・ユキオ略伝(2)

 ウエニシは「ラク」というリングネームを用いていたが、ゴールデンスクウェアに道場を開いた。ウエニシは弟子のネルソンの助けを得て1906年にJu Jutsu as Practised in Japanという教科書を出版した。
 
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 1908年ごろラクが英国を去ると、この道場は弟子のウィリアム・ガラッドが受け継いだ。タニはミヤケといっしょにオックスフォード・ストリートに道場を開き、これは2年ほど続いた。このころは、ほかにも日本人の柔術家が何人か訪英した。オオノやマエダなどである。後者はグレイシー柔術の始祖である。

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 1906年はじめにタニとミヤケも The Game of Ju-Jitsu - for the Use of Schools and Collegesという本を出版した。またラクの弟子であったエミリー・ワット夫人も同じ年に  The Fine Art of Jujitsuという本を出している。1904年12月にはバンキアがJu-Jitsu: What It Really Isという本を出した。これは雑誌に連載した記事を元にしたもので、タニとウエニシの写真多数を含んでいる。ここに挙げた本はみなよく書けているが、日本人の書いたものがバンキアやワットのものよりすぐれている。そのほかにも英語の柔術の本は多数出版されたが、大方は単なる珍品であって真面目な研究には値しない。

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(訳者補足 OEDにも引用されているものにHancock & Higashi Complete Kano Jiu-Jitsuがある。柔道か柔術か(3)参照。タニも別の本を出している。)

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 イーディス・ガラッドと婦人参政権運動

 ウエニシの弟子であったウィリアム・ガラッドの妻イーディスは、柔術に熟達していた。彼女は婦人参政権運動家として、また婦人参政権同盟の設立者エミリーン・パンクハースト夫人(1857-1928)のボディガードをつとめる「戦う参政権論者」の柔術教師として悪名をはせた。イーディスは夫と離婚し、オックスフォード・サーカスに道場を開いた。この道場が参政権運動家の基地となり、女たちはここから出撃して街で窓などを割って回り、すばやく戻って警官が来るころには何食わぬ顔で柔術の稽古をしているのだった。イーディスは小柄で負けん気の強い女性だった。1910年から12年ごろの写真に彼女が警官をやっつけるところをとったものがある。彼女は当時流行だったむやみに大きい帽子をかぶっている。

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訳者補足 英国で婦人参政権運動が本格化したのは1865年以降である。20世紀初めになると過激化し、運動家たちはハンガーストライキを武器とした。暴力に訴えることもあった。ゲバ棒をふるって反対派の集会に乱入することもあったようだ。イーディス・ガラッド女史は柔術を使って素手で戦ったから偉いのだ。運動の成果により、1918年に30歳以上の女性に選挙権が認められ、1928年には男女とも21歳以上に選挙権が認められた。)(続く)

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(『パンチ』誌1910年7月号から、警官を一人でやっつけるイーディス・ガラッドの勇姿。「THE SUFFRAGETTE THAT KNEW JIU-JITSU柔術の心得がある婦人参政権運動家」と書いてありますね。)

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2009年1月18日 (日)

柔道か柔術か(44)

タニ・ユキオ略伝(1)

 イギリスのBudokwai(武道会)の歴史のうち、タニ・ユキオにかかわる部分を訳出します。原文はhttp://www.budokwai.org/history_vol_i.htm
(武道会は1918年に、英国に帰化していた日本人コイズミ・グンジによって設立された。コイズミは1906年に渡英して柔術の教師などのアルバイトをしながら実業家として成功した。彼の開いた武道会は現在も続いている。)
 
 英国武道会の最初の職業教師はタニ・ユキオである。タニ (1881-1950)は1900年後半に兄とともにE・W・バートン・ライトに招かれて英国に来た。

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 ライトは各種の格闘技の熱心な実践者であり、日本に3年間滞在する間に柔術を学んだ。その流派は明らかではないが、古流のうち当時もっとも有力であった天神真楊流ではないかと考えられる。少なくとも嘉納流柔術(講道館柔道の初期の名称)でなかったことは確かである。1998年に帰国すると、ライトはロンドンのシャフツベリー・アヴェニューに武術学校を設立し、ここでボクシング、フェンシング、レスリング、フランスのサバットなどを教え始めた。タニ兄弟が到着すると柔術を教えさせた。それどころか、タニ兄弟が来る前から、ライトはすでに自身のいわゆる「バリツ」のデモンストレーションを開始していた。これは柔術にいくらか別の要素を付け加えたものであった。

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 まもなくタニ兄弟にヤマモトが加わった。ライトは自分の学校で教えさせるだけでなく彼らをミュージックホールにレスラーとして出演させようとした。タニの兄とヤマモトはこれを断り日本に帰国した。まもなくライトはもう一人の日本人ウエニシ・サダカズを呼び寄せた。ウエニシとタニ弟はステージに出ても構わないと思った。二人はたちまち大評判になった。どんなに体重が重く強い相手の挑戦も受けて立って打ち破ったからである。2年を経ないうちにタニとウエニシはライトと別れた。ライトの方は以後格闘技の歴史から消えることになる。しかし、エドワード・ウィリアム・バートン・ライト(1860-1951)には、柔術の英国と欧州への紹介者としての名誉が与えられべきであろう。彼は財産も家族も残さずに亡くなり、キングストン霊園の墓標のない墓に葬られている。いつの日か、どこかの柔道協会が彼にふさわしい記念碑を建ててやるべきだろう。

 バートン・ライトと袂を別って後、タニはウィリアム・バンキアと組んだ。バンキアはアポロの芸名で知られる怪力男であった。

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彼はタニやライトとは違ってショーマンとして経験が豊富だった。彼とタニが組んでいた4年か5年の間に、二人は英国各地を公演して回った。アポロは怪力芸を見せ、タニの柔術の助手をつとめた。商売の面もアポロの担当で、劇場やミュージックホールへの出演契約をまとめた。やがてこのパートナーシップは解消されたが、何年も経ってから、バンキアは武道会に加わり、再びタニといっしょに活動することになった。(46まで続く)

*谷幸雄の伝記的事項は、「柔道か柔術か」の11-18、21、47、52ー58などにも書いております。あまりたくさん書いたので自分でも分からなくなった。だいたいカテゴリ「格闘技」の「柔道か柔術か」のシリーズに含まれているはずです。
「見えない道場本舗」のグリフォンさんがウィキペディアの項目を作ってくれて、また別の篤学の士がこれを増補してくれたらしい。英語版ウィキペディアは私が上記のどこかで訳しています。 柔道か柔術か(47)でした。2009/4/22

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2009年1月16日 (金)

柔道か柔術か(43)

 イングランドにおけるレスリング略史(5)

 レスリングがイングランドでは単なるスポーツではなく、徒手格闘のための武術だったことは明らかだ。剣や木刀を失ったときには、レスリングが身を守る手段となったのだ。
 現代のイングランドには、インドからガイル、ソ連からサンボ、ウズベキスタンからクラッシュ、日本から柔道が輸入されている。
 サンボ、クラッシュ、柔道は、ジャケットを着て相手を投げるという点でコーンウォール・スタイルのレスリングに似ている。サンボでは、グラウンド・レスリングがあるが、そのほかの二つのスタイルでは、選手は立っていなければならない。
 ガイルはフリースタイル・レスリングとよく似ているが、400以上の技があり、これを全部マスターしてはじめて、「プルワン」すなわちエキスパートと呼ばれるようになる。

訳者付け足し
 ガイル(guile)は、インド式レスリングである。「プルワンpulwan」は、ヒンディー語でレスラーという意味だ。同じ言葉がトルコ語ではpelevan、ペルシャ語ではpalewaniとなる。
 1976年12月12日にパキスタンでアントニオ猪木と戦って腕を折られたのは、アクラム・ペールワンAkram Pehlwan(1930ー1987)であった。ペールワンはやはりレスラーという意味であろう。
「ペールワン」という名前、「最強の男」という意味で、格闘家の地位が日本では考えられないほど高いイスラム世界では、まさに国民的英雄なのだ――と書いているサイトがあるけれども、間違いですよ。猪木が強かったことは確かだけれど。

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「ペールワン」が「レスラー」の意味だと初めて述べたのは、柳澤健氏であると思う。

インドのレスリングはグレート・ガマ(1880頃-1953)のような強豪を生んでいる。

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(再び訳文) イングランドにはデボンシャー式、コーンウォール式、ランカシャー式、カンバーランド・ウェストモーランド式など長いレスリングの伝統があるが、それらは今や死にかかっていて、東欧や日本の近代的なスタイルに取って代わられようとしている。
 私の望みは、イングランドの古い民俗スタイルを生かし続け、イングランドのレスリングの伝統に新しいスタイルを加えることである。
 賛同者があれば、私はイングランド民俗スタイル・レスリング協会を設立したい。入会は無料である。目的は古いスタイルを生かすことである。
 夏に野外で草の上かリング上で元のルールによるトーナメントを開催したいと考えている。
 1年に一度は、全イングランド民俗スタイル・レスリング選手権大会を開催したい。優勝者にはイングランドのチャンピオンベルトを与えよう。
 イングランドの貴重な遺産を誇りに思い、生かし続けよう。

謝辞:
Brian Jewell氏の著書'Heritage of the Past - Sports and Games'から多くの情報を得た。

(「筆者名が分からない」と書いたけれども、分かりました。Stephen Sweetlove
http://www.the-exiles.org/essay/histwreseng.htm

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2009年1月15日 (木)

柔道か柔術か(42)

 イングランドにおけるレスリング略史(4)
 
   ランカシャー・スタイルのレスリングはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの一種であり、相当程度の自由な動きが許され、近代オリンピックで行われるフリースタイルによく似ている。ランカシャー・スタイルは特に乱暴なレスリングとして知られているが、ルールは首絞めや手足を折ることを明確に禁止している(the rules specifically bar throttling or the breaking of limbs)。
 そのほかには制限はほとんどなく、レスリングは選手が倒れてからも続く。

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 バドミントン・ライブラリー(19世紀末に刊行されたスポーツの本)では、ランカシャー・スタイルのレスリングをこう描写している。

 ランカシャー・レスリングの試合は醜い光景である。狂った雄牛か野獣の闘争のような獰猛な動物的熱情、仲間の荒々しい叫び声、罵り合いがあって、遂にはclog businessが口論やもつれにすべてケリをつける――これは全く凄まじい。

訳者付け足し(1)
clog businessという英語がもう一つよく分からない。これは「レスリング」を指しているのに違いないが、なぜclog businessと言うのか? clogは「木靴」か? とすると、clog businessとは靴で蹴り合うことか? それとも、ふつうのレスリングを何らかの理由でclog businessと呼んでいるのか? 原文は
……,and finally the clog business which settles all disputes and knotty points,…… どなたかご教示ください。
 複数のドイツ語のウェブサイトでもこの部分を引用しているが、英語のままで独訳は付けていない。やはりclog businesの意味がよく分からないらしい。

訳者付け足し(2)
ランカシャー・スタイル=キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは

1.柔術のような絞め技と関節技はない(ルールで禁止)。
2.それにもかかわらず、ほかのレスリング(デボンシャー式、カンバーランド・ウェストモーランド式、グレコローマン式など)よりはるかに自由度が大きい。
3. そのため「野蛮なレスリング」と見なされた。

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2009年1月14日 (水)

柔道か柔術か(41)

イングランドにおけるレスリング略史(3)

 イングランドの伝統的なレスリングとしてもう一つ重要なのは、カンバーランド・ウェストモーランド・スタイルである。これはヴァイキングがもたらしたと言われている。
 ノーサンバランド州ホールトウィッスルのH・A・マシューズ氏は、世紀末前後の少年時代に村の野原で行われたレスリングに参加した思い出を書いている。参加者が一斉に帽子を投げ上げて、帽子の落ちた位置で試合を決めるのだった。帽子が隣同士に落ちた者が体重にかかわらず戦うことになった。
 カンバーランド・ウェストモーランド・スタイルのレスリングでは、先に2フォールを取った方が勝ちで、これは20世紀のほかのスタイルのレスリングと同じである。選手は互いに相手の背中に腕を回して両手をクラッチし、手が離れた場合もフォールを取られる。
 カンバーランド・レスリングの巨人の一人にジョージ・ステッドマンがいる。ステッドマンは1862年にレスリングを始め、1896年、51歳のときにグラスミア(イングランド北西部カンブリア州の湖水地方にある町)のレスリング大会で優勝した。

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(左側の選手がステッドマン)

 グラスミアのレスリング大会は現在も続いていて、世界中から参加者が集まる。

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 蹴りはコーンウォールを除いてどこでもレスリングの技として認められていた。

 Shinning(脛蹴り)またはCutlegs(脚切り)はスポーツとして認められ、現代でも男子生徒はこの変形であるstampers(踏みつけ)をしている。これは名前の通り互いに足を踏みつけ合うのである。

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2009年1月13日 (火)

柔道か柔術か(40)

  イングランドにおけるレスリング略史(2)

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 ロンドンのシティロードにあったパブのイーグル亭は、マザーグースのPop Goes The Weaselという歌で有名だ。しかし、それだけではない。1820年代には、このパブがレスリングの一大中心であった。当時のイーグル亭を訪れた一記者がデボンシャーとコーンウォールのレスラーの違いを次のように描写している。
「丸々した赭ら顔のデボンシャーの男は元気いっぱいでリング上に仁王立ちになり、どこからでもかかって来いという様子である。コーンウォールの選手は青白く険しい顔つきの男で、用心深く自分の脚が相手に蹴られないように注意し、敵に飛びかかるべくチャンスを うかがっている」

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 コーンウォール・スタイルの源流はケルトにあり、レスリングは常に屋外でリング上で行われた。審判はスティックラーといい、4人から6人もいた。
 レスラーの膝から下は剥き出しで、上半身にはキャンバスのジャケットを着て、これを掴んで技をかけることができた。
 レスラーが挑戦を受けるときは帽子を空中に投げ上げ、挑戦したい者がこの帽子を拾い上げた。
 勝負を付けるには、相手を投げて、相手の両方の腰と片方の肩か、両肩と片方の腰を同時に地面につければ、勝ちである。
 コーンウォールとレスリングの密接な関係は、百年戦争(1337-1453)時代のコーンウォールの部隊が用いた旗印にレスラー二人が戦っている所を描いたものがあることでも知られる。

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2009年1月12日 (月)

柔道か柔術か(39)

 ボクシングの話がまだ終わっていないけれど、一休みして「柔道か柔術か」の続き。英国人のマーシャルアーツ研究家が書いたレスリングの歴史です。筆者名が分からないし、英国人が英国のことを書けば正しいとは限らないけれども、参考にはなるでしょう。

   イングランドにおけるレスリング略史(1)
 A Brief History of Wrestling in England 原文

 レスリングはもっとも古く純粋な格闘技である。男たちは太古から力と素手の格闘技術を競い合ってきた。
 エジプトのベニハサン遺跡の壁画には、紀元前3000年頃のレスラーの様子が描かれている。また古代オリンピックでもレスリングが行われていた。レスリングは、紀元前704年頃の第18回オリンピックから導入されたと言われている。
 イングランドのスポーツでも、レスリングは昔から行われて来た。ロンドンでは毎年8月1日の収穫祭にレスリングの試合を行う習わしがあった。
 19世紀まで田舎の縁日や祭では、木刀術(Cudgel Play)、棒術(Quarterstaffs)、剣術などの試合と並んで、 レスリングも主要なスポーツの一つであった。

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 レスリングへの関心が衰え始めたのは、イングランドにグレコローマン・スタイルが紹介されてからである。ギリシャローマ式という名前にもかかわらず、これは古典古代のレスリングとは無関係で、フランスからの輸入品である。
 このスタイルのレスリングでは腰から下に対するホールドは許されず、グラウンド・レスリングで何時間も勝負が続くことがあった。よほど熱心なファンでも、見ているうちに退屈してしまった。
 昔からイングランドのレスリングには二つの中心があった。一つは南西部地方でデボンシャー・コーンウォール・スタイルが発達し、もう一つの北部地方ではカンバーランド・ウェストモーランド・スタイルが発達した。
 19世紀前半にはエイブラハム・カン(1794?-1864)が活躍し、イングランド中の誰とでも500ポンドを賭けて戦うと宣言していた。カンはデボンシャー・スタイルのレスラーであった。デボンシャー式のレスラーは、試合中に相手を蹴るので非難された。蹴りはデボンシャーでは正当な行為でありルールで認められていたが、コーンウォールでは認められなかった。コーンウォール人の多くはデボンシャーのレスラーの相手をするのをいやがった。デボンシャー・スタイルの擁護者は、この少々乱暴なスタイルこそが古典的なのであって昔のギリシャ人も試合中に蹴り合っていたと主張するのであった。

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 (空手式の蹴りではなく、まず組み合ってから互いに脛を蹴ったようである。)
(続く)

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2009年1月10日 (土)

ホームズとパイプ

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Holmes lay with his gaunt figure stretched in his deep chair, his pipe curling forth slow wreaths of acrid tobacco, while his eyelids drooped over his eyes so lazily that he might almost have been asleep were it not that at any halt or questionable passage of my narrative they half lifted, and two gray eyes, as bright and keen as rapiers, transfixed me with their searching glance.

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2009年1月 9日 (金)

定額給付金

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 与謝野馨経済財政担当相は「受け取るかどうかは個人の意思に任されている。個人の内面に土足で踏み込み、もらうかもらわないかを迫るのは個人の内面性とぶつかる」と述べたそうです。

 僕も「定額給付金を受け取るか受け取らないかは公表しない」という方針を、ここに公表するものでありますwww。

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シャーロック・ホームズの階級(6)

 ウィリアムズとマクマードは、何に出てきたか?

「父は一人で外出するのを怖がっていて、ポンディシェリ荘にはプライズ・ファイターを二人、門番に雇っていました。今夜皆さんをお連れしたウィリアムズもその一人です。彼は元全英ライト級チャンピオンでした。……」
 サディアス・ショルトーが父ジョン・ショルトー少佐のことを語っているのだった。もちろん『四人の署名』ですね。
 ウィリアムズはライト級チャンピオンで、もう一人のマクマードはライト級ではないとすると、ウェルター級かミドル級だろう。

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「お連れは、おれの知らん人だもんね」
「いや、マクマード、知ってるぞ。まさか、私を忘れたはずはなかろう。4年前、アリソン館で、慈善試合の夕べに3ラウンド打ち合ったアマチュアを、覚えていないのか」
「まさか、あのシャーロック・ホームズさんでは! ほんとだ。何で分かんなかったんだろ。そんなとこに突っ立ってねえで、こっちへ来て、あごの下に例のクロスヒットを一発くれてりゃ、すぐに分かったのに。いやあ、あんたも才能があったのに、惜しいことしたねえ。プロになってたら、結構いいとこまで行ってたよ」
「聞いたか、ワトソン。全部しくじっても、僕にはまだ一つ科学的な職業が残っているのだよ」

 メアリ・モースタン嬢の父親のモースタン大尉は1874年12月3日に失踪したのだった。それが10年前というのだから、『四人の署名』の事件は1884年のことである。それより4年前の1880年にホームズとマクマードが3ラウンドのエキシビジョン・マッチを戦ったのだった。たぶんミドル級のプロだったマクマードの引退記念だろう。観客席に奉加帳を回したに違いない。26歳のホームズ(まだワトソンには出会っていない)が相手を買って出たのだ。
 マクマードは「背の低い、胸の厚い男」である。身長はせいぜい170cmくらい、体重は当時ミドル級(160ポンド、約72.5kgまで)、引退後4年も経った今では70キロ台後半かも知れない。
 これに対してホームズの方は長身痩躯で、(たぶん右の)クロスヒットを得意とした。相手が左を打ってくるときにこれと交差(クロス)するように右ストレートを打つのである。

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 しかし、これはちょっと大袈裟すぎる。こういう凄惨な話ではありません。ホームズも言うように、ボクシングはscientific professionなのです。

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2009年1月 8日 (木)

シャーロック・ホームズの階級(5)

 それはともかくとして、19世紀末のボクシングでは
・ウェルター級ができていた。
・しかし、適用されない(ミドル級扱いされる)場合があった。

 シャーロック・ホームズは1854年生まれである。ホームズが好んだ運動競技はボクシングとフェンシングだった(『グロリア・スコット』)が、ボクシングでは若いころにはミドル級だったようだ。
 ホームズは、自分の身長は6フィートだと言っている(『三人の学生』)。ワトソンはホームズについて

 身長は6フィートをやや越えるくらいだが、ひどく痩せているのでずっと背が高いように見える。

 と書いている(『緋色の研究』)。

 だいたい183cmくらいの身長だった。ひどく痩せているというのだから、体重はまず65kgぐらいだろう。ウェルター級である。しかしホームズが20歳の1874年ごろにはまだウェルター級はできていないから、ミドル級で試合をしたはずだ。ホームズは三日三晩飲まず食わずでも平気だから、その気になればライト級のリミット135ポンド(61.2kg)まで減量することは容易だった。しかし紳士のスポーツでは、そんなことはしない。ホームズは賞金目当てのプライズ・ファイターではない。
 このprize-fighterというのが、プロボクサーを指すのに正典で使われている英語である。どういうプライズ・ファイターが登場したか?
 サム・マートン、スティーブ、ウィリアムズ、マクマードの4人である。

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 右から、シャーロック・ホームズ、シルヴィアス伯爵、プライズ・ファイターで伯爵の用心棒のサム・マートン。もちろん『マザリンの宝石』に登場するのだった。

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 拳骨を突きつけてホームズを脅しているのが、黒人プライズ・ファイターのスティーブ。ものすごい大男のヘビー級だから危ない。ワトソンはいざとなれば火掻き棒で頭をかち割ってやるつもりである。『三破風館』でしたね。

 ウィリアムズとマクマードの二人は、もっと初期の冒険に登場するのだった。

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2009年1月 7日 (水)

シャーロック・ホームズの階級(4)

「紳士諸君! 試合はクロックスリーの王者ことサイラス・クラッグズと、ウィルスン炭坑のロバート・モンゴメリーとで行われます。ウェイトは162ポンドで行われる予定でしたが、ついさっき計量したところ、クラッグズは161ポンド、モンゴメリーは149ポンドという結果でした。試合には2オンスのグローブを使い、1ラウンド3分で20ラウンド、最後までもつれた場合は判定で勝敗を決定します……」
(富塚由美訳。間然するところがない翻訳である。)

 モンゴメリーはウェルター級(135-147ポンド)だと言われたのだが、試合はミドル級(147-160ポンド)のリミットを上回る162ポンドで行われることになった。
 ウェイトについては柔軟な考え方をして、試合ごとに適当な契約体重を決める場合があったようだ。現在の格闘技戦と同じである。たとえば吉田秀彦は100キロを超えるヘビー級として戦ってきたが、1月4日の対菊田早苗戦では93キロが契約体重だった(残念でしたね)。
 注目すべきは、グローブの重さが2オンスということである。現代のボクシングではこの体重ならば10オンスのグローブをつける。五分の一の2オンスでは、ほとんど素手と同じである。
 この時代のボクシングは、
・本来なら素手で殴り合うべきだ。
・しかし、やむを得ずクインズベリー・ルールに従ってグローブを付ける。
 ということだったらしい。
 この試合の前にも警察官が現れて「法律は法律だ。グローブを使うのであれば試合の邪魔はせんが、関係者の名前は控えておく」と言う。素手なら犯罪(決闘罪?)になったらしい。
 ゴングが鳴った。

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 両者2オンスの小さなグローブを付けている。
 そのほかに、現在のボクシングと比べてどんな特徴があるか? まず、二人ともガードを下げているが、これは試合開始直後だからだろう。ガードを固める場合もあるのだ。それよりも注意すべきは、両者とも前屈みにならず直立して、体重をほとんど後ろ足にかけていることだ。現在のボクシングのクラウチング・スタイルとは大きく異なっている。
 素手やごく小さなグローブの場合は自然にこういう姿勢になるらしい。現在のように大きなグローブを付けていれば、相手のパンチを自分のグローブでブロックすればよい。素手や小さなグローブではそれができない。前腕でパンチを防ぐことになるから、アップライトな姿勢を取らざるを得ないのだ。

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2009年1月 2日 (金)

シャーロック・ホームズの階級(3)

 三人の男がモンゴメリーに会いに来たのは、「クロックスリーの王者」とボクシングの100ポンド懸賞試合をさせようという思惑からだった。100ポンドあれば、学資をまかなってお釣りが来る。モンゴメリーが承知したことは言うまでもない。

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(挿絵はThe World of Holmesよりお借りしました。下の挿絵も同じ)

クロックスリーの王者というのは

「スポーツ界でクロックスリーの王者として知られるサイラス・クラッグズは1857年生まれ。今年で40歳を迎える」
「若くしてボクシングで稀に見る才能を発揮し、仲間内で次第に頭角を現し、やがて地区チャンピオンに選ばれ、現在の輝かしいタイトルを勝ちとるに至った。だがその地方的名声だけでは満足せず、後援者を得て、1880年5月に旧ロイターズ・クラブで、バーミンガム出身のジャック・バートンとデビュー戦を闘う。当時のクラッグズは142ポンドだったが、15ラウンドを優勢のまま進め、判定でバートンを下した」

 体重が142ポンドということは、ウェルター級(135-147ポンド)なのだろうか? しかし、1880年ごろには、まだウェルター級はなかったみたいだ。

「続いてロザハイズ出身のジェイムズ・ダン、グラスゴー出身のカメロン、さらにファニーという名の青年を次々に倒したため、関係者のあいだで高い評価を受け、北部イングランド出身のミドル級チャンピオン、アーネスト・ウィクロスの好敵手と目された。やがてこのミドル級チャンピオンと凄まじい戦いをくりひろげ、第十ラウンドでノックアウト勝ち」

 あるいは次々と戦う間に体重はいくらか増えたのかも知れない。しかし、ウェルター級のリミット147ポンドを越えたかどうかは全く問題にもならず、デビュー後5戦目でミドル級チャンピオンに挑戦して勝ったのである。ウェルター級という階級は、1880年ごろにはまだなかったことが分かる。
 その後、王者は馬に蹴られて脚を骨折するという不運があり、タイトルを失った。しかし王者は足の不自由を補う戦い方をあみだし、ヘビー級ボクサーをも破った(ライトヘビー級もまだなかったらしい)。その後反則負けの判定を不服として公式戦からは引退したが、40歳の今でも元気で、100ポンド懸賞試合は喜んで受けて立つというのである。
 試合の時が来た。主催者がリング上で「紳士諸君!」と観客に呼びかける。続く言葉が、19世紀末のボクシングの重量階級制と戦い方をよく表している。(続く)

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シャーロック・ホームズの階級(2)

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 コナン・ドイルは、ストランド・マガジンの1899年10月号から12月号にかけて『クロックスリーの王者』The Croxley Masterというボクシング小説を連載した。

 ロバート・モンゴメリーは失意のあまり両手で頭を抱えて机に座っていた。目の前にはオールドエイカー博士の処方がひろげてある。傍らにはいくつもに仕切られ、それぞれにラベルの貼られた木製のトレーがあり、コルクの栓、ねじれた封蝋などがはいっている。その手前にはたくさんの空の瓶。しかしモンゴメリーは仕事をする気力すらわいてこなかった。がっしりとした肩を力なく落とし、両手で頭を抱えたまま座りつづけた。(富塚由美訳)

 モンゴメリーは、かつてのコナン・ドイルのように苦学している医学生である。医者のオールドエイカー博士の助手として、処方通りに調剤するのが仕事である。「失意のあまり両手で頭を抱えて云々」というのは、卒業まであと一学期というのに、学費60ポンド(70万円くらい?)の工面がつかないからだった。
 オールドエイカー博士が学費を貸してくれないだろうか? 頼んでみると、「そんな頼み事をするなんて、どうかしているんじゃないかね、モンゴメリーくん。……断らなきゃならんわしの辛い立場を考えても見たまえ」
 モンゴメリーは細君の薬を取りに来た乱暴者の炭鉱夫と喧嘩して、右ストレート一発でのしてしまう。これが思わぬチャンスを呼ぶことになる。その日の午後、炭坑の所有者の息子、酒場の主人、調教師の三人組が彼を訪ねてきた。
「ちょっと、立ってみな、若けえの。立ち姿が見たい」
 と酒場の主人がいい、三人はモンゴメリーの体格をあれこれ品定めする。

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シドニー・パジェットによるストランドマガジンの挿絵。The World of Holmesより転載させていただきました。http://homepage2.nifty.com/shworld/03h_s_paget/vol.18/croxley_1/croxley_4.html

「モンゴメリーさん、最近体重を量ってみたかね」
「154ポンドです」
「だからウェルター級と言ったろう」

 というやりとりがある。ウェルター級のリミットは147ポンドだから、7ポンド(3.18キロ)超過している。トレーニングすればそれくらいは減量できるという意味だろうか。
 1899年にはウェルター級という階級が確かにあったことはこれで分かる。ところが、話が進んでいよいよボクシングの試合が行われることになると、ウェルター級云々は全く無意味になってしまう。(続く)

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2009年1月 1日 (木)

謹賀新年

本年もよろしく

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