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2009年1月23日 (金)

嘉納治五郎対夏目漱石

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 夏目金之助(1867-1916)は、1893年(明治26年)7月に26歳で帝国大学文科大学英文科を卒業した。10月に高等師範学校(→東京教育大学→筑波大学)の英語教師となった。年俸は450円であった。
 1914年(大正3年)に行った講演『私の個人主義』では、このときの嘉納治五郎(1860-1938)との縁を次のように語っている。嘉納は明治14年に帝国大学を卒業し、明治26年に高等師範学校校長になっている。漱石より7歳上の33歳であった。
 講道館を創設したのは明治15年である。同年、嘉納は22歳の若さで学習院教頭になっている。

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 その時分は今と違って就職の途は大変楽でした。どちらを向いても相当の口は開いていたように思われるのです。つまりは人が払底なためだったのでしょう。私のようなものでも高等学校と、高等師範からほとんど同時に口がかかりました。私は高等学校へ周旋してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。もともと私が若いから手ぬかりやら、不行届がちで、とうとう自分に祟って来たと思えば仕方がありませんが、弱らせられた事は事実です。私は私の先輩なる高等学校の古参の教授の所へ呼びつけられて、こっちへ来るような事を云いながら、他にも相談をされては、仲に立った私が困ると云って譴責されました。私は年の若い上に、馬鹿の肝癪持ですから、いっそ双方とも断ってしまったら好いだろうと考えて、その手続きをやり始めたのです。するとある日当時の高等学校長、今ではたしか京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、さっそく出かけてみると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談はきまった、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行がかり上否だとは云えませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えるともったいない話ですが、私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。

 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
 しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。

 一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。あなたがたは松山の中学と聞いてお笑いになるが、おおかた私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでしょう。「坊ちゃん」の中に赤シャツという渾名をもっている人があるが、あれはいったい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、――はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。

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(松山中学時代の漱石。前から3列目、左から2番目)

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