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2009年2月28日 (土)

世界のレスリング

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スイスのシュヴィンゲン、1906年。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの一種であることが分かる。

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珍しいアイスランドのレスリング、1910年。相撲の櫓投げに似た技があったようだ。

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ラオス、1905年。

 このほか世界各地のレスリングの写真を集めたサイトは
Amateur Wrestling Collectibles Gallery

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2009年2月27日 (金)

語学力養成について

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  私の思うところによると、英語の力の衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方から言うと当然のことである。なぜかと言うに、我々の学問をした時代には、すべての普通学はみな英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科もみな外国語の教科書で学んだが、我々より少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。我々の時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある。かかる時代にはだてに――金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、ひげを生やしたりするように――英語を使って、日本語を用いる場合にも、英語を用いるというのが一種の流行でもあったが、同時に日本の教育を日本語でやるほどの余裕と設備とが整わなかったからでもある。従って、単に英語を何時間教わるというよりも、英語ですべての学問を習ったと言ったほうが事実に近いくらいであった。すなわち英語の時間以外に、大きな意味においての英語の時間が非常にたくさんあったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然とできねばならぬわけである。
語学の力の衰えた原因
 ところが「日本」という頭を持って、独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、ちょうど、英国の属国インドといったような感じが起こる。日本のnationalityは誰が見ても大切である。英語の知識くらいと交換のできるはずのものではない。従って国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は自然勢いを失うべきが至当で、だんだんその地歩を奪われたのである。実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、日本では学問をした人がないからやむをえないということに帰着する。学問は普遍的なものだから、日本に学者さえあれば、必ずしも外国製の書物を用いないでも、日本人の頭と日本の言語で教えられぬというはずはない。また学問普及という点から考えると、(ある局部は英語で教授してもよいが)やはり生まれてから使い慣れている日本語を用いるに越したことはない。たとえ翻訳でも西洋語そのままよりは良いに決まっている。
(明治44年(1911年)夏目漱石)

 アジアやアフリカの国で、たとえば物理学を自国語で教えることができるのは、日本、韓国、台湾、中国くらいだろう。高校の物理の教科書をタガログ語、インドネシア語、スワヒリ語などで書くことができるか。
「英国の属国インド」では、マハトマ・ガンジーがヒンディー語を国語にしようと頑張ったが、これはインドの独立よりはるかにむつかしかった。
 むかし知り合った人で「子供をオーストラリアの小学校に入学させたい」というのがいた。「英語ができるようになる」というのだ。「日本語はどうするの?」と聞いたが、質問の意味が分からなかったらしい。馬鹿なやつだ。

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2009年2月26日 (木)

ロシアの筋の通し方

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 冷戦が終わって十年後の二〇〇〇年、妙な米露対立が表面化した。アメリカ政府が同年六月からアメリカと他国を結ぶ国際便内で喫煙を禁じたことに対し、ロシアのアエロフロート航空が反対を表明したのだ。アエロフロート航空は、機内禁煙は国際法に反するとして、国際航空運送協会に話し合いの仲介役を務めるよう要請。そして、アメリカ政府に措置の解除を求めて国務省と直接交渉し始めた。
 さらに、ロシア政府は、アメリカ政府に対して訴訟を起こしたり、対抗措置として、ロシアに乗り入れるアメリカ系航空会社にロシア語通訳の乗務を義務づけたりすると警告。
 米露の半年にわたる応酬は結果的にロシア側の勝利に終わった。アメリカ政府はロシア側の言い分を認め、アエロフロート航空の喫煙席は存続できることになったのである。
 ただし、この合意の約一年後にアエロフロート航空は全路線の禁煙を発表した。ロシアのメンツにかけて、アメリカの基準を一方的に押しつけられるのは勘弁だ、ということだったのだろう。ロシアは筋を通したのだ。

――谷道健太氏
  全文はhttp://www.geocities.jp/ktanimichi/works/kinen.htm

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2009年2月25日 (水)

何代目?

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「オバマは何代目の大統領ですか?」
を英訳してみて下さい。
 できないでしょう。「何代目」「何番目」という英語はないのだ。
ドイツ語ならばwievieltを用いて
Der wievielte Praesident ist Obama?
でよろしいはず。
 斎藤秀三郎の和英大辞典を見てみよう。

ばんめ〔番目〕
〈序数名詞〉
◆一番目 the first
◆二番目 the second
◆三番目 the third
◆十番目 the tenth
◆二十番目 the twentieth
◆三十番目 the thirtieth
◆何番目 What number?―How manieth? [注意]これは“twentieth,”“thirtieth”にならえる新造語にて英語唯一の欠乏を補うもの、未だ辞典の認むところにあらざればこれを用いるも用いざるも随意なり。
◆その人は右から何番目か What number is he from the right?
◆右から七番目の人 It is the seventh man from the right.
◆兄弟中で君は何番目か What brother are you?―How manieth brother are you?
◆三番目 I am the third brother.
◆あの人は松田さんの何番目の息子か What son is he―How manieth son is he―of Mr. Matsuda?
◆四番目 He is the fourth son.
◆Harding は何番目の大統領か How manieth president was Mr. Harding?

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2009年2月24日 (火)

禁煙の愉しみ

 ときどき禁煙者の中に、煙草を吸ってきた自分の過去を反省し、他人の煙草の煙に対する嫌悪を言いつのり、加えて公共の場における禁煙の徹底をとなえる人がいる。私は共感しない。それは彼らが「転身」したからではない。あることに対して一人の人間がずっと同じ立場に立ちつづけるのはむしろ不自然だ。私が彼らに与しないのは、もっと単純な理由からである。私は自分が煙草を吸ってきてよかったと思っているのだ。
 少年時代、私はもちろん非喫煙者だった。のちに喫煙者となり、禁煙者にもなった。煙草を知らない暮らしと、煙草を吸ってきた暮らしと、煙草をやめてからの暮らしと、その三つを経験することになった。いずれも恥と悔いの多きものであるにせよ、一度の人生で三つの暮らしを生きることになった。私はバカバカしいことを書き付けているのだろうか。しかし吸うにせよ、止めるにせよ、煙草は人生そのものである。もしも、はじめからずっと煙草を吸わずにいたら、そのことさえ知る由もなかったはずだ。
(p.p. 185-6)

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2009年2月23日 (月)

柔道か柔術か(61)

 百科事典は信頼できない
――「フリースタイル・レスリングの歴史」続き

 フリースタイル・レスリングは人工的なレスリングである、と一部アメリカ人は主張し、エンサイクロペディア・ブリタニカにもそう書いてあるが、これは正しくない。国際レスリング連盟の試合ではグレコローマンと同様に(ピンフォールではなく)タッチフォールで勝負をつけるから、フリースタイルは人工的だという主張であるが、これは歴史的に間違っている。プロのレスラーは試合前にルールを契約で決めたのであり、19世紀と20世紀初めの英米の重要な試合の多くはタッチフォールによって勝敗を決めている。アルハンブラ劇場で行われた大きな試合もポイント制を採用し、1908年のロンドン五輪は国際レスリング連盟が結成されるより4年前であったが、タッチフォールを採用している。

*ブリタニカの記述が正しいのか、この筆者が正しいのかは分からない。
この筆者が正しいのならば、プロレスでも「タッチフォール」で勝負をつける試合があったことになるが、どんなものだろう。プロレスではやはり「ワン、ツー、スリー」と数えたのではないだろうか? 
 昔の英国のプロレスは、夏目漱石が1902年に見た「瑞西のチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負」のように新聞が試合経過を報じたはずだ。100年前のバックナンバーを丁寧に調べてみれば、たとえばジョージ・ハッケンシュミットの出た試合では、どう勝負をつけたかが分かるはずだ。

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2009年2月22日 (日)

柔道か柔術か(60)

 寝技 Ground Work (フランス語ではPar Terre)
 ――「フリースタイル・レスリングの歴史」続き

(タッチフォールではなく)ピンフォールという考え方は、初期のグレコローマンやその他の未発達のレスリング・スタイルで、敗者の肩がきちんとマットに着いたことを観客に確認させるために生まれたのであろう。

 ヨーロッパの多くの国でキャッチ・レスリングあるいはフランス語でle catchという言葉は「見世物としてのニセのレスリング」を指している。
 しかしcatch-as-catch-canという英語はランカシャーの方言で「どこでも掴めるように掴む」というだけの意味である。国際レスリング連盟がキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルの競技会を開催し始めたころには、ルールはフランス語で書かれており、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをフランス語に訳するとlutte libreとなった。これをもう一度英語に訳すると「フリー・レスリング」であり、その結果、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは国際的には「フリースタイル」と呼ばれるようになった。

*lutte libreは、スペイン語ならもちろん「lucha libreルチャ・リブレ」ですね。メキシコではプロレスのことを「ルチャ・リブレ」というようだ。アマチュアのフリースタイル・レスリングは何というのか? 英語で「フリースタイル」か、スペイン語で「ルチャ・リブレ」か? どなたかお教え下さい。

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2009年2月21日 (土)

柔道か柔術か(59)

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは「カール・ゴッチやビル・ロビンソンのレスリング」ではありません。(ゴッチもロビンソンも強かったけれど、プロレスラーとして強かったのだ。)
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは、要するにフリースタイル・レスリングの別名であります。
 
 これは前から私が力説しているところであるが、まだまだとんでもない憶説が流布されているようだ。レスリングについてちょっと調べれば分かるのに、何の根拠もない思い込みを書く人が多くて困る。
 これまでの記述を読んでもらっただけでも大体分かるはずだけれど、もう一押ししてみますか。
 英連邦アマチュア・レスリング協会のウェブサイトで、「フリースタイル・レスリングの歴史」を見てみましょう。
http://groups.msn.com/CommonwealthWrestling/historyofwrestling2.msnw

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 このサイトを訳してみます。

 15世紀から21世紀のフリースタイル・レスリング

 国際式フリースタイル・レスリングの歴史はグレコローマンの歴史より複雑である。フリースタイルは特に珍しいスポーツではないので、世界中に同様のレスリングがある。その中でもよく知られているものを挙げれば、北インドとパキスタンのプシュティ、トルコの三種類のペールヴァンラー・グレ(英雄的レスリング)、イランのクシティまたはパーラヴァニ・レスリング、オーストリアのザルツブルグ近辺のラングレン、スイスのシュヴィンゲンなどがあり、インドシナにもいくつかよく似たレスリングがある。しかし、近代オリンピックのフリースタイルはイングランド北西部が起源である。

 ランカシャー・レスリング、すなわちキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(これがフリースタイルの正しい呼び方である)は、ランカシャー中で村祭りの呼び物として、パーリング(脛を蹴り合うスポーツ)と人気を競っていた。
 ランカシャー北部では、バックホールド・レスリングの方が人気があった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはランカシャーの中部と南部で、イングランド全体で中世からひろく行われた着衣(ジャケット)レスリングから発達したものと思われる。

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 ランカシャーのレスリングを表したもの最古のものは、Halsall教会の特免室(ミゼリコルド)にある浮き彫りで、15世紀にさかのぼる。二人の男はいずれもパンツと腰の周りにベルトを締めている。互いに右四つに組んで、右手で相手のベルト、左手で相手の(パンツの)左腿のあたりを掴んでいる。シンクレア氏は『ウィガンの歴史』で、1570年ごろにはレスリングの際に特別のきついジャージーかジャケットを着ることになっていたが、「下層階級はそういうものをあつらえる余裕がなく、ふつうはパンツだけはいて裸でレスリングした』と書いている。

*15世紀のランカシャーのレスリングは、韓国のシルムやモンゴル相撲によく似ていますね。世界各地で類似のレスリングが同時発生したらしい。論点の先取りになるけれども、その中で日本の柔術は、関節技と絞め技の発達という点でユニークであったようだ。

 以下、少しずつ訳して行きます。15世紀から21世紀までのフリースタイル=キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの歴史ですが、「サブミッション技があったが禁止された」なんてことは書いてありませんよ。

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2009年2月19日 (木)

絶滅せよ

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Index

 (我々の総統アドルフ・ヒトラーはアルコールを飲まず煙草を吸わない。)

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(喫煙者とユダヤ人を……)

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2009年2月17日 (火)

菜食主義のレストラン(3)

 1888年10月から1991年6月の英国滞在中、菜食主義者との交際はガンジーの生活に大きなウェイトを占めていた。特に『菜食主義のためにA Plea for Vegetarianism』の著者ヘンリー・ソールト(1851-1939)からはヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-62)の著作を紹介され大きな影響を受けた。
 ガンジーは21歳でイギリスを去ったが、1931年、61歳になってロンドンを訪れ、ヘンリー・ソールトと再会した。

 1930年1月1日、ガンジーの指導する国民会議派はインド独立の旗を公然と掲げ、完全独立の闘争を開始した。同年3月12日、塩専売法に反対する「塩の行進」に始まった市民的不服従運動は大きな反響を呼んだ。同年10月のロンドン円卓会議にガンジーと会議派は参加を拒否したが、インドに新たに連邦政府を作り、地方と中央でインド人に一定の責任のある自治政府の結成を許すことが合意された。
 翌1931年9月7日から12月1日までロンドンで開かれた第二次円卓会議には、ガンジーが国民会議派を代表して参加した。

 ガンディーの訪英は大きな波紋を呼び、彼はこれを最大限に活用した。彼はオックスフォード大学やランカシアの木綿工場を訪れ、チャーリー・チャップリンやジョージ・バーナード・ショーに面会し、世界各国のジャーナリストのインタビューを受けた。そのような機会に彼がしばしば強調したのは、『インドの自治』で初めて説いた単純でロマンティックな理想だった。歴史を通じて、西洋は暴力と帝国主義に支配されてきたが、これに対して東洋では愛と霊性、アヒンサーとサティヤーグラハが支配し、彼自身は東洋から西洋への伝道師であるというのだった。
(『ガンディーと使徒たち』p.202)

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  ガンジーは、1931年11月20日にロンドン菜食主義者協会の会合に出席して「菜食主義の道徳的基礎」について演説した。
「……私の右にヘンリー・ソールト氏が坐っておられることを特に名誉と感ずるのであります。ソールト氏の著作『菜食主義のために』を読んで、私は先祖から受け継いだ習慣や母親に対する誓いを別にしても、菜食主義が正しいということを悟ったのであります。我々の同胞である動物を食べないことが菜食主義者の道徳的義務であると、教えられたのであります。……」
演説全文は http://www.ivu.org/news/evu/other/gandhi2.html
 
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 ガンディーの右のテーブルについている男がヘンリー・ソールトである。40年ぶりの再会であった。

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2009年2月16日 (月)

菜食主義のレストラン(2)

 英国菜食主義者協会Vegetarian Societyの一番有名なメンバーは、マハトマ・ガンジー(1869-1948)である。
 1888年10月、19歳になったばかりのガンジーは、客船クライド号からサウサンプトンの港に降り立った。このころ撮られた写真では、彼は濃い髪の毛をやや右で分け、大きな尖った鼻、厚い唇、やや不安げな目をしている。

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 ガンジーはバリスター(法廷弁護士)の資格を取るためにインドを出てきたのだった。彼は11月6日にインナーテンプル法曹学院に学生として登録した。3年足らず在学するだけで勉強はほとんどしなくてもよかった。ごく簡単な試験があったが、よほどの馬鹿でなければ合格して弁護士になれた。ガンジーも1991年6月10日にバリスターの資格を取り、12日には帰国の途についた。
 困ったのはインドとの習慣の違いだった。英国は寒いから肉を食べなければやって行けないと忠告されたが、ガンジーはヒンドゥー教徒として菜食を守るつもりだった。「英国へ行っても肉と酒と女には近づかない」と母親に誓っていた。

 ガンジーは下宿で自炊し、菜食主義のよいレストランを探して何日もロンドン中を歩き回った。シティ・アンド・サバーバン銀行のコーバーク支店とマクファーレン馬車製造所の倉庫に挟まれた菜食主義のレストラン(ワトソンは店名を記録していない)も当然訪れたはずである。
『ガンディーと使徒たち』を見てみよう。

  ガンディーは菜食主義のよいレストランを探して何日もロンドン中を歩き回ったが、ようやくファリントン街でセントラル・レストランを見つけた。これはロンドンで一番の菜食主義レストランだった。彼はここで故郷を出てから久しぶりにまともな食事にありついた。彼はセントラルの常連となった。セントラルは彼の食堂、クラブ、本屋になった。セントラルを通じて、彼は菜食主義運動が英国だけでなく世界中に拡がっていることを初めて知った。彼はここでヘンリー・ソールトの『菜食主義のために』、ハワード・ウィリアムズの『食の倫理』、アンナ・キングズフォードの『完全なる食事法』などを買って読んだ。ソールトとウィリアムズにもセントラルで会うことができた(アンナ・キングズフォードは亡くなったばかりだった)。彼がセントラルで会った菜食主義の指導者にはジョサイア・オールドフィールドもいた。彼は弁護士で医師であり、病気の治療法として野菜と果物だけを食べる食餌療法と自然療法を勧めていた。またT・A・アリンソン博士も同じように菜食主義を勧める医師だった。セントラルに集う人々は、シェリー、ソロー、ラスキンなどの詩人や思想家の信奉者で、彼らによれば、菜食主義は虚弱なインド人だけの食事法などではなく、万人にとって人道的で道徳的な唯一の食事法であった。菜食主義は、食べるために生き物を殺す必要がないから、自然と調和した食事法である。肉を通じて伝染する病気とは無縁であるから、最も健康的である。野菜、穀物、果物、木の実などは肉と比べれば栽培の費用が安いから、経済的である。家畜を飼育する代わりに同じ面積の土地で野菜や果物を栽培すればはるかに多くの人を養うことができるから、土地活用の面でも効率がよい。農業人口が多ければ安定と繁栄に繋がるから、国民性の強化に役立つ。菜食主義は、人道的な非暴力の価値を慫慂する道徳的な力であった。菜食主義の普及のために、菜食主義者たちは英国、アメリカ、オーストラリアなどの国々に菜食主義者協会を設立していた。
 ガンディーはベイズウォーターのジョサイア・オールドフィールドの家の近くに引っ越し、西ロンドン食物改革協会の創立会員になった。オールドフィールドが会長になり、詩人のサー・エドウィン・アーノルドが副会長になった。ガンディーはほかの会員たちと近所の家を訪ね歩いて、菜食主義と平和を説き、菜食料理の作り方を教えた。ガンディーはロンドン菜食主義者協会でも目立った役割を果すようになった。彼は協会の執行委員となり、週刊機関紙『ヴェジタリアン』とマンチェスターの姉妹紙『ヴェジタリアン・メッセンジャー』に寄稿した。(pp.128-9)

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1891年、菜食主義者協会の会合におけるガンジー(前列右)。

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2009年2月15日 (日)

菜食主義のレストラン(1)

「どれ、待ちたまえ」ホームズは角に立って、その軒並を見わたしながら、「僕はこの辺の家々の、順序を記憶しておきたいと思うんだ。ロンドンというものに対する正確な知識を持ちたいのが、僕の道楽でね。ええと、一番がタバコ屋のモーティマー商店、その次が小さな新聞販売店。それからシティ・アンド・サバーバン銀行のコーバーク支店か。それから菜食主義のレストラン、その次がマクファーレン馬車製造所の倉庫で、角になっているね」

 もちろん『赤毛連盟』ですね。訳文は延原謙氏のものに少々手を加えた。ベアリング=グールドの考証によれば、これは1887年(明治20年)10月29日のことだった。
 ホームズが生まれたのは1854年(安政元年)、ワトソンと知り合ったのは1881年(明治14年)で27歳のときだった。『赤毛連盟』のころには33歳になっていた。1891年(明治24年)5月4日、ライヘンバッハの滝壺に転落して死亡した(37歳)というニュースが伝えられるまで、数々の難事件を解決したのである。
 しかし、菜食主義のレストランvegetarian restaurantというものがあったのですね。
 英国の菜食主義は、1847年9月30日に菜食主義を広める目的で菜食主義者協会Vegetarian Societyが設立されたときに始まる。vegetarianという英語は、OEDによれば1839年が初出であるが、1848年に菜食主義者協会がマンチェスターで第一回大会を開き会報Vegetarianを発行してから一般に広まった。
 英国の菜食主義者協会の一番有名なメンバーは誰でしょうか?
 バーナード・ショー(1856-1950)は二番目でしょう。

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2009年2月11日 (水)

柔道か柔術か(58)

タニ・ユキオ対英国レスラー(The Odyssey of Yukio Tani)の続き

 何人かが(その中にはこのThe Odyssey of Yukio Taniの筆者も含まれるが)賞金を獲得した者は一人もいなかったと書いている。ところが、そうではないようだ。1950年7月に出た武道会の季刊誌に読者の投書が出ている。タニの弟子だった小説家のショー・デズモンドが「先生と戦って賞金を獲得した人はいない」と前号で書いたのに対する反論である。リヴァプールの柔道クラブに属するジョージ・ホーンという人の投書。「元キャッチ・レスラーで故タニ氏と3分間戦って5ポンドを獲得したという人たちがまだ生きています。そのうちの一人はまだウィガンに住んでいて、5分間戦って25ポンドを得たのです」。なかなか興味深いが、3分で5ポンド、5分で25ポンドという数字は、タニの挑戦試合の条件として印刷物が残っているものと合わないようだ。このベテランレスラーたちは自分の手柄を誇張しているのかも知れない。ホーン氏の投書の続き。「我々北部の人間、特に炭鉱夫や山地の者はキャッチをやっていて、(レスリングの)投げ技と(柔術の)技はよく似ていると思う。昔の上手なキャッチ・レスラーのスマートな動きは見ているだけでも楽しかった。我々北の者はタニ・ユキオのことをよく覚えていて今でも尊敬している」

*ウィガンのキャッチ・レスラーが出てきましたね。キャッチあるいはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンについては、柔道か柔術か(19)で引用したウィキペディアの古い記事をもう一度見てみよう。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch as catch can)はイギリス・ランカシャー地方発祥のレスリングの一種で、フリースタイルレスリングおよびプロレスのルーツ。18世紀~20世紀初頭を中心にウィガンビリー・ライレージムなどで隆盛した。試合形式は通常リングを使用し時間無制限で行われた。勝敗はタップアウトまたはピンフォールで決まった。キャッチ・レスリング、または単にキャッチ、またはランカシャー・レスリングとも呼ばれる。
 多彩なテイクダウン(タックルと投げ技の総称)、ブレイクダウン(グラウンドでの攻防におけるポジショニング技術)、サブミッション(関節技と絞め技の総称)、ピン(フォール技)の技術体系を持つ。その多くは現代のプロレス、アマチュアレスリング、総合格闘技やグラップリングの技術にも影響を与えている。
 テイクダウンには、タックル、スープレックス(後ろ反り投げ)、サルト(捻りを加えた反り投げ)、スロイダー(相手の腕を前から掴んでの投げ)、ラテラル(相手の胴をクラッチしての蹴手繰り)などがある。
 サブミッションには、ハーフネルソン、ハーフハッチ、アームロック、ヒールホールド、ヘッドロックなどがある。ピンには、体固め、エビ固めなどがある。

 いかにデタラメがまかり通っていたか、恐ろしいくらいだ。
 そんなにすごいレスラーがいたのなら、どうしてタニに勝てなかったの? サブミッション技はあったけれど普段は使わなかったというのなら、タニと戦うときには「奥の手」を出せばいいじゃないか――これは前から言っておりますよ。

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 ひょっとしてダブルアーム・スープレックスを「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の技だと思っているのでは? もちろん違う。ビル・ロビンソンがやってもローランド・ボックがやっても、プロレスの技(元はグレコローマンの技)なのだ。「キャッチ」のルールならタックルで簡単にテイクダウンできるので、スープレックスなどという面倒な技が出る余地はないのだ。

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2009年2月10日 (火)

柔道か柔術か(57)

「タニ・ユキオ対英国レスラー」の続きですが、その前に当方の勇み足の訂正。
  catch wrestlingという英語は、近年になって発明された(でっち上げられた)英語だ――と書いた。(柔道か柔術か(49))
 これが間違い。
 むかしから「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」を省略して「キャッチ・レスリング」とか「キャッチ」とか言うことがあったらしい(用例は次回)。舌をかまないためでしょう。
 しかし、省略しただけであって、意味は変わらない。

キャッチ・レスリング=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=ランカシャー式レスリング
 であって、これは現在のフリースタイル・レスリングとほぼ同じである。
 違いは、タッチフォールではなくピンフォールで勝負を決めたこと。すなわち、スリーカウントする間、相手の両肩をマットに付けておく必要があったことです(現在のフリースタイルでは一瞬でよい)。
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 プロレスも20世紀初めの英国では、このキャッチ=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=ランカシャー式でやった。力ずくで相手の両肩をマットに押しつけようとする寝技の戦いが延々と続くので、夏目漱石が見物して
「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」
 とあきれた。
 この試合の経過は、漱石が取っていたデイリー・テレグラフに詳しく書いてあった。この新聞はタイムズほどではないけれども高級紙だ。イギリスの東京スポーツではない。ブリティッシュ・ミュージアムでバックナンバーを調べれば、20世紀初めの英国のプロレスがどんなものか分かるはずだ。

 catch-as-catch-canという英語の本来の意味を日本人はよく知らないから、「カール・ゴッチのレスリング」だと思い込んでいる。大間違いですよ。
「カール・ゴッチやビル・ロビンソンのレスリング」を英語でcatch-as-catch-canと呼ぶのは無理であるから、もう少し耳慣れないcatch wrestlingを使おう――というのが一部プロレスオタクの英米人で、そういう人がウィキペディア英語版のCatch wrestlingという項目を書いているらしい。
 しかし、これは英語の用法の間違いである。正しい英語では、catch wrestling=catch-as-catch-can=Lancashire wrestling(≒freestyle wrestling)なのだ。

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2009年2月 9日 (月)

柔道か柔術か(56)

*タニ・ユキオ対英国レスラー(The Odyssey of Yukio Tani)の続き

 何度でもタニに挑戦する者もいた。たとえば、サム・クロフトはロンドンで有名な運動家で、ボクシング、レスリング、重量挙げの経験が豊富であった。彼は英国チャンピオンを名乗っていたアルフ・ヒューイットについて柔術も練習していた。サム・クロフトはミュージックホールで行われるプロの怪力コンテストに参加して、体重は9ストーンという軽量(タニと同じで約57kg)にもかかわらず何度か優勝したことがあった。タニがカンタベリー・バラエティ劇場に出ているのを知って、彼は初めて挑戦した。このときはほかにも二人が挑戦したが、全員3分以内で片付けられてしまった。サム・クロフトは1分半で敗れたのである。そこで数週間後に南ロンドン・ミュージックホールでタニに再挑戦したが、このときは3分40秒もちこたえた。ずいぶん腕が上がったわけだ。三度目にパラゴン・バラエティ劇場で挑戦したときは、6分近く戦い続けることができた。タニはこの週に40人ほどを相手にしていたが、その中ではサム・クロフトが一番長時間戦ったのだ。

*タニ・ユキオ対英国レスラーの典型的な戦いですね。レスラーの側には「関節技がなかった」ことがうかがえるでしょう。40人ほどが全員簡単に片付けられているのだ。
 繰り返して諸君に問いたい。ランカシャーを中心に行われたという「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」はそんなにすごいレスリングだったのか? 20世紀初めに、ゴッチやロビンソンやビリー・ライリーみたいな、サブミッション技に通暁したレスラーがいたのか? ビリー・ライリーが1940年代初頭に開いた(那嵯氏による)「ウィガンの黒い小屋」(スネーク・ピット)では、サブミッション・レスリングを教えた。しかし、そのサブミッションは、サム・クロフトのような人たちが柔術に挑戦して覚えたのではありませんか?
 ランカシャーはイングランドの北西部にある。スネーク・ピットがあったというウィガンは、ランカシャーの南のグレート・マンチェスター州の小都市である。 

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2009年2月 6日 (金)

柔道か柔術か(55)

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(ミュージックホールの光景。観客席にテーブルがあって酒食が出ている。)

 ミュージックホールのレスリングでタニと戦った数多くのレスラーの一人がHealth and Strength誌に手記を寄せている。ピーター・パーキーという仮名を用いているこの男は、あるとき街を歩いていて、タニ・ユキオが出演して誰の挑戦でも受けるというポスターを見た。パーキーは柔術とレスリングを練習したことがあり、自分のクラブでは一番強いと自負していた。タニと15分間戦って25ポンドを獲得できるかも知れない、いやひょっとしたら勝って100ポンドだってもらえるかも知れない。当時100ポンドと言えば大金で、1年分の給料に匹敵するくらいだった。

 ミュージックホールの入り口で1シリングの入場料を払って、色々な出し物の間、じりじりして待っていた。ドタバタ劇があり、きれいなネエちゃんのダンスがあり、アクロバットがあって、ようやくタニの出番である。まず助手を使って柔術の投げ技と固め技のデモンストレーションを行った。ところがピーター・パーキーは「そういうのは全部よく知っていた。ラクの本を読んでいたから」というのだ。これはもちろんウエニシ・サダカズ(ラクはリングネーム)の柔術本である。

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 そのあとで、地元では有名な大男のレスラーがタニに挑戦した。

「この荒武者はまなじりを決してタニと対峙した。ちっぽけなジャップは日出ずる国から来た男らしくニコニコしながら静かに地元の巨人に歩み寄った。たちまち巨人は派手な空中ダンスを始めて、観客を大いに楽しませた。やりたくてやったわけではない。日出ずる国の小男がダンスさせたのだ。ドシンと音を立てて倒れ、すぐ立ち上がると相手を捕まえにかかった。しばらく二人はワルツみたいに動き回ったが、すぐにまた地元巨人は倒れ、ジャップが上に乗っかって、どういう手を使ったか掴まえてしまい、どうあがいても相手は逃れられない。一度二度と無駄なあがきをしたが、押さえつけられてマット上で身動きできない。巨人が懸命にマットを叩いて参ったをいうと、ジャップは静かに顔の汗を拭いた」

 ピーター・パーキーは、自分ならもっとうまくやれると思ったから、ステージに上がった。柔術ジャケットを着て「この生意気なチビを見下ろした」。パーキーは日本人よりずっと背が高く体重も重かったから、これは楽勝だと思った。が、それは一瞬のことで、何度も何度も投げ飛ばされるはめになった。「私は全力を出した。しかしどうしても相手を掴まえられないのだった。掴んだと思ったら逃げられた」
 観客ががんばれと叫んでいるのが聞こえた。「まるで夢の国にいるみたいだった」。タイムキーパーが「三分経過」と叫んだ。マットから立ち上がると、タニは静かにほほえんで、パーキーがかかってくるのを待っている。

「突然、斬りつけるような足払いが来た。私はドシンと倒れた。懸命にもがいたがだめだ。ジャップは一瞬の間にあの有名なアームロックをかけてきた。こちらはマットに押さえつけられてどうにもならない。参ったをいう前は、実に変な気分だ。逃れたい、逃れようとするのだけれど、できない。万力みたいに締め付けられて、どうしたって外れっこない。潰され砕かれたみたいで実に情けない気分だった」

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2009年2月 5日 (木)

柔道か柔術か(54)

 ロングハーストは、タニがアポロ(ウィリアム・バンキア)と組んでミュージック・ホールに出演し始めたころのことを「アポロは鳴り物入りでタニの売り出しにかかった。何としても世間の注目を引きたかったのだ」と書いている。バンキアは根っからのショーマンで、タニは一種の天才だというイメージを作り上げた。もちろん、タニ自身にそれに応えるだけのものがあったので、英国上陸の初日から「挑戦してくる者は拒まない」という態度を取った。この姿勢は、彼が1918年にロンドンの柔道クラブ「武道会」で教え始めてからも変わらなかった。武道会の古参であるショー・デズモンドは、タニがプロレスのチャンピオンを投げ飛ばし、そのまま寝技に入って次々と関節技や絞め技をかけて見せたことをよく覚えているという。「ジュードーをご教授いただきたい」と言ってやってきた体重18ストーン(114kg)のグレコローマンのレスラーも投げて見せた。
  しかし、タニと柔術の声価が高まったのはミュージックホールの喧噪の中であった。何年もの間、ここが彼の活躍の場だった。彼は誰の挑戦でも受けて立った。体重は問題ではなかった。柔術の価値は、英国中のあらゆる町で、毎晩実証されていたのだ。パーシー・ロングハーストは1905年にこう書いている。「抜け目のないスコットランド人の怪力男アポロはタニ・ユキオのマネージャーを引き受けて全国各地に巡業させたから、グラスゴーより南である程度以上の大きさの町でタニが柔術を見せなかったところはない」
   当時ミュージックホールで公演したレスラーや怪力男の例に漏れず、タニとバンキアも「挑戦を受ける」旨を広告した。スポーティング・ライフ誌の1904年12月号には次のような広告が出ている。(*これは前に一度出しました。写真はパラゴン・バラエティー劇場)

Paragon_1904

パラゴン・バラエティー劇場
マイルエンド街
TO-NITE TO-NITE TO-NITE
アポロ提供、特別出演
日本人レスラー
ユキオ・タニ

 タニに勝った者には特別賞100ポンド。タニは体重9ストーン(57.15kg)しかないが、どんなに大きい相手の挑戦も受けて立つ。タニが15分以内に負かすことができなかった者には、アポロが20ポンドの賞金を提供。プロのチャンピオンクラスのレスラーは特に歓迎。アマチュアの腕試しを奨励するために、アポロはタニが負かすことのできなかった者に40ポンドの価値のある銀製カップを進呈。一番健闘したアマチュアには高価な金メダルを差し上げる。出場申込は毎晩試合開始前までに。

 タニがアポロと組んで英国のミュージックホールと劇場の何年にもわたる大巡業を始めたのがいつかは正確には分からない。しかし1903年には彼はすでに有名人になっていた。Health and Strength誌の1903年12月号の記事
「器用な日本人レスラーのタニ・ユキオは、最近リーズのティボリ・ミュージックホールに出ている。自分と15分間戦うことができれば誰にでも20ポンド進呈するという触れ込みであるから、ランカシャーとヨークシャーの最強のレスラーたちが挑戦しているが、まだ誰も20ポンドを獲得した者はいない。英国のレスリングとしてはジャップのやり方は邪道だと評する向きもある。有名なランカシャーのレスラー、アクトンも7分半で敗れた。」

 当時はミュージックホールのレスリングを新聞がかなり詳しく報じた。たとえばスポーツマン紙の1907年12月10日号には、前日のタニのチェルシー・パレスでの試合をこう報じている。

「今週のチェルシー・パレスのスターは柔術家のタニ・ユキオである。彼は自分に勝てば100ポンド、15分間ギブアップしなければ20ポンドの賞金を出すという。最初に挑戦したのはフルハムのフォスター・スカンチャで、体重147ポンドの有名なレスラーである。彼は2分23秒、アームロックで敗れた。バッターシーのトム・ピアスが続きなかなか健闘したが、5分38秒、アーム・アンド・レッグ・ホールド(腕拉ぎ十字固め?)で敗れた。続いて、アルフ・ジェームズが3分27秒戦い、地元レスラーのビル・ウィリアムズは8分11秒も戦った。今夜はジャック・マッデンがタニと雌雄を決する。」

*ランカシャーのレスラーが挑戦して敗れていますね。「邪道」の関節技でギブアップしている。ランカシャーはCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の本場で、CACCには「サブミッションなんて昔からあるぜ」というのじゃなかったか?
  写真はそれこそ邪道だけれど。

Jiujitsu

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2009年2月 3日 (火)

柔道か柔術か(53)

タニ・ユキオ対英国レスラー(2)

 パーシー・ロングハーストは、Health and Strenght誌の1902年1月号に「バリツとヨーロッパのレスリング」という記事を書いている。下の絵はこの記事の挿絵ではない。服装は参考になるでしょう。Jujitsu_painting

「私のバリツとの個人的な出会いは、ティボリ劇場に出ていた二人の日本人の先生[タニとウエニシ、括弧内は引用者ノーブル氏による注、以下同じ]のうちの一人と二度手合わせしたことである。この手合わせが愉快だったとは言いかねる。まだ腕の調子がおかしく、完全に直るには数ヶ月かかりそうだからだ。それでもこの経験を後悔はしていない。それどころか、このような試験に参加できて幸運だったと思う。しかし、バリツの実用性を知ったのがこういう機会だったのは幸いだ。戦場でなくてよかった。私はイングランドの各種のスタイルのレスリングには通暁している。キャッチ・ホールド[フリースタイル]でもノースカントリー[カンバーランド・ウェストモーランド]スタイルでも、同じウェイトならロンドンのどんなアマチュアにもまず負けはしない。ところが日本人のレスラーには、バリツの技で完全にやられてしまったことは認めざるを得ない。真剣勝負だったら、今ごろはキングズカレッジ病院で寝ているところだ。」

「二度の手合わせでは、私の方にハンディキャップがあった。ジャップは何をするよく分かっていたのに、私の方は自分がどうすればよいかさっぱり分からなかったのだ。バリツが最も有効な防御であるのはどんな攻撃に対してか? 誌上で再現するのはむつかしいが、実際に有効で、極度に攻撃的な防御であり、敵の無能力化を狙う。私は試合のやり方はだいたい知っていて、敵を投げ倒しても勝ったことにならないのは分かった。それどころか、倒しても逆の結果になる場合が多かったのだ。私が今までやって来たレスリングのスタイルでは、もっぱら相手を投げようとしてきた。ところが相手の方はもっと広い目的にエネルギーを向けているのだ。双方がゆったりとした短いジャケットを着るというのも私には不利だったが、バリツではこれが重要な要素なのだ。ともかく、レスリングの心得は、相手の攻撃を防ぐのに何の役にも立たなかった。ありがたいことに日本人は一番痛い強力な技を出さないでおいてくれたらしい。

* これが雑誌の1902年(明治35年)1月号に載ったということは、ロングハーストが柔術家(タニかウエニシ)と二度手合わせしたのは1901年のことだ。夏目漱石がセントジェームジズ・ホールへ「日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負」を見に行ったのは、1901年12月のことだった(柔道か柔術か(5))。

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2009年2月 1日 (日)

柔道か柔術か(52)

 タニ・ユキオ対英国レスラー(1)

 グレアム・ノーブル氏のThe Odyssey of Yukio Taniに多くを負っています。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm

 これを全部翻訳してしまった方がよかったかも知れない。しかし、そんなに詳しく書く必要もなかろうと思ったのです。
 訳し漏らしたところを補って行きます。*印の後は、訳者コメント。

Tanicherpilloduyenishi_2

 タニ・ユキオは1900年に渡英して、初めはバートン・ライトの下で「バリツ」の教師をつとめたが、やがてウィリアム・バンキア(アポロ)と組んでミュージック・ホールで柔術家として挑戦試合をするようになったのだった。(上の写真、左がタニ、右がウエニシ・サダカズ。真ん中は「バリツ」のデモンストレーションでしょう。)

 タニ・ユキオに挑戦したレスラーは多かった。しかし、柔術のルールで戦えば、誰もが絞め技かアームロックでやられることになった。

 アマチュアレスリングのライト級チャンピオンを5度(1898,1900-02, 1904)獲得したアーネスト・グルーンは、タニとレスリングしたときのことをHealth and Strength誌のインタビューで語っている。「彼を相手にすると何もできない。ウナギみたいに掴みどころがない。もちろん、こちらが負けたよ」

*「タニとレスリングした」の原文はwrestled Tani。これは柔術ではなくレスリングをしたということだろう。タニがレスリングの試合でも活躍したことは柔道か柔術か(21)などでも触れた。

 もう一人のレスリングの強豪、ゴードン・トリンガムはこう語る。「タニと戦ったとき、何分か激しくもみ合った後、彼がお得意のアームロックで決めに来た。ところが私は前もってこの技は研究しておいたから、何とかもがいて二度までは逃れることができた。するとタニは私がそれまで見たこともない新しい種類のアームロックを繰り出してきて、私はこれで仕留められてしまった。あの技はあれから二度と見たことがない」

 1900年代初頭にプロレスラーとして一流だったピーター・ゴッツは、自分のフットワークと技はタニとウエニシに負うところが大きいと認めた。

 しかし、初めのうち、柔術が「バリツ」として紹介されたときは、真面目に取られなかったようだ。のちにマネージャーになるウィリアム・バンキアは、タニとほかの日本人が劇場でデモンストレーションをするのを見て、「あんな茶番ではだめだ」と思ったという。

Bartonwrightsequence1

 有名なレスリング記者であったパーシー・ロングハーストも、初めて見たときは「なかなか面白い見世物だが、役には立たないだろう」と思った。ところが実際に自分がマットに立って戦ってみると、意見を変えざるを得なかったという。(続く)

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