« ロシアの筋の通し方 | トップページ | 世界のレスリング »

2009年2月27日 (金)

語学力養成について

Soseki_1s

  私の思うところによると、英語の力の衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達した結果で、一方から言うと当然のことである。なぜかと言うに、我々の学問をした時代には、すべての普通学はみな英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科もみな外国語の教科書で学んだが、我々より少し以前の人になると、答案まで英語で書いたものが多い。我々の時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある。かかる時代にはだてに――金時計をぶら下げたり、洋服を着たり、ひげを生やしたりするように――英語を使って、日本語を用いる場合にも、英語を用いるというのが一種の流行でもあったが、同時に日本の教育を日本語でやるほどの余裕と設備とが整わなかったからでもある。従って、単に英語を何時間教わるというよりも、英語ですべての学問を習ったと言ったほうが事実に近いくらいであった。すなわち英語の時間以外に、大きな意味においての英語の時間が非常にたくさんあったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然とできねばならぬわけである。
語学の力の衰えた原因
 ところが「日本」という頭を持って、独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、ちょうど、英国の属国インドといったような感じが起こる。日本のnationalityは誰が見ても大切である。英語の知識くらいと交換のできるはずのものではない。従って国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は自然勢いを失うべきが至当で、だんだんその地歩を奪われたのである。実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、日本では学問をした人がないからやむをえないということに帰着する。学問は普遍的なものだから、日本に学者さえあれば、必ずしも外国製の書物を用いないでも、日本人の頭と日本の言語で教えられぬというはずはない。また学問普及という点から考えると、(ある局部は英語で教授してもよいが)やはり生まれてから使い慣れている日本語を用いるに越したことはない。たとえ翻訳でも西洋語そのままよりは良いに決まっている。
(明治44年(1911年)夏目漱石)

 アジアやアフリカの国で、たとえば物理学を自国語で教えることができるのは、日本、韓国、台湾、中国くらいだろう。高校の物理の教科書をタガログ語、インドネシア語、スワヒリ語などで書くことができるか。
「英国の属国インド」では、マハトマ・ガンジーがヒンディー語を国語にしようと頑張ったが、これはインドの独立よりはるかにむつかしかった。
 むかし知り合った人で「子供をオーストラリアの小学校に入学させたい」というのがいた。「英語ができるようになる」というのだ。「日本語はどうするの?」と聞いたが、質問の意味が分からなかったらしい。馬鹿なやつだ。

|

« ロシアの筋の通し方 | トップページ | 世界のレスリング »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/28362165

この記事へのトラックバック一覧です: 語学力養成について:

« ロシアの筋の通し方 | トップページ | 世界のレスリング »