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2009年3月12日 (木)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(2)

 挑戦者が出てこないので、ガマの方から挑戦することにして、同じ雑誌に広告を出した。

ガマ対ズビスコ
 ガマはズビスコとロンドンで戦い、1時間以内に3回投げてみせる。100ポンドまたは200ポンド懸賞試合。

Stanislaus_zbyszko

ガマ対ゴッチ
 250ポンド懸賞試合

ガマ対世界
 ガマは世界中の誰とでも戦う。100から500ポンド懸賞試合

インド対日本
 ガマは博覧会に出ている日本人レスラー30人全員を1時間以内に投げてみせる。
 ただし、一人ずつかかり、15人投げたところでガマは10分間休憩するものとする。

 これは何だ? 日本人レスラー30人全員? タニなどの柔術家がレスリングもしていたらしいけれど、30人もいたのか?
 1910年の時点で「30人の日本人レスラー」がロンドンにいたのだ。
 1910年5月14日から10月29日まで、ロンドンで日英博覧会が開かれていた。

Japanbritish_exhibition

 日本は日英同盟の強化を狙って1900年のパリ万博の3倍の展示面積を使用して大博覧会を開いた。日本庭園を二つも作った。日本が着々と近代化を進めていることを示すために、展示には力を入れた。特に美術工芸品や日本庭園は好評を呼んだ。

 この展覧会のアトラクションに、日本の相撲取が30人余参加していた。
 以下、 坪田敦緒氏の「大関伝」
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/ohzeki/oo0.html
 に大幅に寄りかかって書きます。この坪田氏のサイトはすごい。
 坪田氏によると
 京都相撲の横綱に大碇紋太郎(明治2年生まれ)という人がいた。1910年(明治43年)には41歳である。
 この人は明治28年に東京の大相撲の大関になった。170cm、105kgだったが、特別に小さいわけではない。同じころの17代横綱の小錦八十吉は168cm、130kgだった。
 大碇は明治29年に大関から陥落すると脱走して京都相撲に入った。明治32年に横綱になったが、所詮京都のお山の大将でうだつが上がらない。明治43年に日英博覧会のアトラクションの話があったのに飛びついた。以下、坪田氏の文章をそのまま写させてもらう。

 43年ロンドンで日英博覧会が開かれた時、渡りに船と30余人の力士団を率いて渡英。開館式の時は全員化粧廻しの正装に、肩から名入りの襷をかけて派手なデモンストレーションをやった。大碇は横綱を締めてその先頭に立って、意気揚々、半年間「ジャパニーズ・レスリング」を披露した。閉幕後、力士たちは現地解散を余儀なくされ、大半は帰ったが、残った者はレスラーやサーカスの芸人になり、大碇も一部の力士を連れて各地を放浪したあげく、南米チリで没したといわれる。大正10年頃までは健在だったようだが、没年ははっきりしない。

 どうも可哀想な話ですね。
 ガマはこの「ジャパニーズ・レスリング」を見て「雑魚ばかりで大したことはない」と思ったのだろう。東京の大相撲が巡業したのだったら、こうは行かなかったはずだ。明治43年は最強の横綱太刀山の全盛時代が始まったところである。
 
 401pxtachiyama
 188cm、150kg。その恐るべき怪力は400kgの砲弾も片手で持ち上げ振り回したり、釜山でロシア製500kgの弾丸を一人で運んだり、怪力話も常にケタ外れ。この怪力を活かし相手を捕まえて背中から落とす呼び戻しは仏壇返しの異名で突っ張りとともに恐れられた。
(ウィキペディアによる。しかし、400kgや500kgという数字はいくら何でも怪しい。バーベルを持ち上げるデッドリフトでも世界記録は455kgである。)

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コメント

太刀山だけではなく
当時は大辞林にも出ていた横綱 常陸山 梅ヶ谷もまだ健在で
常陸山なんかは海外でボクサーと他流試合を実践して相撲の強さをアピールしたいと前田光世にも話した事があるみたいですね。
京都相撲と大坂相撲は江戸の相撲よりもレベルが低いというのはどの文献でも同じなようで江戸の相撲に入ったらはあんましパッとしない力士が多かったみたいですね。

投稿: NダDサク | 2009年3月13日 (金) 08時14分

太刀山はハッケンシュミットと戦う話があったけれど、第一次大戦が始まったので流れたのだそうです。「仏壇返しでやっつけてやる」と言っていたそうです。ほんとかしら。

投稿: 三十郎 | 2009年3月13日 (金) 10時01分

 はじめまして。大碇紋太郎を検索していて貴ブログに着きました。
大碇については、最近「悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎伝」という本が出て、謎の部分が明らかになりました。
 それにしても凄い男です。少なくとも「雑魚」ではなかったようです。
 また、お邪魔します。

投稿: 車 寅三郎 | 2009年3月17日 (火) 17時42分

その本ですが、間違いなのですよ。大碇紋太郎が強盗で懲役になっていて、河上肇が話をしたというのでしょう。元相撲取らしい大男が入獄していたのは確からしいけれど、「大碇とは真っ赤な偽りで、ニセモノなのだ」そうです。年代が合わないのだそうです。

投稿: 三十郎 | 2009年3月17日 (火) 18時05分

 『悲しき横綱の生涯』を読み直してみました。
 本には小菅刑務所で「元幕内力士、大碇と名乗る男がいた」「その男と同室だったと河上肇が書いている」という記載でした。年代が合わないことも著者は書いています。
 その獄中の男がニセモノかどうかは別にして、大碇紋太郎は面白い、愉快な快男児であることは間違いなさそうです。

投稿: 車 寅三郎 | 2009年3月20日 (金) 17時06分

むかしは京都相撲なんてのがあったのですね。今で言えば「みちのくプロレス」みたいなものだろうか? 身長170cmで大相撲の大関、世界最強のプロレスラーがやはり170cmなのだから、百年前の人は小さかったのですね。

投稿: 三十郎 | 2009年3月20日 (金) 18時04分

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