« 小沢一郎 | トップページ | 柔道か柔術か(66) »

2009年3月 5日 (木)

柔道か柔術か(65)

英国における発展
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、ランカシャーではずっと人気が高かったが、南部では20世紀初めにはまだ盛んではなかった。それでもミュージックホールに出演して生計を立てるプロはいた。当時一番人気があったのはコーンウォールのジャック・カーキークというプロレスラーで、ロンドンのアルハンブラ劇場に毎晩出演していた。ところが、レスリングへの一般の関心をにわかに高めプロレスの黄金時代を現出することになる事件が起きた。カーキークは常々「世界中のどんなレスラーの挑戦でも受けて立つ」と公言していた。1902年3月2日の夜、客席から正装の男が4人、舞台へ上がってきた。観客を驚かせたのはそのあとから筋骨たくましい金髪の巨人が現れたことであった。誰あろう、グレコローマン世界チャンピオンのジョージ・ハッケンシュミットであった。

Pchack13

 カーキークは前言を翻してハッケンシュミットとの対戦を拒否した。この出来事はたちまち大評判になった。ハッケンシュミットは一躍人気者になり、ミュージックホール・レスリングのブームが起きた。これは第一次大戦の勃発まで続いた。ジョージ・ハッケンシュミットは大金持ちになった。彼が英国に来た当初の稼ぎは週に7ポンドで一般労働者の週給の7倍程度であったが、まもなく週に350ポンドを稼ぐようになった。

*ハッケンシュミットもタニと同じようにミュージックホールに出演して「誰の挑戦でも受ける」と宣言し、挑戦者を次々と片付けた。タニとの違いは、あくまでレスリングのルールで戦い、フォールで勝負をつけたことだ。

George_hackenschmidt

*この「ミュージックホール・レスリングのブーム」と柔術家タニ・ユキオの活躍が重なったのだ。タニは1903年11月、初めてハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけた(柔道か柔術か16)。以後タニはハッケンシュミットに対して「柔術ルールで私と戦ってみろ」という挑発を続けたが、ハッケンシュミットの答えは一貫して「グレコローマンのルールなら戦う」というものだった。99キロ対57キロという体格差を考えればどんなスタイルでも勝てそうなものだが。実際、ハッケンシュミットは、グレコローマンだけではなく、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに転向してからも、圧倒的な体力でたいていのレスラーを子供扱いしてきた。しかし、タニに関してはあくまでも慎重だった。万が一にも負ける危険は犯したくなかった。ハッケンシュミットにとってタニは「ビジネスリスク」だった。もし負ければ、結構な稼ぎがフイになるのだ。(このあたりはThe Odyssey of Yukio Taniを参考にして書いています。)

 当時の英国のプロレス・ファンたちが
「ハッケンシュミットとタニが戦ったらどちらが勝つだろうか?」
と思ったのは、むかし私などが子供のころに
「ライオンと虎ではどちらが強いか」
を知りたがったのと同じだ。
  たとえば、ジェラルド・カーシュの『壜の中の手記』には、次のような一節がある。

「たとえば、ジョージ・ハッケンシュミットは史上最も偉大なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラーで、全盛期には最強の男の一人だったが、私に言わせれば、もしユキオ・タニとフリースタイルで戦ったら、果たして彼に勝ち目があっただろうか。」

 これはBIBIさんの「迷跡日録」というブログから引用させていただいた。
http://blog.livedoor.jp/akiotsuchida/archives/50635479.html

 しかし私(翻訳ブログ筆者)に言わせれば、この訳文(あるいは原文)はちょっとおかしい。前々から強調しているように「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとはフリースタイル・レスリングの別名に過ぎない」のだから。こう直すべきだ。

「たとえば、ジョージ・ハッケンシュミットは史上最も偉大なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイルのプロレスラーで、全盛期には最強の男の一人だったが、私に言わせれば、もしユキオ・タニと無制限(関節技あり)で戦ったら、果たして彼に勝ち目があっただろうか。」

 ハッケンシュミットはプロレスラーとして最強だが、当時のプロレスに柔術のような関節技はない。(プロレス・ファンは誤解しているけれど、「最強のレスリングとしてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」なんてなかった。まぼろしです。柔道か柔術か(33)あたりからずっとレスリングの歴史を書いているから、読めば分かります。)だから、ピンフォールで勝負をつけるのではなくて、ギブアップまで戦う無制限の戦い(訳文ではフリースタイルとなっている)をしたら、ハッケンシュミットがタニに勝てただろうか。ハッケンシュミットがタニを掴まえスープレックスの連発で失神させるか? タニが得意のアームロックでハッケンシュミットをギブアップさせるか?  ぜひ試合が見たい――当時のファンはこんなことを考えていたのではないか。

|

« 小沢一郎 | トップページ | 柔道か柔術か(66) »

コメント

ハッケンシュミットは今で言えばブロックレスナーのような巨躯の持ち主だったんですかねー。

三十郎氏にはサンボの成り立ちについても書いていただければ幸せです。サンボは柔道の関節技を取り入れたのでは無く、ソビエト国内に在った土着格闘技の関節技から取り入れられたと主張される方々が多くいらっしゃるのですが、キャッチ同様の話ではないかと感じています。家畜をコントロールするために関節技があったとか言う話が信じがたいです。

サンボは締め技が有りませんが、どう思われますか?締め技は断頭台を連想させ残酷だからだとか、通説は諸説ありますが。

投稿: ロール | 2009年3月 5日 (木) 17時11分

サンボは軍神広瀬中佐の柔道が元でしょう。むかし、スターリンの時代には現在の「ウリナラ起源」みたいに何でもソ連起源で、飛行機やロケットの発明もナントカスキーとカントカスキーだという主張があった。反対すれば収容所送りだった。でも、現在のサンビストたちは柔道起源を認めているようです。

投稿: 三十郎 | 2009年3月 5日 (木) 17時23分

何故日本以外には技術体系をなした関節&締め技が生まれなかったんでしょう。戦場で皆甲冑を装着していて、細かな締めや関節技は出来なかった(効かなかった)条件は同じはずですし。

投稿: ロール | 2009年3月 7日 (土) 17時59分

日本人は「敵の首を取った」ことが大きいと思う。柔術は「首取りの技術」だったのではないかと思っています。熊谷次郎直実が平敦盛の首を取ったときには、まだ柔術というほどのものはできてなかったかも知れない。戦国時代を経て「首取り技術」が体系化されていったのでは? 支那、モンゴル、トルコなどは集団戦だから関節技なんて悠長なことはやっておれない。西洋の騎士は一対一の戦いがあったかも知れないが、首を取る必要はなかった。

投稿: 三十郎 | 2009年3月 7日 (土) 19時21分

追加。柔道の30秒間抑え込みで一本、というのは、「それくらいの間相手をコントロールすれば短刀で首を切ることができるはずだ」という意味でしょう。西洋の騎士の場合、敵を落馬させたあとは従者に任せればよかった。自分で組み討ちして首を取らなくてもよかったからでしょう。

投稿: 三十郎 | 2009年3月 7日 (土) 19時32分

それに関しては異論がありますね
三十郎さんの言われる抑え込み30秒は戦国での首取りに相当
は講道館側の見解で決まったルールのようです
ただ竹内三統流で皇宮警察柔道師範だった木村又蔵などは亀の状態の時にバックを取るのも抑え込みにした方がより良い
と発言したのに対し講道館側はそれだと試合も稽古も成り立たなくなるとかクレームをつけて却下したらしいです。
実際のところは講道館は当時 高専の学生たちや
過去には不遷流の田辺の寝技に散々やられまくったので抑え込みのポジションを増やして自分の首を絞めるような真似をしたくなかったので前面での抑え込みのみにした。
前面での抑え込みは西洋でのスポーツ レスリングも取り入れているのでスポーツとしての柔道には最適と考えたんではないでしょうか。
あくまでこれは想像ですがそう考えれば前面での抑え込みは抵抗されるので関節技には有効ですが絞め=首とリは難しい
なのに前面のみにしたという理由がスポーツ的観念から採択されたと考えてもいいと思います。
実際バックを取るのをポイントにしたブラジルの柔術はバックからの様々な技術体系が発達しましたしね。

あと
サンボに関しても広瀬武夫柔道二段がサンボの流祖という説もよく日本のマスコミが語るのですが
これもサンボに関してあまりにも技術を知らないとしか言わざるをえません。
確かに関節技に関しては高専柔道 古流柔術(足関節を強引に禁止に持っていった講道館ではない)で失伝してしまった足挫き 足がらみ がサンボに存在するのは接点があるからに間違いないでしょう。
ですが立ち技に関しては柔道の技術体系とは
似て非なるというよりも【全く違った】技術体系です。
組み手にしろ力の使い方 単純に投げ技自体
日本の柔道では邪道と呼ばれる肩裾を握った組手技術を初めとするそれらの技術は
柔道ではなくむしろグルジアの民族格闘技チダオバ ウズベキスタンの民族格闘技 クラッシュなどといったユーラシア大陸系の技術が大半で
サンボ=広瀬武夫の柔道という
何でもかんでも日本が起源と主張するのは誤りだと指摘したいのです。(そういった日本宗家的考えが日本の柔道を弱くした原因になったわけですし逆にその日本宗家的考えを反面教師にした石井が金メダルを会得したのも必然だったといえます。)
それと広瀬の柔道はあくまで立ち技 投げ技を主体とした講道館柔道ですので
サンボのような危険なw複合関節はむしろ古流柔術系統が得意とするもの
サンボの創始者ハムランピエフが柔道をバックボーンにしたのは間違いないですが
彼よりも柔術(柔道ではない)を学んだサモザシータのスピリドノフの影響の方が遥かに大きいです。
よってサンボ=広瀬武夫が元祖というのは
ハムランピエフの師オシチェンコフが柔道留学したのである意味正しいのですが
彼らよりも柔術をバックに持つスピリドノフやグルジアのチダオバ ウズべキスタンのクラッシュ がルーツといった方が現在の技術体系から考えてみても正しいと言わざるをえないと思います。 

投稿: NダDサク | 2009年3月 9日 (月) 22時26分

描き忘れてました。
ハムランピエフの師オシチェンコフが柔道留学したのは広瀬武夫の影響を受けたからです。

投稿: NダDサク | 2009年3月 9日 (月) 22時30分

広瀬武夫は元々は柔術家です。軍務の合間に柔術/柔道の稽古をするには講道館が一番便利だったから軍人になってからは講道館で稽古するのが多かったけれど。(この辺は余裕がなく調べずに当てずっぽうで書いていますが)ロシアでも「柔術家」と名乗ったはず。

ブラジリアン柔術に抑え込みがないのは、想定している「実戦」が喧嘩だからでしょう。喧嘩ではただ抑えていても仕方がない。それに比べると「首取り」を実戦の理想型としている柔道/柔術には抑え込みがあった。「実戦で抑え込めば即首が取れる」というのじゃありませんよ。実際の首取りにはそれこそパウンドのようなことが必要でしょう。しかし、それでは競技にならないので、寝た状態で抑え込めるほど差をつけられれば、「もし実戦で何をしてもよいのだったら殺せるはず」ということにしたのでしょう。(これも調べずに書いていますが)

投稿: 三十郎 | 2009年3月10日 (火) 03時03分

追加。前にも書きましたが、柔道と柔術はけっこう仲良くやっていますよ。嘉納治五郎の主導でスポーツ化・競技化をはかる必要があったのはやむを得ないでしょう。

グルジアの格闘技については知らないのですが、サンボの強引な技には、レスリング技などの影響も独自の工夫も当然あるでしょう。しかし、スターリン時代には柔道/柔術にはまったく触れなかったのですよ。その名残がたとえば平凡社世界百科事典の「サンボ」の項目です(ひょっとしたらもう改訂しているかも知れないが)。いまは日本サンボ協会のサイトでは柔道のこともちゃんと書いています。

投稿: 三十郎 | 2009年3月10日 (火) 03時20分

回答ありがとうございます
ただ
こちらとしてはお答えいただいたものがまだまだ納得出来るものではないので敢えてまた異を唱えさせていただきます。
というのも古流(戦国時代)の寝技というものは実は仰向けのものよりもうつ伏せのものの
方が多いというのは国際武道大の柏崎克彦先生の言葉です。
それは甲冑古流の型を見ればわかると思います。
というのも前にも描いたと思いますが前面での抑え込みはやはり武器を持った相手に抵抗される恐れが多い。
それとやはり誤解される人たちが多いようなので敢えて書きますが当時(戦国時代)は現在の柔術やサンボや柔道に見られるような高度な寝技は存在しなかったと思われます。(三角絞めやら腕ひしぎやら腕がらみやら)
実際には現存する竹内流や柳生心眼流のような逆手や当て身や投げで相手をねじ伏せてうつ伏せにし小刀で相手の首を斬る。
戦国の甲冑柔に分類される流派はおおよそこのようなシンプルな寝技です。
重たい甲冑を身につけてしかも帯刀しての寝技ですから実際にはそんなものだったのでしょう。

そのシンプルな寝技が高度な絞め技 関節技に発展していったのは江戸時代
戦国の甲冑柔ではなく素肌柔が隆盛化する江戸の時代に 【乱取】という稽古法が行われてからだと勝手に推測しています。
素肌柔に分類される天神真楊流などでは腕ひしぎや十字絞めなどが存在します。

素肌柔は平和な時代 捕り手の術としても活用していました。(凶悪犯罪者相手などを捕えるため この辺は現在の警察に採用されている合気道やらサンボ アメリカの警察に教えているグレイシーなどと共通しております)
町人などは戦国の武士とは違い帯刀したり甲冑で武装しているわけではないので
素手の相手を捕える為に高度な素肌柔が発達したのでしょう。
それと戦国時代の甲冑古流の型のみの稽古法では高度な関節技やら絞め技を考案するのは不可能です。
実践と研究の二つで技術が開発されるわけですから。

明治になると田辺又右衛門初め乱取稽古の研鑽で寝技の名手が古流の中から生まれます。
不遷流というと高度な寝技の流派と誰しもイメージしますが現存する同流は
通常の古流となんら変わりありません。
というか不遷流滝本派などは寝技よりも当て身で有名な流派だったりしますし。
これらのことから考えるに田辺の得意とする足がらみや足挫きは
高専柔道の学生たちが考案した足の大逆 三角絞め同様乱取稽古から誕生したのだと推察出来ると思います。
私の考えでは古流そのものに寝技の技術があったというよりも古流の人たちが寝技の乱取稽古に明け暮れて講道館のトップを追い詰めるほどの寝技を編み出したと考えています。

それとブラジリアン柔術を引き合いに出したのは講道館側の「亀を抑え込みにする攻防は試合や稽古が成り立たなくる」という迷信を打ち砕きたかったからなので
ブラジリアン柔術が戦国の実戦の技術だと言いたいのではないのでここに記しておきます。
彼らブラジリアン柔術の草分けであり最大ファミリーのグレイシー一族
エリオやカーロス兄弟はオフィシャルのバーリトゥードなどで有名ですが彼ら一族の多くはどちらかといえば非公式のバーリトゥード(道場や路上で行う野試合)の修羅場での経験の方が多いらしく
それらが現在の柔術ルールの基になっているとも言われます。
実際問題 亀の状態になって首を守っていてもMMAのルールならそれで安心出来ますが非公式のバーリトゥードの場合では後頭部や頸椎に肘を簡単に落とせますし
それとパウンドという技法ですが
それらはオープンフィンガーグローブで手が保護されるMMAならではの技術で素手でガードの相手を思い切り殴っても時には自身の手の甲が簡単に骨折することが多いので素手だとグローブの時ほど破壊力のあるパウンドは出来ないというのも事実です。
それに関してはこちらの動画を見てもわjかると思います。
http://www.rioheroes.com/

あと広瀬武夫が海軍の軍人で講道館柔道を学び黒帯を五人抜きしロシアでレスラー3人を
投げ飛ばしたのは有名ですが
広瀬が柔術を学んでいたのは初耳です。
そのソース元はなんなのでしょうか?

それから広瀬がロシアで教えていたのは柔道です。
それらの証拠は文献でも探せば見つかる筈です。
広瀬の教え子オシチェンコフも柔道サークルを指導しており日本では古流の道場ではなく
講道館で柔道を学んでいることからもわかると思います。
そのオシチェンコフの教え子ハムランピエフがサンボを創始し
その中に講道館柔道も影響を与えていると思いますが
やはり旧ソ連のサンボには日本柔道の基礎原理である八方崩しの原理が無いことに立ち技ではチダオバの影響の方が強いと考えられます。

またオシチェンコフや広瀬が教えた柔道よりもディナモで指導していたビクトル・スピリドノフ(オシチェンコフと同年代)が指導していたサモザシータの方が日本の柔術の影響が強いでしょう。
彼は満州で日本人と何らかの接点が有ったのかドイツ語の柔術教本を参考にしたのかわかりませんが日本の柔術を学んでおりそれをディナモで指導したと言われています。
スピリドノフは柔道には否定的な考えを持っていたとも言われています。
スピリドノフ初めとするサモザシータの人間が日本の柔術書籍(海外に発行された書籍も含め)を読み関節技を研究し身につけた。
その可能性も高いです。
そう考えれば日本で禁止技になり失伝していった足挫き 足がらみといった足関節技がユーラシア大陸のサンボで生き続けた理由がわかるというものです。

投稿: NダDサク | 2009年3月10日 (火) 21時53分

なるほど、専門的ですね。参った。
 広瀬武夫については、島田謹治『ロシヤにおける広瀬武夫』(ロシアではなくロシヤ)に、講道館入門前に柔術のナントカ流(失念、本が手許にありません)を修業していたとある。
 戦前の少年向けの本『軍神広瀬中佐』でロシア海軍のレスラーと勝負して絞め落とした話を読んだ覚えがあります。「殺した!」と非難されるのですが、活を入れて蘇らせる。
 仰有るように甲冑着用で細かい技はできないでしょうね。力任せで、それこそ熊谷次郎直実対平敦盛のような組み討ちでしょう。「戦場での実戦」を建前として、平和な江戸時代に実際は実戦と離れた技術が発展して行ったのは、剣術と同じでしょうね。

投稿: 三十郎 | 2009年3月10日 (火) 22時19分

http://koctagon.hp.infoseek.co.jp/tanaka-diary005.htm
私みたいな半端モンよりも専門家の田中康弘先生のコラムを読めばサンボの歴史とか技術体系がよりわかると思います。
サンボは柔道関係者から見れば強引な力技の集まりにしか見えないでしょうがサンボは全身の体力を有効に利用する為の優秀かつ合理的な技術の集大成です。
やってみればなによりわかると思います。

まだ描いてなかったことがありましたね。
講道館のオフィシャルストーリーでは講道館と古流はとても仲が良かったように描かれているかもしれませんが実際には何度も揉めていることもありますよ。

例えば明治時代寝技日本一と呼ばれた田辺の足関節は危険ということで講道館が中心となって(実はその時古流もそれにならってしまう…)足関節そのものを禁止技にしてしまう。
それと田辺が試合で講道館からの関西遠征組最強の磯貝を寝技で攻めまくりあと少しで一本勝ちが出来るというところを無理やり中止にし皇族の眼前で逃げたのに試合を引き分けにしたとか。

古流だけではなく高専やら牛島のプロ柔道やら関西の武徳会&武專にも講道館は何度も圧力を加え彼らと溝が出来ている。
武徳会のトップ磯貝が関西の代表となって高専の学生やら古流の柔術家の声を代弁し講道館と揉めたことが何度もあります。(その都度 関西の柔術 柔道関係者からも武道家として一目置かれている講道館の飯塚国三郎がネゴシェイダーになって仲を取り持っています)
高専の学生のときには嘉納自ら寝技への引き込みを禁止に持って行かせようと圧力を加えたりしたこともあります
牛島のプロ柔道には三船久蔵ら講道館の幹部からは邪道扱いまでされる始末(戦後の柔道復興のためとはいえ占領軍のトップからチョコーレートをもらってはしゃぐなどの男芸者ぶりを発揮したのは当時の三船ら講道館幹部たちです 逆にやりたい放題している不良占領軍のチンピラ相手に暴れ占領軍からもリスペクトされ占領軍に柔道を指導したのはプロ柔道の木村政彦だったりします)
80年代では全柔連(講道館)と学柔連の派閥争いで学生を試合に参加させないなどの横暴も行っています。
講道館にしろ他の格闘技にしろオフィシャルストーリーというものは都合の悪い真実を隠していることが往々にしてあります。
それらの事実も三十郎さんのブログで発表していただきたいです。

投稿: NダDサク | 2009年3月10日 (火) 22時34分

追加。私はロシア語は読めないので、サンボについては発言権なしです。むかし神保町で『サンボ入門』という本を買って読んだら「サンボは日本の柔道と違って観念論哲学に毒されていない」と書いてあってビックリした。「柔よく剛を制す」「精力善用」などが観念論哲学なのでしょう。

投稿: 三十郎 | 2009年3月10日 (火) 22時35分

レス早いですね…
ソースありがとうございます。
こんなにも早く答えが来るとは全く思っていませんでした。(汗)
ただ現存する格闘技の技 柔術(古流ではない)サンボ柔道など の技術が実戦とはかけ離れたものとは考えません。
実際問題 現在の米軍では柔術や柔道やサンボMMAの技術などが採用され指導されています。
時代と共に戦場の組み討ちも進歩していると思われます。
http://www.youtube.com/watch?v=IoKG5ZBDyg8

投稿: NダDサク | 2009年3月10日 (火) 22時47分

的外れな質問でしたらすみません。
レスリングの技で ヘッドロック、フルネルソン、また裂き、トーホールド、
立ち技での腕の取り合いからダブルリストロック(関節が極まるわけではないが)
フォールは奪えませんが、一時的に流れを変えるつなぎ技としての
効果?あるんですよね?レスリング起原の技ですよね?
ヘッドロックでほう骨、本気で締めたらヤバイですよね。
素人感覚ですが。

投稿: hiroyama | 2017年3月27日 (月) 04時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/28454648

この記事へのトラックバック一覧です: 柔道か柔術か(65):

» [格闘技][武道][歴史][ブログ]”スモールタニ”谷幸雄がハッケンシュミットに挑戦していた。 [見えない道場本舗]
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/65-cf0d.html のエントリは、エストニアという小国から当時の世界の中心・ロンドンに身一つで渡り、現地の王者が築いた地位をそのままぶん取って栄光と富を作り上げた男が、逆に未知の存在に挑戦されそのリスクを恐れるとい... [続きを読む]

受信: 2009年3月 6日 (金) 04時55分

« 小沢一郎 | トップページ | 柔道か柔術か(66) »