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2009年3月29日 (日)

プロの美人たち(9)

 職業的美人はリリー・ラントレーのほかにも何人かいた。
 政治家ウィンストン・チャーチル(1874-1965)の母親、ジェニー(1854-1921)もそのひとりだった。彼女はチャーチルの父、ランドルフ・チャーチル(1849-95)と1874年に結婚して、以後レディ・ランドルフ・チャーチルと呼ばれるようになった。公爵家の次男とアメリカの大富豪の娘の結婚は「金メッキの売春」の典型だと言われた。(独身貴族のモデル(1)(2)参照)

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 英国首相(1940-45, 51-55)ウィンストン・チャーチルの母親について書かれた本としては『チャーチルの愛した日本』がお勧め。これは前にも使わせていただいた。ただ題名はよくない。日本を愛したのは1894年(明治27年)に来日した母親の方だ。チャーチルは別に日本を愛してなんかいなかった。インドを失ったのは日本のせいもある、と思っていただろう。

 それはともかく、このお母さんはなかなかすごい人で、最近テレビドラマにもなったらしい。

・ものすごい美人で、リリー・ラントレーに匹敵するプロの美人であった(年齢はリリーが1歳年上)。
・愛人が200人くらいいた。
・その大部分が大物で、一番偉いのは英国皇太子だった。
・少年時代のチャーチルは、ほとんど構ってもらえなかった。
・夫のランドルフには、政治家の妻として内助の功を尽くした(浮気と政治は別だった)。
・息子のウィンストン・チャーチルの政治的キャリアも大いに助けた。
・3度結婚した。2度目の夫は長男ウィンストンと同年。3度目の結婚は65歳のときで相手は32歳。
・アメリカ・インディアンの血が混じっている(祖父がイロコイ族)と言われるが真偽は定かでない。
・手首のあたりに蛇の入れ墨があったという説がある。
(続く)

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2009年3月28日 (土)

プロの美人たち(8)

 リリー・ラントレーと皇太子の関係は1880年6月まで続いた。しかし、1879年6月にフランスの大女優サラ・ベルナール(1844-1923)がロンドンを訪れると、皇太子はこの女優に入れあげ、リリーも愛人を作った。

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(サラ・ベルナール)
 
 1880年に皇太子と別れると、それまで請求を控えていた債権者が押し寄せて大変なことになった。夫のエドワード・ラントレーはこれで破産した、という説もあるが、これは間違いなのだそうだ。
 皇太子の後釜になったのは、英王室の親戚でオーストリアの太公であるルイ・バッテンベルグ(1854-1929)だった。バッテンベルグ家は第一次大戦のときにマウントバッテンという英国風の苗字に改姓した。最後のインド総督であったマウントバッテン伯爵はこの人の息子である。
 りりーは1881年に女の子を産んだ。父親はもちろん夫ではなかったが、ルイ・バッテンベルグでもなかったらしい。

 1880年に皇太子と別れたあと、何か生計の道を見つけなければならなかった。友人のオスカー・ワイルドが女優になったらどうかと勧めた。これは大成功で、特にアメリカで人気が出た。イギリスで公演するときには、初日に皇太子が見に来て、楽屋を訪問して談笑するのだった。 
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   アメリカの百万長者の愛人になった。夫は1897年になってようやくリリーと離婚し、まもなく亡くなった。
 リリーは1899年、46歳のときに自分よりはるかに若い男爵と結婚し、モナコで1929年に亡くなるまで豊かに暮らした。
 彼女の墓は生まれ故郷のジャージー島にある。

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2009年3月27日 (金)

プロの美人たち(7)

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 1877年5月24日の夜、サー・アレン・ヤング主催のパーティで、皇太子はリリー・ラントレーの隣の席に坐れるように手配させた。リリーの夫ももちろんパーティに出たが、離れた席に坐らされた。皇太子はすぐにリリーに夢中になった。まもなくリリー・ラントレーが皇太子の半公式的な恋人であることは公然の秘密となった。そのうちに奥さんのアレクサンドラ妃もリリーと会って、親しくなった。

 リリーの夫はどうしていたか? 社交界では夫婦一緒に行動するから、夫は妻と皇太子の関係を知って知らないふりをしなければならなかった。これは相手が皇太子だからというわけではない。上流階級では、一定の条件がある場合、姦通が半ば公認されていたのだ。騒ぎ立てるような野暮な真似はしないことになっていた。
 この「一定の条件」が具体的に何かまではまだ研究していない。ともかく姦通公認の場合があることを頭に入れておかないと西洋の本を読んでも分からないことがある。
 これはもう少し後の20世紀に入ってからであるが、バートランド・ラッセル(1872-1970)の自伝にも姦通の話が出てくる。

 ラッセルは政治的には進歩派で自由党に属し婦人参政権運動などをしていたが、友人で同志の自由党代議士の夫人がラッセルの愛人として周囲も公認の存在だった。ラッセルがほかのガールフレンドとつき合うときは、この愛人に気づかれないように友人たちが協力した。彼女の夫も当然二人の関係は知っていたが、ふつうにラッセルとつき合っていたようだ。これはどうもよく分からない。
 ラッセルと愛人とはそのうちに何となく疎遠になって別れた。
 大分たってから、別れた理由が判明したという。ラッセルはそのころ歯槽膿漏だったので、キスをすると大変に臭いのだった。しかし当時の上流階級に属する愛人は「あなたの口が臭い」なんて下品なことは恥ずかしくて言えなかった(姦通は平気だったけれども)。
 ラッセルが手術して歯槽膿漏が治ったと聞いて、愛人がよりを戻しましょうと言ってきたけれども、そのころにはもうラッセルの方でその女性に関心を失っていたのだそうだ。

 皇太子とリリー・ラントレーの関係は、1877年後半から1880年6月まで続いた。皇太子はドーセット州に二人で過ごすための邸、Red Houseを新築した(現在はラントレー・マナーという名前のホテルになっている)。設計はリリーに任せた。

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 皇太子はリリーに
「あなたには軍艦を一艘を建造できるくらい(お金)を出したのだ。I've spent enough on you to build a battleship.」
 と言った。
  リリーはすぐさま答えた。
"And you've spent enough in me to float one."
「そうですわ、軍艦を一艘浮かべられるくらい……」(訳を完成せよ)

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2009年3月26日 (木)

プロの美人たち(6)

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 プリンス・オブ・ウェールズがリリー・ラントレーに会いたがった。
 当時のプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)はアルバート・エドワード(1841-1910)だったが、1901年に60歳で即位してエドワード7世になるまで気楽な部屋住みの身分で大変な遊び人だった。
 シャーロック・ホームズの『ボヘミアの醜聞』のボヘミア王のモデルはこの人だと言われる。彼は父親のアルバート公がドイツ人だからドイツ訛りがあり、奥さんのアレクサンドラはデンマーク王室出身、すなわちスカンディナヴィアの王女であった。

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  ボヘミアの醜聞ではじめフォン・クラム伯爵と名乗った依頼者は何と言ったか?
「お二人とも二年間は絶対に他言せぬと誓っていただきたい。二年たてば、この一件は問題がなくなる。だが現在のところは、ヨーロッパの歴史を左右する大問題だといっても過言ではないのだ」
 不品行が知られれば結婚できぬかも知れない。しかし結婚してしまえばもうこちらのものだ。「二年たてば、この一件は問題がなくなる」ので、あとは浮気でもなんでもし放題ということだろう。実際、アレクサンドラ妃は「バーティの浮気は性分だから」とあきらめていたようだ。
  現代と違って
「夫が浮気するなら、私も仕返しに浮気してやる」
 なんて恐ろしいことを考えはしなかったのだ。
 もし王妃や皇太子妃が浮気などしたら、ヘンリー8世がしたようにロンドン塔に閉じ込めておいて首をちょん切る――というのは、いくら何でも16世紀ではないので無理だけれど。

 皇太子アルバート・エドワードがリリー・ラントレーにはじめて会ったのは1877年5月24日だった。リリー23歳、皇太子36歳だった。(続く)

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2009年3月25日 (水)

プロの美人たち(5)

 Professional beautyというフレーズを流行らせるのに一番功績があったのはフランク・マイルズ(1852-1891)という画家だった。彼はオスカー・ワイルド(1854-1900)の友達で愛人だった。ちなみにコナン・ドイル(1859-1930)やシャーロック・ホームズ(1854-)は、彼らの同時代人である。
 このマイルズは上流の女性をモデルにした水彩画が専門であり、その最も有名なモデルでプロフェッショナル・ビューティの典型となったのが、リリー・ラントレー(1853-1929)である。

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(マイルズによるリリー・ラントレーのスケッチ)

 リリー・ラントレーはジャージー島出身の職業的美人で女優であり、「ジャージー・リリー」の綽名で知られた。彼女は、後にエドワード7世(在位1901-10)になる皇太子アルバート・エドワード(愛称バーティ)をはじめてとして多くの有名な愛人がいた。

 ジャージー島で英国国教会の聖職者の娘に生まれたリリーは、1874年20歳のときに6歳年上のアイルランドの地主エドワード・ラントレーと結婚し、まもなくロンドンに出てきた。彼女は社交界にあこがれていた。
 父親の友人の主催したパーティに出たときに、彼女は美貌とウィットでたちまち注目を浴びた。当時は一張羅の黒服しかなく宝石類も身につけていなかったのであるが。

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 その晩のうちにマイルズはリリーのスケッチを何枚も描き、それらは絵葉書として売り出された。有名な画家ジョン・エヴァレット・ミリアスの描いた「ジャージー・リリー」という肖像画はロイヤル・アカデミーに展示されて大反響を呼んだ。

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 彼女はさらにジェームズ・ホイッスラー(1834-1903)をはじめ当時の有名画家たちのモデルにもなった。
 たちまち有名になった。あちこちからパーティへの招待が殺到した。街を歩けば見物の人だかりができる。写真や絵の複製が至るところに飾られる。ヴィクトリア女王がぜひ会いたいと仰せられて謁見がかなった。
 はじめ黒服しか着なかったのは、夫のラントレーにあまり金がなかったからだが、その問題は何となく片付いた。彼女のようにプロフェッショナル・ビューティになってしまうと、服飾費はほとんどかからない。宣伝になるので向こうから着て下さいと持ってくるのだ。
 プロフェッショナルという言葉には「お金を稼ぐ」という含意がある。絵や写真のモデル料が入ったが、現代のヘアヌード写真集なんぞとは違うから、そんなに大規模な稼ぎではなかったはずだ。石鹸や化粧品などもプロフェッショナル・ビューティが使っている品には箔がついた。しかしテレビコマーシャルのような仕組みはまだなかったので、確実な収入があったわけではないようだ。
 それでも、リリー・ラントレーは田舎地主の夫人からプロフェッショナル・ビューティになって、社交に必要なお金は調達できる信用がついた。すなわち借金ができるということで、これは貴族の夫人でも同じである。社交にはいくらお金があっても足りないのだから。
 どこのパーティでもPB(professional beauty)が不可欠になった。「PBを呼んであります」と言えば、パーティに人が集まるのだった。PB二人が鉢合わせすることもあった。
 リリーのほかに、何人かの女性がプロフェッショナル・ビューティと目されていた。その中には政治家ウィンストン・チャーチル(1874-1965)の母親、レディ・ランドルフ・チャーチル(1854-1921)もいた。
 プロフェッショナル・ビューティ二人の鉢合わせ状態のことを頭に置いて、ホームズはレストレードとグレッグソンのことを

They are as jealous as a pair of professional beauties.

 と言ったのですよ。「商売女」ではありません。
 しかし、リリー・ラントレーのことをもう少し見ておこう。(続く)

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2009年3月24日 (火)

プロの美人たち(4)

「職業的美人」とは何か。
 英国でprofessional beautyというフレーズが使われるようになったのは、1870年代の後半からだ。
 写真撮影が簡単になったためもあって、上流人士、特に女性の写真をショーウィンドウなどに飾るという奇妙な流行が始まった。
 正典にもホームズとワトソンがそういう写真を見に行くシーンがありました。
 
 われわれが目撃した悲劇について、ホームズは私には一言も語ろうとしなかったが、私はその朝中ずっと、彼がひどくもの思いに捉えられていることに気付いていて、そのうつろな目つきと上の空といった風情からして、必死に何かを思い出そうとしているところなのだという印象を受けていた。ちょうど昼食が半ばに差しかかった頃、突然ホームズが跳びあがったのである。「そうだよ、ワトソン! 分かったぞ!」と彼は叫んだ。「帽子をかぶるんだ! 一緒に来たまえ!」彼はベイカー街からオックスフォード街へ駆け抜け、もう少しでリージェント・サーカスという所にやって来た。左手のとある店にショーウィンドウがあって、当代の名士や美女たちの写真が一杯に飾ってあった。

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 その一枚にホームズはじっと見入り、私も彼の視線を追って、宮廷参内の礼装に身を固め、高価なダイヤモンドをあしらった頭飾りを頭に被った威厳ある貴婦人の写真に目がとまった。あの優雅な曲線を描いた鼻、凛とした眉目、きりっとした口元、小さいが強い顎を、私はそこに認めた。そしてかつてこの女性の夫君であった大貴族政治家の由緒ある称号を読んだとき、私は息を呑んだ。私の目がホームズの目と合った。そしてそのウィンドーから遠ざかりながら、彼は指を唇に当ててみせた。(高山宏訳)

 かつては女性の美貌がもてはやされても個人的な知り合いの範囲に限られていた。ところが写真を飾る習慣によって貴婦人なのに一種のpublicityを得るということが生じた。それがいかにも胡乱に感ぜられて、professionalという芳しからざる形容詞をbeautyに冠するようになったのだろう。
 この貴婦人もプロフェッショナル・ビューティたる資格を備えていた。たぶんそのひとりだった。ところが、チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンの毒牙にかかって失墜したのである。
 典型的なプロフェッショナル・ビューティは、写真だけでなく絵のモデルにもなることが多く、その美貌が広く一般に知られた。(続く)

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2009年3月23日 (月)

桜はまだか

やまざくら〔山桜〕
〈名〉The wild cherry; the mountain-cherry
◇敷島の大和心を The spirit of Yamato's isles 
  人問わば    If, chance, a stranger shall inquire, 
  朝日に匂う   Go show the morning sun that smiles 
  山桜花     Upon the mountain-cherry fair!

さくらぎ〔桜木〕
〈名〉The cherry-tree
◆花は桜木、人は武士 
The samurai is among men what the cherry is among flowers―The cherry among flowers, the samurai among men.

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2009年3月22日 (日)

プロの美人たち(3)

 OEDのprofessional beautyの例文は

1887 Pall Mall G. 11 Feb. 4/2
Ladies raised…to the now extinct position of "professional beauty".

 今や絶滅した「職業的美人」の地位に挙げられたレディたち
というペルメルガゼット紙の記事であるが、どうも具体的には分からない。

 これより古い1879年の例文がある。
http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9D01E1D71E3FE63BBC4C52DFB1668382669FDE

 ニューヨーク・タイムズ紙の1879年7月14日号の記事です。
PROFESSIONAL BEAUTYという見出しがあって

In England, within a few years, certain women, conspicuous for physical charms, have come to be known as professional beauties. The title would seem infelicitous, for they hold the position, socially, of ladies, and are presumed to be in private life, although the presumption is somewhat violent. ……

英国で最近数年の間に、美貌で人目を引く一部女性が「プロフェッショナル・ビューティ」と呼ばれるようになっている。この女性たちはレディたる社会的地位を有しており、かつ全く私的な生活を送っていると推定されるので、かかる称号は不適切ではないかとも思われるのであるが、一方、この推定は乱暴である。……

 全文はView Full Articleをクリックすると見られる。なかなか面白くて、professional beautyとは何かがよく分かるのだけれど、ちょっとむつかしいかも知れない。翻訳するのは大変だ。(OEDの例文はさらに遡ることが分かった。英国内でprofessional beautyのさらに古い用例があるはずだ。)
 professional beauties(略してPB)は「職業的美人」と仮訳することにして、どういうものか一から解説した方が早い。
 OEDにも出ているのだし、そんなに珍しいものではない。日本語ではたとえば丸谷才一の『猫だって夢を見る』にPBのことが出ている。商売女と訳して平然としているのは不勉強だ。(続く)

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2009年3月21日 (土)

プロの美人たち(2)

  professionalを辞書で引いてみると、たとえばリーダーズプラス英和辞典では

professional
n (知的)職業人, (技術)専門家; 本職, くろうと, 職業選手, プロ (opp. amateur); 《口》 商売女, 売春婦, くろうと.

 とある。なるほど。でもこれは名詞としての用法ですからね。
professional beautyの場合は形容詞として使っているのだ。それにbeautyを無視してはいけないよ。
「プロフェッショナル何とか」というのはけっこう出てきますね。
 ヒュー・ブーンという名前の有名なprofessional beggarがいました。

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 レオナルドという名前のprofessional acrobatが出てきたのは、どこでしょう?
 ホームズがアマチュアであるのに対して、レストレードなどはprofessional detectiveであった。
 professional boxerは正典に何人も出てきた。しかしこれは自称であって、ワトソンは彼らのことをprize fighterと呼んでいた。
 ボクシングは護身術に使うものだ。ホームズのように趣味にする者もいる。職業としてボクシングをする者をprofessional boxerという。
 professional beautyというのは、
「美人であることが職業である女」という意味のはずだ。
「商売女」というけれども、その「商売」は「美人であること」ではない。もっと別のことだ。
 professionalという英語がたまたま「くろうと」という日本語と重なるように見えるから、リーダーズプラスは
《口》 商売女, 売春婦, くろうと.
という語釈をつけたのだろうけれど、これはちょっと安易だ。よくない。
 日本語の「くろうと」は「売春婦」のことではない。売春婦がしろうとでないことは明らかであるから、わざわざ「くろうと」とは言わない。

 お蔦は主税に
「別れる、切れるは芸者のときにいう言葉……」
 と言ったのだった。芸者の場合には「商売」は「芸」であって、こういうのを「くろうと」というのだ。

Hukeizu

professional beautyをOEDで引いてみよう。

professional beauty, humorously applied to a lady with the implication that she makes it her business to be a beauty, or to be known as such.

レディについて、美人であることを職業にしている、あるいは職業的美人として知られているという含意で冗談めかして言う言葉

これだけではよく分からない。例を挙げなければならないけれども、ともかくladyについていう言葉なのであって、絶対に「商売女」のことではありません。(続く)

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2009年3月20日 (金)

プロの美人たち(1)

"Gregson is the smartest of the Scotland Yarders," my friend remarked; "he and Lestrade are the pick of a bad lot. They are both quick and energetic, but conventional -- shockingly so. They have their knives into one another, too. They are as jealous as a pair of professional beauties. There will be some fun over this case if they are both put upon the scent."

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「グレッグスンは警視庁でもちゃきちゃきの腕ききのひとりなんだ。この男とレストレードはボンクラ刑事の中では優秀なほうだ。ふたりとも敏捷で精力家なんだが、ただ型にはまりすぎていてね。まったくあきれるほどね。そしてお互いに対抗意識が強くて嫉妬しあうところなんか、まるで商売女みたいだな。この事件にふたりとも関係するのだったら、きっとおもしろいことになるだろうよ」

『緋色の研究』の第3章。訳文は延原謙氏。挿絵はホームズがこれを言ったあとで現場へ行ったときの情景です。
 しかし、ちょっと変なところがないだろうか。「まるで商売女みたいだな」は、professional beauties=商売女と解したのだろうが、果たしてこれでよろしいか?

 新しい訳はどうなっているだろうか。
 光文社文庫の日暮雅通氏訳
「……商売女も顔負けの醜い対抗意識に凝り固まっている。……」

 商売女でよろしいか? 
 このローリストン・ガーデンの怪事件が起きたのは1881年のことだという。ホームズはまだ27歳だった。グレッグソンとレストレードの二人とホームズはこれからも長いつきあいになる。その間、ホームズが二人のことを一貫して「ボンクラ刑事の中では優秀なほうだ」と見ていることは確かだ。
 それにしても
「商売女みたいだな」
「商売女も顔負けの醜い対抗意識に凝り固まっている」
はちょっと可哀想でしょう。
 確かに頭は悪い。でも、それはワトソンだって同じだ。二人が大いに頑張っていることはホームズも認めているのだ。
 たとえばレストレードについては
「考える方はてんで駄目だが、いったんすることが分かったら、もうブルドッグみたいにしつこく食いついて離さないよ。スコットランド・ヤードでのし上がったのも、このしつこさのおかげだ」
 と、一応はほめている。このときは実際に犯人を逮捕したのだ。 

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 グレッグソンも色々な事件で大活躍するので、二人をホームズが「商売女」呼ばわりするはずはありません。間違いですよ。

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2009年3月19日 (木)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(5)

 グレート・ガマは1910年に英国で2試合だけ戦ってインドへ戻った。
 1914年、第一次世界大戦が勃発した。戦争が終わったあとの1919年4月13日には、アムリッツアルの大虐殺事件があった。公園に集まっていた5000人のインド人に英軍が発砲し、400人以上が殺された。
 1920年にはマハトマ・ガンジーが国民会議派の主導権を握り、非協力運動を指導し始めた。

Gandhi

 しかし、そういうことはガマには無関係であった。彼はインド式レスリングに専念しておればよかった。1910年からは彼はパタリアのマハラジャのお抱えレスラーになっていた。
 1928年、マハラジャは見本市のアトラクションとして、ガマ対ズビスコの再試合を行わせることにした。

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 1928年1月29日午後4時15分、特別に建てられた4万人収容の大競技場で、48歳のガマと51歳のズビスコは再び相見えた。
 この試合は、すぐにケリがついた。試合時間は49秒、42秒、21秒、10秒などの説がある。ガマがズビスコを地面に投げ、すぐにおおいかぶさってフォールを奪ったという。「ガマの圧勝であった」ということらしいが、ロンドンで行われた1910年の試合と違って、各新聞が詳しく報道したわけではないので、試合内容は今となってはよく分からない。観客は「インドが勝った! インド万歳!」と歓声を上げたという。ズビスコが勝つわけには行かない試合だったのだろう。

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(1960年のガマ)

 ガマは1960年に78歳で亡くなった。(1953年死亡説は間違いらしい。)
 ズビスコは1967年に88歳で亡くなった。
 以上グレアム・ノーブル氏の記事による。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_noble_0802.htm

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2009年3月15日 (日)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(4)

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 ガマ対ズビスコ戦は、250ポンド賞金試合として1910年9月10日に、ロンドン五輪(1908年)開催のオリンピック・スタジアムで行われた。6万8000人収容のスタジアムに1万2000人の観客が集まった。

Zybszkogama1910

 試合開始から1分もたたないうちに、ズビスコは倒され、そのまま試合終了まで守勢を取り続けた。亀になった(原文にはHe became a tortoise.とは書いてない)。 http://ejmas.com/jalt/jaltart_noble_0702.htm
 しかし、うつ伏せになってマットに張り付いたままであった。
 ガマはハーフネルソンなどをかけようとしたがズビスコには効かない。
 ガマが四つん這いのズビスコのバックを取ったまま2時間が経過した。ようやくズビスコが立ち上がり、ガマの胴をクラッチして投げようとした。少し体が浮いたけれども投げは効かず、両者はまた倒れて、またガマが上になった。
 試合時間が2時間35分になったところで、引き分けになった。
 1週間後の9月17日に再試合が行われることになった。しかし、時間になってもズビスコは現れなかったので、ガマが勝者と認定され、賞金250ポンドを受け取った。

 猪木対アリ戦みたいな大凡戦であった。
 ズビスコが非難されたのは当然として、ガマにも寝技の技術が足りないという批判があった。
 ガマがズビスコを「投げてみせる」という挑戦状を出したことで分かるように、インドのレスリングは投げ技が中心だった。インド式ではフォールは片方の肩を付ければよかった。ズビスコのような強敵を相手にして、英国式キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに適応するのはむつかしかったかも知れない。

 この試合はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールで行われた。つまり現在のアマレスのフリースタイルとほぼ同じルールである。
 柔道か柔術か(68)で述べたように1908年には、このルールでアマチュアはロンドン五輪を戦い、日本の前田光世などのプロは世界チャンピオン決定戦を戦った。
 これは
(1)勝ち負けを事前に決めない真剣勝負だった。
(2)勝負はフォールで決め、サブミッションはなかった。

 同じ時代にアメリカでは、すでに上の(1)(2)について別の考え方をしていたようだ。
 ジョージ・ハッケンシュミットとフランク・ゴッチはアメリカで二度、1908年と1911年に戦い、いずれもゴッチの勝ちということになったが、ガマ対ズビスコ戦のような公明正大な戦いではなく、様々の疑惑が残っている。
 
 ゴッチはすでに一種の関節技を使っていたようだ。(ガマ対ズビスコ戦では関節技は禁止だった。ガマがズビスコの足首を掴んだときにレフリーが「トゥーホールドは禁止だぞ」と言った。)

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 下の技などは、上の技と似たようなものだ。こういうのを「アメリカンキャッチの源流を受け継いだ」とか何とかいいたいのなら勝手ですが、英語の用法の間違いですよ。

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 青木真也のすごい関節技などは、やはり柔術が元でしょう。

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2009年3月13日 (金)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(3)

 遂に挑戦者が現れた。
 1910年8月8日、アルハンブラ劇場でグレート・ガマ対ベンジャミン・ローラーの三本勝負が行われた。200ポンド懸賞試合であった。この試合は首絞めとフルネルソンは禁止というルールで行われた。
 相手のベンジャミン・ローラーはアメリカのプロレスラーで体重は234ポンド(106キロ)だった。

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 この試合は、ガマの楽勝だった。1本目は片足タックルからハーフネルソンに入って1分40秒にピンフォール。2本目もタックルで倒すと、相手を防戦一方に追い込んで9分10秒でフォール勝ちした。
 
 試合が終わると、スタニスラウ・ズビスコが現れ、ガマと握手した。
 ガマ対ズビスコ戦は1ヶ月後の9月10日に行われることになった。
 ズビスコは、ガマ戦に備えてトレーニング・キャンプを張り、体重を250ポンド(113kg)から238ポンド(108kg)程度まで落とした。

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 ガマもトレーニングを続けた。ヒンズースクワットやダンド(インド式プッシュアップ)などを行った。

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 この運動は、現在の日本のプロレスラーもするのではないだろうか。Strength and Health誌の記事によると、ガマは3時間続けて2000回以上行ったという。

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2009年3月12日 (木)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(2)

 挑戦者が出てこないので、ガマの方から挑戦することにして、同じ雑誌に広告を出した。

ガマ対ズビスコ
 ガマはズビスコとロンドンで戦い、1時間以内に3回投げてみせる。100ポンドまたは200ポンド懸賞試合。

Stanislaus_zbyszko

ガマ対ゴッチ
 250ポンド懸賞試合

ガマ対世界
 ガマは世界中の誰とでも戦う。100から500ポンド懸賞試合

インド対日本
 ガマは博覧会に出ている日本人レスラー30人全員を1時間以内に投げてみせる。
 ただし、一人ずつかかり、15人投げたところでガマは10分間休憩するものとする。

 これは何だ? 日本人レスラー30人全員? タニなどの柔術家がレスリングもしていたらしいけれど、30人もいたのか?
 1910年の時点で「30人の日本人レスラー」がロンドンにいたのだ。
 1910年5月14日から10月29日まで、ロンドンで日英博覧会が開かれていた。

Japanbritish_exhibition

 日本は日英同盟の強化を狙って1900年のパリ万博の3倍の展示面積を使用して大博覧会を開いた。日本庭園を二つも作った。日本が着々と近代化を進めていることを示すために、展示には力を入れた。特に美術工芸品や日本庭園は好評を呼んだ。

 この展覧会のアトラクションに、日本の相撲取が30人余参加していた。
 以下、 坪田敦緒氏の「大関伝」
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/ohzeki/oo0.html
 に大幅に寄りかかって書きます。この坪田氏のサイトはすごい。
 坪田氏によると
 京都相撲の横綱に大碇紋太郎(明治2年生まれ)という人がいた。1910年(明治43年)には41歳である。
 この人は明治28年に東京の大相撲の大関になった。170cm、105kgだったが、特別に小さいわけではない。同じころの17代横綱の小錦八十吉は168cm、130kgだった。
 大碇は明治29年に大関から陥落すると脱走して京都相撲に入った。明治32年に横綱になったが、所詮京都のお山の大将でうだつが上がらない。明治43年に日英博覧会のアトラクションの話があったのに飛びついた。以下、坪田氏の文章をそのまま写させてもらう。

 43年ロンドンで日英博覧会が開かれた時、渡りに船と30余人の力士団を率いて渡英。開館式の時は全員化粧廻しの正装に、肩から名入りの襷をかけて派手なデモンストレーションをやった。大碇は横綱を締めてその先頭に立って、意気揚々、半年間「ジャパニーズ・レスリング」を披露した。閉幕後、力士たちは現地解散を余儀なくされ、大半は帰ったが、残った者はレスラーやサーカスの芸人になり、大碇も一部の力士を連れて各地を放浪したあげく、南米チリで没したといわれる。大正10年頃までは健在だったようだが、没年ははっきりしない。

 どうも可哀想な話ですね。
 ガマはこの「ジャパニーズ・レスリング」を見て「雑魚ばかりで大したことはない」と思ったのだろう。東京の大相撲が巡業したのだったら、こうは行かなかったはずだ。明治43年は最強の横綱太刀山の全盛時代が始まったところである。
 
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 188cm、150kg。その恐るべき怪力は400kgの砲弾も片手で持ち上げ振り回したり、釜山でロシア製500kgの弾丸を一人で運んだり、怪力話も常にケタ外れ。この怪力を活かし相手を捕まえて背中から落とす呼び戻しは仏壇返しの異名で突っ張りとともに恐れられた。
(ウィキペディアによる。しかし、400kgや500kgという数字はいくら何でも怪しい。バーベルを持ち上げるデッドリフトでも世界記録は455kgである。)

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2009年3月11日 (水)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(1)

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 1910年4月、グレート・ガマ(1882-1953)は3人の同僚レスラーとともに英国に着いた。
 ガマは身長5フィート7インチ(170cm)、体重200ポンド(約90kg)だった。彼はインドにはもう敵がいなくなったので英国に来襲した――というと、いかにもプロレス的だけれども、ほんとにそうだったらしい。
 ベンガル人の百万長者がスポンサーとして遠征費用を出した。彼はガマにイギリス人をやっつけてもらいたかったのだ。

 ガマ一行はHealth and Strength誌に広告を出した。

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・チャンピオン
India’s Catch-as-catch-can Champions
が誰の挑戦でも受ける。

全インド・チャンピオン ガマ 
ラホール・チャンピオン イマム・バク
アムリッツァー・チャンピオン アームド・ブクシュ
ジュルンドゥル・チャンピオン ガム

この4人が5分以内に投げることができなかったレスラーには国籍を問わず5ポンド進呈。

これで英国プロレスラーの挑戦を待ったけれども、相手も商売だから挑戦者が現れなくて困った。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_noble_0502.htm
 を見て書いています。
 このサイトはものすごく詳しく書いてある。
 たとえばどういうトレーニングをしたか? もちろんヒンズースクワットなどです。(ただしガマはヒンズーではなくイスラムだった。)
 しかし、上のサイトでIndia’s Catch-as-catch-can Championsを検索してみて下さい。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはランカシャーに限らないよ。

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不遷流柔術

 スモール・タニこと谷幸雄(1881-1950)は、不遷流柔術を学び、1900年に渡英した。ミュージックホールなどでレスラーと戦い不敗であった。1918年からは英国武道会で柔術/柔道を教えた。

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 不遷流、田辺又右衛門。ポルトガル語のサイトから。だから年月日など不明。
  下の写真には明治39年と書いてあります。嘉納治五郎が一番偉かったけれども別格というほどではなかったようだ。「柔道」という名称も「講道館のもの」というわけではなかったらしい。柔術諸派も交えて「柔道形」を制定したのですね。
(明治39年は1906年である。タニ・ユキオは英国で活躍していた。前田光世は1904年の年末に渡米し、1907年2月に英国に着いた。1906年にはキューバにいたらしい。)
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2009年3月10日 (火)

柔道か柔術か(68)

世界チャンピオン決定戦
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

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 大きな大会ではよくあることだが、いくつか番狂わせがあった。ライト級で本命だったドイツのピーター・ゴッツ (1887-1944)が減量に失敗したが、ミドル級に出て2位になった。日本の弘前出身のヤマト・マエダ(前田光世1874-1944)はヨーロッパにいる日本人では最強であり、柔道の世界的普及に最も功績があった人物であるが、ミドル級に出てオーストリアのヘンリー・アースリンガーに1ラウンドで負けた。ところが彼はヘビー級にも出て、こちらでは2位になった。
 これは初めてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン国際選手権戦であった。イングランド、スコットランド、アイルランド、オーストリア、ドイツ、イタリー、スイス、日本の8カ国からレスラーが参加した。

 成績は次の通り。 (全員がプロレスラーです。)

ライト級-10ストーン (63.5kgs)
1位 ジャック・キャロル 2位 F・トンゲ 3位 J・ベントレー
ミドル級-12ストーン (76.2kgs)
1位 ジョー・キャロル 2位 ピーター・ゴッツ 3位 H・アースリンガー
ヘビー級
1位 ジミー・エソン 2位 ヤマト・マエダ(前田光世) 3位 J・ストックリー

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(上の本は探しているのですが、見つかりません)
 
 アルハンブラ劇場で行われたこの世界チャンピオン決定戦の5週間後に、ヘングラー・サーカスのトーナメントが行われた。これは8週間続き4重量級に135選手が参加した。このトーナメントの終了後に1908年ロンドン五輪が開催された。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは大成功で、5カ国のレスラーがメダルを獲得した。グレコローマンでメダルを得たのは7カ国のレスラーだった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)のバンタム級で銅メダルを得たカナダのオーベール・コテ選手はカナダ初のメダリストであった。彼は自分の農場を抵当に入れてロンドンまでの旅費を捻出していた。

 大英帝国のアレクサンドリア王妃がホワイトシティ・スタジアムで優勝者にトロフィーを授けたとき、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは遂に国際的なアマチュアスポーツとして認められたのである。
 1908年ロンドン五輪では、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイル・レスリングは次の階級で行われた。
バンタム級 (54kgs)
フェザー級 (60.30kgs)
ライト級 (66.6kgs)
ミドル級(73kgs)
ヘビー級 (73+kgs)

(*プロは76.2kg以上、アマは73kg以上がヘビー級である。ハッケンシュミットは体重99kgで筋肉の塊だったから、百年前には驚異の的だった。)

オリンピックでの認知

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイングランドでアマチュアスポーツとして公式に認められたのは1888年にアマチュア体育協会によりオリンピック用のスポーツとして受け入れられて以来である。これは英国オリンピック協会のS・ド・カーシー・ラファンの努力による。彼はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンを1914年のパリ大会でオリンピック種目に含めるべく論陣を張った。しかし同年第一次大戦が勃発したのだった。
 英国は1908年ロンドン五輪の成功を以後繰り返すことはできなかった。外国では政治的イデオロギー的理由でアマチュアスポーツの支援を強化し、アマチュアリズムを逸脱するに至っているが、英国の政治家はオリンピックの理想を信じてか超然たる態度を取ってきた。近年ようやく変化に兆しが見えてきたが、もう英国のレスリングは手遅れだろう。レスリングの競技人口は激減し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングのスポーツとしての存続は誕生の地で脅かされている。

*1908年の英国ではプロとアマチュアが同じ「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」のレスリングをしていた。つまり百年前の英国のプロレスは、現在のアマチュアのフリースタイル・レスリングとほぼ同じであった。寝技の地味な攻防を見るのに入場料を払う観客がいたのだ。(66)のアルハンブラ劇場でのプロレス試合の写真を見て下さい。寝技が見やすいようにリングを使わなかったのだ。
  1908年の大会では「番狂わせがあった」。つまり勝敗を予め決めておくという習慣はまだなかった。
   このような牧歌的な時代は第一次大戦とともに終わり、戦後の観客はもっときつい刺激を求めたから、アメリカ式プロレスが始まった――と思うのだけれど、これはまだ調べていません。

*アメリカでは、すでに20世紀初めからプロレスは「真面目なスポーツ」ではなくなっていた。「アメリカン・キャッチ」がどうこうなんて当てずっぽうでいい加減なことを書く人がいて困る。当時の新聞記事の抜粋があるからご覧なさい。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_svinth_0700.htm

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2009年3月 9日 (月)

柔道か柔術か(67)

世界チャンピオン決定戦
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

 イングランドで最も権威のある全国スポーツクラブ(National Sporting Club)は、新聞で「世界チャンピオン」「全英チャンピオン」「連邦チャンピオン」などの称号が乱用されているのを憂慮して、ライト、ミドル、ヘビーの3階級で真の世界チャンピオンを決定することにした。第5代ロンズデール伯爵(1857-1944)が同クラブの会長であり、世界チャンピオン決定戦の役員は(選手はプロだったが)全員アマチュアであった。役員の一人は英国アマチュア・レスリング協会会長のA・H・サザーランドであった。このチャンピオン決定トーナメントは毎年アルハンブラ劇場で開催するものとし、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの正統なチャンピオンを決定するプロのための大会であった。当時ヨーロッパ大陸の諸国はグレコローマンだけでよいと主張していたのである。この大会は当時のテクノロジーの許す限り広範囲に広告され、有力選手には 招待状が出された。しかし、ハッケンシュミット、タニ・ユキオ、スイスのシェルピロなどの有名選手は参加を断った。もし負ければミュージックホール・レスリングでの稼ぎがフイになると考えたからである。

*タニ・ユキオは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラー」として招待されたのである。前述のように、タニは柔術だけでなく裸になって「純レスリング」の試合にも出て好成績を収めていた。下の写真にも「世界的に有名な柔術とキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラー」と書いてある。(身長はやはり150センチ台のようだ。ほんとに「ポケットヘラクレス」の体型ですね。)

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*前田光世も1907年に渡英し、(柔術も披露したらしいが)盛んにプロレスの試合に出ていた。彼はこのチャンピオン決定大会にレスラーとして出場し、ヘビー級で2位になった。詳しくは次回。

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2009年3月 8日 (日)

品格?

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  大阪場所も頼む。

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 品格?

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2009年3月 7日 (土)

巧言令色鮮仁

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 最近では田母神論文というのがあった。なにかをいったから、辞めさせる。私はそんなことを考えたこともない。女房がとんでもないことをいうから、辞めさせて、取り替えよう。そんなことは露ほども思わない。
 
 私は田母神論文なんて、読んだことはない。読むつもりもない。なぜって自衛官つまり軍人は戦うのが本務なんだから、口ではその資質の計りようがないからである。論文がよくできていたら、むしろ信用しないであろう。巧言令色鮮仁である。
(養老孟司)

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2009年3月 6日 (金)

柔道か柔術か(66)

世界チャンピオン決定戦
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

 1904年のセントルイス五輪にはレスリングがあったが、これはフリースタイルだけだった。距離の問題もあり(当時は船旅)、グレコローマンがなかったこともあって、ヨーロッパのレスラーはわざわざ渡米しなかったから、これは実質的には全米選手権だった。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及にとって重要な年は1908年だった。この年、ロンドンで開かれた三大イベントがキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及を促した。まず、2月1日までアルハンブラ劇場で行われた世界チャンピオン決定戦、次にヘングラー・サーカスのトーナメントは5月6日に始まり8週間続いた。それが終わって2週間後にロンドン・オリンピックが開催された。

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*世界チャンピオン決定戦とサーカスのトーナメントはプロレスの試合である。オリンピックではもちろんアマチュア・レスリングを行った。この三つを対等に並べているのは

・アマレスとプロレスは同じ種類のレスリングをした。
・それは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイル」であった。
・したがって当時のプロレスには

(1)ドロップキックや空手チョップはなかった。(反則である。)
(2)垂直落下式ブレーンバスターのような派手な技はなかった。(相互の暗黙の了解がなければできない。)
(3)ジャーマンやダブルアームのスープレックスもまずなかった。(フリースタイルのルールでは、よほどの実力差がなければグレコの技は出せない。)
(4)関節技でギブアップを狙う戦いはなかった。(サブミッションは柔術のものでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技ではない――しつこいが繰り返しておきたい。)

* ドロップキックやブレーンバスターがプロレスに使われるようになるのは、もう少し後に「オールイン」が始まってからだ。その「裏技」として関節技が使われるようになったのだと思うが、この話はまた。

(ロンドン五輪のレスリング試合は屋外で行われた)

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(アルハンブラ劇場のプロレス試合。1910年。こちらは屋内)

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2009年3月 5日 (木)

柔道か柔術か(65)

英国における発展
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、ランカシャーではずっと人気が高かったが、南部では20世紀初めにはまだ盛んではなかった。それでもミュージックホールに出演して生計を立てるプロはいた。当時一番人気があったのはコーンウォールのジャック・カーキークというプロレスラーで、ロンドンのアルハンブラ劇場に毎晩出演していた。ところが、レスリングへの一般の関心をにわかに高めプロレスの黄金時代を現出することになる事件が起きた。カーキークは常々「世界中のどんなレスラーの挑戦でも受けて立つ」と公言していた。1902年3月2日の夜、客席から正装の男が4人、舞台へ上がってきた。観客を驚かせたのはそのあとから筋骨たくましい金髪の巨人が現れたことであった。誰あろう、グレコローマン世界チャンピオンのジョージ・ハッケンシュミットであった。

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 カーキークは前言を翻してハッケンシュミットとの対戦を拒否した。この出来事はたちまち大評判になった。ハッケンシュミットは一躍人気者になり、ミュージックホール・レスリングのブームが起きた。これは第一次大戦の勃発まで続いた。ジョージ・ハッケンシュミットは大金持ちになった。彼が英国に来た当初の稼ぎは週に7ポンドで一般労働者の週給の7倍程度であったが、まもなく週に350ポンドを稼ぐようになった。

*ハッケンシュミットもタニと同じようにミュージックホールに出演して「誰の挑戦でも受ける」と宣言し、挑戦者を次々と片付けた。タニとの違いは、あくまでレスリングのルールで戦い、フォールで勝負をつけたことだ。

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*この「ミュージックホール・レスリングのブーム」と柔術家タニ・ユキオの活躍が重なったのだ。タニは1903年11月、初めてハッケンシュミットに挑戦状を叩きつけた(柔道か柔術か16)。以後タニはハッケンシュミットに対して「柔術ルールで私と戦ってみろ」という挑発を続けたが、ハッケンシュミットの答えは一貫して「グレコローマンのルールなら戦う」というものだった。99キロ対57キロという体格差を考えればどんなスタイルでも勝てそうなものだが。実際、ハッケンシュミットは、グレコローマンだけではなく、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに転向してからも、圧倒的な体力でたいていのレスラーを子供扱いしてきた。しかし、タニに関してはあくまでも慎重だった。万が一にも負ける危険は犯したくなかった。ハッケンシュミットにとってタニは「ビジネスリスク」だった。もし負ければ、結構な稼ぎがフイになるのだ。(このあたりはThe Odyssey of Yukio Taniを参考にして書いています。)

 当時の英国のプロレス・ファンたちが
「ハッケンシュミットとタニが戦ったらどちらが勝つだろうか?」
と思ったのは、むかし私などが子供のころに
「ライオンと虎ではどちらが強いか」
を知りたがったのと同じだ。
  たとえば、ジェラルド・カーシュの『壜の中の手記』には、次のような一節がある。

「たとえば、ジョージ・ハッケンシュミットは史上最も偉大なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラーで、全盛期には最強の男の一人だったが、私に言わせれば、もしユキオ・タニとフリースタイルで戦ったら、果たして彼に勝ち目があっただろうか。」

 これはBIBIさんの「迷跡日録」というブログから引用させていただいた。
http://blog.livedoor.jp/akiotsuchida/archives/50635479.html

 しかし私(翻訳ブログ筆者)に言わせれば、この訳文(あるいは原文)はちょっとおかしい。前々から強調しているように「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとはフリースタイル・レスリングの別名に過ぎない」のだから。こう直すべきだ。

「たとえば、ジョージ・ハッケンシュミットは史上最も偉大なキャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイルのプロレスラーで、全盛期には最強の男の一人だったが、私に言わせれば、もしユキオ・タニと無制限(関節技あり)で戦ったら、果たして彼に勝ち目があっただろうか。」

 ハッケンシュミットはプロレスラーとして最強だが、当時のプロレスに柔術のような関節技はない。(プロレス・ファンは誤解しているけれど、「最強のレスリングとしてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」なんてなかった。まぼろしです。柔道か柔術か(33)あたりからずっとレスリングの歴史を書いているから、読めば分かります。)だから、ピンフォールで勝負をつけるのではなくて、ギブアップまで戦う無制限の戦い(訳文ではフリースタイルとなっている)をしたら、ハッケンシュミットがタニに勝てただろうか。ハッケンシュミットがタニを掴まえスープレックスの連発で失神させるか? タニが得意のアームロックでハッケンシュミットをギブアップさせるか?  ぜひ試合が見たい――当時のファンはこんなことを考えていたのではないか。

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2009年3月 4日 (水)

小沢一郎

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2009年3月 3日 (火)

柔道か柔術か(64)

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン
――フリースタイル・レスリングの歴史続き

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(1877年、バロダ藩王国におけるレスリング試合。英国軍将校と夫人たちが観戦している。)

  19世紀を通じて英国は最強の軍事力を誇り、広大な大英帝国内の各地、特にインドでは現地人の兵士が大量に募兵された。これらの現地人兵士が何よりも興味を示したスポーツはレスリングだった。インドでは各地域ごとに少しずつ異なるルールがあった。1937年になって公平な試合を促進するため、英印軍は兵士用の標準キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールを制定した。インドの藩王たちはレスリングを愛好した。多くの藩王がそれぞれ30人ほどのレスラーを抱え、他の藩王のお抱えレスラーと戦わせた。英国軍将校の中にもお抱えレスラーを持ち、巨額の金を賭けて藩王のレスラーと戦わせる者がいた。

*タニ・ユキオが1910年に訪英したインドの強豪グレート・ガマに挑戦したことは前に書きました(柔道か柔術か17)。ガマは挑戦を忌避したらしい。このガマ(1882-1953)も、インド中央部のダティア藩王国の藩王お抱えのレスラーだった。
 アントニオ猪木に腕を折られたアクラム(1930-1987)は、このガマの甥である。彼はBholu(1922-1985)を長兄とするパキスタンで有名なレスリング兄弟の四番目であった。

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 アクラム・ペールワンの「ペールワン」は、「チャンピオン・クラスのレスラー」というくらいの意味で、ガマは「ガマ・ペールワン」と呼ばれた(苗字はなかったらしい)。1976年にアクラムが猪木に負けて兄弟の名声は地に落ちた。それまで、兄弟は海外からきた多くの強豪を撃破してきたが、本気を出した猪木には敵わなかった。アクラムとしては、伯父のガマがスタニスラウ・ズビスコをわずか42秒で降した(1928年)ように、ペールワンたる自分が外国レスラーに負けるはずがないと思っていたのだろう。外国では柔術を取り入れてサブミッション・レスリングの研究が進み、イングランドには「スネーク・ピット」というジムまでできたことを知らなかったのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=ZS577WPbBbU
 上のyoutubeで見直してみると、早くも第一ラウンドに猪木がアクラムを腕拉ぎ十字固めに捉えている。極まらなかったのは相手が「二重関節」だからだと猪木は言うが、そうではないと思う。「まさか折ってしまうわけにも行かない」と躊躇して逃げられたのだろう。ところが第二ラウンドで相手が噛みついてきたので、「ギブアップしないのなら折るのもやむを得ない」と決心したものと見える。パキスタンでは猪木は今でも最強の男として尊敬されているという。

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2009年3月 2日 (月)

柔道か柔術か(63)

フリースタイル・レスリングの歴史続き

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 フランク・ゴッチ (1878-1917)は、アイオワ州に生まれたドイツ移民の子だった。彼はアメリカのスポーツの偶像となっている。彼が二度にわたってジョージ・ハッケンシュミットに勝ったことがきっかけで、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはアメリカで重要なスポーツとなった。第一回の試合は、1908年4月3日にシカゴのデクスターパークで1万人の観客を集めて行われた。 ゴッチが不正行為や反則をしたという主張がなされたが、アメリカのファンにはそんなことはどうでもよかった。大切なのはアメリカ人のチャンピオンが勝ったことだった。

*ゴッチは体にオイルを塗り、ひっかき、目潰しなどをし、打撃を加え、相手の鼻に少なくとも一発パンチを浴びせたといわれる。これはハッケンシュミットの伝記による。

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 リターンマッチは1911年9月4日にシカゴのコミスキー球場で行われ3万5千人を集めた。ゴッチの勝利はアメリカ人の琴線に触れた。熱狂的な愛国心がはやった時代に何でもアメリカがベストだという確信を与えたから。フランク・ゴッチは史上最強のレスラーで「世界チャンピオン」だということになった。

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 ゴッチのレスリング・キャリアには芳しからざる点もあったのだが、ともかくこの勝利はアイデンティティを求めていた若いアメリカを刺激しレスリング熱が盛んになった。今日レスリングはアメリカで7番目に人気のあるスポーツで、何千という競技者がいる。 ノースダコタ州で開かれるジュニアの(高校生の?)レスリング大会は世界一の規模で、約4千人が参加する。2003年には8日間にわたって23面の国際式マットを使用して7118試合が行われた。地元経済に与える効果は1000万から1200万ドルであるという。

*ゴッチは「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスラーの世界チャンピオン」になった。これによってアマレスが盛んになったと筆者は言うのであって、プロレスには触れていない。フランク・ゴッチの引退(1913年)とともに「真面目なプロレスは終わった」と一般に言われている。ゴッチが果たして本当に「真面目な」レスリングばかりをしていたかどうかはともかく、後の世代のプロレスラーよりもふつうのアメリカ人に尊敬されていたようだ。

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2009年3月 1日 (日)

柔道か柔術か(62)

国際的発展――フリースタイル・レスリングの歴史続き

 国際的な発展は、1870年、スコットランド人のレスラー兼怪力男のドナルド・ディニー(1837-1916)のアメリカ巡業とともに始まった。ディニーは、グレコローマン、スコットランドのバックホールド、コーンウォール・デボン式(着衣レスリング)、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンなどの各種レスリングの選手たちと巨額の賞金をかけて異種格闘技戦を盛んに行った。当時アメリカではグレコローマンが一番盛んだったが、北東部の州ではイングランドから輸入した各種着衣レスリングも人気があった。このうち「カラー・アンド・エルボー」は、アイルランド起源であるとよく言われるが、それは正しくない。

*ウィキペディア英語版には、「カラー・アンド・エルボー」がアイルランド起源の柔道によく似た着衣レスリングであると書いてあるが、筆者はその記述が正しくない(アイルランド起源は疑問だ)と言う。ウィキペディア英語版には「この記事には情報源が示されていない」「ウィキペディアの品質基準を満さない」と注記がある。
*コーンウォール式レスリング(Cornish wrestling)の方は現在も行われているらしい。下は2002年の取り組み。

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 イングランドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスラーたちはアメリカを巡業して大きな成功をおさめた。1879年にはエドウィン・ビリー、1881年にはジョゼフ・アクトン、1888年にはトム・キャノンが渡米し、彼らの活動がこのスタイルのレスリングの人気を高めた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、それまでアメリカで行われていた独自の着衣レスリング、コーンウォール・デボン式、グレコローマン式などと比べてはるかに柔軟で活動的だったからだ。アメリカでも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの人気が高まるにつれてその他のスタイルへの関心は薄れて行った。トルコの強豪レスラーたちがフランス巡業を経てアメリカにやってきたことも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに対する一般の関心を高めた。中でもビッグ・ジョゼフとして知られたコカ・ユスフ(1857-1898)は特に有名だった。彼が海難事故で死んだとき、 抜け目のないプロモーターは、ユスフは泳ぎが達者なのにレスリングで獲得した賞金1万ドルの金貨(25kg)を腹帯に入れていたので溺れ死んだのだという話をでっち上げた。

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*エイブラハム・リンカーン(1809-61)は若いころレスリングが強かったという話がある。ウィキペディアによれば
「1832年4月11日の地方新聞(イリノイ州ビアーズタウン)にレスリングの試合でロレンゾ・ダウ・トンプソンがエイブラハム・リンカーンを2-0で破ったという記事がでた。」
  リンカーンはどういうスタイルのレスリングをしたのだろう?

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