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2009年4月 2日 (木)

プロの美人たち(10)

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 チャーチルのお母さんの話の続き。
 1874年に結婚して、長男ウィンストンは8ヶ月の早産で生まれた。
 1880年には次男ジョンが生まれたが、ランドルフが父親でないことは公然の秘密だった。結婚後2年ほどたったときから、ランドルフとジェニーの夫婦関係はopen marriageになっていた。
 しかし、ランドルフが1886年に保守党のソールズベリ内閣で大蔵大臣にまでなったのはジェニーの内助の功が物をいったのだった。

Parents

 ランドルフは若いころに梅毒にかかったらしく、1890年代になると第三期の症状が現れ始め、議会での演説にも障害が見られるようになった。1894年になると症状はますます進み話ぶりも支離滅裂になってきた。せめて余命のあるうちに世界一周をさせておこうと考え、ジェニーは夫とともにアメリカに渡り、カナダ、日本、香港、ビルマ、スエズ、フランスなどを経て年末に英国に戻った。ランドルフは1895年1月に亡くなった。

 ウィンストン・チャーチルは1893年に陸軍士官学校にで合格し、1895年に20歳で卒業して少尉に任官した。

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 皇太子アルバート・エドワードとジェニーの関係は、ランドルフの死後1897年ごろからとくに親密の度を加え、彼女はほかに追随を許さぬ皇太子のパートナーとして社交界に君臨した。(関榮二氏の本による)

 1898年、ウィンストン・チャーチルは、インド北西辺境部(現パキスタン)で自身が騎兵将校として従軍した作戦を描いた『マラカンド野戦軍』を出版した。皇太子はチャーチルに次のような手紙を書いた。

 御高著御成功にて何より。一言祝辞を申し述べざるを得ず候。実に興味をもって拝読。叙述、用語も大体見事と存ぜられ、読まざる人はほとんどなく、読んだ人はいずれも賛美いたしおり候。一度実戦に参加された以上、さらに戦場馳駆の希望を有せらるべく、またフィンカッスルのごとくV・C(ヴィクトリア勲章)拝受の機会到来も疑わず候。さりながら何卒彼のひそみに倣わざるよう願上候。フィンカッスルは残念ながら議会に入るため軍職を退く由に候。
 貴君はなお春秋に富む身なり。M・P(代議士)の称号を付するは、軍に尽瘁したる後にてよろしからずや。御健勝を祈り候。敬具
   1898年4月22日
            モールバラ・ハウス(御所)内
                              A・E
  ウィンストン殿
                                                      (中村祐吉訳)

 このとき、アルバート・エドワード皇太子56歳、チャーチル23歳、母43歳であった。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

投稿: 株の初心者 | 2014年7月30日 (水) 15時43分

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