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2009年4月25日 (土)

レスラーに一票

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 アントニオ猪木とモハメド・アリの世紀の一戦は1976年6月26日に行われた。
 試合開始は午後2時か3時だったように記憶している。近くの喫茶店へテレビを見に行った。大入り満員で数十人が大型テレビに見入っていた。
 結果はご存じの通りで、大いに失望した。途中で「何だこれは。もうプロレスなんか二度と見ないぞ」と言って出てゆく者もかなりいた。私は最後まで見た。
 どういう試合になると思っていたか? 

・プロレスではなく真剣勝負だろう。
・猪木の勝ちだろう(そうなって欲しい)。
・パンチ一発で猪木KO負けもあるかも知れない(それもまたよし)。
 
 なぜ猪木が勝つと思ったかというと、しばらく前にアメリカのプロレス雑誌で
A Vote for the Wrestler(レスラーに一票)という記事を読んだからだ。
 雑誌の企画で、ヘビー級のプロボクサーとレスラーを実際に戦わせてみた、という記事だった。
 結果は、レスラーがタックルでボクサーを倒して終わり。低くタックルに飛び込むレスラーにボクサーのパンチは当たらない。何度やっても同じだった。
 猪木ほどのレスラーなら、当然やってくれるだろう。ドリー・ファンクとの試合は「息のあった名勝負」だったが、ほんとは猪木の方が強かった(と思った)。
 しかし、アリは規格外のボクサーだ。パンチが当たるかも知れない。一発で倒されても猪木の恥ではない。
「猪木はなぜタックルに行かなかったのか」
が不思議だった。しかし、もうプロレスに関心を失っていたので、深くは考えなかった。
 なぜタックルしなかったのか?
 答えは、猪木はタックルができなかったから。
 柳澤健氏の『完本1976年のアントニオ猪木』を読んで納得した。コロンブスの卵だ。

 当時世界最高のプロフェッショナル・レスラーのひとりであった猪木には、グラウンドで相手をコントロールする技術も体力も経験もあった。
 だが、相手を倒す(テイクダウン)技術に関してはまったくの素人であった。(柳澤 p.87)

 今だったらアマチュアのレスラーをコーチに招いてタックルだけを特訓しただろう。猪木ならばすぐにタックルをマスターできたはずだ。当時はそういう発想がなかったのだろう。残念なことだ。

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2009年4月24日 (金)

人という字は

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「人という字は人と人が支えあってできています。だからみなさんも…」
 これをどう英訳しますか? 名案があったら教えてちょうだい。
 実はもう翻訳してしまったのですが。もちろん、適当にやっておきました。
「契約条件はしかじか。支払金額は何月何日までに何億何千万円」というのになると、実にシビアです。二重にチェックする。
 お金がからまないと翻訳もだいぶ気楽にやれる場合がありますね。

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2009年4月23日 (木)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味(4)

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(1)「昔からオールイン(ALL-IN)と呼ばれる試合形式があったんだ」
(2)「ベアナックルボクシングとCACCをミックスしたものだ」

 All-INと呼ばれる試合形式は昔からあった。ビル・ロビンソンが1938年に生まれる前からあった。しかし西暦何年ごろに始まったのか、分かるとよいのだけれど。
 本当に「ベアナックルボクシングとCACCをミックスしたもの」だったのか? 
 もしそうなら、現在のMMA(総合格闘技)から、絞め技と蹴りを取り除いたようなものだ。
 そういうすごい競技が何年ごろから何年ごろまで、どこで行われていたのか? もし「興行」として行われていたなら、MMAに関連して話題になりそうなものだ。小生不敏にして、このGスピリッツの記事ではじめて知った。不思議だ。不思議だ。

 ビル・ロビンソンが「プロレスの温故知新」をする必要は毛頭ない。貴乃花が相撲の歴史なんか語る必要がないのと同じだ。
 しかし、もし
「現在の総合格闘技に近いものが、昔のイギリスにあったらしい」
 というようなことを聞いたら、ライターたる者
「エライこっちゃ」
と驚くべきだ。格闘技の温故知新に乗り出すべきだ。
「いつ、どこで、誰々が戦ったか?」
「どういう決まり手があったか?」
「新聞はどう報道していたか?」
 
 見かねてど素人の私が乗り出しかけたのは、実はずいぶん前のことです。
 柔道か柔術か(38)に、all-inという言葉が「レスリングで制限がないこと」という意味で初めて使われたのは1913年だと書き、例文を挙げている。

A fight is just a fight: Catch-as-catch-can, All-in, and Best-your-enemy-anyhow!
(戦いは戦いだ。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンでも、オールインでも、「何でも勝てばよい」式でも。)

 もう一つ追加。柔道か柔術か(33)で
Wrestling: Catch-as-Catch-Can, Cumberland & Westmorland, & All-in Styles
という1928年の論文を紹介した。その一部と原文を挙げる。

カンバーランド・ウェストモーランド式、グレコローマン式、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン式、オールイン式、あるいは日本の相撲においてさえ、軽量級はふつう重量級にかなわない。

(Alike, therefore,) in the Cumberland and Westmorland, Graeco-Roman, Catch-as-Catch-Can, All-in, or even the Japanese sumo styles of the art, lightweights do not usually contend against heavyweights.

 これらのAll-inはどういうレスリングか? 「ベアナックルボクシングとCACCをミックスしたもの」ではないでしょう。

 言葉の専門家(プロレスはもちろん素人)としては、ここまで調べれば仕事は終わりだ。大体の見当としては(33)で書いたように

 catch-as-catch-canは、グレコローマンのような制限がないレスリングという意味だ。
 20世紀になって、さらに制限が少ないオールイン(all-in)式レスリングが現れた。これが興業として行われるようになったのが、現在のようなプロレスである。オールインとは「何でもあり」の意味であるが、もちろん本当に何でもありではない。目潰しなどの危険な行為は当然禁止である。格闘技戦で使うようなパンチやキックも禁止である。暗黙の了解に反するような行為も事故につながるから当然禁止である。

 ということになる。ここまで「見当」をつければ素人の出番は終わりです。
 あとは、もしプロレスの専門家という者がいるのなら、「そんなことはない。いつどこでこういう試合があったことを見てもそれは間違いだ」と反証を出してくれればよろしい。もちろん「その通りです」と言ってくれてもよい。

  でもビル・ロビンソンがこう言いました? だめ。通訳は英語ペラペラでも内容が分からないと適当にごまかします。本人から直接英語で聞いても、信用はできるとは限らない。
 ロビンソンはものすごく強かった。しかし昔の英国の話をさせて正しいという保証にはならない。彼はあくまでインフォーマント(現地情報提供者)扱いすべきだ。「いつ、どこで、誰が」を問いたださずに信用してはならない。(まだ続く)

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2009年4月22日 (水)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味(3)

 それでは、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルで確定です。どちらさんも、よござんすか、よござんすね。次の話に入ります。

 GスピリッツVOL09の052頁、ビル・ロビンソンの言葉の和訳

「イギリスには昔から"オールイン(ALL-IN)"と呼ばれる試合形式があったんだ。ベアナックルボクシングとCACCをミックスしたものだと思ってくれたらいい。クリスマス近くには"ボクシング・デー"と呼ばれる日があって、毎年その日にはオールインの興行が開かれるんだ。……」

 ロビンソンさんの英語が書いてないから、和訳が正しいかどうかは分からない。ここでは正しいと仮定しよう。内容は間違いです。
 前に北の湖親方の例を挙げたのは、人間風車ロビンソンのレスリングに関する発言を素人の私が否定したいから。

(1)「昔からオールインと呼ばれる試合形式があったんだ」
 ロビンソンさんが生まれた1938年より前からありました。
(2)「ベアナックルボクシングとCACCをミックスしたものだ」
  違います。
(3)「クリスマス近くには"ボクシング・デー"と呼ばれる日があって」

(3)から見て行こう。
 ロビンソン氏は
「ボクシング・デーとは拳闘の日だ」
 とは言わなかったようだ。しかし、ふつうの読者がこれを読めばそう思うのでは? 
 Boxing Dayとは何か。

Boxing Day
クリスマスの贈り物の日《12 月 26 日, 日曜に当たるとその翌日; 英国や英連邦の一部でこの日郵便配達員・ごみ清掃員・使用人などに →CHRISTMAS BOX を与える慣習がある; bank holidays の一つ》

Christmas box
クリスマスの祝儀《使用人・郵便配達人などに与える; ⇒→BOXING DAY》

 ボクシング・デーを「拳闘の日」だと思うのは、外人が「藪入り」をBush-inとでも訳するのと同じだ。

 ここまで書いて来てコメント欄を読んでみたら、那嵯涼介氏(N氏)が書き込んでいた。彼は「拳闘の日」だと思っていなかったという。よかった、よかった、一安心。でも、Gスピリッツの読者諸氏はそう誤読しただろう。私なら、初めから誤解を招かぬよう、はっきり記事に書いておくけれどなあ。
(1)(2) はどう違うのか?

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2009年4月21日 (火)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味(2)

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとは、「掴めるところを掴む」「掴めるように掴む」という意味だ。グレコローマンでは上半身しか掴めない。英国でランカシャー式レスリングよりも盛んだったカンバーランド・ウェストモーランド式では、右四つに組んで互いに相手の背中で両手をクラッチした体勢から始める。

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 これらの「掴み方が制限されたレスリング」と比べて「自由にどこでも掴めるように掴む」レスリングがキャッチ・アズ・キャッチ・キャンである。
 これは私の意見ではない。「仮説」でもない。OED (オックスフォード大英語辞典)のような権威ある辞書にそう書いてある。複数の英国人のレスリング史家がそう書いている。柔道か柔術か(33)(34)と(39)-(43)と(59)-(68)を見よ。これらは私が書いたのではない。英語の原文を翻訳したものだ。私のコメントを付け加えた場合は、はっきり分かるように翻訳と区別してある。出典は明示してある。N氏とは違って私は秘密主義ではない。
 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルなのだ。

 国際レスリング連盟がキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルの競技会を開催し始めたころには、ルールはフランス語で書かれており、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをフランス語に訳するとlutte libreとなった。これをもう一度英語に訳すると「フリー・レスリング」であり、その結果、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは国際的には「フリースタイル」と呼ばれるようになった。

 上は英連邦アマチュア・レスリング協会のウェブサイトに書いてあることだ(柔道か柔術か(60)参照)。私が独自に主張しているのではない。

 OEDによれば

catch-as-catch-can=the Lancashire style of wrestling
 
 一番古い例文は1889年、W. Armstrong著Wrestlingという本のIntroductionにある。

In 1871, the late Mr. J. G. Chambers…endeavoured to introduce and promote a new system of wrestling at the Lillie Bridge Grounds, West Brompton, which he denominated, "The Catch-as-catch-can Style; first down to lose".

1871年に、故J・G・チェインバーズ氏は、ウェスト・ブロンプトンのブリッジグラウンドで、新方式のレスリングを導入し普及させようとしたが、これを「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイル、ファーストダウン・トゥ・ルーズ(先に倒れた方が負け)」と名付けた。

  現在のウィキペディアでは、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをCACCと略して、こう書いてある。もちろん間違いです。

ブリテン島で伝統的に行われていたレスリング競技のうち、イングランド北部のランカシャー地方で発達した流派、いわゆる「ランカシャー・スタイル」がCACCの元々の形であった。CACCという語は本来、「ランカシャー・スタイル」の別称である。なお、「ランカシャー・スタイル」の起源はアイルランド島である。

 伝統的にというが、西暦何年ごろから始まったの? だいたいでいいから教えて下さい。 「起源はアイルランド島である」とはどうして分かったのですか? 続いて

「ランカシャー・スタイル」が伝統的にどのような場で実践されていたのかについては、はっきりしたことは判っていない。

 と書いてある。もちろん、判るはずがない。

 再びOEDの例文。1957年、エンサイクロペディア・ブリタニカには

The Lancashire style, generally known as "Catch-as-catch-can" is practised in Lancashire, throughout Great Britain generally, and is the most popular style in the United States, Canada, Australia, Switzerland.

一般に「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」として知られるランカシャー・スタイル(レスリング)は、ランカシャーと英国全土で行われ、合衆国、カナダ、オーストラリア、スイスで最も人気のあるスタイルである。

 すなわち、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルですね。煩わしいからここでは全部は挙げないけれど、これが正しいことを示す例文がたくさん出ている。OEDをご自分で見て下さい。

 ウィキペディアには、さらに、ボクシング・デーとオールインについて間違いが書いてある。ネタもとのGスピリッツという雑誌が間違っているからだ。

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2009年4月20日 (月)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味(1)

 レスリングに関する古い英語の用法をビル・ロビンソンに聞いても、正しい答えが返ってくるとは限らない。
 たとえば「野見宿禰と菅原道真の関係」を北の湖親方に聞いてもだめなのと同じだ。
 言葉を知らないのはレスラーやお相撲さんだけではない。英語でも日本語でも言葉はむつかしい。某副大統領はポテトを英語で正しく綴れなかった。某首相は「踏襲」を独自の読み方で読んだ。

 
  源氏物語についてなら、麻生さんに聞くよりはアメリカ人のサイデンステッカーさんに聞いた方がよい。サイデンさんは私より日本語歴が長いのだから、たいていのことは彼に聞いて分かるはずだ。もっとも外人特有の弱みはあって、口語、俗語、卑語、日常語、一部の固有名詞で知らない言葉はあるだろう。「ゴルゴ13」なんて知らないはずだ。こういうのは麻生さんに聞け。

 私はビル・ロビンソンの書いた英語を読んでいない。その英語を論ずるのは、プロレスライターの和訳(誤訳?)を通じてである。この男の間違いをロビンソン氏の間違いだと断じてしまうかも知れない。失礼を予めお詫びしておく。ロビンソンさん、私に怒らないでね。お腹立ちならNにダブルアームスープレックスをかけてやって下さい。

 GスピリッツVOL09の051頁に、Catch-As-Catch-Canの意味について、

ビル・ロビンソンは、「これは"やれるものならやってみろ"という意味のランカシャー地方の方言だ」と語る。

 と、ロビンソン氏の言葉を「引用」している。これは間違い。少なくともこの和訳は間違い。元の英語を引用しなければ意味がない。
 
 Catch-As-Catch-Canは「掴めるように掴む」「掴めるところを掴む」という意味だ。これは英語の用法の問題であって、調べれば分かることだ。
「やれるものならやってみろ」では、レスリングとどういう関係があるのか不明だ。第一Catchという英語がなぜ「やれる」とか「やってみろ」という日本語になるのか? こんなデタラメを書かれてはロビンソンさんが気の毒だ。

 ウィキペディア英語版のCatch wrestlingという項目は随分変なものだが、少なくとも次の部分は正しい。

The Lancashire phrase "Catch-As-Catch-Can" is generally understood to translate to "catch (a hold) anywhere you can".
「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」というランカシャー地方のフレーズは、一般に「掴めるところを(ホールドで)掴む」という意味になると理解されている。

 私が書いてきたことと同じだ。当たり前だ。他の意味に解しようがないのだもの。(続く)

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2009年4月18日 (土)

白地に赤く

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 むかし私が高校生のとき、ある先生がこう言った。
「私は日の丸が大好きだ」
「先生、どういうことですか?」
「日本の国旗、日の丸はいいというのだ。特にあの赤い所がよろしい。あの赤をどんどん大きくして行く。真ん中の丸だけでなく、旗一面を……」

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2009年4月17日 (金)

イチローと張本

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 イチローの大リーグでの初シーズン開幕前のことだ。テレビに張本勲氏が出ていた。アナウンサーが
「イチローは大リーグで三割打てるでしょうか?」と聞いた。
 張本さんは
「無理、無理。2割8分がいいところだよ」
「2割8分ですか?」とアナウンサーは不満そう。
「まあ、そんなもんですよ。日本の野球と大リーグは違うの」と張本氏。
 これは確かに覚えている。
 アメリカでも野球評論家が
「イチローとかいう日本人? あいつがもし首位打者を取ったら、私はタイムズスクエアを素っ裸で走ってやるよ」と言った。
 張本勲氏は裸で走るなんて言わなかったようだ。

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2009年4月16日 (木)

天照大神

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『岩戸神楽の起顕』三代豊国(安政4年)
特に意味はないんです。いま天の岩戸とか天孫降臨なんてのを英訳しているので、ちょっと出してみたかっただけ。

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2009年4月15日 (水)

間違いの伝言ゲーム

 英国におけるブジツ(武術)に一つ間違いがあった。写真のキックをしている男を私は谷であると書いたが、上西貞一の間違い。那嵯涼介氏の指摘による。感謝する。
 もう一つ、間違いを自白しておこう。
 私は柔道か柔術か(13)で

ところが誰もが尻込みして戦おうとしない。ようやく元全英チャンピオンのトム・キャノンがマットに上がったが、一分もたたないうちに投げ技をかけられ、マットの外の石の床に落ち、びっくりして参ったと言った。

 と書いた。これが間違い。投げ飛ばされたのはトム・キャノンではない。原文
……but none of these big guns could be persuaded to have a bout with Tani. A wrestler called Collins did go to the mat however and within a minute he was thrown heavily, falling outside the mat and on the stone floor.
 正解は「コリンズというレスラー」でした。訳さないで自分で語り直したのでうっかりした。
 この間違いは、自分で気がついたけれども、こっそり直すのも卑怯だと思った。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
 を参考にして書いています、と明記してあるのだから、具眼の士が見つけてくれかも知れない。そのとき「お詫びして訂正します」でよろしい。

 ところが驚くなかれ、私の間違った記述を那嵯涼介氏が少し変えて引用しているのだ。GスピリッツVOL09の054頁下段

そして今度はイギリスのCACCのトップレスラー、トム・キャノン、アントニオ・ピエリ、ジャック・カーキーを道場に連れて行って谷と立ち会わせようとしたが、誰も谷と戦おうとしない。やっとキャノンが重い腰を上げたが、1分も経たないうちに谷に投げ飛ばされてしまった。

 ビックリしたけれども、今まで黙っていたの。
 プロレス物の記述は眉唾だと私が言うのはこういうことがあるからだ。古館さんなら「おーっと。出た。間違いの伝言ゲームだ!」というだろう。
 だから、仮説だとか検証だとか、面倒なことを言っているの。

 私の関心は元来シャーロック・ホームズ学にあって、「バリツの起源」から格闘技に来たのだけれども、教養の水準の違いに戸惑っている。
 ホームズ学では「新説」を色々出し、その過程で大先輩の故延原謙氏を含めた人たちに「豆腐の角に頭を…」なんて失礼千万なことも書いたが、正しければ認めてくれるし間違っていれば指摘してくれるだけだ。

It is an impersonal thing -- a thing beyond myself.
とシャーロック・ホームズは言ったことがある。敷衍すれば
「問題は、誰がどうだ――たとえば僕が偉そうだとか――なんてことではない。あくまでも事実が客観的に正しいかどうかだよ」
ということでしょう。

 更なる間違いの伝言ゲームを防ぐために「独自」の間違いを指摘するのはまたの機会に。

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マンセー!

本日は金日成主席のお誕生日なのだ。
日本からはデビ夫人もお祝いに駆けつけたのだ。
ご生前の英姿を見よ。
김일성대원수 만만세 金日成大元帥 萬萬歲

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2009年4月14日 (火)

外人の見た相撲

明治初期の彩色写真。「何でも鑑定団」でこの種のものを見た覚えがある。白黒写真に色を塗って外人に売ったらしい。

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テレフォンカードがこういう綴りになるのか。どこの国だろう?

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2009年4月13日 (月)

英国におけるブジツ(武術)

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僕はバリツすなわち日本式レスリングの心得があって、それが一度ならず役に立ったのだ。
I have some knowledge, however, of baritsu, or the Japanese system of wrestling, which has more than once been very useful to me.
  ――Sherlock Holmes according to Dr. John H. Watson

僕は日本式レスリングを含むブジツの心得があって、それが一度ならず役に立ったのだ。
I have some knowledge, however, of bujitsu including the Japanese system of wrestling, which has more than once been very useful to me.
   ――シャーロック・ホームズの本当の発言

 正典ではシャーロック・ホームズが「バリツ」という不思議な日本語を使っている。しかし本当は「ブジツ(武術)」と言ったのをワトソンが聞き間違えたのだ――という説をとなえたのは、牧野伸顕であった。
柔道か柔術か(7))

 英国で(年代のことはひとまず措いて)柔術のほかにも日本の武術を広めようという動きはあったようだ。

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 これはタニ・ユキオの兄が剣術のデモンストレーションをしているところ。画像はちゃんと保存してあるのだけれど、元のサイトがどこか分からなくなってしまった。
 しかし、竹刀を両手で持って戦うというのは日本的すぎて受けなかったようだ。
 タニ・ユキオの兄は、英語資料によれば1900年に弟と一緒に渡英した。弟の幸雄はミュージックホールに出演したが、兄は「そんな見世物みたいなことができるか」というので帰国してしまった。ところが、NダDサクさんが「欧州の柔術について」のコメント欄に書いてくれたところによると、谷の兄の方が先に渡英していたらしい。まだまだ英語の資料だって出る可能性はある。誰か本当にブリティッシュミュージアムへ行って百年前の新聞雑誌を調べてくれないかなあ。

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 上も元のサイト不明。谷がマネージャーのアポロとデモンストレーションをしているところらしい。不遷流には空手みたいな蹴りもあったのか? 当て身ならあったに違いないが。どなたかご教示下さい。ひょっとしたらアポロと谷の二人で総合格闘技を開発するつもりだったのかも知れない。ところが柔術が大繁盛でその暇がなかったのだろうか。
 百年前の英国でMMAができていたら、というパラレルヒストリーを考えてみるのも楽しい。その場合、倒れた相手を殴り蹴るのは「スポーツマンらしくない」というので禁止されていただろう。桜庭対田村戦など、目をそむけしめるものがあった。この間の青木君も、あんなに上手なのに膝で強引に逆転されて本当に気の毒だ。レフリーがはやく止めてくれてよかった。

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2009年4月12日 (日)

サブミッション

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2009年4月11日 (土)

最強はこれだ

どこからでもかかってこい。

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2009年4月10日 (金)

欧州の柔術について

 柔術が欧州に伝わったのは、バリツの創始者バートン=ライトの功績である。彼が谷幸雄と上西貞一を指導員としてロンドンに招いたのが1900年のことで、それから柔術は英国に広まり、さらに欧州諸国にも広まっていった。
――私が読んだ限りの英語の記事によると、上のようなことらしいのだが、
これが正しいとは限らないことが分かった。
 これより早く、1899年以前に少なくともフランスには伝わっていたのではないか?

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 このイラストは前に出しました。「たぶん1900年代に英国で出たレスリングの本にあったものだろう。」(柔道か柔術か(51))と書いたが、そうではなかった。
 頁の上にLUTTEと書いてある。フランス語で「レスリング」の意味だ。英国の本に転載されたものかも知れないが、元はフランスだ――と思っていたら、ここで見つけた。
http://www.wrestlingsbest.com/collectibles/wrestuffartwork001.html

 1899年のフランスのプリントとある。
 フランスに柔道/柔術を直接伝えた人がいるのだろうか?
 嘉納治五郎は明治22年(1889年)9月29歳のときに宮内省の命を受けて(学習院教授だった)欧州教育事情の視察に赴き、1891年1月に帰国している。
 当然フランスにも滞在しただろう。柔道を披露する機会はあったかも知れない。しかし、嘉納はいそがしくて柔道ばかりはしておれなかったはずだ。門人を連れて行って、その人がしばらく滞在して柔道を指導したのだろうか? しかし、Jiu-Jitsuと書いてある。嘉納やその門人ならジュードーと称したはずだ。姿三四郎に敗れた柔術家(檜垣源之進だったけ)が渡仏したのかも知れない。
 日本語、フランス語の資料があるかも知れない。どなたかご存じではありませんか。教えて下さい。フランス語の資料を見つけた人はブログなどで解説していただけるとありがたい。私はフランス語は苦手なので。

おまけ
 上のサイトは一見の価値あり。ここから黙って引用しているほかのサイトがかなりあるようだ。ついでに一つ引用させてもらう。1827年、国籍不明、プリントとあるが、描かれているのは古代のパンクラチオンかも知れない。しかしフリチンで戦うのはいやだね。

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2009年4月 9日 (木)

アングルの王者(4)

 Svinth氏曰く。http://ejmas.com/jalt/jaltart_svinth_0700.htm

 本稿のテーマは、我々の曾祖父の時代のプロレスもサーカスの見世物であったことは現代のプロレスと何ら変わりがない、選手やプロモーターが観客をあおる方法が変わっただけだ、ということです。
 この点については昔から議論が絶えないので、一部のプロレスライターは

・世紀末から20世紀初めのレスリングは断じて筋肉演劇なんかではなく、まっとうな競技だった。
・フランク・ゴッチは(汚い手も使ったが)歴史上最強のレスラーだ。

 と固く信じているらしい。
 私は当時の新聞記事をそのまま引用したい。要約はしないから、ご自分で読んでご覧なさい。分かるはずです。

 というわけで、以下に1906年12月22日付けシアトル・メール&ヘラルド紙の記事がそのまま引用してある。以下1912年まで、何本もの新聞記事の引用の連続だ。
 これを全部訳するなんて面倒だ。私は適当に要約し、つまみ食いする。原文を読みたい人はお読みなさい。http://ejmas.com/jalt/jaltart_svinth_0700.htm

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 1876年生まれのベンジャミン・ローラーは大学の体育教師から1906年ごろにプロレスラーに転職したのでドク・ローラーと呼ばれた。この人の得意は「負傷アングル」だった。強豪との試合の後ではよく肋骨にひびが入ったと訴えて入院した。負傷するくらいだから真剣勝負だと訴えたかったらしいが、当時の新聞には見抜かれていた。

 1907年11月4日に、ローラーはワシントン州タコマ市でマクラグレンという21歳のレスラーと42分間戦っている。
 この相手はまもなくレスリングを辞め、ハリウッドへ行った。ジョン・フォード監督の『静かなる男』(1952年)でジョン・ウェインと壮絶な殴り合いを演じたヴィクター・マクラグレンである。モーリン・オハラのお兄さんの役をやったのですね。

「ローラー、予定通り勝つ」というタコマ・デイリー・レッジャー紙1908年1月24日付けの記事は、ローラーがアイオワ出身のファーマー・バーンズに勝ったが、八百長が見え見えで、ギャラの大部分はファーマー・バーンズが取ったと書いている。当時はまだプロレス・ジャーナリズムの「作法」が確立していなかったのだ。(ファーマー・バーンズも「アメリカン・キャッチの代表的強豪」ですね。)

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 1909年9月6日付けシアトル・ポストインテリゲンサー紙は、郵政当局がプロレスの八百長の捜査に乗り出したことを報じている。プロレスの勝ち負けに大金を賭けて損をする人がいたらしい。ということは「真剣勝負だ」と信じている人がいたということだ。

シアトル・タイムズ紙1911年1月1日付け
「入場料を取るレスリング試合の99%は、対戦相手同士が握手する前に勝敗が決まっている。敵同士が一緒に練習することもある。叩く、噛み付く、蹴る、罵る、リングから転落する、観客席から挑戦者が現れるなどの仕掛けはお客を喜ばすためで、別に害はなく、試合を面白くする――と、レスラーたちは考えている」 

 もっと後になると、新聞はわざわざこういう分かりきったことは記事にしなくなる。
 1960年代にジャイアント馬場が遠征をしたころには、アメリカにもたぶん「東京スポーツ」があったと思う。
「鉄人ルー・テーズ、東洋の巨人をバックドロップで葬る!」
などという見出しが出たはずだ。

  まだ原文は大分あるけれど、面倒になってきた。興味のある人は原文を読んで下さい。英語はそんなにむつかしくないはず。
 しかしアメリカでもプロレスライターなんて人たちがいかに薄弱な根拠でものを書くかが分かる。Svinth氏のように百年前の新聞記事を調べる労を厭いさえしなければ真実が分かったはずだ。
  私はとりあえずアメリカは措いて英国のプロレスについて、できることなら新聞記事をあたりたいものだと思っていたけれど、とうていその余裕はない。だから、グレアム・ノーブル氏などが新聞雑誌を調べてくれたのに依拠して谷幸雄や当時のアマレスやプロレスのことを書いたのです。
  プロレスライターが資料にきちんとあたらない、根拠を具体的に示さないのは、日本もアメリカも同じだ。
  それでもプロの物書きはまだいい。素人には始末に負えない人たちがいるねえ。小谷野敦先生が、インターネットで**が意見を言うようになった、と言われたのは実に至言だ。

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2009年4月 8日 (水)

アングルの王者(3)

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「1913年にフランク・ゴッチが引退するとともに真面目なプロレスは終わり、全くの見世物になってしまった」
 とエンサイクロペディア・ブリタニカにあるけれど、これは間違いだ――
とJoseph R. Svinth氏は言う。
http://ejmas.com/jalt/jaltart_svinth_0700.htm

 1913年より前からすでにインチキだったのだ。
 ブリタニカは、一般にフランク・ゴッチ(1878-1917)までは真面目だったと言われているから、そう書いておけという態度のようだ。
 これに対してSvinth氏は、ベンジャミン・ローラー(1876-1933)というプロレスラーの1906年から1912年までの試合を報じた新聞記事を詳しく引用して
「アメリカのプロレスは20世紀初めからすでにインチキだった」
ことを証明してみせる。
 当方は証明なんかしてもらわなくて結構だ。百年前のプロレス記事なんか英語で読むのは面倒だ。Svinthさん、お名前は何と発音するのか知りませんが、あなたが「インチキだった」とおっしゃるのなら信じます。
   
 しかし、プロレス最強説をとりたい人は、フランク・ゴッチあたりまでは真面目だったと信じたいでしょう。ルー・テーズ(1916-2002)の師匠、エド・ストラングラー・ルイスがいちばん強かったのだ! 
なんて頑張る人もけっこう多いみたい。
 そういう人は、http://ejmas.com/jalt/jaltart_svinth_0700.htm
を始めから終わりまでじっくり読んでみて下さい。間違いが分かるよ。 

 ここでは、適当に選んで読んでみる。
 ベンジャミン・ローラーは、1910年にイギリスでグレート・ガマと戦って負けたレスラーだ。この試合をズビスコが見て「ガマは強い」と警戒して、次の試合では2時間半の間、亀になった。世紀の大凡戦と言われた。(インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン参照)
 ローラーは、英国のプロレスに出たときは真面目に戦ってガマに負けたけれども、米国に戻ると「アングルの王者」だったのだ。
 写真はゴッチ対ローラーの試合。もちろんアメリカで行われた。(続く)

Gotchvsroller_2

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2009年4月 7日 (火)

アングルの王者(2)

Catchwrestling

 アングルは米国のプロレスでは20世紀初めから横行していたらしい。
 同じ時代のイギリスはどうか。
 1908年にはロンドン五輪が開かれた。ここでキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合が行われた。もちろんアマチュアの試合だ。同じ年にロンドンで、プロのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン世界チャンピオン決定戦が行われた。前田光世がレスラーとして参加し、ヘビー級で2位になった。プロとアマは同じキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=フリースタイル)のレスリングをした。(柔道か柔術か68)
 1910年のガマ対ズビスコ戦は、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのプロの真剣勝負だった。2時間半戦って無勝負だった。(インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン4)
 このころまでの英国では
(1)キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルのルールで
(2)真剣勝負の
プロレスが行われていたらしい。
 観客は地味な寝技の攻防を見て満足していたようだ。夏目漱石は1901年(明治34年)にプロレスを見てあきれ、「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」と正岡子規宛の手紙に書いている。

 1910年8月8日に、グレート・ガマとアメリカ人レスラーのベンジャミン・ローラーが戦って、ガマが勝ったことは前に書きました。
 そのときの写真が見つかった。上がガマ、下がローラー。ガマが俯せの相手を仰向けにひっくり返そうとしている。アマレスでよくあるシーンだ。ガマの姿がぶれているのはシャッター速度が遅かったからだろう。フラッシュはまだなかったのだろうか。
 この相手には楽勝だったが、対ズビスコ戦では相手も強かったのでうまく行かなかった。リングサイドの観客が熱心に見ているのが分かる。むかしの英国人はよほど物好きだったのだ。

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 Fixed match(勝敗を決めておく試合)も、あるいはあったかも知れない。やろうと思えばできるのだから。しかしアングルはまだなかっただろう。英国のプロレスはそこまで進歩していなかった。「インドの怪人ガマ」「ちっぽけでも強いジャップ谷幸雄」などのキャラクターは試合の興味を大いに増したけれども、それは「仕掛け」ではなかった。本当にインドの怪人でありちっぽけなジャップだったのだから。

 アメリカはどうかというと、エンサイクロペディア・ブリタニカには、
「1913年にフランク・ゴッチが引退するとともに真面目なプロレスは終わり、全くの見世物になってしまった」
 という意味のことが書いてある。
 これは正しいか? (続く)

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2009年4月 6日 (月)

安保理決議だって?

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 北朝鮮がミサイルだか人工衛星だかを発射したので、日本としては早急に安保理決議の採択を目指して働きかけを開始するのだという。
 アホか?
 今回は人工衛星の打ち上げに失敗したらしい。
「もし日本に落下してくるようなことがあれば迎撃ミサイルを発射する」と騒いでみせたのは、国内向けの引き締め策としては結構でしょう。
 しかし、ほんとに落ちてきたら撃墜できるのか? 
 人工衛星ではなく日本を狙ったミサイルだったらどうするつもりか? PAC3ではとうてい撃ち落とせないらしい。
 発射基地を叩くしかない。その能力はあるのか。覚悟はあるのか。
 アメリカに空爆してもらう?? 

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アングルの王者(1)

 アングルとは何か? こういうのはウィキペディアを見るに限る。

アングル(プロレス)

 プロレスにおけるアングルとは、試合展開やリング外の抗争などに関して前もってそれが決められていた仕掛け、段取りや筋書きを意味する。試合自体の進行については「ブック」と呼ばれ、アングルはリング外でのストーリー展開を指すことが多い。アングルの組み合わせや展開が観客動員に大きく影響するため、試合内容と同じ重要性を持つ。

 (以下、目次だけ挙げておく。すごい筆力の書き手だ。)

目次
1 概要
2 アングルの例
2.1 抗争アングル
2.2 負傷アングル
2.3 特訓アングル
2.4 海外遠征アングル
2.5 懐古アングル
2.6 アナウンサーアングル
2.7 引退アングル
2.8 技封印アングル
2.9 血縁アングル
2.10 時事アングル
3 海外におけるプロレスのアングル
4 関連図書

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2009年4月 4日 (土)

プロの美人たち(12)

 どう訳したらよろしいか。
 They have their knives into one another, too. They are as jealous as a pair of professional beauties.

 この二人は不倶戴天の仲でね。社交界の花形同士が鉢合わせしたみたいに張り合っているのだ。
 
 どうでしょう。professional beautiesを訳注なしであっさり訳するには「社交界の花形」くらいしかないでしょう。
 単独では意味不明の「職業的美人」や「プロの美人」のような訳語を使っておいて、訳注をつける手もある。しかし訳注がこの「プロの美人たち」と同じくらい長くなってしまうのも困る。

 あるいは別案、「高等美人」というのはどうだろう? これは読者が漱石を読んでいてくれないと駄目だ。

美禰子が、
「丹青会の展覧会を御覧になって」と聞いた。
「まだ見ません」
「招待券を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものだからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」
「行ってもいいです」
「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」
「原口さんが招待券をくれたんですか」
「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」
「広田先生の所で一度会いました」
「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子を稽古なさるんですって」
「このあいだは鼓をならいたいと言っていました。それから――」
「それから?」
「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」
「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。

 漱石の愛読者でも分からないかも知れない。やはりものすごく長い訳注が必要だ。 やはり「社交界の花形」くらいが無難でしょう。

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2009年4月 3日 (金)

プロの美人たち(11)

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 1902年8月9日、ウェストミンスター大聖堂でエドワード7世の戴冠式が行われた。聖堂内の信徒席の一つに女性ばかりが6人ほど坐った席があった。全員がエドワード7世の愛人でプロの美人たちであった。チャーチルのお母さんとリリー・ラントレーはもちろんその中にいた。プロの美人と皇太子の愛人はほぼ重なっていた。
 アルバート・エドワード(エドワード7世)は1841年にヴィクトリア女王の長男として生まれた。1863年にデンマーク王女アレクサンドラと結婚し、3人の息子と2人の娘をもうけた。
 1901年1月22日にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世として即位した。このとき59歳だった。
 皇太子時代も王様になってからも常に愛人がいた。奥さんのアレクサンドラはたいてい愛人を知っていて親しくつき合っていた。
 しかし、危ない目にも何度かあった。一番危なかったのは1869年にチャールズ・モーダントという準男爵の下院議員から、離婚訴訟で「不貞の相手」として名指しすると脅されたときだった。
 その後も、皇太子の書いたラブレターが人手に渡ったりしてやばい状況になったことが何度もあった。そういうときには、シャーロック・ホームズに相談したかも知れない。
「そうしますと殿下、この女性と煩わしい関係をお持ちになりまして、問題を起こしかねぬ手紙をお与えになりましたので、それを今は取り戻したいとお望みなのでございますな?」
「その通り。だがどうしてそれを……」
  
 前述のように「一定の条件」を満たすときは姦通が容認されたが、満たさない場合もあって、そういうときは大問題になった。

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 エドワード7世の最後の愛人はアリス・ケッペル(1869-1947)だった。1898年エドワード7世が56歳のときに初めて会い、26歳の歳の差があったが間もなく愛人になった。この人も戴冠式のときチャーチルのお母さんやリリー・ラントレーと同じ席に坐っていた。1910年崩御のときは、王妃のアレクサンドラがアリスを彼のベッドの傍に呼んだ。
 
 アリスの曾孫にあたるカミラさんとエドワード7世の玄孫(曾孫の子)であるチャールズさんの関係が始まったのは1970年のことなのだそうだ。ちなみにダイアナさんと結婚したのが1981年、初めて会ったのが1977年である。

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2009年4月 2日 (木)

プロの美人たち(10)

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 チャーチルのお母さんの話の続き。
 1874年に結婚して、長男ウィンストンは8ヶ月の早産で生まれた。
 1880年には次男ジョンが生まれたが、ランドルフが父親でないことは公然の秘密だった。結婚後2年ほどたったときから、ランドルフとジェニーの夫婦関係はopen marriageになっていた。
 しかし、ランドルフが1886年に保守党のソールズベリ内閣で大蔵大臣にまでなったのはジェニーの内助の功が物をいったのだった。

Parents

 ランドルフは若いころに梅毒にかかったらしく、1890年代になると第三期の症状が現れ始め、議会での演説にも障害が見られるようになった。1894年になると症状はますます進み話ぶりも支離滅裂になってきた。せめて余命のあるうちに世界一周をさせておこうと考え、ジェニーは夫とともにアメリカに渡り、カナダ、日本、香港、ビルマ、スエズ、フランスなどを経て年末に英国に戻った。ランドルフは1895年1月に亡くなった。

 ウィンストン・チャーチルは1893年に陸軍士官学校にで合格し、1895年に20歳で卒業して少尉に任官した。

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 皇太子アルバート・エドワードとジェニーの関係は、ランドルフの死後1897年ごろからとくに親密の度を加え、彼女はほかに追随を許さぬ皇太子のパートナーとして社交界に君臨した。(関榮二氏の本による)

 1898年、ウィンストン・チャーチルは、インド北西辺境部(現パキスタン)で自身が騎兵将校として従軍した作戦を描いた『マラカンド野戦軍』を出版した。皇太子はチャーチルに次のような手紙を書いた。

 御高著御成功にて何より。一言祝辞を申し述べざるを得ず候。実に興味をもって拝読。叙述、用語も大体見事と存ぜられ、読まざる人はほとんどなく、読んだ人はいずれも賛美いたしおり候。一度実戦に参加された以上、さらに戦場馳駆の希望を有せらるべく、またフィンカッスルのごとくV・C(ヴィクトリア勲章)拝受の機会到来も疑わず候。さりながら何卒彼のひそみに倣わざるよう願上候。フィンカッスルは残念ながら議会に入るため軍職を退く由に候。
 貴君はなお春秋に富む身なり。M・P(代議士)の称号を付するは、軍に尽瘁したる後にてよろしからずや。御健勝を祈り候。敬具
   1898年4月22日
            モールバラ・ハウス(御所)内
                              A・E
  ウィンストン殿
                                                      (中村祐吉訳)

 このとき、アルバート・エドワード皇太子56歳、チャーチル23歳、母43歳であった。

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