« アングルの王者(4) | トップページ | 最強はこれだ »

2009年4月10日 (金)

欧州の柔術について

 柔術が欧州に伝わったのは、バリツの創始者バートン=ライトの功績である。彼が谷幸雄と上西貞一を指導員としてロンドンに招いたのが1900年のことで、それから柔術は英国に広まり、さらに欧州諸国にも広まっていった。
――私が読んだ限りの英語の記事によると、上のようなことらしいのだが、
これが正しいとは限らないことが分かった。
 これより早く、1899年以前に少なくともフランスには伝わっていたのではないか?

Art191899frenchmoves

 このイラストは前に出しました。「たぶん1900年代に英国で出たレスリングの本にあったものだろう。」(柔道か柔術か(51))と書いたが、そうではなかった。
 頁の上にLUTTEと書いてある。フランス語で「レスリング」の意味だ。英国の本に転載されたものかも知れないが、元はフランスだ――と思っていたら、ここで見つけた。
http://www.wrestlingsbest.com/collectibles/wrestuffartwork001.html

 1899年のフランスのプリントとある。
 フランスに柔道/柔術を直接伝えた人がいるのだろうか?
 嘉納治五郎は明治22年(1889年)9月29歳のときに宮内省の命を受けて(学習院教授だった)欧州教育事情の視察に赴き、1891年1月に帰国している。
 当然フランスにも滞在しただろう。柔道を披露する機会はあったかも知れない。しかし、嘉納はいそがしくて柔道ばかりはしておれなかったはずだ。門人を連れて行って、その人がしばらく滞在して柔道を指導したのだろうか? しかし、Jiu-Jitsuと書いてある。嘉納やその門人ならジュードーと称したはずだ。姿三四郎に敗れた柔術家(檜垣源之進だったけ)が渡仏したのかも知れない。
 日本語、フランス語の資料があるかも知れない。どなたかご存じではありませんか。教えて下さい。フランス語の資料を見つけた人はブログなどで解説していただけるとありがたい。私はフランス語は苦手なので。

おまけ
 上のサイトは一見の価値あり。ここから黙って引用しているほかのサイトがかなりあるようだ。ついでに一つ引用させてもらう。1827年、国籍不明、プリントとあるが、描かれているのは古代のパンクラチオンかも知れない。しかしフリチンで戦うのはいやだね。

Art191827print

|

« アングルの王者(4) | トップページ | 最強はこれだ »

コメント

ダックアンダーさんレスありがとうございます。
さて、フォールによってガードがなくなってしまったとする御意見に関してですが、もし仮にそうだとすれば本来ならフォールのであるはずのサイドや袈裟のポジションでのサブミッションが大量に存在することは説明がつきませんし、フォールされるのが嫌ならMMAのようにパウンドがあるわけではないので、肘をつくなりして浮かせればよいと思います。 
またグラウンドでの攻防でバックがとれる場合は柔術と同じように両足でフックします。その後理想としては(66)の写真のように潰すことが理想ですが、無理だと判断した場合下から極めにかかります。これは通常レスリングの場合だとフォールとされてしまいかねませんがキャッチでは多く使用されるテクニックです。ですのでガードだけフォールを理由に廃れてしまったテクニックとするのは無理があると考えられます。

投稿: レスラー仮面 | 2009年4月10日 (金) 23時54分

私の書き方がまずかったのでしょう、申し訳ございません。
ロイ・ウッド氏は(66)の写真ではなくキャッチはそのつどルールを事前に決めていたことに関して私と同じことをおっしゃっておりました。
以前にも書きましたが私はキャッチの技術にしか興味がありません。正直申しますと「証明なんて俺のやることちゃうやろ~一般的な通説しかゆ~てへんのに。そもそも興味あらへんし忙しいのにめんどくさいわっ!」
と思っておりましたが、よくよく考えるとこのブログはあなたのものなのでルールもそれに応じたものになっていてもおかしくはないのですね。 
しかし当時の資料をどこかから引っ張り出してくるモチベーションを保てるほど私は興味がないのでそれはしません。通説ですが私の妄想でも結構です!
ところで何故、柔術とキャッチの技術体系のちがいは無関係なんですか?

投稿: レスラー仮面 | 2009年4月11日 (土) 00時20分

「このブログはあなたのもの」→それはその通り。しかし、貴君が議論を仕掛けてきたのだから、最低限のマナーは守ってちょうだい。
・ロイ・ウッド氏の意見というのは何年何月号に書いてあったのか? 貴君が「私と同じこと」と思うのが妄想でないという証拠がどこにあるか?
・何より「ルールをその都度決めていた」のが具体的に「何年何月何日の誰対誰の試合か?」 どうやらロイ・ウッド氏もこれをはっきり言わなかったようですね。それでは全く証言として価値がない。レスラーだから、英国人だから、英国のプロレスについて言うことが正しいとは限らない。前に挙げた例ですが、古い相撲用語を北の湖親方や大鵬親方に聞いても駄目なのと同じです。

投稿: 三十郎 | 2009年4月11日 (土) 08時42分

「柔術とキャッチの技術体系のちがいは無関係」なんて僕は言ったかな? 違いは当然あるでしょう。でもアレンジできる違いだったはず。だから、柔術家ヒクソン・グレ-シーは道着を着ても裸でも強く、キャッチレスラーと自称する高田延彦に楽勝したのではないか。

投稿: 三十郎 | 2009年4月11日 (土) 08時46分

横からすいません。
>本来ならフォールのであるはずのサイドや袈裟のポジションでのサブミッションが大量に存在することは説明がつきません
逆にフォールがない格闘文化(抑え込みはあるけど)である柔術をルーツとしているから、大量に存在するとすれば整合性があるように思うのですが、いかがなものでしょうか。

あとヒクソンが高田に勝ったのは、全然別の次元の話だと思います(笑)。言うなればフェンシング王者とのミクスドマッチの対戦相手に、剣道の達人ではなく、勝新太郎が(大会場を埋められることを理由に)選ばれてしまっただけで。
ついでに言うと今の日本にはあの当時のヒクソンに、PRIDEルールで勝てる選手は結構いるはずですよ。プロレスを職業とする選手ではわかりませんが、元プロレスラーの初代タイガーマスクが創設した修斗を学んだ選手にならですけど。

投稿: | 2009年4月11日 (土) 12時59分

上記コメントは自分のものです。無記名で送信してしまいました。すいません。

投稿: タカハシ | 2009年4月11日 (土) 13時02分

なるほど、勝新太郎ですか。それは傑作。当時高田は、私と同郷の北尾を「負かした」ことで「最強伝説」なんて威張っていたので頭に来ていたの。

投稿: 三十郎 | 2009年4月11日 (土) 14時29分

タカハシさん、ありがとうございます。なるほどタッチやピンフォールのように瞬間的な抑え込みで勝負がつくのにサイドや袈裟からのサブミッションが大量あるのは整合性について疑問が湧きますね。柔道のように競技化の段階で数十秒の抑えがポイントにつながるようなルールになってるものでも試合でサブミッションを狙う人が少ないのですから、ましてや数秒のフォールで決着がつくならサブミッションをねらう必要性がないですよね。仮に試合毎にルールを変えて戦っていたとしても少し違和感がありますね。

投稿: ダックアンダー | 2009年4月11日 (土) 16時38分

なるほど、タカハシさん、ダックアンダーさん、よく分かりました。整合性か、考えてみなかった。柔術は元々競技ではなかったから、投げ技、サブミッション、抑え込みが雑然と全部含まれていて差し支えなかったのか。柔道という競技にするには投げ技中心にシステムを組み換える必要があった。しかし日本のことだから西洋のレスリングのようにルールを精緻化しないで「なあなあ」でやって来た。講道館式、高専式などの「作法」があった。オリンピック競技にまでなってもルールがはっきりせずいつ「待て」をかけるか、いつ指導を取るかなどは審判の主観に任されている。篠原が負けた試合みたいに一本が逆になるひどいケースさえある――ということでしょう。

投稿: 三十郎 | 2009年4月11日 (土) 17時41分

日本人で最初に英国ロンドンに渡ったのは谷幸男の兄と講道館で前田光世と対戦した山本の二人
渡英時期は1904年(日露戦争)よりも前の話ということだけで正確な年号などはわかっていないそうです。
(by島津書房 前田光世 著 丸島隆雄)
もしかしたらこちらの二人が1899年にフランスに来て柔術を教授したのか
もしくはただイラストのモデルになっただけとか?

彼ら二人の滞在期間は1年間だそうですし。

他にも柔術とヨーロッパを繋ぐ歴史では1832年に長崎に医官として渡ったオランダ人のシーボルトが柔術3点の図を描いてヨーロッパで紹介しています。
彼の娘の楠木イネは長崎の柔術の名門 楊心流を修めていますしね。

ちなみにこちらは1674年の本のイラストだそうですが
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2009/01/25/11.jpg
その頃日本は鎖国でしたが
九州薩摩が沖縄琉球を通じて中国と交易をしていましたし
九州長崎対馬では中国と朝鮮と交易
北海道蝦夷地でも松前藩と幕府が交易

そして長崎出島ではオランダ 中国との交易も盛んでした。
当時オランダ人の誰かが柔術を学んでいたのかもしれませんし
柔術を修めた日本人が密航で海を渡ったのかもしれません。
実際戦国時代には
魔女狩りでヨーロッパの女性が大量虐殺され女性の人口が激減したので日本人女性が代わりに売買されていたという話なども聞きます。
当時からヨーロッパと日本は既にお互い未知の相手などではなく当時の日本の支配者階級の者たち(被支配者階級の日本人などではなく)にとっては絶好の交易相手でよく知った存在だったんでしょうね。

投稿: NダDサク | 2009年4月12日 (日) 00時03分

追記です
>>彼ら二人の滞在期間は1年間だそうですし
その間フランスにも寄ったとしても不思議ではないでしょう。

投稿: NダDサク | 2009年4月12日 (日) 00時06分

度々すいません。
またまた追記です。
谷幸男ではなく谷幸雄でした。
谷幸雄と上西貞一は谷兄と山本の後に渡英し前の二人が教授していたクラブで指導したとのこと。

投稿: NダDサク | 2009年4月12日 (日) 02時05分

なるほど、ありがとうございます。まだまだ分からないことがあるのだなあ。私の読んだ英語の記事では谷は兄弟二人で一緒に英国に来て、兄の方が「見世物はごめんだ」と言って日本に帰ったと言うことになっていた。山本という名前は出てこなかった。
谷の兄らしい人が剣術の模範演技をしているイラストを見つけたのですが、出所が分からなくなってしまったので放置しているのです。そのうち出します。

投稿: 三十郎 | 2009年4月12日 (日) 09時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/29042086

この記事へのトラックバック一覧です: 欧州の柔術について:

« アングルの王者(4) | トップページ | 最強はこれだ »