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2009年5月24日 (日)

高村光太郎の柔道

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(1906年(明治39年)、数え年で24才の高村光太郎(1883-1956)は彫刻を学ぶためにニューヨークに留学した。)

 いろいろ探した末、「アメリカン アート ステューデント リーグ」というのに通った。ここは男女共学で夜間の研究所だったが、照明も豊富で、モデルも使えたから、一年間つづけて通った。クラスの仲間で級長のような仕事をしている男が、僕の作りかけた彫刻に悪戯をして、粘土の腕を逆につけておいたりしてからかうので、ある日、その男の腕を逆に締め上げて降参させたことなどある。そしたら、当時は日露戦争の後で日本の柔道が評判になっていた頃だから、タック(高村の愛称)は柔道をやるというので、クラスの連中が面白がって、レスリングをやったことのある学生と、教室を片づけて試合をやらせようとした。僕は柔道など大してやったわけではないけれど、仕方がないのでその男と試合をして、どうにか勝った。僕はアメリカに渡る前に、サンドー体操で鍛えて筋肉も発達していたから、負けるものかという気だったのである。それから、皆な余り僕に悪戯をしないようになったのは有難かった。
(『青春の日』 昭和26年8月27日談。中央公論10月号掲載の談話筆記  高村光太郎全集第10巻p.p. 130-131 筑摩書房1958年)

 日露戦争は1904年2月8日に始まり、1905年9月5日にポーツマス条約によって終了した。この条約はセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋により締結された。

 講道館四天王の一人、山下義韶(1856-1935)が1902年(明治35年)にシアトルに渡り、柔道の普及に尽くした。山下は1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。1907年(明治40年)、契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役を務めた。 (ウィキペディアによる)

 ブラジリアン柔術の創始者コンデ・コマこと前田光世(1878-1941)も1904年(明治37年)に渡米し、ボクサー、レスラーなどと異種格闘技戦を行ったと言われる。前田はさらにイギリスに赴いてキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=フリースタイル)のプロレスラーとしても活躍し(柔道か柔術か(68)など「格闘技」参照)、その後ブラジルに渡ってグレイシー一族に柔術を教えた。

 高村光太郎の談話に出てくる「サンドー体操」はダンベルを使う運動である。ボディビルの元祖ユージン・サンドーが世界に広めた。日本にも伝わっていたものと見える。(コナン・ドイルとボディビル参照)
 高村光太郎は「柔術」と言い、談話の筆記者が「柔道」と書いたのかも知れない。いずれにしても高村光太郎に柔道/柔術の心得は大してなかっただろう。ダンベルで体を鍛えていたのと、もともと体格がよかったのでレスリングをやるアメリカ人に勝てたのだ。
 花巻青年会議所のサイト
http://hanamakijc.blog21.fc2.com/blog-entry-137.html
によると、
「高村光太郎さんは想像していたよりもとても大きな人で、身長が191cm,足の大きさも29cmもあった」
 本当だろうか? ウソをついても仕方がないので本当なのだろう。アントニオ猪木の公称身長と同じだ(猪木の本当の身長は187cm)。明治時代の日本人としては、とんでもない大男だ。夏目漱石が158センチ、森鴎外は光太郎より30センチ低い161センチぐらいだった。日露戦争のときの徴兵の基準は身長5尺(151.5cm)だったのを兵員が足りなくなって150cmに引き下げている。

「僕の前に道はない。僕の後に道ができる」だったっけ。あんたはブルドーザーか、と思ったものだけれど、それだけの体力があったのだなあ。

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