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2009年7月30日 (木)

オールインについて

 英国における1930年-1940年のプロレスリング
http://www.allinwrestling.co.uk/に原文あり)

 オールイン・レスリングが英国で始まったのは1930年の秋である。このとき二人の前世界チャンピオン、ヘンリ・アースリンガーとベニー・シャーマンがロンドンのロイヤルアルバート・ホールで興行を行う予定だった。ところが手続の問題で手間取ってこれは延期された。12月になって、ロンドンのオリンピア劇場とマンチェスターのベルヴューで二つの興行が同時開催された。ロンドンではヘンリ・アースリンガー対ジョージ・モドリッチ戦、マンチェスターではバート・アシラティ対アソール・オークレー戦が行われた。いずれもプロボクシングの試合と一緒に行われた。
「オールイン」とは、要するに当時ひろく行われていた三つのレスリング・スタイル、すなわち柔術(柔道)、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、グレコローマンを混ぜ合わせたものである。従来よりも刺激的で観客受けする新しいレスリングを作ることが目的であった。二人の巨人がマット上で組み合って何時間も戦い続けるのは時代後れになったのだ。レスリングは組織的なものになった。レスリング監理委員会ができ、ラウンド制が導入され、勝負は2フォールまたは2サブミッションまたはノックアウトで決められた。
 1931年はじめに、ロンドンのベーカー街のレインズ・クラブでオールインの初代ヘビー級チャンピオン決定戦が行われた。決勝戦では、元プロ・ラグビー選手でカンバーランド・ウェストモーランド・レスリングのチャンピオンでもあるハッダーズフィールドのダグラス・クラークがアソール・オークレーを降して初代王者になった。
 以後は、英国各地の競技場でプロボクシングと一緒にこの新しい「オールイン・レスリング」の試合が行われるようになった。
 1930年代終わりごろになると、オールイン・レスリングの評判は悪くなってきた。マッド(泥)レスリング、盲人レスリング、女子レスリング、男女混合レスリングなどが行われるようになったからである。レスリングを規制していたロンドン州委員会は市内のホールにおけるレスリング興行を禁止しはじめた。1939年に戦争が始まると観客は激減しホールも閉鎖された。プロレスリングは、兵士や勤労動員された工員の慰問のために細々と続いた。

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バート・アシラティ(1930年、マンチェスターの試合に出場した)

*「オールイン」については、前にも触れた。たとえば
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味(4)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/4-a6ad.html

 バート・アシラティについては、G SPIRITS VOL.09に那嵯涼介氏が「ゴッチが勝てなかった男――伝説の強豪バート・アシラティ評伝」を書いている。

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2009年7月26日 (日)

似てない?

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 珍しいネクタイ姿。それにしても1Q84売れてますね。

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2009年7月25日 (土)

さきがけ

「その資金源については深田は口が堅く、誰にも秘密を明かさなかった。でもとにかくどこかから、深田はコミューンの立ち上げに必要とされる少なからぬ額の資金を集めてきた。彼らはその資金で農機具を揃え、準備金を蓄えた。自分たちで既存の家屋の改修をし、三十人のメンバーが生活を送れる施設を作り上げた。それが1974年のことだ。新生のコミューンは『さきがけ』という名前でよばれることになった」
 さきがけ? と天吾は思った。名前には聞き覚えがある。……
(Book 1 p.225)

 私も聞き覚えがあります。

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 真ん中が鳩山由紀夫氏、次期首相候補です。1993年6月に撮った写真らしい。代表は武村正義氏。鳩山氏はこのときは総務会長だった。1993年8月の細川内閣では、武村氏が官房長官、鳩山氏が官房副長官を務めた。

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2009年7月24日 (金)

1976年以前のアントニオ猪木(3)

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンというのは要するに「フリースタイルレスリング」であって、「まぼろしの最強格闘技」なんかではない――ということは、これまで格闘技のカテゴリーで書いてきたことをふつうに読めば誰でも分かるはずだ。念のために二点だけ。

(1) レスリング用語としては、cacth-as-catch-can=freestyleです。ほかの意味はない。「フォールかギブアップで勝ちを決めるレスリング」という特殊な意味があると思っているのは、日本人の誤解です。

(2) Catch wrestlingまたはCatchという英語については前に書いたとおり――ヨーロッパの多くの国でキャッチ・レスリングあるいはフランス語でle catchという言葉は「見世物としてのニセのレスリング」を指している。

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 たとえばデンマークでプロレス興行をやる場合に「プロレス」に当たるデンマーク語をわざわざ作るのは大変だから、Catchという英語で間に合わせるわけですね。
 ところが、プロレスファンにはこれくらいのことが分からない頑迷な人が多いようで、盛んに噛みついてきた。ものすごく頭の悪い人が一人いて大いに手こずった。しかし、この話はまたにして、猪木に戻ろう。

 1976年6月、猪木対アリ戦の直前になって、東京スポーツの一面に猪木のインタビューが出た。驚いたのはそのときの猪木の写真だった。上半身の筋肉がげっそり落ちて一回り小さくなっていた。大丈夫なんだろうか。「アリのスピードに対応するため」というので減量したのだろうか。
 試合前の計量に立ち会ったアメリカ人の記者の談話を後になって読んだ覚えがある。(出典は不明。日本語、英語のどちらで読んだかも覚えてない。プロレス談義です。)
 この記者によると、計量では、アリが100kgを超え猪木が100kgを切っていた。これはちょっとまずいので「両者100kgでした」ということで発表したのだそうだ。

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 この写真を見ると、猪木がずいぶん細い。確かに100kgを切っているようだ。減量なんかしなくてよかったのに。(同じ年の12月に行われた対アクラム・ペールワン戦では、「腹の出たアクラムと逆三角形の猪木」という印象だったから、このあとで体を戻したらしい。)
 まあ、素人が後になってから勝手なことを言っているので、本人は大変だっただろうな。しかしお金を取る商売だから仕方がないか。

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2009年7月23日 (木)

1976年以前のアントニオ猪木(2)

 猪木の話の続き。しかし、これはプロレス談義です。出典ははっきりせず、真偽のほどは保証できない。
 若いころの猪木について、マサ斎藤は、
「猪木さんは本当にうらやましいような体をしていた。体重もあのころは115kgくらいあった」
 と言っている。

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 黒パンツではないから、ストロングスタイルを標榜し始めるより前の、ごく若いころの写真だ。確かに筋肉の張りが後年とは全然違う。
 これより少し後のことだろう。フリッツ・フォン・エリックと戦った試合があった。
 エリックが猪木を掴まえてボディスラムで投げようとする。猪木危うし。ところが猪木は空中でひらりと身を翻して、相手の背後に降り立った。何という身の軽さだ。コブラツイストを掛ける。一回り大きなエリックに効くとは思えないのだけれど、相手はびっくりしてやる気を失ったのか、ギブアップしてしまった。
「どうも最後がもう一つ説得力に欠けたなあ。あそこでジャーマンスープレックスが出ればよかったけれど、ちょっと無理か。しかし、猪木もエリックも強い。面白かった」
 と思った。
 プロレスというものは誰でもこういう見方をしているのだろう。真剣勝負と信じる人がいたのはもっと昔だ。フレッド・ブラッシーが力道山に噛み付いて流血の惨事になったのを見てショック死した老人がいたそうだけれど――と私は思っていたけれども、そうでもないらしい。
 新日本プロレスのストロングスタイルは本物だ。いや、あれはまだまだだったけれどUWFは真剣勝負のはずだ――と考える人が結構いたらしい。たとえば

《僕は、UWFというものの出現を、いまだに夢のような感動でもって受けとめている。こんなものが自分の生きている間に出てき、存続し得るとは思えなかったからだ。ましてや、東京ドームで6万人の人間とともに、リアルファイトの異種格闘技オリンピックを目にすることができた、というのは、これを書いている今でも頬をつねりたくなる思いである》(中島らも)
 実際のUWFは、もちろんリアルファイトではなかった。
(柳澤健 p.438)

 なるほど、そういうことだったのか。信者がたくさんできたのか。
 ところがUFCというものが始まって、グレーシー一族がデビューした。高田延彦がヒクソン・グレーシーに一方的に殴られ、絞められ、腕拉ぎ十字固めを掛けられてあっさり、ギブアップした。「プロレスは最強の格闘技である」という幻想を否定された日本のプロレスファンはヒクソンおよびグレーシー一族を憎むようになった――という次第は、柳澤氏の本の446頁以後に詳しく書いてある。
 前にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンについて書いたら随分反発があったのもこのせいだったのか。(続く) 

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2009年7月22日 (水)

ゲリラの戦い

http://maoist.web.fc2.com/

「しかし睾丸を蹴ることなく、女性が男たちの攻撃から身を護ることは、現実的に不可能です」と青豆はクラブのマネージャーに向かって力説した。「たいていの男の方が身体も大きいし、力が強いんです。素早い睾丸攻撃が女性にとっての唯一の勝機です。毛沢東も言っています。相手の弱点を探し出し、機先を制してそこを集中攻撃する。それしかゲリラが正規軍に勝つチャンスはありません」


 
  革命戦争全体の観点からすると、人民の遊撃戦争は、主力の紅軍とはおたがいに両腕の関係をなしており、人民の遊撃戦争がなくて、ただ主力の紅軍だけならば、あたかも片腕将軍のようなものである。根拠地の人民の条件とは、具体的にいうと、とくに作戦についていうと、武装した人民がいることである。敵がおそろしいところとしているのも、主としてこの点にある。
「中国革命戦争の戦略問題」(1936年12月)、『毛沢東選集』第1巻
  毛沢東思想をさらに学習したい人は、日中愛好協会(正統)をご覧なさい。

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2009年7月21日 (火)

殺しの方法

 昔あるジャーナリストが松本清張に「先生の小説には濡れ場が少ないですね」と言った。

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 清張氏はこれを聞いて大いに怒った。
「それはどういう意味ですか。私に経験が少ないというのですか。殺人を書くには実際に人殺しをしなければならんとでも言うのですか」
 恋愛と殺人は小説の二大題材だ。前者についてはたいていの小説家は経験があるだろう。しかし後者の経験がある小説家はほとんどいないと思う。
 松本清張氏は小説の中でずいぶんたくさんの人を殺しているけれども、自身で人を殺したことがあるとは思えない。

 村上春樹氏もたぶん殺人の経験はないのだろう。だから殺しの方法は頭の中で考えたのだと思う。1970年代初めに放映されたテレビ番組に出てくる方法と似ているではないか――という意見があるようだけれど、村上氏はそんなこと知らなかったのだ。私もあの番組は一度も見たことがないけれど、なんとなく知っていたからちょっと「アレレ」と思った。
  藤田まこと? 彼もそんなふうなドラマに出ていましたっけ? 『てなもんや三度笠』なら知っているけれど。 

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