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2009年9月22日 (火)

前田光世伝(3)

 子安正男九段によれば
「講道館四天王のうちで嘉納先生に一番よく稽古をつけてもらったのは富田であった。……富田は西郷四郎、山下義韶、横山作次郎に比べて実戦では劣ったが、応用研究には特に秀でていて、おまけに英語がよくできた……」
 富田常次郎は四天王のうちでは一番弱かったが、良移心当流の強豪柔術家中村半助に勝つことができた。

◇原文英語は中村半助の流儀を天神真楊流としているが、間違い。中村半助に勝ったのは明治19年(1886年)らしい。翌明治20年には横山作次郎が中村と55分戦って引き分けている。中村半助は『姿三四郎』の敵役柔術家のモデルと言われる。

 佐竹ソイシロ(?)とともに前田光世が四天王に代わる講道館柔道家の第二世代として台頭してきたのは20世紀はじめ頃からである。佐竹は175cm、80kgの体格で相撲では無敵であったが、柔道では前田に敵わないと自分で認めていた。
 佐竹はのちに前田とともに南米に渡った。前田が各地を渡り歩いたのに対して、佐竹はマナウスにとどまった。1914年(大正3年)に佐竹はブラジル初の公式柔道道場を設立している。佐竹と前田はブラジルにおける柔道の創始者と見なされている。
 当時は大学出の柔道家はほとんどいなかった。佐竹と前田はいずれも早稲田大学卒業であった。二人は三段で、ほかに松代理太郎二段と6人の初段がいた。

◇この段落の「大学出(graduated)」「早稲田大学卒業」は原文筆者の誤解。前述のように早稲田はまだ大学ではなかったし、前田は東京専門学校も卒業しているかどうか不明。ブラジルの乱暴な格闘家と比べれば講道館仕込みの前田や佐竹の態度は紳士的で、「さすがは大学卒だ」と感心されたのだろう。ちなみに嘉納治五郎は英語ではたいていドクター・カノウと書かれている。あれほど偉ければ当然博士号くらい持っているだろうと思われたらしい。

 三船久蔵十段(1883-1965)は1903年に講道館に入門したが、前田の眼に止まり、「君はなかなか強い。きっと講道館の歴史に残るだろう」と言われている。三船は横山作次郎についたが、のちに有名になってから、前田さんの言葉は大いに励みになったと回想している。直接の師は横山であったが、彼は前田を尊敬していた。

◇原文の英語は素人が書いたもので、どうも稚拙である。適当に補ったり意訳したりします。

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コメント

当時の東京専門学校は極めて高い教育が施されており、既にシカゴ大学やイェール、コロンビア大学などと
交流があり、そこで学ぶ学生は極めて学識豊かであったはずですよ。

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 15時49分

東京専門学校は歴史に残る規格外の天才、偉人を数多く輩出しています。
そこで行われていた教育がどんなものであったのか常々関心があったのですが
その一端が知られる資料です。48頁から教育内容が伺えますのでご紹介致します。

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28629/3/Honbun-4693.pdf

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 15時59分

なるほど、そういう一面はあったかも知れない。しかし、日本では帝大が唯一の大学で、早稲田や慶応ははるかに格下でした。今日のような入試の困難度に由来する差ではない。明治25年、25歳の夏目漱石は帝大に在学のまま東京専門学校の講師になっています。
前田はその東京専門学校も卒業はしていないと思う(→どなたかちゃんと調べて下さい)。前田にしろ佐竹にしろ「学識」まではなかったでしょう。しかし、嘉納治五郎の弟子だから、矢野正五郎の弟子の姿三四郎のように精神面の修業も積んでいて、アメリカやブラジルの単なる乱暴者とは違っただろう、と思うのです。

投稿: 三十郎 | 2009年9月22日 (火) 16時06分

大学の格云々ではなく、東京専門学校は極めて高い教育がなされておりました。
そこから日本人最初のイェール大学教授朝河貫一氏も生まれております。
当時の文化は帝大よりも実質上かもしれませんよ。
ちなみに漱石が学んだ頃の帝大はそう難しくはありません。
加えて、漱石は東京専門学校の教師である大西祝(日本の最初の哲学者といわれる方)氏に憧れが
あり手伝っていたというのもありますが、当時の東京専門学校の講師陣は間違いなく一級ですね。
優勝劣敗の帝大に対し、学の自立を尊ぶ理想主義の人たちが東京専門学校で教えていたというのもあります。

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 18時38分

× 文化
○ 文科

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 18時39分

京都帝大に文科をつくるということで大西祝氏に白羽の矢が当たり前準備としてドイツへ渡欧したのですが
病気になり夭逝してしまいますが、帝大文科、東京専門学校文科は当時理想主義の方々を通じた
深い関係がありました。

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 18時48分

大西祝の知的遺産は、その教え子、東京専門学校の綱島梁川の遺産とともに西田幾多郎に引き継がれ
京都学派が生まれたとも言われておるくらいです。

投稿: 青空 | 2009年9月22日 (火) 18時51分

「どっちが本当はよい学校だったか」は知りませんよ。当時は「学問というのは西洋の学問を西洋語で直接お勉強することだ」と考えられていた。それができるのは東大しかなかった。早稲田は、東大卒業生の高田早苗たちが「何とか簡便に日本語で勉強できるところを作りたい」というので作った。この辺の事情は高島俊男先生の『天下之記者――「奇人」山田一郎とその時代』に詳しい。
漱石は東大流の学問をやっていたけれども、「こんなことバカらしくてやっておれるか」というので小説家になったらしい。

投稿: 三十郎 | 2009年9月22日 (火) 21時03分

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