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2009年9月25日 (金)

前田光世伝(6)

 1905年(明治38年)3月21日、富田常次郎と前田光世はコロンビア大学で200人の観衆を前に柔道の演武を行った。一通り説明したあと、富田が技の手本を示し、前田が同大学のレスリングのコーチを相手にしてこれを投げた。コロンビア大学の学生新聞によれば
「もう一つの呼び物は古式柔術の秘術で、扇子一本で日本刀の攻撃を防いでみせる技だった」
 このときは高峰譲吉(1852-1922)が通訳を務めた。

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◇高峰譲吉は1890年渡米、1894年にジアスターゼを発明、1900年にはアドレナリンの抽出に成功していた。

 1905年4月、富田と前田はニューヨークのブロードウェイの商店街に柔道クラブを開いた。会員には日系人のほかにウィルマ・バーガーというアメリカ人女性が一人いた(日系人以外にはあまり広まらなかったという意味か)。6月6日に、富田と前田はロードアイランド州ニューポートのYMCAで柔道演武会を開いた。9月30日には、ニューヨーク州ロックポートのYMCAで演武会を開いた。このときはメーソン・シマーという地元のレスラーが富田と戦って負けた。

◇演武会はいずれも地方新聞に報道された。たとえばロックポートの試合はロックポート・ジャーナルという新聞の1905年10月7日号に載ったと英文ウィキペディアの注20にあるので、この記事を調べれば、柔道着着用だったか裸だったか、絞め技関節技は有りか無しか、などの詳細が分かるはず。

 1905年11月6日、前田光世がノースカロリーナ州アッシュヴィルに大野秋太郎というプロレスラーを訪ねたという地元新聞の報道がある。これ以降は、アメリカの新聞を見ても富田と前田が一緒に出ることはなくなったようだ。12月18日、前田はジョージア州アトランタでサム・マーブルガーとプロレスの試合をした。この試合は三本勝負で、二本は柔道着着用、一本は裸であった。前田は柔道着着用の二本は勝ち、裸の一本は負けた。前田はアラバマ州セルマのYMCAに滞在していると地元紙は報じている。

◇英語版ウィキペディア注21によれば、大野秋太郎は、1905年4月20日にサンフランシスコに到着した。彼はウェストポイント陸軍士官学校で柔道を教えるために渡米したとのことであったが、既述のように2月21日に富田常次郎がフットボール選手に負けたために、陸軍士官学校ではプロレスラーのトム・ジェンキンスをコーチに雇うことに決めていた。そのため大野はプロレスラーになった。チャーリー・オルソンというプロレスラーがこの日本人プロレスラーを痛めつけ、これはちょっとした外交問題になったという。詳細はCatch Wrestling: A Wild and Wooly Look at the Early Days of Pro Wrestling in America. Boulder, Colorado: Paladin Press, 2005, pp. 79-88を見よ――と書いてある。しかし、新聞記事とは違って、プロレス本がたいてい眉唾物なのは日米同じのはずだ。

◇大野秋太郎は、早稲田大学野球チームと同じ船で渡米した。
 ウィキペディア「早稲田大学野球部」より
 1905年には約3ヶ月にわたる渡米遠征を敢行。日本の野球チームによる初の海外遠征であった。日露戦争中でありながら安部磯雄が大隈重信をはじめとする大学当局を説き伏せ、部員との約束(東京中の一流チームに全勝したらアメリカに遠征させてやる、というもの)を果たした。この遠征で投手のワインドアップモーションやスクイズなどバントの活用、スライディングなどのプレーや戦術・練習法、グローブや野球靴などを持ち帰るなど、大きな収穫を得た。安部、橋戸らはこの収穫を独り占めすることなく著書や他校への指導などで普及に努めた。このことが夜明けから間もない日本の野球に革命をもたらした。

[早大野球チーム]
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