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2009年9月27日 (日)

朝青龍の勝ち

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2009年9月25日 (金)

前田光世伝(6)

 1905年(明治38年)3月21日、富田常次郎と前田光世はコロンビア大学で200人の観衆を前に柔道の演武を行った。一通り説明したあと、富田が技の手本を示し、前田が同大学のレスリングのコーチを相手にしてこれを投げた。コロンビア大学の学生新聞によれば
「もう一つの呼び物は古式柔術の秘術で、扇子一本で日本刀の攻撃を防いでみせる技だった」
 このときは高峰譲吉(1852-1922)が通訳を務めた。

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◇高峰譲吉は1890年渡米、1894年にジアスターゼを発明、1900年にはアドレナリンの抽出に成功していた。

 1905年4月、富田と前田はニューヨークのブロードウェイの商店街に柔道クラブを開いた。会員には日系人のほかにウィルマ・バーガーというアメリカ人女性が一人いた(日系人以外にはあまり広まらなかったという意味か)。6月6日に、富田と前田はロードアイランド州ニューポートのYMCAで柔道演武会を開いた。9月30日には、ニューヨーク州ロックポートのYMCAで演武会を開いた。このときはメーソン・シマーという地元のレスラーが富田と戦って負けた。

◇演武会はいずれも地方新聞に報道された。たとえばロックポートの試合はロックポート・ジャーナルという新聞の1905年10月7日号に載ったと英文ウィキペディアの注20にあるので、この記事を調べれば、柔道着着用だったか裸だったか、絞め技関節技は有りか無しか、などの詳細が分かるはず。

 1905年11月6日、前田光世がノースカロリーナ州アッシュヴィルに大野秋太郎というプロレスラーを訪ねたという地元新聞の報道がある。これ以降は、アメリカの新聞を見ても富田と前田が一緒に出ることはなくなったようだ。12月18日、前田はジョージア州アトランタでサム・マーブルガーとプロレスの試合をした。この試合は三本勝負で、二本は柔道着着用、一本は裸であった。前田は柔道着着用の二本は勝ち、裸の一本は負けた。前田はアラバマ州セルマのYMCAに滞在していると地元紙は報じている。

◇英語版ウィキペディア注21によれば、大野秋太郎は、1905年4月20日にサンフランシスコに到着した。彼はウェストポイント陸軍士官学校で柔道を教えるために渡米したとのことであったが、既述のように2月21日に富田常次郎がフットボール選手に負けたために、陸軍士官学校ではプロレスラーのトム・ジェンキンスをコーチに雇うことに決めていた。そのため大野はプロレスラーになった。チャーリー・オルソンというプロレスラーがこの日本人プロレスラーを痛めつけ、これはちょっとした外交問題になったという。詳細はCatch Wrestling: A Wild and Wooly Look at the Early Days of Pro Wrestling in America. Boulder, Colorado: Paladin Press, 2005, pp. 79-88を見よ――と書いてある。しかし、新聞記事とは違って、プロレス本がたいてい眉唾物なのは日米同じのはずだ。

◇大野秋太郎は、早稲田大学野球チームと同じ船で渡米した。
 ウィキペディア「早稲田大学野球部」より
 1905年には約3ヶ月にわたる渡米遠征を敢行。日本の野球チームによる初の海外遠征であった。日露戦争中でありながら安部磯雄が大隈重信をはじめとする大学当局を説き伏せ、部員との約束(東京中の一流チームに全勝したらアメリカに遠征させてやる、というもの)を果たした。この遠征で投手のワインドアップモーションやスクイズなどバントの活用、スライディングなどのプレーや戦術・練習法、グローブや野球靴などを持ち帰るなど、大きな収穫を得た。安部、橋戸らはこの収穫を独り占めすることなく著書や他校への指導などで普及に努めた。このことが夜明けから間もない日本の野球に革命をもたらした。

[早大野球チーム]
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2009年9月24日 (木)

前田光世伝(5)

 富田、前田、佐竹の三人は、1904年(明治37年)11月16日に横浜を出航し、12月8日にニューヨークに着いた。
 1905年初め、富田と前田は柔道の公開演武会を何度か開いた。同年2月17日には、プリンストン大学で富田と前田が演武を行い、前田はプリンストンのフットボール選手のN・B・トゥーカーを投げ、富田は同校体育教師のサミュエル・イーグルスを投げた。
 1905年2月21日には、ウェストポイント陸軍士官学校で柔道演武会を開いた。富田と前田が型を演じた。観客の要望に応えて前田光世が士官学校学生と取り組み、簡単に投げて見せた。型の演技では富田が取り、前田が受けであったから、(学生たちは富田の方が強いのだと思い)富田にも相手を所望した。富田は最初に出てきたチャールズ・デイリーという男は簡単に投げた。しかし次にティプトンというもう一人のフットボール選手には、巴投げを掛けようとして二度失敗した。富田の方がずっと小さかったので、日本人の側は本当は自分たちの勝ちだと思ったが、アメリカ人たちは笑って、前プロレス世界チャンピオンのトム・ジェンキンスを士官学校のレスリング・コーチに雇った。
 1905年3月8日のニューヨーク・アスレチック・クラブの演武会はもう少しうまく行った。ニューヨーク・タイムズの記事は、前田光世と体重200ポンド(90kg)のレスラーのジョン・ネイシングの試合を評して「車輪を飛ばしたようにきれいに投げが決まった」と書いている。この試合の経過は
「前田対ネイシング戦は、互いの技術が全然違うので、マット上で学童の喧嘩のように組んずほぐれつする乱戦になった。15分経過したところで前田が最初のフォールを取った。しかしこの試合はネイシングのピンフォール勝ちに終わった」

◇これは1905年3月9日付けのニューヨーク・タイムズの記事の引用。全文を見ればもっと詳しく書いてあるはず。

◇前田対ネイシングの戦いは、この記述を見る限りでは、道着なし絞め技や関節技なしのレスリングのルールで行われたらしい。

◇英語版ウィキペディアで何年何月何日と書いてある記述はすべてその日付の新聞記事等の引用であり、原文にはその旨の注がついている。日本語のウィキペディアの記述は典拠を示していないので再検討する必要がある(これについてはまた)。

◇アメリカにおける山下義韶と前田光世の活躍時期は、山下の方が早く始まっているが、重なるようだ。詳しくは次回以降。

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2009年9月23日 (水)

前田光世伝(4)

 三船久蔵によれば、1904年(明治37年)に前田は三人抜きをしたのち吉武良雄(漢字?)に跳腰で敗れたが、その次の月次試合では八人抜きを成し遂げて四段を与えられた。前田光世は柔道の普及に最大の貢献をした一人であるが、柔道そのものを教えるよりも数多くの異種格闘技戦を通じて柔道の威力を知らしめたのだ、と三船は言う。前田は、弟子に稽古をつけるときも実戦さながらで手加減をせずに投げた。相手を重んじたからこその態度であったが、若い弟子はこれが分からず前田を敬遠してほかのセンセイにつくことが多かった。

 1879年(明治12年)、第18代大統領(1869-77)であったユリシーズ・グラントが訪日した。東京滞在中、彼は飛鳥山の渋沢栄一邸で開催された柔術演武会を観戦した。嘉納治五郎がこのとき柔術家の一人として出場していた。当時は欧米でも柔術の存在が知られ始めていたころで、外人が新聞や怪しげなパンフレットなどから得た聞きかじりの知識で柔術家を自称することもあった。柔道と柔術は区別されていなかった。講道館の設立(明治15年)から何年も経ってからでも、両者は同一視されていた。日本で柔道と柔術の区別がやかましく言われるようになったのは1925年(大正14年)以降のことであり、完全に分離するのは1950年代である。

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(山下義韶)

 1903年(明治36年)、講道館の山下義韶は、シアトルの実業家サム・ヒルの要請で渡米した。ワシントンD.Cでは、山下はセオドア・ルーズベルトをはじめとする著名なアメリカ人たちを弟子に持った。ルーズベルトの要請で彼は海軍兵学校でも柔道を教えた。在米日本公使館では、柔道が日本の評判を高めると考えて、山下義韶の事業を続けるべく柔道家を派遣してほしいと講道館に要請した。富田常次郎は渋々これに応じた。前田光世と佐竹はこの機会にとびついた。

◇山下義韶の読み――英語版ウィキペディアのMitsuyo MaedaではYoshiakiである。Yamashitaの項目ではYoshiakiまたはYoshitsuguとなっている。義韶という漢字が大切なので読みはヨシツグでもヨシアキでもよろしい――という考え方は昔はよくあった。
 たとえば榎本武揚は「たけあき」らしいが確かではなく、ふつう「ぶよう」と音読みにする。読みの分からない名前は結構あって、適当な読みを当人も是認する場合があった。

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2009年9月22日 (火)

前田光世伝(3)

 子安正男九段によれば
「講道館四天王のうちで嘉納先生に一番よく稽古をつけてもらったのは富田であった。……富田は西郷四郎、山下義韶、横山作次郎に比べて実戦では劣ったが、応用研究には特に秀でていて、おまけに英語がよくできた……」
 富田常次郎は四天王のうちでは一番弱かったが、良移心当流の強豪柔術家中村半助に勝つことができた。

◇原文英語は中村半助の流儀を天神真楊流としているが、間違い。中村半助に勝ったのは明治19年(1886年)らしい。翌明治20年には横山作次郎が中村と55分戦って引き分けている。中村半助は『姿三四郎』の敵役柔術家のモデルと言われる。

 佐竹ソイシロ(?)とともに前田光世が四天王に代わる講道館柔道家の第二世代として台頭してきたのは20世紀はじめ頃からである。佐竹は175cm、80kgの体格で相撲では無敵であったが、柔道では前田に敵わないと自分で認めていた。
 佐竹はのちに前田とともに南米に渡った。前田が各地を渡り歩いたのに対して、佐竹はマナウスにとどまった。1914年(大正3年)に佐竹はブラジル初の公式柔道道場を設立している。佐竹と前田はブラジルにおける柔道の創始者と見なされている。
 当時は大学出の柔道家はほとんどいなかった。佐竹と前田はいずれも早稲田大学卒業であった。二人は三段で、ほかに松代理太郎二段と6人の初段がいた。

◇この段落の「大学出(graduated)」「早稲田大学卒業」は原文筆者の誤解。前述のように早稲田はまだ大学ではなかったし、前田は東京専門学校も卒業しているかどうか不明。ブラジルの乱暴な格闘家と比べれば講道館仕込みの前田や佐竹の態度は紳士的で、「さすがは大学卒だ」と感心されたのだろう。ちなみに嘉納治五郎は英語ではたいていドクター・カノウと書かれている。あれほど偉ければ当然博士号くらい持っているだろうと思われたらしい。

 三船久蔵十段(1883-1965)は1903年に講道館に入門したが、前田の眼に止まり、「君はなかなか強い。きっと講道館の歴史に残るだろう」と言われている。三船は横山作次郎についたが、のちに有名になってから、前田さんの言葉は大いに励みになったと回想している。直接の師は横山であったが、彼は前田を尊敬していた。

◇原文の英語は素人が書いたもので、どうも稚拙である。適当に補ったり意訳したりします。

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2009年9月21日 (月)

服装について

 私はネクタイを締めることは滅多にないけれど、たまに背広姿になってみると「似合わないなあ」と思う。自分だけでなく、ほかの人を見ても、どうも日本人には洋服は似合わないように思う。
 日本人なら本当は和服を着るべきだ。昔の人の貫禄を見よ。

 文久遣欧使節。左から竹内下野守保則、松平石見守康直、京極能登守高朗。

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2009年9月20日 (日)

前田光世伝(2)

 前田光世は1878年(明治11年)11月18日、青森県弘前市福沢村に生まれた。彼は青森県立第一中学校(現弘前高校)に通った。幼時は栄世という名前であった。中学時代、初めは相撲をしていたが、体格に恵まれなかった。当時の柔道対柔術の戦いで柔道が勝ちをおさめているという話に興味を呼び起こされて、彼は柔道に転向した。

◇柔道対柔術の戦い云々は原文筆者がフィクションと現実を混同している可能性あり。

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 1894年(明治27年)、17歳のときに彼は早稲田の東京専門学校に進んだ。

◇原文英語ではWaseda Universityと書いてある。しかし早稲田大学と改称したのは1902年、正規の大学になったのは1920年。上京時17歳ならば、東京専門学校の予科に入ったか、青森一中から早稲田中学に転校したのかも知れない。

 翌年、前田光世は講道館に入門した。
 講道館入門時の前田の体格は、164cm、64kgであり、いかにも田舎者風なので出前持ちと間違えられたという。しかし、嘉納治五郎は前田に目をつけ、彼を富田常次郎四段に預けた。富田は講道館四天王の中でももっとも小柄であり、柔道で大切なのは体格ではないことを教えたかったものと思われる。富田は講道館創立時からの弟子であった。

◇前田光世は1908年ロンドンで開かれたプロのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング大会ではミドル級(76.2kg以下)に出場している(柔道か柔術家(68)参照)。体重は講道館入門後かなり増えたはずだ。身長はほかの資料によると164cmのままだったようだ。しかしこの時代ではこれは特に小柄ではない。

◇富田常次郎(1865-1937)は、嘉納治五郎の最初期の弟子である。天神真楊流で嘉納といっしょに修業し、1882年の講道館創立と同時に入門した。『姿三四郎』の作者富田常雄は常次郎の次男。

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1885年頃の嘉納治五郎と弟子たち

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2009年9月19日 (土)

前田光世伝(1)

 ウィキペディアの「前田光世」の項目(2009年9月18日現在)はもう少し何とかなりませんかね。ちゃんと調べたら資料はあるはずだと思う。
 英語版ウィキペディアのMitsuyo Maedaは、ポルトガル語と英語の資料を十分に使って(参考文献が53項目)詳しく書いてある。これを訳してみよう。
 どなたかが日本語の資料もしっかり調べて、ウィキペディアに柔術の本家にふさわしい「前田光世」の記事を書いてくれませんか。

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[1910年(明治43年)頃の前田光世]

前田光世(1878年11月18日-1941年11月28日)は、ブラジルに帰化(ブラジル名はオタビオ・マエダ)した日本人の柔道家およびプロの総合格闘家である。前田はコンデ・コマの異名でも知られていた。これは1908年(明治41年)スペインで活躍しているときにつけられた仇名である。(英語に直すとConde=Count、Koma=Combatであるから、「格闘伯爵」というような意味だ。)
 同じくブラジルに帰化したアントニオ・ソイシロ佐竹(?)とともに、前田はブラジル、英国、その他の国における柔道の先駆者となった。
 前田はグレイシー一族に柔術を教えて、ブラジリアン柔術の発展の根底を作った。また前田は日本からブラジルへの移民を促進する役割も果たした。前田はプロ格闘家として生涯に2000試合以上を戦い勝った。これにより彼は「歴史上もっともタフな男」と呼ばれ(この題名の英語の本があるが、日米のアマゾンでは買えない)、ブラジリアン柔術の父と見なされている。

(佐竹ソイシロというのは佐竹信四郎か? このように怪しい点は、これからも出てくるでしょう。原文筆者は日本語ができないのでやむを得ない。怪しい原文を何とかするというのは、まあ慣れているのですが、当方の格闘技の知識には限りがある。間違いが分かる人は是非ご教示下さい。) 

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2009年9月18日 (金)

従順なる召使(2)

 手紙の結びにI  remain……と書くのは、『ボヘミアの醜聞』に出てきました。
「あの女」アイリーネ・アドラーがホームズに残した手紙の締めくくりはどうだったか。

……and I remain, dear Mr. Sherlock Holmes,
                                              Very truly yours,
                                       Irene Norton, nee ADLER
.

 大いに感銘を受けたホームズはボヘミア王に「この写真をいただきたい」と言ったのだった。

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 servantの方は手紙ではなく、会話に出てきた。

  "Your servant, Miss Morstan," he kept repeating in a thin, high voice. "Your servant, gentlemen. Pray step into my little sanctum. A small place, miss, but furnished to my own liking. An oasis of art in the howling desert of South London."

 もちろんサディアス・ショルト氏ですね。このあとで彼は坐って、モースタン嬢とホームズとワトソンにアグラの財宝の話を聞かせるのだった。

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 しかし、Your servantはどう訳すればよいか。延原謙氏の訳は

「よくおいでなすった、モースタンさん」甲高くて力のない声で、彼は何度もくりかえし、「あなたがたもようこそ。さ、どうぞおはいり。狭苦しいところですが、私の好みで飾りつけました。この南ロンドンという荒漠たる砂漠のなかに作った美術のオアシスです」

 まあ、こうでしょう。ほかの訳者も似たり寄ったりだ。私も特に名案はない。「あなたの召使」のような訳が出てくる余地はないようだ。

・こういうときにyour servantと口に出して言うのはよほど古風な英語であろう。
・モースタン嬢がいたから言ったので、ホームズとワトソンの男二人だけなら言わなかったのではないか。

 と私は思うけれど、これが正しいかどうか自信がない。やはり外国語は隔靴掻痒だ。(愚妻my stupid wife、拙者 my shabby selfなど、文字通り取るとずいぶん変だが、それと似たようなものか。よく分からん。)

"your obedient servant"でグーグル検索してみると
http://onlinedictionary.datasegment.com/word/your+obedient+servant
のオンライン辞書にこう書いてある。

Your humble servant, or Your obedient servant, phrases of
        civility formerly often used in closing a letter, now
        archaic; -- at one time such phrases were exaggerated to
        include Your most humble, most obedient servant.
        [1913 Webster +PJC]
 
              Our betters tell us they are our humble servants,
              but understand us to be their slaves. --Swift.
        [1913 Webster]

Your humble servantまたはYour obedient servantという言い方は、かつては手紙の結びによく儀礼的に使ったが、今では古めかしいものになっている。一時はもっと大袈裟にYour most humble, most obedient servantなどと書くこともあった。

スイフト(1667-1745)の例文
目上の者が自分はあなたのhumble servantです、などと書いてくることがあるが、なあに、こちらが先方の奴隷であることは先刻承知の上なのだ。

 ガリバー旅行記のスウィフトの時代にはよく使ったというのだ。
 白洲次郎は1920年代のケンブリッジで学生生活を送ったので、若い英国人から見るとずいぶん古風な英語を使うことがあったという。
 マッカーサー宛書簡のYour obedient servantも単に「古風な英語」なのかも知れない。  しかし、「従順ならざる唯一の日本人」だったと聞いていたのに、どうもなあ、という気もする。

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2009年9月17日 (木)

従順なる召使(1)

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『何でも鑑定団』を見ていたら、白洲次郎がマッカーサーに贈った椅子が出品された。鑑定額は1000万円だった。
 数年前には吉田茂がマッカーサーに贈った焼物に4000万円の値がついた。安物を贈るはずはないので、これは納得できる。しかし、この椅子は白洲が自分で設計して作らせた粗末な木製のものだ。マッカーサーと白洲次郎というネームヴァリューだけで1000万円もの値がつくのだろうか。
 白洲のマッカーサー宛の手紙と副官の書いた礼状が椅子についていた。
 テレビでは白洲次郎の手紙をしばらく映したが、「閣下にこの椅子をお贈りいたします云々」とあって、締めくくりに

I remain, sir,
Your obedient servant,
          Jiro Shirasu

 と書いてあった。
 あなたの従順なる召使? 
 いや、文字通りの意味ではないことは分かるのだけれども、日本占領軍の司令官に対して、もう少し別の書き方はなかったものだろうか?

 私が英文手紙を訳するときには、「敬具」はYours sincerelyかSincerely yoursのどちらかに決めている。いつだったかアメリカ人に聞いたら一方の方がベターだと言ったけれども、その理由が納得できなかったので、どちらがいいのだったか、覚えていない。

 I remain……もyour obedient servantも、かなり古風な英語らしい。シャーロック・ホームズにも出てきたようだ。

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2009年9月16日 (水)

朝日屋でござる

 町内会の会合に出たら、年寄から「朝日屋さん」と呼ばれた。
 もう一人同じ苗字の人がいるので、区別するためらしい。同姓のこの人は分家で私が本家だが、横溝正史の世界ではないから
「この私は仮にも本家ですよ」
というのは通用しない。
 我が家は祖父の代から外に出ていることが多かったのに、分家の人はずっと地元にいるので、向うの方が幅が利く。
 江戸時代に分家したらしい。本家の我が家は朝日屋の屋号で商売をやっていたらしい。
 江戸時代には、このあたりは天領で代官がおさめていた。
 お代官さまが私の先祖に
「朝日屋、おぬしも悪よのう」
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2009年9月15日 (火)

刺青について(9)

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 1906年(明治39年)、明治天皇にガーター勲章を授けるコンノート殿下。ガーター勲章は英国の最高の勲章である。舞踏会で女の人がガーター(靴下止め)を落としたのを王様が拾って自分の脚につけたのがはじまりという粋な勲章である。だから脚につける。1902年に日英同盟を締結し1905年には日露戦争に勝ったので、天皇がガーター勲章を受けることになった。この勲章は、大正天皇、昭和天皇、今上天皇ももらっている。
 コンノート殿下はヴィクトリア女王の三男である。アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子は長男アルバート・エドワード(エドワード7世)の子供なので、コンノート殿下の甥に当たる。殿下は1881年(明治14年)に来日した甥たちの腕の龍の刺青を見て感銘を受けたから、自分も刺青をすることにした。天皇に勲章をつけてから日光東照宮を見物に行ったが、名人初代彫宇之(1843-1927)を日光に呼んで刺青を彫らせた。図柄は不動明王だったという説もあるが、これは怪しい。背中一面に彫るだけの時間はなかったはずだ。

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 コンノート殿下は日本で熱狂的に歓迎された。三越がカラーのブロマイドを出したくらいだ。夏目漱石などはこの騒ぎを苦々しく思っていた。

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「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが、紛然雑然糅然としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以て脳裏をかけ廻る。……」

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2009年9月13日 (日)

刺青について(8)

 1891年(明治24年)4月下旬に長崎に来たニコライ皇太子とゲオルギス王子は、5月11日には京都にいた。
 ゆるゆると日本各地を見物しながら、東京まで来る予定だった。留学経験のある有栖川宮威仁親王が接待にあたっていた。
 5月11日には、午前中に京都から琵琶湖見物に行った。昼過ぎ、ニコライ皇太子、ゲオルギス王子、有栖川宮威仁親王は人力車を連ねて大津市街を通過した。
 ところが、警備に当たっていた滋賀県巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかった。津田はすぐに取り押さえられ、皇太子は頭に切り傷を負ったが命に別状はなかった。いわゆる大津事件である。大騒ぎになったことはご存じの通り。

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 ニコライ皇太子はすぐに帰国した。1896年(明治29年)にニコライ2世として即位した。1904年(明治37年)には日露戦争が起きた。『坂の上の雲』によると、大津事件の恨みからかニコライは日本人を「猿」と罵っていたという。
 1917年、2月革命が起こり、ニコライは3月に退位させられ、皇帝一家は監禁された。10月革命によりボリシェビキが主導権を握り、翌1918年の7月17日、ロマノフ一族全員が処刑された。

 ニコライ2世は英国王ジョージ5世と従兄弟同士であったから、英国に亡命することもできたはずだ。レーニンのボリシェビキによる10月革命以後は無理としても、2月革命の段階ではケレンスキーの政府は亡命を認めただろう。しかし英国政府が躊躇しているうちに機会は失われた。

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 ニコライとジョージは従兄弟同士で瓜二つだった(写真の左がニコライ)。子供のころにはお祖母さんのいるデンマーク王家でいっしょに遊んだ。二人とも日本で本格的な刺青をいれていた。ニコライは1918年に殺され、ジョージは1936年にベッドの上で死んだ。

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2009年9月12日 (土)

民主主義

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 「改革なくして成長なし!」

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  「政権交代!」 民主主義って本当にすばらしいですね。

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「我らは国家の命運を手中にする。ヒトラーは大統領とならん」 1932年の選挙ポスター。民主的に33.1%を得て第一党になった。

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2009年9月11日 (金)

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実行したのは彼らだが、望んだのは我々だ。(ジャン・ボードリヤール)

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2009年9月 9日 (水)

メンデルスゾーンの

 私は右の表[シャーロック・ホームズの特異点 1~12]で彼のヴァイオリンの腕前に触れた。これはすばらしいものだったが、ほかの才能と同じようにすこぶる片寄っていた。彼がさまざまの曲を、ことに難曲をも奏しうるのは、私の求めに応じてメンデルスゾーンのLiederやそのほか私の好きな曲をいくつか弾いてくれたことからも分かっている。ところが……
(緋色の研究)

 新潮文庫や光文社文庫では、Liederの訳が歌曲となっているが、間違い。
 Lieder ohne  Worte(Songs without Words)を省略してこう書いたのだ。メンデルスゾーンの無言歌。もとはピアノ曲だ。ホームズはヴァイオリン用に編曲したものを弾いたのだろう。

 レックス・スタウトの『ワトソンは女だった』は、これを重要な論拠の一つとして挙げている。男が男に対してヴァイオリンで『無言歌』を弾いてほしいなんてリクエストするものか、というのだ。(スタウトのWatson Was a Womanは次の箇所にあり。http://www.hwslash.net/stout.html

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わたしが
W「ねえ、こんどはメンデルスゾーンの無言歌を弾いてくださいな」
と頼むと
H「いいよ」
と、何でも気軽に弾いてくれるのでした。
 でも、気まぐれな人ですから、何も言わないでいると曲らしい曲は弾かなかった。夕方になるとよく肘掛椅子にもたれて、目をつぶって膝の上に横たえたヴァイオリンを、そぞろにかき鳴らすのでした。
W「延々と聴かされるのは、つらいわ」
H「すまなかったね。埋め合わせに何でも君の好きな曲を弾いてあげるよ」
 ホームズってやさしい人なの。

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2009年9月 8日 (火)

刺青について(7)

 刺青王だけでなく、さらに格上の刺青皇帝もいた。
 ジョージ5世の従兄弟にあたるロシア皇太子ニコライが1891年(明治24年)に来日したときに刺青をいれ、1894年にニコライ2世として即位して刺青皇帝となった。

 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ(1868-1918)は、ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王家の次女)の間に生まれた。英国のジョージ5世(1865-1932)の母はデンマーク王家の長女だから、ニコライとジョージは従兄弟同士になる。
 ちなみにジョージ5世の父エドワード7世は大変なプレイボーイだったから、デンマーク王家の長女、すなわち「スカンディナヴィアの王女」との結婚には、障碍が生じる可能性もあった。『ボヘミアの醜聞』にはモデルがあったわけです。

 1891年4月、ロシアの皇太子ニコライ(写真右)は、従兄弟のギリシャ王子ゲオルギス(写真左)とともにロシアの軍艦アゾフ号で長崎に来航した。シベリア鉄道の起工式に参加する途中で立ち寄ったので、ゆっくり観光してまわったようだ。

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  ニコライ皇太子とゲオルギス王子は長崎で軍艦に彫師を呼んで刺青をいれた。専門家によると、腕に龍の刺青をいれたので、彫師は野村幸三郎と(姓不詳)又三郎の二人だったという。
http://www.atelierimage.co.jp/japanesetattoo.html 参照)

 二人は日本にはまず遊びに来たみたいだ。当時の日本はロシアから見れば吹けば飛ぶような国だから、「皇室外交」ということでもなかったはず。
 長崎では人力車に乗ったりしてのんびりと楽しんだ。

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 日本政府は「せっかくお出でになったのですから、国賓待遇にします」と、下へも置かぬもてなしをした。ところが大変な事件が起こってしまうのですね。(続く)

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2009年9月 7日 (月)

刺青について(6)

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 1881年(明治14年)10月、ヴィクトリア女王の孫で王位継承権第2位と第3位のアルバート・ヴィクター王子(18歳)とジョージ王子(17歳)が来日した。この二人は父親のアルバート・エドワード皇太子(1901年にエドワード7世として即位)の方針により海軍兵学校を出て、海軍士官として軍艦に乗って1879年から3年間の世界漫遊をしていたのだ。
 二人はロンドンの日本公使館を通じて日本の外務省に手配させ、横浜の彫千代という刺青師に依頼し、腕に龍の刺青をいれさせた。

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 [刺青をいれさせるジョージ王子]

 兄のアルバート・ヴィクターは1892年、28歳のときに肺炎で死去した。ジョージは王位継承権第2位となり、兄の婚約者だったメアリと結婚した。(ちなみに、このメアリのことを英語ではよくQueen Maryと書いてある。「メアリ女王」などと訳してはいけません。)

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 1910年(明治43年)、父エドワード7世の死去により、ジョージ5世が即位し、1936年(昭和11年)まで在位した。
 小泉前首相の祖父、小泉又次郎(1865-1951)は1929年(昭和4年)浜口雄幸内閣で逓信大臣に就任したが、倶梨伽羅紋々だったので「刺青大臣」の異名を取った。刺青は明治5年から昭和23年まで法律で禁止されていた。今でも刺青があるとプールなどに入れないようだ。 
 しかし、英国では全然事情が違った。何しろ「刺青王」がいたのだ。(続く)

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2009年9月 5日 (土)

刺青について(5)

 日本が開国すると、日本刺青の名声は、船員や海軍兵士を通じて海外に広まっていった。彼らは横浜や長崎で日本特有の本格的な芸術性の高い刺青をいれた。
 もっとも西洋には肌脱ぎになるという習慣がないので、桜吹雪や唐獅子牡丹などはせっかく彫っても見えない。せいぜい腕まくりしたときに見えるように彫らせるくらいだった。

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[長崎の刺青 Illustrated London News誌 1881年(明治14年)]

 正典にも、腕まくりして刺青が見えるシーンがありましたね。
 ホームズの言葉。
「あの魚をボートに引き上げようと腕まくりをなさったときに、肘の内側にJ・Aの頭文字の刺青が見えました。文字はまだ読みとれましたが、ぼやけていて周りの皮膚が黒ずんでいたので、消そうとなさったことは明らかです。したがって、あのイニシャルは、一時はごく大切なものだったけれど、その後忘れたいと思っておられることが分かります」
 もちろんグロリア・スコットの事件で、相手は大学(オックスフォードかケンブリッジかそれが問題だ)の級友の父親、トレヴァー老人だった。1874年(明治7年)のことらしい。この事件が名探偵シャーロック・ホームズのキャリアのはじまりになるのだった。
 トレヴァー老人はどうやら20年ほど前にオーストラリアに渡り一財産築いたらしい。
 ホームズはトレヴァーが日本にも行ったことがあると言い当てたけれども、J・Aの刺青は日本でいれたものかどうか。アルファベットの文字だけならば、わざわざ日本で彫らなくてもよい。いや、この場合は、考えてみると日本で彫ってはおかしいはずだ。(続く) 

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2009年9月 3日 (木)

刺青について(4)

 刺青はどこの国でもあるが、本場は日本である。古代からそうだ。魏志倭人伝には

男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。

男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して漁蛤を捕え、文身しまた以て大魚水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。

 とある。「黥面文身」で全身に刺青をしていたことが分かる。黥が顔(=面)にいれる刺青、文が体(=身)にいれる刺青である。もちろん中国にも刺青はあった。会稽に封ぜられた夏后少康の子などは体に刺青をいれていた。しかし男子は大小となくみなが顔にまで刺青をするという風俗は中国になかった。「大小となく」は「大人も子供も」ではなく「身分の上下に関わらず」という意味だろう。倭では漁師が海に潜って魚や貝を取るときに大魚や水鳥を避けるために刺青をしていたが、やがて飾りのために刺青をいれるようになったというのだ。

 シャーロック・ホームズも魏志倭人伝までは読んでいなかっただろう。しかし19世紀には、日本の刺青の名声は世界に鳴り響いていた。遠山金四郎景元(1793-1855)がどういう刺青をいれていたかなどは、Upon Tattoo Marksの筆者ならば知っていたはずだ。(続く)

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2009年9月 2日 (水)

刺青について(3)

『四人の署名』でホームズが挙げたモノグラフ。

Upon the tracing of footsteps, with some remarks upon the uses of plaster of Paris as a preserver of impressions 足跡調査法(痕跡保存のための石膏使用法に関する所見を付す)

Upon the influence of a trade upon the form of the hand, with lithotypes of the hands of slaters, sailors, corkcutters, compositors, weavers, and diamond-polishers  手の形に対する職業の影響(スレート職人、船員、コルク切り工、植字工、織物工、ダイヤモンド磨きの手型の石版図を付す)

 正典全体を見れば、ホームズはほかにも多数のモノグラフを書いている。順不同で挙げてみると

Upon the typewriter and its relation to crime  タイプライターとその犯罪との関係 (『花婿失踪事件』で「そのうちに書きたい」と言った。)

・ヒトの耳(the human ear)に関する短いモノグラフ2編。正確な題名は不明。人類学雑誌に掲載(『ボール箱』)

Upon forms of secret writings  暗号形態論(『踊る人形』)

Upon uses of dogs in the work of the detective  探偵の仕事における犬の使用(『ぶな屋敷』で「ぜひ書きたい」と言った。)

Upon the Polyphonic Motets of Lassus  ラッススの多声モテット論(『ブルース・パーティントン設計書』)

Upon malingering  仮病論(『瀕死の探偵』で「いつか書いてみようかと思う」と言ったが、本当に書いたかどうか。)

Upon the determination of the date of a document  古文書年代決定法(『バスカヴィル家の犬』。ただし題名はこれとは少し異なる可能性あり)

Upon early English charters 初期イングランド勅許状論 (『三人の学生』では某大学町に滞在中のホームズがこの研究を進めていた。少なくとも1編はモノグラフを書いたはず。題名は少し異なる可能性あり)

  もう一つ、モノグラフという言葉は使っていないけれども書いたに違いないのが『刺青について Upon tattoo marks』でしょう。これを書いてホームズは刺青文献の充実に貢献したのだ。
『刺青について』の内容はどんなものだっただろう。ホームズが書いたのだから、第一級のものだったに違いない。質屋のウィルソンさんの刺青は「中国に特有のもの」だとホームズは言った。しかし、刺青の本場が中国ではなく日本であることは、もちろん知っていたはずだ。

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2009年9月 1日 (火)

刺青について(2)

「いま彼は僕のささやかな仕事をフランス語に翻訳しているところなのだ」
「君の仕事?」
「ハハ、知らなかったのか」と彼は大きな声で笑った。「実は恥ずかしながら論文をいくつか書いていてね。どれも専門的なテーマを扱ったものだ。たとえば、これは『各種煙草の灰の識別についてUpon the Distinction between the Ashes of the Various Tobaccos』というのだ。140種類の葉巻、紙巻、パイプ煙草をあげて、灰の違いをカラー図版で示してある。これは刑事裁判でよく問題になる点で、まさに事件の鍵になることもある。たとえば、ある殺人がインドのルンカ葉巻を吸う男の仕業と分かれば、捜査の範囲が狭まることは明らかだろう。専門家が見れば、トリチノポリ葉巻の黒い灰とバーズアイの白くてふわふわした灰では、キャベツとジャガイモぐらいの違いがあるのだ」
(四人の署名)

 このモノグラフのことは前にも触れている。そのときは140種類とは言わなかったけれども。
「それから床に散らばった灰を少し集めてみたが、黒い薄片状のものだった。こういう灰ができるのはトリチノポリ葉巻だけだ。僕は葉巻の灰については専門的に研究して、論文まで書いているのだ。自慢じゃないが、葉巻でも刻み煙草でも、一目見れば銘柄が当てられるよ」
(緋色の研究)

 正典のなかでもう一箇所、同じモノグラフに触れている箇所がある。

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「親子が口論している間、その男は例の木の陰に隠れて立っていたのだよ。しかも煙草まで吸っていた。葉巻の灰があったのだ。僕は煙草の灰についてはいささか詳しいから、インド葉巻だと分かった。ご存じのように、僕は以前から煙草の灰には関心があって、140種類のパイプ煙草、葉巻、紙巻の灰について、ちょっとした論文を書いているくらいだからね。灰が落ちていたので周りを見回したら、苔の間にやつが投げ捨てた吸いさしが見つかった。ロッテルダムで巻いているインド葉巻だ」
(ボスコム谷の謎)

『四人の署名』に戻ると、ホームズは『各種煙草の灰の識別について』のほかにも自分が書いたモノグラフをいくつか挙げています。

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