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2009年10月16日 (金)

前田光世伝(12)

 1916年1月8日、前田光世、大倉、清水の三人は汽船アントニー号に乗ってリバプールに向かった。伊藤徳五郎はロサンジェルスに向かった。オ・テンポ紙によれば、佐竹とラクはマナウスに残って柔術を教えた。前田と佐竹は15年間苦楽をともにしたが、このとき初めて別行動を取った。この訪欧については知られていることは少ない。前田光世はイングランドからポルトガル、スペイン、フランスに行き、1917年に一人でブラジルに戻ってきた。前田はベレンに落ち着き、D・メイ・イリスと結婚した。

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 前田はブラジルで依然として人気があり偉大な格闘家として認められていたが、欧州から帰ってからは実際に戦う機会は少なくなった。1918年から19年ごろ、前田は有名なカポエラの使い手であるペ・デ・ボラの挑戦を受けた。前田は相手にナイフを使って戦うことを許した(実際に試合でナイフを使ったかどうかは不明。原文が悪い)。べ・デ・ボラは190cm、100kgの大男だったが、結果は前田の楽勝だった。
 1921年に、前田はブラジルで初の柔道道場を開いた。Clube Remoという名前のこの道場は、初めは4m四方の小屋だったが、やがて消防署に移り、さらにN.S.de Aparecidaの教会に移った。1991年現在では、この道場はSESIにあり、前田の孫弟子にあたるアルフレド・メンデス・コインブラが主宰していた。(この段落、ポルトガル語が不明)
 1921年9月18日に、前田、佐竹、大倉の三人は汽船ポリカープ号でニューヨークに行った。三人は職業欄に「juitsoの教師」と書いている(原文注によれば1820-1957年のニューヨーク港船客リストのデータベースがあってマイクロフィルムが閲覧できるという。前田たちが「ジュージツ」と言ったのを船員がjuitsoと書いたのではなかろうか)。ニューヨークには短期間滞在しただけで、三人はカリブ諸国に移り、1921年12月まで滞在した。この間、前田は妻を呼び寄せた。ハバナでは、佐竹と前田が何度か試合に出た。相手にはパウル・アルヴァレス(リングネームはエスパノル・イコグニト)がいた。アルヴァレスは佐竹と前チリ海軍兵学校教師という触れ込みの大倉を破ったが、前田には負けた。前田はまたホセ・イバラというキューバ人ボクサーに勝ち、フルニエというフランス人レスラーをも破った。

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 1925年には、前田光世はパラ州トメアスの移住地に日本人移民を定着させる事業に関わり始めた。トメアス移住地はアマゾンの森林の中にブラジル政府が日本人移民用に確保した土地である。日本人がここで栽培しようとした作物はブラジルではあまり売れず、日本の投資家はこの開発事業から手を引いた。(この「作物」とは米のことだろうか? 日本からの投資は絶えてもブラジル移民は現地で苦闘を続けた。第二次大戦が始まると日系移民は敵国人として財産を没収された。戦後トメアスは日系人が始めた胡椒の栽培で繁栄した。)
 また前田は主に日系人の子弟に柔道を教え続けた。1929年には講道館は彼を六段に進めた。1941年11月27日にはさらに七段位を贈ったが、前田光世は28日にベレンで亡くなったので昇段を知らなかった。死因は肝臓病であった。
 1956年5月には、郷里の弘前市に前田光世の記念碑が建てられ、除幕式に講道館館長の嘉納履正と佐村嘉一郎が出席した。
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