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2009年10月17日 (土)

前田光世伝(13)

 ブラジリアン柔術

 1917年、前田光世はパス劇場(Teatro da Paz どこ?)で柔道演武会を行った。これを見ていたガスタオン・グレーシーの14歳の息子カーロスは自分も柔道(当時は嘉納柔術とも呼ばれていた)を学びたいと思い、前田に入門した。カーロスは柔術の修業を続け、弟のエリオ・グレーシーとともにグレーシー柔術、すなわち現代のブラジリアン柔術の開祖となった。1921年、ガスタオン・グレーシーは家族とともにサンパウロに移った。当時17歳だったカーロスは前田に習った柔術を兄弟のオスヴァルド、ガスタオン、ホルヘに教えた。エリオはまだ幼く病弱で医者に稽古を禁止されていたので、兄たちの稽古を見学していた。しかし彼もやがて健康になり、今ではエリオがブラジリアン柔術の開祖だと考える人が多い(カールソン・グレーシーのようにカーロスこそが開祖だとする人もいる)。

Kimura

(エリオ・グレーシー対木村政彦。腕絡み(キムラ)が極まるところか。1951年。動画 http://www.youtube.com/user/kjkj5#p/a )

前田光世の格闘理論

 レンゾ・グレーシーの書いたMastering Jujitsuによれば、前田がカーロス・グレーシーに教えたのは柔道(柔術)だけではない。世界中でキャッチ・レスラーやボクサーやその他サバットなど各種のマーシャルアーツの使い手と戦って培った前田光世独自の格闘理論を同時に教えたのだ。レンゾ・グレーシーの本は前田の格闘理論を詳述している。徒手格闘は、打撃局面、組み技局面、寝技局面などの局面に明確に分けることができるというのである。できるだけ自分の強みを活かすことができる局面に戦いを限定するのが賢いやり方だという。この理論がグレーシー流の戦い方の基本だとこの本は言う。

◇これでおしまい。ウィキペディア英語版のMitsuyo Maedaの翻訳です。訳者による付け足し等は分かるように書いてあるはず。ごく一部省略あり。たとえば(12)では、「フルニエというフランス人レスラーをも破った。」の後に、The Havana papers attributed Maeda with a Cuban student called Conde Chenard.とあるが訳さなかった。原文英語が間違いで意味不明のため。

◇英語版には53項目の参考文献がついている。たとえば1905年に前田光世と富田常次郎がウェストポイント陸軍士官学校で柔道の演武を行ったことは前田光世伝(5)に書いたが、原文はボルチモア・サンという新聞の1905年2月22日号を注に挙げている。「富田常次郎が巴投げを掛けようとして二度失敗した」が正しいかどうかは、百年前の英語の新聞を見れば確かめられる。ウィキペディアの記事はこういうふうに書くべきでしょう。次の日本語版の記述と比べられたし。

ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の一人富田常次郎が、体重約160kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関しては、「前田がルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。

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