« 朝青龍の勝ち | トップページ | 前田光世伝(8) »

2009年10月 6日 (火)

前田光世伝(7)

 ヨーロッパへ渡る前に、前田光世と佐竹は大野秋太郎、伊藤徳五郎とともにキューバに赴き、四人とも格闘技戦を行った。前田がキューバ最強とされるアドバモンドを降したのはこのときである。

◇キューバ滞在については、英語版ウィキペディアの記述はきわめて簡略である。1906年の始めにキューバに渡り年末まで滞在したのか? 対アドバモンド戦についてはポルトガル語の参照文献が挙げてある。

 1907年2月8日に、前田光世と佐竹は英国のリヴァプールに到着した。大野秋太郎がウィリアム・バンキアのプロモーションでミュージックホール・レスリングに出場するために先にロンドンに渡っていたが、二人はこれに合流するつもりだったようだ。ロンドンでは、前田は主にプロレスで生活費を稼いだ。1908年1月には、前田はアルハンブラ劇場でのトーナメントに出場した。前田はヘビー級に出場し、オーストリアのヘンリー・アースリンガーに決勝で敗れて二位となった。2月にも別のトーナメントに出場し、決勝でジミー・エッソンに敗れた。3月には、前田光世はヘンリー・アースリンガーと再戦し雪辱した。ヘルス&ストレングス紙はこの試合を「イングランドでこれほどまっとうな試合が行われたのは何年ぶりのことか」と賞賛した。インヴァネスで開かれたノーザン・ゲームズの大会で、日本人が柔道と相撲のデモンストレーションを行ったと報じられているので、前田は1908年9月にはスコットランドでも試合をしたようだ。この間、前田は柔道のレッスンも行っていた。弟子にはW・E・スティアーズという男がいた。スティアーズはなかなか熱心で、のちに日本へ行って1912年(大正元年)に講道館で初段を取っている。1918年には、ロンドンで武道会という柔術クラブが設立されたが、スティアーズは最初の非日本人会員の一人となった。武道会は1920年に講道館に加盟して柔道クラブとなった。(この年に嘉納治五郎が訪英した。嘉納は谷幸雄に二段を与えた。昔は段位が辛かったのだ。)

◇谷幸雄について書いたことと重なる事項がずいぶん出てきました。カテゴリの格闘技、タニ・ユキオで検索すれば出てくるけれども、簡単に書いておくと

◇ウィリアム・バンキアは別名アポロという怪力男で、谷幸雄のマネージャーを務めた。大野秋太郎のマネージャーでもあったようだが、柔術家タニ・ユキオを引き立たせるために、大野はプロレスラーとして使ったらしい。(この辺は確かめたわけではありません。)

◇1908年(明治41年)は、プロレス(=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の世界選手権とアマレス(=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)のロンドン五輪が開かれた年である。ウィキペディア英語版の「アルハンブラ劇場でのトーナメント」の記述と英国レスリング連盟の「フリースタイル・レスリングの歴史」による記述(柔道か柔術か66, 67, 68あたり)とは少し食い違いがある。

◇前田光世は、3月にヘンリー・アースリンガーに勝った試合でヘルス&ストレングス誌に賞賛されたが、これはもちろんキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合である。私が前々から書いているように、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルである。関節技有りの最強のレスリングではない。この点に異議のある人は、Health & Strength誌を自分で調べてみなさい。あるいは1908年のアルハンブラ劇場でのトーナメントについても、英語の新聞雑誌に試合経過が書いてあるのだ。たとえば「アームロックでギブアップを奪って勝った」なんて記述があるかどうか、調べてごらん。

Maeda_2

|

« 朝青龍の勝ち | トップページ | 前田光世伝(8) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/31671779

この記事へのトラックバック一覧です: 前田光世伝(7):

« 朝青龍の勝ち | トップページ | 前田光世伝(8) »