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2009年10月 7日 (水)

前田光世伝(8)

  1908年3月、ヘンリー・アースリンガーに雪辱してから、前田光世はベルギーへ行ったが、ここは気に入らなかったのですぐにロンドンに戻った。4月にはヘングラー・サーカスのレスリング・トーナメントに参加した。前田はマツダ・タノという日本人とともにミドル級に出たが、二人とも決勝には進めなかった。1909年1月には、マツダがサム・マックヴェイという黒人ボクサーと異種格闘技戦を戦って負け、悪評を買った。
 1908年6月に前田はスペインへ行った。フジサケ、大野、平野が同行した。バルセロナで前田光世は上西貞一および三宅太郎と試合をした(英語参照文献あり。柔術の試合だったらしい)。一行には世界女子柔道チャンピオンを名乗るフェーブ・ロバーツというウェールズ人も加わっていた。彼女は平野と結婚してポルトガルに住んだ。
 イベリア半島を巡業しているときに、前田光世はコンデ・コマというリングネームを使い始めた。なぜコンデ・コマなのかについては諸説がある。前田はいつも金に困っていたから、日本語の「困る」から来ているのだという説もある。(英語原文では、前にポルトガル語のKomaは英語のCombatだと書いてあったのだけれど、これは正しいのか?) 
 前田光世自身はヨーロッパのある雑誌のインタビューでこう述べている。
「私が強くて堂々としているというので、スペインである有力者がこの称号をつけてくれたのだ。これはすぐに広まって本名よりもずっと有名になった」
 前田はこの異名が気に入り、以後リングネームとして使うようになった。

◇コンデ・コマは「コンデ高麗」だと書いている人がいる。明らかな間違いです。前田光世のウリナラ起源説はいけません。

◇上西貞一、三宅太郎はタニ・ユキオ(谷幸雄)の記事にも出てきた。谷幸雄と前田光世は同時期にロンドンにいたのだから会っているはずだ。谷幸雄が「ニッポン柔術」の代名詞になっていたから、前田は英国では主としてレスリングに出場したのではないだろうか? この辺はさらに調べれば面白いでしょう。

◇柔術家・柔道家が他流試合で負けた例はかなりあるようだ。アメリカでの富田常次郎も馬鹿力に対して「柔よく剛を制す」が通用しなかった。谷幸雄は道着を着用した試合では対三宅太郎戦以外は不敗だった。前田は「異種格闘技戦では不敗」と言われている。

◇このころドイツにも行ったらしい。次の写真。ドイツ語で、右端が前田モマ(コマの間違い)、同僚のラク、佐竹、清水とともに、と書いてある。ラクは上西貞一のリングネーム。

Mannschaft

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