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2009年10月31日 (土)

白いドレスの女

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『白いドレスの女(Body Heat)』は、ずっと昔に見た。
 キャスリーン・ターナー、よかったですねえ。主人公が破滅するのが納得できる美しさだ。
 男も女もずいぶん煙草を吸う映画だった。今では政治的に正しくないからこういうのは作れない。
 映画が始まると、若い男が走っている。ジョッギングではなくて、かなりのスピードで息を弾ませて走る。やがて立ち止まると、ポケットから煙草を取り出して吸うのだ。
「俺と同じことをしている」と思った。
 これで主人公の性格を暗示しているのだ。キャスリーン・ターナーが出てくれば破滅してしまう男だ。

 当方はランニングはだいぶ前にやめたし、煙草まで数年前にやめてしまった。破滅することに吝かではなかったのだが。

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2009年10月30日 (金)

ナイーブな肉屋

「君は昔はもっとナイーブだったぜ」
「そうかもしれない」といって僕は灰皿の中で煙草をもみ消した。「きっとどこかにナイーブな町があって、そこではナイーブな肉屋がナイーブなロースハムを切っているんだ。昼間からウィスキーを飲むのがナイーブだと思うんなら好きなだけ呑めばいいさ」
(講談社文庫版上p.84)

  村上春樹は英語にやかましい作家だ。『1Q84』で天吾が使うのは「富士通のワードプロセッサー」であって、「ワープロ」ではない。『海辺のカフカ』の星野君は、「カーネル・サンダース」と言いそうなものだが、正しく「サンダーズ」と言っていた。
   大島さんは、フェミニズム二人組の「ジェンダーgender」という言葉の使い方をたしなめていた。「ちなみにジェンダーということばは、そもそも文法上の性を現すものであって、フィジカルな性差を示す場合はやはりセックスの方が正しいと僕は思います。この場合の『ジェンダー』は誤用です。言語的な細かいことを申し上げれば」
(この場合は、そもそもアメリカ人が間違った使い方をしているわけですが。)

 しかし村上春樹でも間違えるのだから、油断は禁物だ。「ナイーブな肉屋」はnaive butcherとは訳せない。Alfred Birbaumの英訳ではinnocent butcherとしている。「アブドーラ・ザ・ブッチャーはナイーブな肉屋だ」なんちゃって。

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「ナイーブ」というのは何か結構なことのように思っていませんか? そういう意味ではない。要するに「単純で馬鹿」という意味です。

naive
adj. 世間知らずの, 無知でだまされやすい, 単純な, (年の割に)幼稚な, 稚拙な; 純真な, うぶな, 素朴な, 愚直な, 無邪気な, 天真爛漫な
◆It is naive to believe that productivity will skyrocket shortly after the design-automation tools are installed. 
設計自動化ツールを導入して間もなく生産性がうなぎのぼりになるだろうなどと考えるのは, おめでたい限りである.
(ビジネス/技術実用英語大辞典)

 むかし「フランシーヌの場合は、あまりにもおばかさん」というのがあった。naiveというのは、まあそういう意味です。
 グーグルに「ナイーブな」と入れてみると
「ごくせん」出身のイケメン俳優が、初主演作で見せるナイーブな表情http://news.walkerplus.com/2009/1020/10/
 というのがトップに来る。

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「ごくせん」とは何か知らないが、なかなかハンサムな若い男だ。しかし、ナイーブ=ハンサムでもないらしい。高倉健はハンサムだが、ナイーブとは言わない。歳が違いすぎる? 木村拓哉の若いころもナイーブとは言わなかっただろう。
 英語のnaiveは「単純で馬鹿」だが、「日本語のナイーブ」は「繊細で感じがよい」というような意味で使っているみたいだ。
 しかし次などどういう意味だ?

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 グーグルに「ナイーブな」で二番目に出るのは

 あまりにナイーブな鳩山外交

 自民党の山本一太議員がブログで鳩山首相を批判している。この「ナイーブ」の用法は正しい。http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-10-24
「こと外交政策に関して言うと、鳩山総理はあまりにナイーブな気がする。特に普天間基地移設問題に関しては、毎日言うことがぶれている。これはとても不安だ!」

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2009年10月27日 (火)

ジョージ・ブッシュ対ふかえり

「じゃあ、学校でも困るんじゃないの? 授業でいろんな本を読まなくちゃならないだろうし。もしそんなに時間がかかるとしたら」
「よんでいるふりをする」と彼女はこともなげに言った。 
 天吾の頭のどこかで不吉なノックの音が聞こえた。そんな音はできることなら聞こえなかったことにしてやり過ごしてしまいたかったが、そういうわけにもいかない。彼は事実を知らなくてはならない。
 天吾は質問した。「君が言ってるのはつまり、いわゆるディスレクシアみたいなことなのかな?」
「ディスレクシア」とふかえりは反復した。
読字障害

 それからもう一つ、日本の小学校では問題にならない障害があります。それは「読字障害」というもので、アメリカ人の小学生なら八パーセント、つまり100人中8人くらいの頻度で出現します。
 知能には問題ないけれども、文字を読むことに関して、何らかの欠陥があって、よく読めない。 
 たぶん、ブッシュ大統領もそうじゃないでしょうか。ブッシュ大統領の英語って、よく間違えるというか、変な文章になっていることが多いと、現地のメディアが報道していますが、たぶんあれは読字障害です。

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2009年10月25日 (日)

東アジア共同体

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東亜細亜の共存共栄のために八紘一宇の精神でがんばりませう。All eight corners of the world under one roof.
日本國民も盛大なる大會に結集して鳩山首相を応援しております。

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2009年10月24日 (土)

理力

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理力があなたとともにありますように!
(理力Forceとは、気とともに中国哲学の根本概念である理の力である。王陽明(1472-1529)は「理は気の条理なり」としている。)

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2009年10月21日 (水)

憂国と切腹

 何という映画だったか題名も忘れてしまったが彼が六尺褌姿になって切腹する軍人に扮していた。聞くところによるとこのごろの流行語でいう「モッコリ」に当たる肉体部分をいやが上にも盛り上がらせるために彼は詰物をしたということだった。
 中世の男性の服装の「モッコリ」に当たる部分は「パウチ」というがフックスの風俗史によれば、当時の若者はそこに林檎を入れたりして男性を誇示したということだ。三島もその故智にならったのであろうか。三島の平安朝貴族趣味からいったら凡そ程遠いことで、むしろ私は歌舞伎趣味といいたい。あの浜松屋の強請の場面で、それまで初々しい嫁入り前の娘を思わせていた弁天小僧が矢庭に着物の裾をまくって大胡座をかき太腿の刺青を見せ、序でに股間の「モッコリ」も見せるというのはまさに三島の趣味であり下賤なものである。昔、女芝居というものがあり、私の幼少のころはその人気者が女だてらに弁天小僧を演じていたが、女性なので「モッコリ」に見せるため特別の工夫が必要だったと芸談で読んだことがある。…………

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 わざわざ美青年を撰んで、それに介錯させて自分の首を落とさせているあたりも実に趣味的で性欲的と私は思うのである。彼は何かと天皇と結びつけて自分の死を崇高化しようとしているが私にいわせればこれも性欲の一部である。彼が『仮面の告白』の中で「聖セバスチャンの殉教」の泰西名画を見て異常な性欲の昂まりをみたといっているのは「殉教」の中にマゾヒズムを感じたからであろう。だから彼の天皇の御為にというのは大なる不敬であって考えようによっては天皇を自分の性欲の充足の道具立ての一つに使っているともいえるのである。
(飯沢匡)

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 緒形拳が三島由紀夫に扮したポール・シュレーダー監督のMISHIMAは、アメリカのアマゾンからならば買える。http://www.amazon.com/Mishima-Life-Chapters-Criterion-Collection/dp/B0016AKSOG/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=dvd&qid=1256053069&sr=8-2
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2009年10月20日 (火)

アメリカにおける山下義韶

①(山下義韶は) 1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
(ウィキペディア「山下義韶」)

② 1902年5月に、山下は柔道普及のため渡米した。初めはハーバード大学で教えた。彼の最初期の弟子には南軍のリー将軍の曾孫であるメアリー・リーがいた。テオドール・ルーズベルト大統領は彼に海軍兵学校でも教えさせた。そこで行われた戦いで、山下は190cm、113kgのアメリカ人レスラー、ジョージ・グラントと戦った。グラントは体落としとヨコオトシ(?)で投げられてピンフォール(?)された。この目覚ましい勝利によって、山下は海軍兵学校で2年間教える契約を得た。
(Judo Greats Past and Present http://judoinfo.com/greats.htm

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(アメリカにおける山下義韶と妻の筆)

③ 山下は日本公使館を訪れ、1904年3月に海軍武官の竹下勇中佐は山下をホワイトハウスに連れて行きテオドール・ルーズベルト大統領に紹介した。[11]  ルーズベルトはホワイトハウスでレスリングとボクシングを練習していた。また彼はウィリアム・スターギス・ビゲローから柔術着をプレゼントされ[12] 、長崎滞在中に柔術を研究したフィラデルフィアの警察官J・J・オブライエンから柔術を習っていた。[13][14][15]  ルーズベルトは山下の技に感銘を受け、1904年の3月と4月に、山下はホワイトハウス内の一室で大統領とその家族や職員に柔道を教えた。[16][17]  その後、別の場所で、山下と妻の筆は、マーサ・ブロー・ワッズワース、ホリー・エルキンズ、グレース・デーヴィス・リーなどの名家の夫人とその子供達に柔道を教えた。[18]
 1905年1月、山下は海軍兵学校で柔道を教える仕事を得た。生徒は約25名で、その中には将来提督になるロバート・L・ゴーマリーもいた。[19]  この仕事は学期末で終わり、山下は翌年度は雇用されなかった。[20]  ルーズベルト大統領はこれを聞くと海軍長官に声を掛け、彼を通じて兵学校校長に山下を再雇用させた。[21] その結果、山下は海軍兵学校で1906年6月まで柔道を教えた。[22]
(英語版ウィキペディアYamashita Yoshiaki(名前の読みはYoshiakiまたはYoshitsuguであるとしている))

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(柔道を教える山下筆)

 上の③英語版ウィキペディアについている[21]などの数字は参照文献を示す。たとえば
21. Memorandum from Charles J. Bonaparte, Secretary of the Navy, to Chief, Bureau of Navigation, dated November 3, 1905, in US Naval Academy archives.

 米海軍公文書館にある文書を挙げているのだ。年月日に関する限り、英語版ウィキペディアが正しいだろう。①の1905年3月29日にレスラーとルーズベルトの面前で戦ったという記述は不正確だと考えざるを得ない。
 ③の英語版ウィキペディアには、ジョージ・グラントなるレスラーと戦ったという記述はない。だからといって戦いがなかったとはもちろん言えない。しかし②では同じレスラーの身長体重が190cm、113kgとなっている。どちらが正しいか?
 外国での百年前の出来事なので食い違いが起きるのはやむを得ないか?

 もう一つ、山下義韶対レスラーの戦いの「記録」を見てみよう。
http://www.ishiryoku.co.jp/user/takuwa/takuwa01/ser14_p03.html

④ 3月1日ホワイトハウスにおける他流試合はどのようであったのか。山下義韶は身長160センチ、体重68キロ、年令は40歳を超えたばかりであった。これに対するジョージ・グラント海軍大尉は身長2メートル、体重160キロ、年令は山下より10歳若いレスラーであった。レスリングタイツ1枚のグラントに対して柔道衣スタイルの山下は、相手の太い腕に捕まってしまったら勝てないとふんだ。相手が向かってくるところを得意の足技で崩し、のしかかろうとする力を利用して巴投げで投げ飛ばしたという。起き上がろうとするグラントの背中に回って山下は喉(のど)締め(裸(はだか)締め)にいき、グラントが立ち上がろうと伸ばした左手の一瞬の隙をついて腕ひしぎ十字固めで攻めた。慣れない肘関節を極められたグラントはたまりかねてついに右手でマットを叩き「ギブアップ」という結末となった。この間わずか2分であったが、山下もすぐには立ち上がれない程心身を消耗していたという。

 日時は3月1日(何年?)、決め技は腕拉ぎ十字固めである。また別バージョンだ。しかしどういう文献を根拠にこれを書いたのか? なかなか難しいものですね。

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2009年10月19日 (月)

ルーズベルト、常陸山、山下義韶

 この年(1907年、明治40年)、天下の日下開山横綱常陸山が洋行に踏み切って(土俵を踏み切ったら負けだが)世間をアッと驚かした。
 生来鼻の高い外人ぽい顔で「異人」と仇名された位で、百七十四糎百三十一キログラム(相撲らしい表現じゃないネ)五尺七寸五分三十五貫の体だから、第二十六代ルーズベルト大統領と面会して土俵入りを見せても位負けしかなっただろう。何しろこちらは十九代横綱、十五も格が上なんだから(昔のガキの自慢くらべとかわんないネ)。……

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 ところでルーズベルトは明治三十五年にも講道館嘉納治五郎の高弟山下義韶から柔道を教わっているので、僅か五年の間に二種類の和風レスリングを見せられた珍しい体験をもつ大統領だ。
(柳澤愼一、pp.248, 249)

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 ウェッジ文庫の『明治大正スクラッチノイズ』おすすめです。スクラッチノイズとは、レコードと針の摩擦で出る雑音のこと。柳澤愼一という人は雑学の大家ですね。
 山下義韶がルーズベルトに柔道を教授した年は、この本では明治35年(1902年)になっているが、ウィキペディアの記述では明治38年(1905年)だったように読める。明治36年としている人もいるようだ。調べてみよう。

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2009年10月17日 (土)

前田光世伝(13)

 ブラジリアン柔術

 1917年、前田光世はパス劇場(Teatro da Paz どこ?)で柔道演武会を行った。これを見ていたガスタオン・グレーシーの14歳の息子カーロスは自分も柔道(当時は嘉納柔術とも呼ばれていた)を学びたいと思い、前田に入門した。カーロスは柔術の修業を続け、弟のエリオ・グレーシーとともにグレーシー柔術、すなわち現代のブラジリアン柔術の開祖となった。1921年、ガスタオン・グレーシーは家族とともにサンパウロに移った。当時17歳だったカーロスは前田に習った柔術を兄弟のオスヴァルド、ガスタオン、ホルヘに教えた。エリオはまだ幼く病弱で医者に稽古を禁止されていたので、兄たちの稽古を見学していた。しかし彼もやがて健康になり、今ではエリオがブラジリアン柔術の開祖だと考える人が多い(カールソン・グレーシーのようにカーロスこそが開祖だとする人もいる)。

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(エリオ・グレーシー対木村政彦。腕絡み(キムラ)が極まるところか。1951年。動画 http://www.youtube.com/user/kjkj5#p/a )

前田光世の格闘理論

 レンゾ・グレーシーの書いたMastering Jujitsuによれば、前田がカーロス・グレーシーに教えたのは柔道(柔術)だけではない。世界中でキャッチ・レスラーやボクサーやその他サバットなど各種のマーシャルアーツの使い手と戦って培った前田光世独自の格闘理論を同時に教えたのだ。レンゾ・グレーシーの本は前田の格闘理論を詳述している。徒手格闘は、打撃局面、組み技局面、寝技局面などの局面に明確に分けることができるというのである。できるだけ自分の強みを活かすことができる局面に戦いを限定するのが賢いやり方だという。この理論がグレーシー流の戦い方の基本だとこの本は言う。

◇これでおしまい。ウィキペディア英語版のMitsuyo Maedaの翻訳です。訳者による付け足し等は分かるように書いてあるはず。ごく一部省略あり。たとえば(12)では、「フルニエというフランス人レスラーをも破った。」の後に、The Havana papers attributed Maeda with a Cuban student called Conde Chenard.とあるが訳さなかった。原文英語が間違いで意味不明のため。

◇英語版には53項目の参考文献がついている。たとえば1905年に前田光世と富田常次郎がウェストポイント陸軍士官学校で柔道の演武を行ったことは前田光世伝(5)に書いたが、原文はボルチモア・サンという新聞の1905年2月22日号を注に挙げている。「富田常次郎が巴投げを掛けようとして二度失敗した」が正しいかどうかは、百年前の英語の新聞を見れば確かめられる。ウィキペディアの記事はこういうふうに書くべきでしょう。次の日本語版の記述と比べられたし。

ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の一人富田常次郎が、体重約160kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関しては、「前田がルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。

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2009年10月16日 (金)

前田光世伝(12)

 1916年1月8日、前田光世、大倉、清水の三人は汽船アントニー号に乗ってリバプールに向かった。伊藤徳五郎はロサンジェルスに向かった。オ・テンポ紙によれば、佐竹とラクはマナウスに残って柔術を教えた。前田と佐竹は15年間苦楽をともにしたが、このとき初めて別行動を取った。この訪欧については知られていることは少ない。前田光世はイングランドからポルトガル、スペイン、フランスに行き、1917年に一人でブラジルに戻ってきた。前田はベレンに落ち着き、D・メイ・イリスと結婚した。

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 前田はブラジルで依然として人気があり偉大な格闘家として認められていたが、欧州から帰ってからは実際に戦う機会は少なくなった。1918年から19年ごろ、前田は有名なカポエラの使い手であるペ・デ・ボラの挑戦を受けた。前田は相手にナイフを使って戦うことを許した(実際に試合でナイフを使ったかどうかは不明。原文が悪い)。べ・デ・ボラは190cm、100kgの大男だったが、結果は前田の楽勝だった。
 1921年に、前田はブラジルで初の柔道道場を開いた。Clube Remoという名前のこの道場は、初めは4m四方の小屋だったが、やがて消防署に移り、さらにN.S.de Aparecidaの教会に移った。1991年現在では、この道場はSESIにあり、前田の孫弟子にあたるアルフレド・メンデス・コインブラが主宰していた。(この段落、ポルトガル語が不明)
 1921年9月18日に、前田、佐竹、大倉の三人は汽船ポリカープ号でニューヨークに行った。三人は職業欄に「juitsoの教師」と書いている(原文注によれば1820-1957年のニューヨーク港船客リストのデータベースがあってマイクロフィルムが閲覧できるという。前田たちが「ジュージツ」と言ったのを船員がjuitsoと書いたのではなかろうか)。ニューヨークには短期間滞在しただけで、三人はカリブ諸国に移り、1921年12月まで滞在した。この間、前田は妻を呼び寄せた。ハバナでは、佐竹と前田が何度か試合に出た。相手にはパウル・アルヴァレス(リングネームはエスパノル・イコグニト)がいた。アルヴァレスは佐竹と前チリ海軍兵学校教師という触れ込みの大倉を破ったが、前田には負けた。前田はまたホセ・イバラというキューバ人ボクサーに勝ち、フルニエというフランス人レスラーをも破った。

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 1925年には、前田光世はパラ州トメアスの移住地に日本人移民を定着させる事業に関わり始めた。トメアス移住地はアマゾンの森林の中にブラジル政府が日本人移民用に確保した土地である。日本人がここで栽培しようとした作物はブラジルではあまり売れず、日本の投資家はこの開発事業から手を引いた。(この「作物」とは米のことだろうか? 日本からの投資は絶えてもブラジル移民は現地で苦闘を続けた。第二次大戦が始まると日系移民は敵国人として財産を没収された。戦後トメアスは日系人が始めた胡椒の栽培で繁栄した。)
 また前田は主に日系人の子弟に柔道を教え続けた。1929年には講道館は彼を六段に進めた。1941年11月27日にはさらに七段位を贈ったが、前田光世は28日にベレンで亡くなったので昇段を知らなかった。死因は肝臓病であった。
 1956年5月には、郷里の弘前市に前田光世の記念碑が建てられ、除幕式に講道館館長の嘉納履正と佐村嘉一郎が出席した。
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2009年10月15日 (木)

前田光世伝(11)

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 1913年になると、伊藤徳五郎をキューバに残し、前田光世と佐竹は、エルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、エクアドル、ペルーの諸国を巡業した。エルサルバドルでは前田たちが滞在中に大統領が暗殺された。パナマではアメリカ人レスラーが前田に金銭を提供して勝ちを譲らせようとした。彼らは南に進んだ。ペルーではラク(上西貞一)が軍で柔術を教えていたので彼を仲間に入れた。チリでは大倉が、アルゼンチンでは清水が加わった。1914年11月14日、一行はブラジルに着いた。
 ベレン市日本人移民協会会長(ポルトガル語?)の堤ゴッタ(?)氏提供の前田光世のパスポートの記録によれば、前田がブラジル南部の港湾都市ポルトアレグレに着いたのは、1914年11月14日である。ここで彼は最初の演武を行った。その後、前田の一行はブラジル中を巡業した。1915年8月26日には、前田、佐竹、大倉、清水、ラクは北東部の港湾都市レシフェにいた。10月にはベレンにいて、12月18日にマナウスに着いた。伊藤徳五郎はしばらくしてからここに着いた。
 1915年12月20日に、ベレンで初めての演武会がポリテアマ劇場で行われた。オ・テンポという新聞にこの演武会の予告が出ている。同紙によれば、演武会ではまずコンデ・コマが主要な柔術の技を実演し、禁じ手の説明をし、護身術の技も見せることになっていた。その後は観客で柔術家たちに挑戦したい者がいれば挑戦を受け、締め括りにはアルゼンチン選手権者の清水対ペルー軍学校教師のラクがブラジル初の柔術試合を披露する予定だった。オ・テンポ紙によれば、12月22日に柔術世界チャンピオンの前田とニューヨーク・チャンピオンの佐竹が柔術の試合を行って一大センセーションをまきおこした。同じ日に、トルコ出身のオーストラリア・グレコローマン・チャンピオンであるナギブ・アセフが前田に挑戦した。12月24日には、バルバディオ・アドルフォ・コルビアノというボクサーが前田に挑戦したが、前田は「秒殺」で勝ち、コルビアノは前田の弟子になった。
 前田対ナギブ・アセフの試合は、翌1916年の1月3日にポリテアマ劇場で行われた。前田は相手を投げて舞台から落とし、最後はアームロックでギブアップを奪った。

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2009年10月14日 (水)

前田光世伝(10)

 前田光世は1910年7月にキューバに戻った。ここで、前田はフランク・ゴッチ(1878-1917)およびジャック・ジョンソン(1878-1946)との試合を行おうとした。しかし、二人とも彼の挑戦を無視した。前田と戦っても何のメリットもなく、もし負ければ大変な損失になるからだった。

◇フランク・ゴッチ1908年にジョージ・ハッケンシュミットを破ってプロレス世界チャンピオンを名乗っていた。彼は1911年にハッケンシュミットとの再戦に勝ち、1913年までチャンピオンとして君臨した。180cm、91kgであった。

◇ジャック・ジョンソンは、史上初の黒人のプロボクシング世界チャンピオンであった。身長187cm。

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彼は1908年にカナダ人トミー・バーンズを破りヘビー級チャンピオンとなり、1915年までタイトルを保持した。彼の勝利は激しい人種差別意識をかきたてた。1910年には元チャンピオンのジェイムズ・J・ジェフリーズが「偉大なる白人の希望の星」としてジョンソンに挑戦したがノックアウトされた。ジョンソンは白人女性と結婚していたためいっそう白人から憎まれた。

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 1910年8月23日には、前田はハバナでジャック・コンネルとレスリングの試合を行い、引き分けた。1911年になると、キューバにいる前田と佐竹に大野秋太郎と伊藤徳五郎が加わった。彼らはキューバ四天王と呼ばれるようになった。
 四天王のキューバにおける人気は日本に伝わり、ジャパンタイムズ紙は前田たちを日本柔道の名声を高めているとほめたたえた。この結果、講道館は1912年1月8日付けで前田光世に五段を与えた。ただ日本国内では、前田がプロレスに関わっているという理由で昇段に反対する意見もあった。

◇前田光世が「講道館から破門された」というのは間違い。嘉納治五郎がそんなことをするはずがない。もし嘉納治五郎が存命ならば、石井慧の総合格闘技進出を喜び、活躍すれば段位を進めるだろう。

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2009年10月13日 (火)

中国は崩壊するか(3)

 暴力装置を独占していて容赦なく使う覚悟があれば、政権はまず崩壊しない。少々人が死んだくらいでは平気だ。
 鄧小平は、天安門事件に懲りて、人民解放軍とは別に人民武装警察部隊を作った。これは二百数十万人以上いるらしい。武器を持たない市民に対して戦車を出す必要はないのだ。

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 1958年に毛沢東が始めた大躍進政策によって、中国は1960年まで3年連続の大飢饉に見舞われ数千万人の餓死者が出た。毛沢東は1959年の廬山会議で失墜し、劉少奇(国家主席在任1959-68)や鄧小平が主導権を握った。これに反撃するために毛沢東が開始したのが文化大革命である。

1965年11月 姚文元、京劇『海瑞罷官』批判論文で文革の端緒となる
1966年5月 紅衛兵結成
1969年4月 第9回党大会で林彪の政治報告
1971年9月 林彪事件
1972年2月 ニクソン訪中
1973年8月 四人組が中央委員となる
1976年9月 毛沢東死去
1976年10月 四人組逮捕

 文化大革命によって1000万人以上が殺戮されたと言われる。現在も中国各地で年間9万件以上の暴動が起こっているが、すべて鎮圧されている。
 義和団の乱(1900-1901)の頃と違って、政府の暴力と民間の暴力の間に著しい懸隔がある。暴動が体制の転覆につながる恐れはない。
 義和団の乱は英語ではBoxer Rebellionという。Boxerとはブルース・リーのようなカンフーのことだ。義和拳というカンフーの組織が中心となった暴動が北京に押し寄せると、西太后は列強に宣戦布告せざるを得なくなった。日本など八ヶ国が派兵してようやく鎮圧した。

Boxersoldiers

 中国史上、各地で暴動が起きて、暴動の首領(=大盗賊)が一地方を支配した例は多い。大盗賊が皇帝の位に就くこともあった。元祖盗賊皇帝が前漢の初代皇帝となった劉邦(前202-195)であり、最後の盗賊皇帝が毛沢東である。(高島先生の本参照) しかし現代では、暴力で中国共産党に対抗できる勢力は皆無である。「暴動→中国崩壊」が近い将来に起こるはずがない。

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2009年10月10日 (土)

中国は崩壊するか(2)

 胡錦濤がチャウセスクと同じ目に遭うなどということはあり得ない。数百万人の強固な武力を独占しているのだ。人民解放軍はルーマニア軍とは違う。ルーマニアでは軍が市民の側についた。しかし中国人民解放軍は、建国以来60年一貫して人民抑圧軍である。
 1989年6月4日の天安門事件では市民に向かって発砲するのをためらわなかった。中嶋氏によれば、天安門事件について
「イギリスのBBCは死者七千人と報道していました」(p.108)

Wikipediatianasquare

 事件の経過は下記ブログに詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/40730462.html
 
 1989年11月にベルリンの壁が崩壊したのは、天安門事件の教訓を学んだからだという。中嶋嶺雄氏の発言。
「東ドイツの上層部には、天安門事件の悲劇を繰り返してはいけないという思いがあったのでしょう。そのためホーネッカー国家評議会議長も最後には、自由化を求めてベルリンの壁を壊そうという人たちに譲ったのだと思います。
 近代化を経てきたヨーロッパ近代市民社会と、近代化を経ずに急速に改革・解放に走っていった中国との違いは、そこに出ていたと思います。中国は近代市民社会ではなかったので制圧した。しかし、ホーネッカーは譲歩したわけです。東欧で譲歩しなかったのは悲惨な最期を遂げたルーマニアのチャウセスクだけです。」
(p.107)

 ヨーロッパでは共産党の独裁にも限度があった。軍が市民を銃撃するという汚点を歴史に残すより政権がつぶれる方がよい――という判断があったのだ。例外はルーマニアだったが、ここでは軍がチャウセスクに背いて市民の側についた。
 中国では平気で市民を殺した。死者七千人くらいは何でもないのだ。東ドイツの指導者がホーネッカーでなく鄧小平だったならば、躊躇せずに戦車を出していただろう。(続く)

Berurinn

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2009年10月 9日 (金)

禁煙ファシズムと断固戦う!

「断固」は本日発売。読め。

Humphreybogartbyyousufkarsh

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中国は崩壊するか(1)

 そう簡単に崩壊はしない――と中嶋嶺雄先生は言う。
 よく読んでみると、そうだろうと納得できる。
 そもそも「崩壊」とはどういう事態をいうか?
 典型的な崩壊はルーマニアで起きた。ウィキペディアの「チャウセスク」によれば

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[右がチャウセスク大統領]

 1989年12月、ハンガリー系国民、特にカルヴァン派キリスト教徒による反政府集会を武力で鎮圧。同12月21日、首都ブカレストの党広場で開かれた官製集会が一転、このことを糾弾する集会になると、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こった。チャウシェスクは国防大臣のワシーリ・ミリャに暴動の武力鎮圧を命じたが、ミリャはこれを拒否した。これに激怒したチャウシェスクはミリャを処刑した。このことが軍部に知れ渡ると軍の首脳はチャウシェスクに反旗を翻すことを決め、ルーマニア軍は革命を支援する側に立った。しかし、なおチェウシェスクに忠誠を誓う秘密警察セクリタテアは市民や国軍に対する激しい反撃を繰り返し、ルーマニア国内は混乱する。これに乗じ、チャウシェスクは逃走した。これらの様子はルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌12月22日、全土に戒厳令を敷き、チャウシェスクは妻エレナとともにヘリで飛行場へ逃走した後に、リビアへ亡命することを計画した。22日13時、イオン・イリエスク率いる救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。
 12月23日にチャウシェスク夫妻は、トゥルゴヴィシュテにおいて一般市民の車を強奪しようとしたところを、国防次官を主導とする救国戦線により逮捕される。12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下しその場で殺害した(裁判は夫妻を連行した学校の教室に机を並べて行われた)。

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[逮捕されたチャウセスク大統領夫妻]
  裁判の様子はこのサイトに詳しい。http://d.hatena.ne.jp/kick/20061225

 中国でルーマニアのような事態が起こるか? 起こるはずがない。

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2009年10月 8日 (木)

前田光世伝(9)

 1908年11月に、前田光世はパリに渡った。これは友人の大野秋太郎に会うためだったらしい。パリからキューバに向かい、12月14日にハバナに着いた。ハバナでは一日に二回レスリングをして、たちまち人気者になった。1909年6月23日にハバナを発ってメキシコ・シティに向かった。メキシコは、7月14日にヴァージニア・ファブレガス劇場で初めて顔見せをした。これはプロレス興行ではなく、士官学校の学生を対象にした演武会だった。このすぐ後から、前田はプリンシパル劇場に定期的に出場するようになった。誰の挑戦でも受けるという形式で、前田が相手を投げられなかったら100ペソ(50ドル)進呈、前田を投げた者には500ペソ(250ドル)進呈という条件だった。メキシカンヘラルド紙によれば、この懸賞金を得た者は一人もいなかった。(柔道着着用を条件としたのか、裸でもよかったのかは、参考文献に100年前のメキシカンヘラルド紙が挙げてあるので、これを調べれば分かるはず。)

 1909年9月に、ノブ・タカという名前の日本人がメキシコ・シティに現れ、前田光世に挑戦した。メキシカンヘラルド紙によれば、柔術世界選手権決定戦を挑んだのだという。しばらく公開交渉したのち、11月16日にコロン劇場で前田対タカ戦が行われ、タカが勝った。4日後に再戦があり、今度は前田光世が勝ってチャンピオンに認定された。のちに、このタカなる人物は前田の旧友の佐竹であったと分かった。

 1910年1月には前田光世はメキシコ・シティでレスリング・トーナメントに出場した。準決勝でスウェーデン人レスラーのフジャルマール・ランディンと対戦したが引き分けた。(ランディンが1937年に刊行した自伝には、自分が勝ったと書いてある。)Hjalmar_lundin_05d668ea07_o_2

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2009年10月 7日 (水)

前田光世伝(8)

  1908年3月、ヘンリー・アースリンガーに雪辱してから、前田光世はベルギーへ行ったが、ここは気に入らなかったのですぐにロンドンに戻った。4月にはヘングラー・サーカスのレスリング・トーナメントに参加した。前田はマツダ・タノという日本人とともにミドル級に出たが、二人とも決勝には進めなかった。1909年1月には、マツダがサム・マックヴェイという黒人ボクサーと異種格闘技戦を戦って負け、悪評を買った。
 1908年6月に前田はスペインへ行った。フジサケ、大野、平野が同行した。バルセロナで前田光世は上西貞一および三宅太郎と試合をした(英語参照文献あり。柔術の試合だったらしい)。一行には世界女子柔道チャンピオンを名乗るフェーブ・ロバーツというウェールズ人も加わっていた。彼女は平野と結婚してポルトガルに住んだ。
 イベリア半島を巡業しているときに、前田光世はコンデ・コマというリングネームを使い始めた。なぜコンデ・コマなのかについては諸説がある。前田はいつも金に困っていたから、日本語の「困る」から来ているのだという説もある。(英語原文では、前にポルトガル語のKomaは英語のCombatだと書いてあったのだけれど、これは正しいのか?) 
 前田光世自身はヨーロッパのある雑誌のインタビューでこう述べている。
「私が強くて堂々としているというので、スペインである有力者がこの称号をつけてくれたのだ。これはすぐに広まって本名よりもずっと有名になった」
 前田はこの異名が気に入り、以後リングネームとして使うようになった。

◇コンデ・コマは「コンデ高麗」だと書いている人がいる。明らかな間違いです。前田光世のウリナラ起源説はいけません。

◇上西貞一、三宅太郎はタニ・ユキオ(谷幸雄)の記事にも出てきた。谷幸雄と前田光世は同時期にロンドンにいたのだから会っているはずだ。谷幸雄が「ニッポン柔術」の代名詞になっていたから、前田は英国では主としてレスリングに出場したのではないだろうか? この辺はさらに調べれば面白いでしょう。

◇柔術家・柔道家が他流試合で負けた例はかなりあるようだ。アメリカでの富田常次郎も馬鹿力に対して「柔よく剛を制す」が通用しなかった。谷幸雄は道着を着用した試合では対三宅太郎戦以外は不敗だった。前田は「異種格闘技戦では不敗」と言われている。

◇このころドイツにも行ったらしい。次の写真。ドイツ語で、右端が前田モマ(コマの間違い)、同僚のラク、佐竹、清水とともに、と書いてある。ラクは上西貞一のリングネーム。

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2009年10月 6日 (火)

前田光世伝(7)

 ヨーロッパへ渡る前に、前田光世と佐竹は大野秋太郎、伊藤徳五郎とともにキューバに赴き、四人とも格闘技戦を行った。前田がキューバ最強とされるアドバモンドを降したのはこのときである。

◇キューバ滞在については、英語版ウィキペディアの記述はきわめて簡略である。1906年の始めにキューバに渡り年末まで滞在したのか? 対アドバモンド戦についてはポルトガル語の参照文献が挙げてある。

 1907年2月8日に、前田光世と佐竹は英国のリヴァプールに到着した。大野秋太郎がウィリアム・バンキアのプロモーションでミュージックホール・レスリングに出場するために先にロンドンに渡っていたが、二人はこれに合流するつもりだったようだ。ロンドンでは、前田は主にプロレスで生活費を稼いだ。1908年1月には、前田はアルハンブラ劇場でのトーナメントに出場した。前田はヘビー級に出場し、オーストリアのヘンリー・アースリンガーに決勝で敗れて二位となった。2月にも別のトーナメントに出場し、決勝でジミー・エッソンに敗れた。3月には、前田光世はヘンリー・アースリンガーと再戦し雪辱した。ヘルス&ストレングス紙はこの試合を「イングランドでこれほどまっとうな試合が行われたのは何年ぶりのことか」と賞賛した。インヴァネスで開かれたノーザン・ゲームズの大会で、日本人が柔道と相撲のデモンストレーションを行ったと報じられているので、前田は1908年9月にはスコットランドでも試合をしたようだ。この間、前田は柔道のレッスンも行っていた。弟子にはW・E・スティアーズという男がいた。スティアーズはなかなか熱心で、のちに日本へ行って1912年(大正元年)に講道館で初段を取っている。1918年には、ロンドンで武道会という柔術クラブが設立されたが、スティアーズは最初の非日本人会員の一人となった。武道会は1920年に講道館に加盟して柔道クラブとなった。(この年に嘉納治五郎が訪英した。嘉納は谷幸雄に二段を与えた。昔は段位が辛かったのだ。)

◇谷幸雄について書いたことと重なる事項がずいぶん出てきました。カテゴリの格闘技、タニ・ユキオで検索すれば出てくるけれども、簡単に書いておくと

◇ウィリアム・バンキアは別名アポロという怪力男で、谷幸雄のマネージャーを務めた。大野秋太郎のマネージャーでもあったようだが、柔術家タニ・ユキオを引き立たせるために、大野はプロレスラーとして使ったらしい。(この辺は確かめたわけではありません。)

◇1908年(明治41年)は、プロレス(=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の世界選手権とアマレス(=キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)のロンドン五輪が開かれた年である。ウィキペディア英語版の「アルハンブラ劇場でのトーナメント」の記述と英国レスリング連盟の「フリースタイル・レスリングの歴史」による記述(柔道か柔術か66, 67, 68あたり)とは少し食い違いがある。

◇前田光世は、3月にヘンリー・アースリンガーに勝った試合でヘルス&ストレングス誌に賞賛されたが、これはもちろんキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの試合である。私が前々から書いているように、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルである。関節技有りの最強のレスリングではない。この点に異議のある人は、Health & Strength誌を自分で調べてみなさい。あるいは1908年のアルハンブラ劇場でのトーナメントについても、英語の新聞雑誌に試合経過が書いてあるのだ。たとえば「アームロックでギブアップを奪って勝った」なんて記述があるかどうか、調べてごらん。

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