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2009年11月23日 (月)

ショルトーの正体(3)

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルが1889年に出会ったとき、ワイルドは35歳、ドイルは30歳だった。ドイルはこの年の2月に歴史小説『マイカ・クラーク』を出していた。
 ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』によると

 成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット誌に『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。

 1889年のドイルには、成功は「すぐそこまで来ていた」が「まだ」だった。一方、ワイルドはすでに名士だった。『ドリアン・グレイの肖像』はまだ書いてないし劇場での大成功は1892年からだったが、作品より先に本人が有名になっていたのだ。
 ワイルドは、1878年にオックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業して翌年ロンドンに出てくると、奇抜な服装と才知でたちまち評判になった。あちこちのパーティにひっぱっりだこで、パーティではワイルドがどういう気の利いたこと言うか、みんなが耳をすませていた。風刺雑誌『パンチ』にオスカー・ワイルドのカリカチュアが載った。

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 1881年には、ギルバートとサリバンがオスカー・ワイルドがモデルの喜歌劇Patienceをヒットさせた。これはニューヨークでも上演されたので、プロモーションのためにワイルドをアメリカに呼ぼうということになった。1881年末に渡米したワイルドは1882年1年間かけて全米70箇所で講演して回った。
「植民地へ講演に行って稼ぐ」というのは、大先輩の作家チャールズ・ディケンズもやったことだ。しかしディケンズの場合は、功成り名遂げてから自作を朗読して回ったのだ。ワイルドはまだ28歳で詩集を2冊出しただけだった。しかし彼の講演はアメリカの聴衆に受けて大成功だった。

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 ドイルと初めて会った1889年には、ワイルドは『婦人世界』誌の編集長で、前年に『幸福な王子』を出版していた。
 翌1890年に唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』を発表した。1892年に『ウィンダミア卿夫人の扇』が初演され、ワイルドの劇作家としての大成功が始まった。彼がクイーンズベリー侯爵との裁判事件で没落するのは1895年である。

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コメント

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投稿: LepPipsoripse | 2009年12月13日 (日) 20時02分

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