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2009年11月24日 (火)

ショルトーの正体(4)

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 オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿と親密になったのは1891年だった。同じ年、ドイルは「ストランド・マガジン」の7月号から12月号に『ボヘミアの醜聞』から始まる6編を載せて一躍有名になった。
 1895年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿の父親、クイーンズベリー侯爵に侮辱されたので彼を名誉毀損で刑事告訴した。ところが裁判では名誉毀損は成立しなかった。かえってワイルドの方が男色禁止法 Buggery Act (1533年制定、当初は死刑が罰だった。1885年修正)違反に問われ、有罪となり投獄された。この事件の顛末はオスカー・ワイルド 最初の現代人
 http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/biography.htm
に詳しい。
 この年、ドイルは『勇将ジェラール』を書いていた(ホームズは2年前にライヘンバッハの滝で殺してしまった)が、ワイルドの事件について
「そら見たことか! ざまあ見ろ」
とは言わなかった。(ワイルドは演劇で大成功して妬まれていたから、こういう反応が多かった。)
 ドイルはむしろワイルドに同情的だったようだ。ワイルドの事件には
「どうも困った騒ぎだ。ああいう趣味は自分には分からないけれども、一種の病気だから、非難しても仕方がない」
という態度だったようだ。
 これはドイルに限らず良識ある人に共通した態度だった(ただし1967年まで同性愛は刑法上の犯罪だった)。

 1943年に初の本格的なコナン・ドイル伝を書いたヘスキス・ピアソンは、1946年に『オスカー・ワイルド伝』を書いた。この時にはまだジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)が存命だったので、ピアソンはショーに相談した。
「ショーさん、僕はオスカー・ワイルドの伝記を書こうと思うのですが、どんなものでしょうか?」
「まあ、やめておいた方がいいと思うよ。何しろ、例の件があるからねえ。わしが死んで、それから君も死んで……ところでピアソン君は何年生まれ? そうか、わしより30年も若いねえ。君も死んでから何年も経てば、あれも大したことじゃない、犯罪ではない、ということになっておるだろう。伝記を書くなら、それからじゃよ」
 しかし、ピアソンはワイルド伝を書いた。何しろ伝記を書くのが仕事で、ショーの伝記も1951年に書いているのだ。
 ピアソンは何よりも才人としてのオスカー・ワイルドを尊敬していたので、そこに焦点を当てて書いた。男色はあったかもしれないが、大した問題ではない。ピアソンの考えを大幅に「意訳」すると
「織田信長は森蘭丸をかわいがったけれど、信長は別に変態ではない。オスカー・ワイルドだって同じことです」

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