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2009年11月27日 (金)

英語を学べばバカになる(1)

 アマゾンの読者レビューでは「バカになる理由はひとことも書いてない」などという声が多い。
 書いてなくてもよろしい。論より証拠。
 読者レビューを書いている人たちは、熱心に「英語を学んで」いるらしいが、読んでみると、ほとんどがバカです。
 英語を学んだからバカになったのか、元からバカだったか。
「英語を学ぶ」ということがバカな連中を引きつけ、彼らは「学ぶ」過程でいっそうバカになって行くのでしょう。恐ろしいことだ。
 ただしここで「英語を学ぶ」とは、たとえば

・英会話学校に通う
・TOEFULやTOEICの点数を上げるための教材を使って勉強する
・タイムやニューズウィークを読むのが勉強だと思って、いっしょうけんめい勉強する

というような学び方の場合を指します。
 いま「英語を学ぶ」というと、たいていの人がそういう「学び方」を思い浮かべるでしょう。旧式のもっとまともな学び方ならバカにならない。

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2009年11月26日 (木)

ヴィトゲンシュタイン対ヒトラー

 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889年4月26日-1951年4月29日)とアドルフ・ヒトラー(1889年4月20日-1945年4月30日)は、リンツの同じレアルシューレ(実科学校)に通っていた。
 
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 写真は1903年か1904年に撮ったものだという。二人の誕生日は6日しか違わなかったが、後年の哲学者が後年の独裁者の二級上だった。ヒトラーは1904年に退学を勧告されてシュタイアーのレアルシューレに移り、1905年にこの学校も退学になった。
 写真はKimbery Cornish, The Jew of Linz, 1998の表紙として初めて発表された――という情報は、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』より。

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2009年11月25日 (水)

ショルトーの正体(5)

 コナン・ドイルは、オスカー・ワイルドだけでなく、ワイルドの敵のクイーンズベリー侯爵とも因縁があった。二人ともボクシングの熱心なパトロンだった。当時の上中流階級では少数派だったから、知り合いだった。
 ドイルは自身ボクシングをたしなみ、前に「シャーロック・ホームズの階級」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1-6a46.htmlで紹介した『クロックスリーの王者』(コナン・ドイル傑作選Iに収録)やベアナックル・ボクシングを扱った『ロドニー・ストーン』をはじめ多くのボクシング小説を書いている。

 クイーンズベリー侯爵は1867年に定められたクイーンズベリー・ルールで有名だ。このルールによって、グローブ着用、3分1ラウンド制、10秒のダウンでノックアウト、レスリング行為(クリンチからの攻撃)の全面的禁止など、現代ボクシングの基礎が作られた。
 第9代クイーンズベリー侯爵(1844-1900)はスコットランドの貴族だった。

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 彼はボクシングのほかに乗馬や狐狩りにも熱心で競走馬も何頭か所有していた。彼は1872年に上院議員に選ばれたが、1880年になって英国君主へのキリスト教方式による忠誠の誓いを拒否して大問題を起こした。彼は熱心に無神論をとなえた上に、ボクシングなどという下品なスポーツに肩入れしたので貴族の間では評判が悪かった。

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 アルフレッド・ダグラスはこの侯爵の三男だった。息子のアルフレッド・ダグラスと父親の侯爵ジョン・ショルトー・ダグラスは性格も見た目もずいぶん違った。
『四人の署名』に出てくるショルトーは、サディアスよりもその父親が問題なのではないだろうか。ジョン・ショルトー少佐は、ワトソンの妻メアリーの父親モースタン大尉の死に関わりがあった。メアリーはジョン・ショルトーの名を思い出したくないので、夫をジョンと呼ばなかったくらいだ。
 メアリーはJohn H. Watsonのスコットランド風のミドルネームHamishをわざわざイングランド風に直して「ジェームズ」と呼んでいた。
 この点については、ドロシー・セイヤーズ女史の『ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム』を私が訳しているので、ご覧ください。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_b26f.html

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2009年11月24日 (火)

ショルトーの正体(4)

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 オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿と親密になったのは1891年だった。同じ年、ドイルは「ストランド・マガジン」の7月号から12月号に『ボヘミアの醜聞』から始まる6編を載せて一躍有名になった。
 1895年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿の父親、クイーンズベリー侯爵に侮辱されたので彼を名誉毀損で刑事告訴した。ところが裁判では名誉毀損は成立しなかった。かえってワイルドの方が男色禁止法 Buggery Act (1533年制定、当初は死刑が罰だった。1885年修正)違反に問われ、有罪となり投獄された。この事件の顛末はオスカー・ワイルド 最初の現代人
 http://www.geocities.jp/oscar_wilde_fansite/biography.htm
に詳しい。
 この年、ドイルは『勇将ジェラール』を書いていた(ホームズは2年前にライヘンバッハの滝で殺してしまった)が、ワイルドの事件について
「そら見たことか! ざまあ見ろ」
とは言わなかった。(ワイルドは演劇で大成功して妬まれていたから、こういう反応が多かった。)
 ドイルはむしろワイルドに同情的だったようだ。ワイルドの事件には
「どうも困った騒ぎだ。ああいう趣味は自分には分からないけれども、一種の病気だから、非難しても仕方がない」
という態度だったようだ。
 これはドイルに限らず良識ある人に共通した態度だった(ただし1967年まで同性愛は刑法上の犯罪だった)。

 1943年に初の本格的なコナン・ドイル伝を書いたヘスキス・ピアソンは、1946年に『オスカー・ワイルド伝』を書いた。この時にはまだジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)が存命だったので、ピアソンはショーに相談した。
「ショーさん、僕はオスカー・ワイルドの伝記を書こうと思うのですが、どんなものでしょうか?」
「まあ、やめておいた方がいいと思うよ。何しろ、例の件があるからねえ。わしが死んで、それから君も死んで……ところでピアソン君は何年生まれ? そうか、わしより30年も若いねえ。君も死んでから何年も経てば、あれも大したことじゃない、犯罪ではない、ということになっておるだろう。伝記を書くなら、それからじゃよ」
 しかし、ピアソンはワイルド伝を書いた。何しろ伝記を書くのが仕事で、ショーの伝記も1951年に書いているのだ。
 ピアソンは何よりも才人としてのオスカー・ワイルドを尊敬していたので、そこに焦点を当てて書いた。男色はあったかもしれないが、大した問題ではない。ピアソンの考えを大幅に「意訳」すると
「織田信長は森蘭丸をかわいがったけれど、信長は別に変態ではない。オスカー・ワイルドだって同じことです」

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2009年11月23日 (月)

ショルトーの正体(3)

 オスカー・ワイルドとコナン・ドイルが1889年に出会ったとき、ワイルドは35歳、ドイルは30歳だった。ドイルはこの年の2月に歴史小説『マイカ・クラーク』を出していた。
 ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』によると

 成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット誌に『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。

 1889年のドイルには、成功は「すぐそこまで来ていた」が「まだ」だった。一方、ワイルドはすでに名士だった。『ドリアン・グレイの肖像』はまだ書いてないし劇場での大成功は1892年からだったが、作品より先に本人が有名になっていたのだ。
 ワイルドは、1878年にオックスフォード大学モードリン・カレッジを卒業して翌年ロンドンに出てくると、奇抜な服装と才知でたちまち評判になった。あちこちのパーティにひっぱっりだこで、パーティではワイルドがどういう気の利いたこと言うか、みんなが耳をすませていた。風刺雑誌『パンチ』にオスカー・ワイルドのカリカチュアが載った。

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 1881年には、ギルバートとサリバンがオスカー・ワイルドがモデルの喜歌劇Patienceをヒットさせた。これはニューヨークでも上演されたので、プロモーションのためにワイルドをアメリカに呼ぼうということになった。1881年末に渡米したワイルドは1882年1年間かけて全米70箇所で講演して回った。
「植民地へ講演に行って稼ぐ」というのは、大先輩の作家チャールズ・ディケンズもやったことだ。しかしディケンズの場合は、功成り名遂げてから自作を朗読して回ったのだ。ワイルドはまだ28歳で詩集を2冊出しただけだった。しかし彼の講演はアメリカの聴衆に受けて大成功だった。

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 ドイルと初めて会った1889年には、ワイルドは『婦人世界』誌の編集長で、前年に『幸福な王子』を出版していた。
 翌1890年に唯一の小説『ドリアン・グレイの肖像』を発表した。1892年に『ウィンダミア卿夫人の扇』が初演され、ワイルドの劇作家としての大成功が始まった。彼がクイーンズベリー侯爵との裁判事件で没落するのは1895年である。

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2009年11月21日 (土)

ショルトーの正体(2)

 小林・東山両氏の本、「ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしく、……」の前の段落に、こう書いてある。

 ドイルは自伝で、オスカー・ワイルドに初めて会った時のことを書いている。1889年のできごとであった。「ワイルドは唯美主義のチャンピオンとしてすでに名をなしていた。彼は私たちよりも群を抜いているだけだったが、それでもこっちのいうことには面白がってみせる術を心得ていた。感じかたや如才なさにこまやかさがあったが、一人芝居の男は心から紳士ではあり得ない。この晩の結果はワイルドも私も『リピンコット』の誌に小説を書く約束ができたことだった。それで書いたの場、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』と私の『四つの署名』とであった。(延原謙訳『わが思い出と冒険』新潮文庫、97ページ)

 延原謙訳が誤訳だから、「あまり良い印象を受けなかったらしく」という誤解が生じたのです。原書(Memoirs and Adventuresという題ではないので気がつかないが下の本)を見てみよう。

He towered above us all, and yet had the art of seeming to be interested in all that we could say. He had the delicacy and feeling and tact, for the monologue man, however clever, can never be a gentleman at heart. He took as well as gave, but what he gave was unique.

 下線部を、延原謙氏は

彼は与えもした代わりに、与えるものは独特であった。

 と訳している。意味不明である。だから、小林・東山氏は引用から省いている。しかし引用部分だって「彼は私たちよりも群を抜いているだけだった」を始め、ナンセンスだ。
 正しい訳は

  彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本物の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった。

 これで意味が通るはずです。
 延原謙訳では、ワイルドが「一人芝居の男」だったことになる。とんでもない間違いだ。
 コナン・ドイル(1859-1930)は1889年にオスカー・ワイルド(1854-1900)と初めて会った。そして「あのワイルドさんが僕の小説をほめてくれた!」と感激したのだ。まだ専業作家ではなかったドイルに対して、ワイルドはすでに名士だった。ところがワイルドは本物の紳士で、少しも偉そうにしない。ドイルの小説をあらかじめ読んできてくれた上に、ドイルの言うことを面白そうに聞いてくれた。さすがに有名になる人は違う、とドイルは感心したのだ。

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2009年11月20日 (金)

ショルトーの正体(1)

 ドイルはワイルドからあまり良い印象を受けなかったらしい、オスカー・ワイルドを戯画化して《四つのサイン》にでてくるサディアス・ショルトーを描いた。ショルトーは「南ロンドンという荒涼たる砂漠のなかの芸術のオアシスです」と話し始めるが、これはワイルドが1882年にアメリカ旅行をした時に「アメリカ女性? 彼女は常識という人を当惑させる砂漠の中の魅力的なオアシスですよ」と話した警句のパロディである。
(小林司・東山あかねp.155)

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 サディアス・ショルトーのモデルがオスカー・ワイルド? ワイルドはもっと偉かったと思いますよ。彼は少なくとも禿頭ではなかった。しかし、小林司・東山あかね両氏だけではなく、ほかの人たちもだいたい同じ意見のようだ。
  
 河出書房版ホームズのクリストファー・ローデンによる注釈を水野雅士氏の本から孫引きさせてもらう。

「サディアス・ショルトーの人物描写の中に、疑いようのないオスカー・ワイルド的なものが存在している。ワイルドは大変な、そしてきざな愛煙家であった。サディアス・ショルトーも水ぎせるを愛用している点においては――そうである。…………」…………さらにローデンは、《四つのサイン》でホームズが指摘したサディアス・ショルトーの筆跡に関する「この(縦に)長く書くべき文字の群を見てみたまえ。短い文字の列からほとんど頭が上に出ていない。dはaのようだし、lはeのようだ。しっかりした人物なら、どれほど読みにくい文字を書いたとしても、長い文字を短い文字のようには書かないものだ。彼が書くkは安定性に欠けるし、大文字にはうぬぼれが透けて見える」という特徴は、ワイルドの筆跡と共通する部分があると述べ、そのことから「リピンコッツ」誌のスタッダードが設定した会見で初めてワイルドにあったドイルは、その後おそらくワイルドと手紙のやりとりを始めたのだろう、とローデンは推測している。
(水野雅士pp.277-8)

「大変な、そしてきざな愛煙家」というなら、シャーロック・ホームズも同じではないか。
 ローデン氏の「推測」も、当てにならないと思う。コナン・ドイルとオスカー・ワイルドが文通していたなどと、どうして言えるのだろうか。どちらの伝記にも、文通のことなど書いてはない。

 
 
 どうもみなさん、オスカー・ワイルドを見くびっているのではないか。吉田健一を読んでみて下さい。「英国では、近代はワイルドから始まる。」いや、ワイルドを読めばよいのだ。

 アーサー・コナン・ドイルもジョン・H・ワトソンも正常な男だったから、「例のこと」があったワイルドを嫌っているはずだ、高く評価するはずがない――という先入観があるのでは?
 ドイルはワイルドを尊敬していたし、変態あつかいなどしなかった。したがって(?)、ワトソンも同じだった。

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2009年11月17日 (火)

坂の上の雲から黄禍論へ

 我が國の發展が世界に及ぼした影響の尤も顯著なるものの一つは、アジア人の覺醒を促したことである。一體この三百餘年間は、白人種の得意跋扈時代であつた。彼等は到る處に占領地を作り、殖民地を建て、全世界を擧げて彼等の勢力の下に置き、白人種にあらざれば、殆ど人間にあらずといふ有樣を呈した。アジアの如きも、印度・ビルマは英國に、シベリア・中央アジアは露國に、後印度の大部は佛國の手に落ち、餘す所の支那やペルシアやシャム等も、白人種の壓迫に苦しんで居る。唯一の例外たる我が日本と雖ども、全くはその壓迫から離脱し得なかつたのである。
 アジア人も白人の壓迫に對して、萬斛の不平を抱いて居るが、然し彼等は到底白人には抵抗不可能と信じて、その自然の運命に服從いたし、白人は又劣等と信ぜるアジアの黄人種を支配するのは、その當然の權利の如く心得て居つた。かかる事情の下に、僅少なる白人が、多數の黄人を容易に統治して行くことが出來たのである。所が日露戰爭は從來のレコードを破つた。日露兩國は種々なる點に於て、奇妙なる對照を有して居る。從つてその戰役の結果は、種々なる方面に影響を及ぼして居るが、中に就いて、アジアの一小國が、その幾十倍もある白人の大強國――數ある白人の強國の中でも尤も跋扈を極めた大強國――と戰ひ、見事之を打ち破つて、兜を脱がしめたといふ事實は、全アジア人に餘程深刻なる印象を與へた。黄人も努力如何によつては、隨分白人の壓迫を脱することが出來る。否更に一歩を進め、白人に對して痛快なる復讐をも成し遂げ得らるるといふ、實例を目前に示されたのである。
 日露戰役の數年前から、活動寫眞が次第に世間に持て囃されて來た。日露戰役はこの活動寫眞にとつて、好箇の映寫物となつた。日露戰役の當時から、爾後三四年間は、この戰役の活動寫眞が、アジア大陸到る處で空前の歡迎を受けた。印度人・ビルマ人・シャム人・安南人・支那人・南洋人等は、何れもこの活動寫眞――實際以上に露軍敗亡の有樣を映寫してある――を見物して、數十百年來の溜飮を下げた。活動寫眞によつて、不樣な露軍の敗走を見ると、自然彼等の腦裡に、白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に對する反抗心が頭を擡げて來る。かくて汎アジア主義が、次第に東洋の天地に彌蔓して來た。
 英人の管下にある印度人の獨立思想も、この時から一層熱列を加へ、英人も之を抑壓するに頗る困難を感じた。そこで日英同盟によつて、日本の勃興を助けた英國の政策は、果して英人の利益であつたであらうかと、同盟の價値に就いて疑惑を挾む者も出來た程である。佛領後印度にも、同樣不安の状態が起つた。フランスがこの地方を占領して以來、日露戰役直後ほど、安南人の人氣の荒立つたことはないと傳へられて居る。
 このアジア人のアジアといふ思想の勃興には、アジアに領土を持つて居る白人一同に閉口した。彼等は日本人がやがて黄人種の先達となり、黄人種の大同團結を作つて、白人驅逐を試みるであらう。多數の黄人に少數の白人では、その結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に壓迫征服された場合が多い。かかる時代が或は再出するかも知れぬとて、今迄見縊り過ぎた反動で、實際以上に黄人に對して警戒を加へることとなつた。
 アジア人の中でも、支那人が一番覺醒して來たかの如く思はれた。日清戰役後支那人の間に、變法自強といふ新機運が開けて、事毎に日本を模範とすることとなつたといふ條、彼等は未だ十分に日本の實力を理會せなんだ。日本は東洋でこそ強國であるが、世界の舞臺に出ては、とても歐米列強と肩を並べられぬもの、まして露國に對しては、足許へも寄られぬものと信じて居つた。所が日露戰役で、日本が彼等支那人の間に、世界第一の強國と確信されて居つた露國を打ち倒したのであるから、彼等は今更ながら、日本の國力の強大なるに驚嘆し、愈變法自強の急務なることを自覺した。日露戰役後に於ける支那の革新は、隨分目覺しいものであつた。日本は立憲國で勝ち、露國は專制國で負けた。中國も日本の如く立憲制を採らねばならぬとて、やがて立憲の準備にかかる。日本は國民一致して勝ち、露國は國民雜多にして一致を缺きし故敗れた。中國も滿・漢の區別を撤廢せなければならぬとて、やがて均平滿漢の上諭――滿漢の區別を撤廢せんとする試は、日露戰役前から幾分行はれて居つたが――が發布された。其他學校教育の普及とか、新式陸軍の増加とか、すべて此等の革新的計畫は頗る大袈裟で、然も直間接に多く日本人の補助を受けたのであるから、尠からず歐米人の耳目を聳かさせた。彼等はアジア人の覺醒を重大視する餘り、盛に黄禍論を唱へ出した。

 
 
 黄禍論は勿論日露戰役以前から、已に白人間に唱道されて居つた。黄禍といふ文字も、日清戰役の頃から使用されてをつた。日清戰役の終期、三國干渉の起らんとする前後に、ドイツのカイゼルからロシアのツアールに贈つた一幅の寓意畫――東洋の佛教國の前進を、耶蘇教國が一致して防禦せんとする――の標題が黄禍であつた。この時以來黄禍といふ文字は、盛に使用されることとなつたが、實際の處當時日本は三國干渉の爲に大頓挫を受けて居る。支那は日清戰役の敗亡に續いて、列強から要害の地を租借せられ、或は擧國瓜分の厄に罹らんとする形勢であつた。黄禍といふ文字こそ新聞・雜誌又は書物に疊見すれ、當時眞面目に黄禍の實現を信じた人は、甚だ多くなかつた樣である。黄禍論は畢竟一種の杞憂に過ぎずと見做されて居つた。所が明治三十七八年の日露戰役後から、黄禍論は始めて世界的問題となり、歐米人も眞面目にこの論に耳を傾くることとなつた。
 等しく黄禍論といふ條、或は日本を問題の中心とする者もある。或は支那を黄禍の中心とするものもある。或は經濟の方面より觀察を下すものもある。或は軍事の方面より觀察するものもある。解釋の仕方は一樣ではないが、そは兔に角、アジア人の覺醒と共に、黄禍論の重大視さるるに至つたのは、爭ふ可らざる事實である。而して此等の事實は、東洋史は勿論、世界史の上より觀ても、稀有の大事件といはねばならぬ。
(桑原隲藏『東洋史上より觀たる明治時代の發展』より。初出は1913年(大正2年)8月太陽第19巻第11号)
全文は青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4708_11086.html

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2009年11月16日 (月)

事件に巻き込まれた?

 近ごろ、テレビでは殺人事件や誘拐事件の被害者のことを
「警察では○○さんが事件に巻き込まれたものとみて捜査しています」
 などという。
 日本語の間違いだ。「巻き込まれる」というのは全然別のことのはずだ。
 広辞苑で「巻き込む」を引いてみよう。

まきこむ【巻き込む・捲き込む
(他五)
①巻いて中へ入れる。
②仲間に引き入れる。まきぞえにする。「騒動に―・まれる」

まきぞえ【巻き添え】
①他人の罪に関係して罪をこうむること。連座。また、他人の事件に巻き込まれて損害を受けること。かかりあい。そばづえ。江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)「ほんの―で難儀さ」。「―を食う」
②入質(いれじち)の時の要求金額に対する担保の不足分を補う、たしまえ。浄、反魂香「―がいるならば、わしが繻子の帯もあり」

「事件に巻き込まれる」というのは、『北北西に進路を取れ』のケーリー・グラントみたいな目に遭うことだ。
 
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 どうしてこうなったか。
 ケーリー・グラントは何の用があったのか、国連本部へ行ってそこで

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 腕の中に男が倒れかかってくる。背中にナイフが突き刺さっている。思わずそのナイフを抜いてしまう。すると

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「こいつが犯人だ」と言われて、逃げるはめになる。他人の事件に巻き込まれたのだ。

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 ラシュモア山にまで逃げて

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 最後は結構なことになるのだった。一度巻き込まれてみたい。

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2009年11月15日 (日)

ウィンドウズ7は?

私はまだ当分XPを使い続けるつもりです。(S.H.)

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2009年11月14日 (土)

バールのようなもの

Hirata

バール
(crowbar の略) 棒状の釘抜き。かなてこ。(広辞苑)

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2009年11月13日 (金)

毛むくじゃらのアイヌ人(8)

 ヨーロッパ人はこう考えた。
「我々は(毛むくじゃらのアイヌ人に限らず)ヨーロッパ人の従兄弟がいれば、ぜひとも救援に行かなければならない」
 実際に救援に出動した例が最近にあった。

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 東ティモール民主共和国は、2002年にインドネシアから正式に独立した。
 ティモール島は16世紀にポルトガルが植民地化した。その後1859年に西ティモールがオランダに割譲され、以後ポルトガルは東ティモールのみを領有した。
 1975年に東ティモール民主共和国はポルトガルからの独立を宣言した。翌1976年インドネシアは東ティモールを州として併合した。いわゆる東ティモール紛争で住民が多数殺された。1999年にオーストラリアを中心とする多国籍軍が東ティモールに救援に入った。
 多国籍軍の後ろ盾を得て、2002年5月、シャナナ・グスマンを大統領として正式に東ティモール民主共和国が独立した。 
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 複雑な民族問題があるようだ。しかしアジアで民族問題を抱えていない国は日本などごく少数だけだ。ベトナム、タイ、ビルマ、インドネシア、インド、フィリピン、……どこの国でも内部に民族対立がある。むかしの英国はこれをうまく利用した。インドではヒンズーとムスリムの対立をあおって分割して統治したし、シク教徒を手先に使った。1857-8年のインド大反乱では『四人の署名』に見られるように、シク教徒は東インド会社の側についた。ビルマでも少数民族を利用した。
 しかし今では対立する民族の一方に外国が肩入れするということはまずない。
 オーストラリアが東ティモールに入ったのは例外だ。「ヨーロッパ人の従兄弟を救援に行く」ためだった。グスマン大統領も、1996年にノーベル平和賞を受賞したジョセ・ラモス=ホルタ氏もポルトガル人との混血だ。蘭領インドネシアには混血が少ないが、ポルトガル領の東ティモールではかなり混血の住民がいるのだ。Ramoshorta

 土人と土人が争っているのなら放っておけ。しかし我々白人の従兄弟たちは助けなければならない。白豪主義は捨てたことになっているけれど、これはまた別だ。
 しかし今では東ティモールとオーストラリアの関係は、石油の権利をめぐる争いがあって必ずしも良好ではないのだそうだ。

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2009年11月12日 (木)

関西弁の歎異抄?

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歎異抄 序
 ひそかに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚悟をもつて他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

歎異抄 序
 ひとに聞かせられへんアホなことばかり考えているワテ(唯円)ですけど、昔のことや今のことを思うてみるにつけても、先師・親鸞聖人のいわはった教え(=口伝)が真の信心と異のうてきたのを嘆いとります。後で学んで後に続こうとしなはる人の疑惑があるんやないかと思えてならしまへん。うまいことに縁ある人に教えてもらわな、アンキな易しいやり方(=易行)の仲間に入られへんのやないか。まったく自分の思い込みだけで「ひとまかせ(=他力本願)の宗旨を乱してはあきまへんのや。亡くなりはった親鸞聖人のいわはった御物語のおもむきを、耳の底に残ったままのもんを、ちょっとここに書いてみようと思うとります。ただただ同じ信心を行う人々の、不審な心を晴らすためのもんにほかなりまへん(ということです)。
(川村湊訳p.13)

 川村湊氏は北海道網走番外地の生まれだそうだ。だから、こんなニセ関西弁を使うのだな。はんかくせえ。網走弁で訳してみろ。
 私は関西弁のネイティブスピーカーだけれど、こういう言葉を使う人は知らないよ。「亡くなりはった親鸞聖人のいわはった御物語」とは何だ!
 歎異抄の筆者唯円という人は常陸の国(茨城県)の出身だ。これは立松和平さんあたりに訳してもらうのがいいと思う。

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「僕は他人に聞かせられない馬鹿なことばっかり考えているんだよねー。でも昔のことや、今のことを考えてみるとー、先師親鸞聖人のー、教えがー、ほんとの信心とは全然違って来ちゃってるんだよねー。困るんだよねー」

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2009年11月11日 (水)

毛むくじゃらのアイヌ人(7)

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"Round-headed," he muttered.  "Brachycephalic, gray-eyed, black-haired, with suggestion of the negroid.  Celtic, I presume?"
"I am an Irishman, sir."

「頭は丸いな」と彼はつぶやいた。「短頭。眼はグレイ、髪は黒い。ネグロイドの気味もある。ケルトと見たが、ひが目か?」
「僕はアイルランド人です」

 アーサー・コナン・ドイルの『Lost World 失われた世界』(1912)。チャレンジャー教授が初対面のエドワード・ダン・マローン記者の顔を見てこう言う。
 ケルト人は現在のアイルランド人やウェールズ人の先祖だ。白人であるが、金髪碧眼で長頭の北方人種と違って、眼はグレイで髪は黒く短頭であり、いくらかネグロイド(黒人)の要素が混じっていると考えられていたようだ。ドイル自身もアイルランド人だ。
 イングランドで主流のアングロ・サクソンはドイツから渡ってきたゲルマン民族だ。これは白人の中の白人で「アーリア人種」ということになっていたらしい。

Morrisaryanrace

  アーリア(英Aryan, 独Arier)という言葉は色々な意味で使うが、1888年にチャールズ・モリスが書いた『アーリア人種』では、後のナチ人種論と同じように「理想的な白人」の意味だったようだ。(上の表紙のイラストは顔面角が実際より大きい、理想化されたアーリア人像)

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 Aryan.  Not only clean but also pure!

 日本人を「アーリア人種」に含めるトンデモ説もあった。日本人は毛むくじゃらのアイヌ人の血を引くから、朝鮮人や支那人と違って白人なのだ!

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2009年11月10日 (火)

カリスマ

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観光カリスマとは、日本の地域観光振興を目的に、特色のある観光地づくりに貢献した人々を選定したもの。
選定は内閣府及び国土交通省が中心となり、観光カリスマ百選選定委員会が選定している。2002年から2005年にかけて100名弱が選ばれた。魅力的な観光資源が乏しい地域での観光振興、疲弊した観光地の復活などを担った多様な人物が選ばれている。
国土交通省は、観光カリスマを講師にして「観光カリスマ塾」を開催、ノウハウの伝授や現場体験、受講者によるワークショップなどを実施し、次世代の観光振興を担う人材育成を行っている。
(ウィキペディア)

カリスマcharisma
元来はキリスト教用語のギリシア語で神の賜物を意味し、神から与えられた、奇跡、呪術、預言などを行う超自然的・超人間的・非日常的な力のことである。こうした能力や資質をもった人がカリスマ的指導者であり、ナポレオン、ヒトラー、スターリン、毛沢東などがあげられる。M・ウェーバーが支配の正当性の類型化にこの概念を用いたために、社会科学における学術用語としてはもちろん、広く一般にも用いられるようになった。ウェーバーは、合理的支配、伝統的支配、カリスマ的支配からなる支配の三類型を定式化した。カリスマ的支配とは、カリスマ的資質をもった指導者に対する個人的帰依(承認)に基づく支配である。真のカリスマは権威の源泉となり、承認と服従を人々に対して義務として要求する。この服従と承認は、指導者の行う奇跡によって強められる。こうして、服従者は指導者と全人格的に結ばれ、信頼と献身の関係が成立する。この支配関係は官僚的手続や伝統的慣習または財政的裏づけに依拠せず、指導者固有のカリスマに対する内面的な確信にのみ基づいている。したがって、構造的にも財政的にも不安定な関係であり、服従者の帰依の源泉であるカリスマの証がしばらく現れない場合、カリスマ的権威は失墜し、指導者は悲惨な道をたどることになる。しかし、カリスマが有効に作用する限り、遠回しの手続を必要としないので、危機的状況や革命的状況に適した支配パターンといえる。(小学館スーパーニッポニカ)

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 英語でもcharismaは意味不明だ。

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 カリスマ電気掃除機

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カリスマ大尉? (小振りですな)
  
カリスマ=もてる? 

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Yourcharismaquotient

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2009年11月 9日 (月)

毛むくじゃらのアイヌ人(6)

「頭蓋骨計測値」の話は『バスカヴィル家の犬』にもう一度出てくる。

  "I presume, Doctor, that you could tell the skull of a negro from that of an Esquimau?"
  "Most certainly."
  "But how?"
  "Because that is my special hobby. The differences are obvious. The supra-orbital crest, the facial angle, the maxillary curve, the --"

「黒人の頭蓋骨とエスキモーの頭蓋骨の区別は、先生にはつくでしょう?」
「もちろんです」
「どう区別しますか?」
「私の十八番ですよ。違いは明らかです。眼窩上隆線、顔面角、上顎曲線、それに……」

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顔面角

顎部の突出程度を横顔からみて表した角度。各進化段階にある人類の横顔をみると、顎部が前突している突顎から、口元がほとんど突出していない直顎まで、さまざまなものがある。そこで、18世紀後半にオランダの解剖学者カンペールPieter Camper(1722―89)が、人種の差異を示す標識の一つとして考案した。それは、横顔からみて、眉間から鼻の下で鼻中隔の付け根を結ぶ直線と、同じく鼻中隔の付け根と耳の穴とを結ぶ直線との間の角度である。彼は、世界各地の諸人種が群れ集うオランダのアムステルダム港で、多くの人々についてこの角度を計測し、また、古代の絵画に描かれている人物の横顔についても計測した。その結果、黒人の顔面角は白人のそれより小さく、猿類に似ていると主張した。この観察は一般には理解しやすいため、多くの人種論に引用された。しかし、この考え方は、各人種と各種霊長類を単純に一直線上に並べたにすぎず、その数字の意味するところを考えず、また誇張して人種差別に結び付けるきらいがある。そのため今日の人類学者は、ただ頭骨の形態を記述する項目としてのみ用いる。顔面角を測る方法としては、上述の他に全側面角、鼻側面角、歯槽側面角などが考案されている。
〈香原志勢〉 (C)小学館スーパーニッポニカ百科事典

 世界大百科事典の「顔面角」はあまりにも時代後れだ。古い「学説」をまともに相手にしてしまって「人種差別につながる」ことも書いてない。エンカルタには「顔面角」の項目がなく、ブリタニカにもfacial angleの項目がないのは、現代では問題とするに足らないという態度だろう。

 しかし19世紀の終わりから20世紀初めには、猿→類人猿→黒人→黄色人種→白人の順序で顔面角が大になり、これが進化の順序を反映しているという迷信がまだ有力だった。モーティマー医師も、黒人とエスキモーでは後者の方が進んでいて、もちろん白人が一番偉いと思っていただろう。
   イザベラ・バード女史は、これより少し前の1880年に、アイヌ人は「顎が突き出るような傾向は少しもない」と書いていた。黒人や蒙古人と違って顔面角が大きく、白人に近いということだ。
 このころ頭蓋骨計測値がいかに重視されたかは、もう少しあとにコナン・ドイルが書いた小説にも明らかだ。(続く)

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2009年11月 7日 (土)

毛むくじゃらのアイヌ人(5)

 平凡社世界大百科事典のアイヌの起源に言う「頭蓋計測値」というのは、たとえば

"You interest me very much, Mr. Holmes. I had hardly expected so dolichocephalic a skull or such well-marked supra-orbital development. Would you have any objection to my running my finger along your parietal fissure? A cast of your skull, sir, until the original is available, would be an ornament to any anthropological museum. It is not my intention to be fulsome, but I confess that I covet your skull."

「ホームズさん、あなたは非常に興味深い。ここまで長頭とは思わなかった。眼窩上隆起もこれほど顕著だとは。顱頂縫合を触らせていただけますか。あなたの頭蓋骨を石膏型に取れば――現物はまだ入手不可能でしょうから――人類学博物館の呼び物になります。お世辞抜きで、あなたの頭蓋骨はぜひ欲しい」

 ベアリング=グールドの考証によれば、これは1888年(明治21年)9月25日のことだった。もちろん『バスカヴィル家の犬』の事件が始まった日だ。ホームズの頭蓋骨を欲しがったのはジェームズ・モーティマー氏である。医師でアマチュアの人類学者だった。
 ホームズは自分も科学のためなら何でもしたから、喜んで頭を触らせてやったに違いない。ワトソンが省筆して書かなかっただけだ。頭蓋骨の石膏型が「名探偵ホームズ34歳の砌の髑髏」として人類学博物館に展示されたかどうかは分からない。

  シャーロック・ホームズの頭蓋骨は長頭dolichocephalicであった。長頭の反対は短頭brachycephalicである。

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 長頭(上)と短頭(下)の頭蓋骨(生前の現物の写真)

 頭蓋骨の幅を長さで割った数値を「頭長幅示数」といい、この数値が小さいのを長頭、数値が大きいのを短頭という。
 写真上の長頭は後頭部が出っ張っているが、短頭には出っ張りがない。長頭か短頭かは人類学上きわめて重要な指標だった。

 主としてヨーロッパに住むコーカソイド(白色人種)について、世界大百科事典は

北の北方(ノルディック)人種は高身長・明色・長頭の人々で皮膚や虹彩の色はきわめて淡い。アーリヤ人種という誤った名で呼ばれることがある。中央の帯は,東のロシア領の中身長・明色・短頭の東ヨーロッパ人種と,色素の割合に多い短頭の2人種からなる。後者は低身長のアルプス人種と,高身長のディナール人種である。南の帯は高身長・濃色・長頭の地中海人種の大集団によって構成される。………………アイヌも波状毛,多毛などコーカソイド的特徴を示すが,モンゴロイド的な特徴も多く,分類が困難である。 
  
「アイヌ人はヨーロッパ人の従兄弟である」は、この百科事典の記事の時点(事典は1998年版だが、記事執筆はもう少し前か?)ではまだ完全には否定されていなかった。(続く)

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2009年11月 6日 (金)

毛むくじゃらのアイヌ人(4)

 明治時代に来日した外国人でアイヌ人に注目した人は多い。イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(原著1880年(明治13年)刊)によると

 日本人の黄色い皮膚、馬のような硬い髪、弱々しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古形の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きぶり、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。

 アイヌ人については、イザベラ・バードはこう書いている。

 男たちは中くらいの背丈で、胸幅も広く、ずんぐりして、非常に頑丈な骨組みである。……眼は大きく、かなり深く落ちこんでいて、非常に美しい。眼は澄んで豊かな茶色をしている。その表情は特に柔和である。睫は長く、絹のようにすべすべして豊富である。皮膚はイタリアのオリーブのように薄黄緑色をしているが、多くの場合皮が薄く、頬の色の変化が分かるほどである。……顎が突き出るような傾向は少しもない。日本人によく見られるような上瞼を隠している皮の襞は決してみられない。容貌も表情も、全体として受ける印象は、アジア的というよりはむしろヨーロッパ的である。

Ainu

 イザベラ・バードは日本文明をある程度評価している。しかし日本人に対しては肉体的嫌悪感がある(堕落しているdegenerateはひどい)。アイヌ人は「ヨーロッパ的」なのに日本では野蛮人の生活だ。
「残念だ。助けてやりたい」
 とは、バード女史も言わない。
 しかし
「ヨーロッパ人の従兄弟であるアイヌ人が蒙古人に虐げられているから救援に行くべきだ」
 というトンデモ論は、このあたりに源があったらしい。

 アイヌ人は、日本人、朝鮮人、モンゴル人などと同じモンゴロイド(黄色人種)である。彫りが深い顔立ちで一見白人に見えるのは、「寒冷地適応」が生ずる前の原モンゴロイドだからだ。ふつうのモンゴロイドは寒いところで暮らすのに好都合なように顔の表面積を小さく(平べったく)する方向に進化した。髭などの体毛も少なくなった。アイヌ人はこの「進化」が起こらず白人然とした容貌のまま残った。
 というようなことは私でも知っている。これが正しいことはDNAのタイプの比較で検証されているらしい。これについては英語版ウィキペディアのAinuの項目http://en.wikipedia.org/wiki/Ainu_peopleが詳しい(正しいかどうかは知らない)。
 
 ところが私の持っている平凡社世界大百科事典(1998年版)の「アイヌ」では
 


【起源】
 彫りの深い顔立ち,波状の髪,豊富な体毛,上・下肢の長い体形など,アイヌの体質には近隣のモンゴロイドよりはむしろ遠いコーカソイドやオーストラロイドを想起させるような特徴がある。アイヌの起源についてさまざまの説が対立し,ときには人種の島といわれることがあるのはそのためである。多変量解析法による頭蓋計測値の比較をおこなってみると,アイヌはいろいろな人種にある程度の親近性を示しながら,しかもそのどれにも属さない中立的な位置を占める。これはアイヌがホモ・サピエンスの原型に近い形態特徴を保持しており,人種分化の過程をあまり経ていないことを意味するのであろう。……

 DNAのことなど、ひとことも書いてない。遅れている。「頭蓋計測値」なんかが出てきますね。(続く)

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2009年11月 5日 (木)

悪女か毒婦か

 週刊新潮の広告を見ると、例の34歳の女のことを『「毒婦」のグロテスク人生』という特集記事にしている。
 毒婦なんて言葉はひさしぶりだ。毒婦高橋お伝というのがいた。大昔の話だ。

高橋お伝(嘉永元年(1848年) - 明治12年(1879年)1月31日)は仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」のモデルとなった女性である。上野国利根郡下牧村(現群馬県利根郡みなかみ町)出身。「明治の毒婦」と称された。
(以上ウィキペディアより。以下も同じ)

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・1848年 誕生、生後すぐに養子に出される(生年を1850年・1852年とする説もある)。
・1867年 高橋浪之助と結婚
・1872年 高橋浪之助がハンセン病発病後死去。毒殺などと言われるが実際には彼女は看病しており、当時の「毒婦物」の流行の為に脚色されたに過ぎない。その後小川市太郎と恋仲になる。
・1876年8月27日 東京・浅草蔵前で金を目的に古物商後藤吉蔵を殺害。
・1876年9月9日 強盗殺人容疑で逮捕、裁判で死刑判決が下る。
・1879年1月31日 市ヶ谷監獄にて死刑執行。8代目山田浅右衛門により、日本における女性死刑囚最後の斬首刑に処された。墓所は谷中霊園、なお、墓は、小塚原回向院にも、片岡直次郎・鼠小僧・腕の喜三郎の墓に隣接して墓石が置かれている。

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 死刑執行の年1879年(明治12年)のうちに、河竹黙阿弥が歌舞伎『綴合於伝仮名書』に仕立て、新富座で上演された。高橋お伝には五代目尾上菊五郎が扮した。同じ年に仮名垣魯文の小説『高橋阿伝夜叉譚』も刊行。
 映画は1958年中川信夫監督『毒婦高橋お伝』など多数。

 この34歳の女は少々桁外れなので、週刊新潮も「毒婦」なんて言葉を復活させたのだろう。「悪女」では足らない。
 それに「女の悪人」という意味で「悪女」を使うのは間違いだ。

広辞苑
あくじょ【悪女】
①性質のよくない女。
②顔かたちの醜い女。醜婦。

 これは広辞苑が間違っている。斎藤秀三郎の和英大辞典

あくじょ〔悪女〕〈名〉An ugly woman; a plain woman; a homely woman
◇悪女の深情け The plainer the woman, the fiercer the love.

「平凡な/家庭的な女」がなぜ悪女かなどと言うなかれ。plain/homelyはuglyを婉曲に言っただけだ。

 女性解放への努力によって、女も男と同様に悪人になれるようになったのは、まことに慶賀すべきことであります。その結果、女の悪人を「悪女」と呼ぶようになったのであります。本来は間違いなのですが、広辞苑ももはや大勢に抗しがたしと見て、この用法を認めたのでしょう。
 むかしの日本の女は「女の悪人」になるだけのエネルギーがなかったのです。ごく稀に女の悪人が出現すると、男はびっくりして「毒婦」と呼んだのであります。
 男女共同参画ばんざい。

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毛むくじゃらのアイヌ人(3)

 今度はチャールズ・マスターマンの番だった。彼はいつもの陰鬱な口調で言うのだった。ジャップとフン族が我々を地上から追い払ってしまう。我々よりはるかに強く狡猾で、まことに唾棄すべき奴等だ。その後も一人か二人同じように日本くたばれ論を述べた。するとウィンダムは何しろ奇想好きだから、彼一流の珍歴史理論(沢山持ち合わがあるうちの一つ)で議論を締めくくった。毛むくじゃらのアイヌ人はヨーロッパ人の従兄弟だ。彼らはいやらしい蒙古人に征服されている。「我々は毛むくじゃらのアイヌ人をぜひ救援に行くべきだ」と彼は重々しく言った。
 すると誰かがいかにも驚いたように言った。
「おやおや、ここにいる全員が、深刻な理由があるのかどうか、日本人を憎んでいるらしい。我々は日本の同盟国になったばかりか、新聞紙上でも日本の悪口は一切まかりならぬということになっている。なぜだ? いつでもどこでもジャップを誉め称えるのが流行に、決まりになっている。なぜだ?」
 これを聞いて、チャーチル氏は政治家特有の謎の微笑を浮かべた。それで先刻述べた曖昧の帳が降りてきて、この問いに対する答えは未だに出ていない。
 
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 日英同盟は1902年(明治35年)に締結された。日本の対露戦争勝利はめざましすぎたせいか、英国では警戒心を呼び起こしたようだ。
 アイヌ人はこのころはコーカソイド(白人)だと考えられていた。顔の彫りが深くて毛むくじゃらだから、どうも「ヨーロッパ人の従兄弟」らしいというのだ。(続く)

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2009年11月 4日 (水)

毛むくじゃらのアイヌ人(2)

 次はウィンストン・チャーチルの番だった。面白いのは、日本が美しく優雅な国だったときは野蛮国扱いされたのに、醜く俗悪になった今では敬意を払われていることだ――チャーチルはこういう意味のことを言った。

Then Mr. Winston Churchill said that what amused him was that as long as Japan was beautiful and polite, people treated it as barbarous; and now it had become ugly and vulgar, it was treated with respect, or words to that effect. 

 これで年代がだいたい分かるのです。
 1906年(明治39年)に岡倉天心(1862-1913)が『茶の本The Book of Tea』を出した。

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields.

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。(村岡博訳)

 チャーチルの言葉は、岡倉天心の英語が元でしょう。
 1905年(明治38年)9月5日にポーツマス条約が調印された。天心のThe Book of Teaは翌年5月にニューヨークの出版社から出て、たちまち版を重ねた。
 天心のエレガントな英語は評判を呼んだ。ドイツの哲学者ハイデガー(1889-1976)にまで影響を与えたくらいだ。
 ハイデガーの「世界内存在 In-der-Welt-sein」は、天心の英語に触発されたのだ。茶の本に「処世術the art of being in the world」という英語がある。これが下敷らしい。
 これは今道友信氏が初めて指摘した。私は高階秀爾『本の遠近法』で知った。

 ウィンストン・チャーチルも岡倉天心の真似をしたのだ(これを言うのは私が初めてだと思う)。アイヌ人登場は次回。

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2009年11月 2日 (月)

毛むくじゃらのアイヌ人(1)

 ジョージ・ウィンダムはいろいろと妙なことを考え出す男だった。奇癖家だった。特に変なのは、座談になると自分が話題を決めて、試験か勝負事みたいに一人一人の意見を徴することだった。ある日、彼は厳かに「日本」と宣った。まず私が皮切りをせよという。私は言った。
「日本は信用できない。我々の一番悪いところを真似しているからだ。中世とかフランス革命とかを真似するのなら、まあ分かる。ところが、奴等は工場や物質主義を真似している。鏡を覗いたら猿が写っていた、というところだ」
 彼は司会者みたいに手を挙げた。「よろしい。そこまで」
 次はシーリー少佐(今は将軍)の番だった。自分が日本を信用できないのは、大英帝国として植民地と国防の問題で日本が少々懸念材料になっているからだと、シーリーは言った。

 G・K・チェスタトンの自伝(1936)の一節です。まだ「毛むくじゃらのアイヌ人」は出てこない。英語ではたとえばhttp://www.cse.dmu.ac.uk/~mward/gkc/books/GKC-Autobiography.txt
で読める。
 チェスタトンの言葉
I distrust Japan because it is imitating us at our worst.

 彼は「ある日」の座談会で意見を求められてこう言ったというのだが、それが何年何月何日だったかは、チェスタトンのことだから書いていない。しかし、もう少し後を読むと、日露戦争(1904-5)より後であり、1906年かそれ以降だということが分かる。
 しかし、こちらは「日英同盟バンザイ」だったのに、向うはこんなことを言っていたのだ。今でもそんなに変わらないのではないかと思う。

 この間雑誌のEconomistを見ていたら、おかしな記事があった。日本と英国の米国での特許取得数を比べると、総件数だけでなく人口一人当たりでも日本の方が断然多いというのだ。なぜだろうか? 答えは当然「日本人は独創性に富んでいるから」となると思うでしょう。そうはならないのだ。
「日本人の間には同調圧力が強いから」というのがEconomist誌の答えだった。
 猿真似の日本人なんかに独創性を認めてたまるか! 
 しかし、同調圧力はいくら何でも変だ。みんながどぶねずみ色の服装だから私もどぶねずみ色にしよう――は分かる。しかし、みんなが発明をするから、私も発明をしよう??
 チェスタトンに戻ると、この座談にはウィンストン・チャーチル(1871-1947)も加わっていた。(続く)

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2009年11月 1日 (日)

パセティック

(海辺のカフカでフェミニズム二人組が大島さんを追求するシーン)
 背の低い女性がそこで初めて口を開く。声は鋭く高い。「あなたの主張していることは結局のところ内容空疎な責任回避、言い逃れに過ぎません。現実という便宜的タームを持ちだすことによって、安易な自己正当化をおこなっているだけです。言わせていただければ、あなたはまさに男性性のパセティックな歴史的例です」
パセティックな歴史的例」と大島さんは感心したような口調で繰り返す。声の響きからすると彼はその表現がけっこう気に入ったようだった。
(19章)

 この「パセティック」はどういう意味か? 大島さんは「けっこう気に入った」というのだけれど。
 パセティックは、「悲愴」「悲壮」だと思っていませんか? 英語では違う。「みじめったらしい」「情けない」「だめな」という意味です。

 チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」があった。あれはpatheticじゃなかったかな。ウィキペディアを見てみよう。

(チャイコフスキーの交響曲第6番の)副題については、日本語訳に関して諸説がある。曰く、チャイコフスキーがスコアの表紙に書き込んだ副題はロシア語で「情熱的」「熱情」などを意味する "パテティーチェスカヤである故に「悲愴」は間違いである、というものであるが、チャイコフスキーはユルゲンソンへの手紙などでは一貫してフランス語で「悲愴」あるいは「悲壮」を意味する "Pathetique" (パテティーク)という副題を用いていたため、一概に誤りとは言えない。ベートーヴェンの悲愴ソナタも作曲者自身によって付けられた副題はフランス語の"Pathetique"である。もっとも、パテティーチェスカヤもパテティークも語源はギリシャ語の"Pathos"(パトス)であり、ニュアンスとしては関連性がある。

 フランス語のpathetiqueと英語のpatheticとドイツ語のpathetischはギリシャ語のpathosが語源だ。ところが英語だけは意味が違うのですね。

 私は前に偶然これに気づいた。ジャック・ニコルソンの『ファイブ・イージー・ピーセズ』という映画があった。

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 主人公とと女友達がケンカになって、女が泣き出す。男が

"Don't be pathetic!"

と怒鳴る。「おい、メソメソするな!」だ。
 なるほど英語ではそういう意味だったのか。それから気をつけて読んでいるが、patheticを「悲愴」の意味で使った例は見たことがない。まず「みじめったらしい」くらいの意味だ。

 辞書は

pathetic 〔初16c;ギリシア語 pathetikos (敏感な)〕
【形】
1哀れな, 痛ましい(pitiful);感傷[感動]的な∥a ~ story 哀れな物語.
2((略式))〈努力などが〉まったく不十分な, 取るに足りない;救いようのない, ひどい, とても悪い
∥She took three weeks to answer my letter. Isn't it pathetic ?  彼女は3週間もしてから返事をよこした. ひどいと思わないか.
3((廃))感情に影響される[左右される].

 古い英語には1や3の意味で使った例があるのだろう。しかし、2の「略式」が今では主流だ。訳語はもう一工夫する必要があると思う。

 同じギリシャ語の語源pathosから派生しても、英語だけ意味がずれてきたみたいだ。
 WordReference.comというサイトで
http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=1517466

Don't be pathetic!
をどう独訳すればよろしいか、という質問が出ている。直訳の
Sei doch nicht pathetisch! でよろしいか?
これに対する答え
Lass die Mitleidstour! (「哀れな真似はやめろ」くらいか?)
 と訳すべきだ、とドイツ語が母語の人が答えて、こう付け加えている。

"pathetic" and "pathetisch" are false friends.
The German word "pathetisch" means excessively passionate.
The Endlish word "pathetic" means bemitleidenswert, erbarmlich.

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