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2009年11月17日 (火)

坂の上の雲から黄禍論へ

 我が國の發展が世界に及ぼした影響の尤も顯著なるものの一つは、アジア人の覺醒を促したことである。一體この三百餘年間は、白人種の得意跋扈時代であつた。彼等は到る處に占領地を作り、殖民地を建て、全世界を擧げて彼等の勢力の下に置き、白人種にあらざれば、殆ど人間にあらずといふ有樣を呈した。アジアの如きも、印度・ビルマは英國に、シベリア・中央アジアは露國に、後印度の大部は佛國の手に落ち、餘す所の支那やペルシアやシャム等も、白人種の壓迫に苦しんで居る。唯一の例外たる我が日本と雖ども、全くはその壓迫から離脱し得なかつたのである。
 アジア人も白人の壓迫に對して、萬斛の不平を抱いて居るが、然し彼等は到底白人には抵抗不可能と信じて、その自然の運命に服從いたし、白人は又劣等と信ぜるアジアの黄人種を支配するのは、その當然の權利の如く心得て居つた。かかる事情の下に、僅少なる白人が、多數の黄人を容易に統治して行くことが出來たのである。所が日露戰爭は從來のレコードを破つた。日露兩國は種々なる點に於て、奇妙なる對照を有して居る。從つてその戰役の結果は、種々なる方面に影響を及ぼして居るが、中に就いて、アジアの一小國が、その幾十倍もある白人の大強國――數ある白人の強國の中でも尤も跋扈を極めた大強國――と戰ひ、見事之を打ち破つて、兜を脱がしめたといふ事實は、全アジア人に餘程深刻なる印象を與へた。黄人も努力如何によつては、隨分白人の壓迫を脱することが出來る。否更に一歩を進め、白人に對して痛快なる復讐をも成し遂げ得らるるといふ、實例を目前に示されたのである。
 日露戰役の數年前から、活動寫眞が次第に世間に持て囃されて來た。日露戰役はこの活動寫眞にとつて、好箇の映寫物となつた。日露戰役の當時から、爾後三四年間は、この戰役の活動寫眞が、アジア大陸到る處で空前の歡迎を受けた。印度人・ビルマ人・シャム人・安南人・支那人・南洋人等は、何れもこの活動寫眞――實際以上に露軍敗亡の有樣を映寫してある――を見物して、數十百年來の溜飮を下げた。活動寫眞によつて、不樣な露軍の敗走を見ると、自然彼等の腦裡に、白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に對する反抗心が頭を擡げて來る。かくて汎アジア主義が、次第に東洋の天地に彌蔓して來た。
 英人の管下にある印度人の獨立思想も、この時から一層熱列を加へ、英人も之を抑壓するに頗る困難を感じた。そこで日英同盟によつて、日本の勃興を助けた英國の政策は、果して英人の利益であつたであらうかと、同盟の價値に就いて疑惑を挾む者も出來た程である。佛領後印度にも、同樣不安の状態が起つた。フランスがこの地方を占領して以來、日露戰役直後ほど、安南人の人氣の荒立つたことはないと傳へられて居る。
 このアジア人のアジアといふ思想の勃興には、アジアに領土を持つて居る白人一同に閉口した。彼等は日本人がやがて黄人種の先達となり、黄人種の大同團結を作つて、白人驅逐を試みるであらう。多數の黄人に少數の白人では、その結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に壓迫征服された場合が多い。かかる時代が或は再出するかも知れぬとて、今迄見縊り過ぎた反動で、實際以上に黄人に對して警戒を加へることとなつた。
 アジア人の中でも、支那人が一番覺醒して來たかの如く思はれた。日清戰役後支那人の間に、變法自強といふ新機運が開けて、事毎に日本を模範とすることとなつたといふ條、彼等は未だ十分に日本の實力を理會せなんだ。日本は東洋でこそ強國であるが、世界の舞臺に出ては、とても歐米列強と肩を並べられぬもの、まして露國に對しては、足許へも寄られぬものと信じて居つた。所が日露戰役で、日本が彼等支那人の間に、世界第一の強國と確信されて居つた露國を打ち倒したのであるから、彼等は今更ながら、日本の國力の強大なるに驚嘆し、愈變法自強の急務なることを自覺した。日露戰役後に於ける支那の革新は、隨分目覺しいものであつた。日本は立憲國で勝ち、露國は專制國で負けた。中國も日本の如く立憲制を採らねばならぬとて、やがて立憲の準備にかかる。日本は國民一致して勝ち、露國は國民雜多にして一致を缺きし故敗れた。中國も滿・漢の區別を撤廢せなければならぬとて、やがて均平滿漢の上諭――滿漢の區別を撤廢せんとする試は、日露戰役前から幾分行はれて居つたが――が發布された。其他學校教育の普及とか、新式陸軍の増加とか、すべて此等の革新的計畫は頗る大袈裟で、然も直間接に多く日本人の補助を受けたのであるから、尠からず歐米人の耳目を聳かさせた。彼等はアジア人の覺醒を重大視する餘り、盛に黄禍論を唱へ出した。

 
 
 黄禍論は勿論日露戰役以前から、已に白人間に唱道されて居つた。黄禍といふ文字も、日清戰役の頃から使用されてをつた。日清戰役の終期、三國干渉の起らんとする前後に、ドイツのカイゼルからロシアのツアールに贈つた一幅の寓意畫――東洋の佛教國の前進を、耶蘇教國が一致して防禦せんとする――の標題が黄禍であつた。この時以來黄禍といふ文字は、盛に使用されることとなつたが、實際の處當時日本は三國干渉の爲に大頓挫を受けて居る。支那は日清戰役の敗亡に續いて、列強から要害の地を租借せられ、或は擧國瓜分の厄に罹らんとする形勢であつた。黄禍といふ文字こそ新聞・雜誌又は書物に疊見すれ、當時眞面目に黄禍の實現を信じた人は、甚だ多くなかつた樣である。黄禍論は畢竟一種の杞憂に過ぎずと見做されて居つた。所が明治三十七八年の日露戰役後から、黄禍論は始めて世界的問題となり、歐米人も眞面目にこの論に耳を傾くることとなつた。
 等しく黄禍論といふ條、或は日本を問題の中心とする者もある。或は支那を黄禍の中心とするものもある。或は經濟の方面より觀察を下すものもある。或は軍事の方面より觀察するものもある。解釋の仕方は一樣ではないが、そは兔に角、アジア人の覺醒と共に、黄禍論の重大視さるるに至つたのは、爭ふ可らざる事實である。而して此等の事實は、東洋史は勿論、世界史の上より觀ても、稀有の大事件といはねばならぬ。
(桑原隲藏『東洋史上より觀たる明治時代の發展』より。初出は1913年(大正2年)8月太陽第19巻第11号)
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