前田光世対ボクサー(1)
[前田光世は米国からキューバに赴き、1907年2月に英国に渡った。前田はまずニューカッスルで試合をした]
前田の評判はイギリスにまで聞こえていたから、挑戦者には事欠かなかった。前田光世は、クリニックclinicという英語が当地では「誰の挑戦でも受けて立つノールール・マッチ」という意味に使われることを知った。(p.55)
[前田はニューカッスルで2人のレスラーをチョークで下した。次にグラスゴーで3人と戦って勝った。ピーターソンという体重190ポンド(86kg)のレスラーが「目潰し、金的あり」の試合を挑んできた。地元のギャングが彼の側に5000ポンドを賭けているといううわさだった。前田は腕十字で楽勝した。]
[前田は次にバーミンガムで戦い、ロンドン郊外のクロイドンでも試合をした。当時はタイムズ紙にレスリングの記事が出ており、前田の活躍も詳しく報じられた。(1901年12月18日に夏目漱石はプロレスの試合を見たが、その結果は翌日のデイリー・テレグラフ紙に詳しく出ていた。当時は一流紙がプロレスを記事にしていた。柔道か柔術か(5) http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/5_fc54.html 参照)]
クロイドンの劇場主から前田に手紙が来た。当地で定例のオープントーナメントを開催するから、前田センセイにはそのあとでクリニックを開いていただきたい(すなわち、ノールール・マッチで挑戦を受けて欲しい)というのだ。
前田の相手はブランドンというプロボクサーだった。前田はもちろん挑戦を受けて立った。
前田はこれまでボクサーと戦ったことはなかった。ブランドンは強力なパンチを持っているらしい。
当日の夜(何年何月何日かが原文に書いてない。タイムズ紙でも報じられたというのだから、日付を書くべきだ)、劇場には労働者階級を中心とした観客が詰めかけたが、立派な服装の紳士たちも混じっていた。この珍しい異種格闘技戦は、タイムズの報道もあって、イギリス中の注目の的だった。
前田はいつものように短い袖の柔道着姿でリングに上がった。ブランドンはタイツとボクシンググラブを身につけている。細身ではあるが腕や肩の筋肉がすばらしく発達した黒人である。
第1ラウンドが始まった。(p.p.58-9)
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