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2009年12月25日 (金)

ラフカディオ・ハーンの柔術論(1)

  柔術
  一
     
 官立高等学校の校庭に、ほかの校舎とひときわ建てからのちがった建物が、ひと棟ある。この建物は、紙のかわりに、ガラスをはめた障子が入れてあることだけを除けば、あとは、純日本風な建物だといってさしつかえない。間口もひろく、奥行きもふかい、一階建ての建物で、なかは、だだっぴろい、百畳敷きの部屋がひと間あるきりである。この建物には名前がついている。日本の名前で、「瑞邦館」――「浄らかな国の大広間」という意味だ。その名前を漢字であらわしたものが、皇族の一親王の手によって、玄関のうえの小さな額に書かれてある。中へはいってみると、部屋のなかには、家具調度の類は、なにひとつない。ただ、壁間にもう一枚、べつの額がかかっており、ほかに絵が二枚かけてあるきりである。その一枚の方の絵には、かの維新の内乱のおり、主君のために、みずから進んで死を選んだ、十七名の少年からなる、有名な「白虎隊」の図が描いてあり、もう一枚の方は、これは油絵で、本校の漢文教授、秋月氏の肖像が描いてある。秋月氏は、老来、いよいよ、人の敬愛を集めておられるが、この仁も、年若いころには、そのころ武士や身分ある人士をつくることが、こんにちよりももっと多く要求された時代であったが、秋月氏は、その当時から、すでにひとかどの武士だった人である。なお、壁間の額には、勝伯の書で、漢字が幾字か書かれてある。「深い知識は最上の財産である」という意味の文字である。
 ところで、このだだっぴろい、飾りけのない部屋で教えられる学問は、いったい、なんであるかというと、それは柔術と申すものである。しからば、柔術とは、いったい何であるか?
(『東の国から・心』p.p. 197-198)

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 この「官立高等学校」は熊本の五高である。ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は1890年(明治23年)40歳で来日し、島根県松江の中学校教師となった。
 1891年(明治24年)、32歳の嘉納治五郎は五高の校長となり、英語教師としてハーンを招聘した。
「柔術」は1893年に書かれ、1895年刊のOut of the Eastの一章となった。
「瑞邦館」を建てて柔術を教え始めたのは嘉納治五郎である。嘉納は弟子の肝付宗次と有馬純臣を助手として使った。
 嘉納治五郎に出会って初めて柔術のことを知ったラフカディオ・ハーンは、1893年にJiujutsu(柔術)というエッセイを書いた。
(嘉納は1882年(明治15年)に講道館を開き柔道を創始していた。) 

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