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2009年12月26日 (土)

ラフカディオ・ハーンの柔術論(2)

 わたくしが、とくに諸君の注意をうながしたいのは、柔術の達人になると、自分の力というものにはけっしてたよらないという事実だ。そういう達人になると、最大の危機にのぞんでも、自分の力というものは、ほとんど使わないのである。それじゃ何を使うかというと、相手の力を使うのである。敵の力こそ、敵をうち倒す唯一の手段なのだ。つまり、柔術が諸君に教えるものは、勝利を得るには、かならず相手の力のみにたよれ、ということなのだ。そして、相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。それについて、今でもわたくしは憶えているけれども、あるとき、柔術の大師範のひとり*から聞かされた話で、大いに驚いたことがある。それは、わたくしが柔術のことはなんにも知らずに、ただ自分ひとりの考えだけで、クラスの中ではあれが一番かなと思っていた、ある力の強いが生徒がいたが、ところが、その大師範に言わせると、その生徒にはどうもやってみると、非常に技が教えにくいというのである。なぜでしょうかといって聞いてみたら、こういう答えであった。「あの男は、自分の腕力にたよりおって、それを使いよるのでなあ」と。「柔術」という名称そのものが、すでに、「身を捨てて勝つ」という意味なのである。

 *嘉納治五郎。嘉納氏は、数年前、「アジア協会紀要」誌上に、柔術の歴史について、ひじょうにおもしろい記事を寄稿されたことがある。(p.p. 201-202)

HearnKano

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、この大師範、すなわち嘉納治五郎から話を聞いて「柔術」を書いたのである。
 ハーンと嘉納は英語で話したに違いないが、嘉納治五郎は一貫してJiujutsuという単語を使ったようだ。この「柔術」一篇のどこにも「Judo 柔道」という単語は出てこない。
 柔道/柔術の呼称の問題については、昔は「柔道か柔術か」やかましい区別はしなかったのだ、と私は書いてきた。谷幸雄のような古流出身者が柔術家を名乗ったのは当然として、講道館出身者も「柔術家」を名乗る場合があったはずだ、と書いた。
「前田光世が柔術家を名乗ったのは講道館を破門されていたからだ」などは憶説である。
 http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/1_fced.html
に始まる「柔道か柔術か」の連載の初めの方で、英語の例文も挙げて、そういうことを書いた。
「柔道か柔術か」をやかましく区別した――と思い込んでいるのは、フィクションの影響だ。
 しかし嘉納治五郎は矢野正五郎ではない。だから自身が平気で講道館柔道を「柔術」と呼んだのだ。ご本尊が「柔術」と言っているのだから、前田光世のような弟子たちが「柔術」と言うのに何の不思議もないのだ。
 
 
 

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