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2009年12月15日 (火)

アメリカにおける山下義韶(3)

「コングラチュレーションズ、プロフェッサー・ヤマシタ」
 ルーズベルトは、そう言いながらにこやかに笑って、ホワイトハウスの仮設道場に現れた柔道師範、山下義韶六段(四十歳)の手を何度も強く握りしめた。
(ライオンの夢p.63)

Theodore

 これは1905年(明治38年)5月28日のことだった。大統領は、前日27日の早朝に始まった日本海海戦が日本の圧勝に終わったという知らせを受けたのだ。
 山下義韶は前年1904年(明治37年)の3月にセオドール・ルーズベルト大統領に紹介されて柔術を教え始めた。1905年1月からは、アナポリスの海軍兵学校で柔術を教えた。再び『ライオンの夢』を引用すると

……アナポリスは柔道を正課として採用し、山下は二年契約、年俸四千ドルで兵学校の教員として迎えられる。当時の為替レートは一ドル=二円弱。日本の海軍中尉の年俸が約四百円程度だったというから、四千ドル=八千円弱は途方もない高給だった。折からの日露戦争勝利の報にも重なって、山下柔道はますますアメリカ中で輝いていくことになった。
(p.77)

 柔道/柔術がアメリカやイギリスだけでなく世界中でもてはやされたのは、山下義韶、前田光世、谷幸雄などが強かったからだが、日露戦争(1904年2月6日-1905年9月5日)の影響も大きかった。

『ライオンの夢』で神山典士氏は「柔道」と書いているが、先に見たようにアメリカでは「プロフェッサー・ヤマシタ」は「柔術」の教師であると報じられていた。柔術がすでにかなり知られていたので、山下義韶もわざわざ「いや、違います。柔道です」と訂正する必要を認めなかったようだ。これは1904年末に渡米した前田光世の場合も同じであった。
 ラフカディオ・ハーンの『東の国から Out of the East』(1895)にはJIUJUTSUという一章がある。

 すでに1880年代から、移民として渡米した柔術家がプロレスラーと戦っていたようだ。(これについてはまた)

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