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2009年12月31日 (木)

前田光世対ボクサー(2)

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第1ラウンド
 前田光世は右自然体に構えた。ブランドンはオーソドックス・スタイルでフットワークを使い左ジャブを出してきた。前田はどうしても寝技に持ち込まねばならない。ブランドンのパンチをかいくぐって諸手刈りに飛び込んだ。
 ブランドンは素早いバックステップで避け、四つん這いになった前田に上からパンチを浴びせようとする。前田は顔を上手に防御する。ブランドンの片足を掴んで倒すが、相手はすぐに立ち上がる。両者はリング中央に戻った。そのまま牽制しあって第1ラウンドは終わった。

第2ラウンド
 ゴングが鳴って、両者とも慎重に相手の様子をうかがった。不用意な動きは負けにつながる。観客席からブランドンへの声援が飛んだ。
 ブランドンは素早い左ジャブを繰り出したが、前田が距離を取っているので届かない。しかし前田としては組まなければ始まらない。間合いを詰めたが、左ジャブを顔に二発受けた。続いてきた鋭い右フックをダッキングで避け、相手の腰に両手を回した。すぐに浮腰で投げる。しかし離れたところに落ちたため、ブランドンは立ち上がって左ジャブを出しつつ右クロスを狙う。二人は左に回りながら互いに様子をうかがった。
 6分が経過した。前田は何としても寝技に持ち込まねばならない。ブランドンの左足に軽く足払いを出したが、これはフェイントだった。顔面にジャブを打ってくる左腕を掴んでテイクダウンした。前田は腕十字に入った。ブランドンはしばらくもがいたが、逃れられるわけがない。すぐにタップした。
 試合時間は13分27秒だった。(1ラウンドが何分だったかなど、もう少し具体的に書いてくれるとよいのだが)

 ボクサーと初めて戦ったこの試合から、前田光世は多くを学んだ。異種格闘技戦を続けるなら、ボクサーのパンチに対応しなければならない。それには自分もある程度の打撃技を身につける必要がある。前田は天神真楊流の当身技を見学したことを思い出し、それを自分流にアレンジすることにした。前田が編み出した方法は、足払いと主に相手の肘への打撃の組み合わせだった。
 以後の長いキャリアを通じて、前田光世はボクサーと戦うときはこの戦法によった。ただ、打撃は決め技ではなかった。相手の注意を逸らして隙を見つけ組技に入るためだった。寝かせてしまえば、絞め技や腕十字や腕絡み、さらには足関節技で極めることはたやすかった。
 前田にはボクサーのパンチをかわすスピードがあった。また打たれ強かった。下の写真は27歳の前田光世である。(p.p.59-60)

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2009年12月28日 (月)

前田光世対ボクサー(1)

[前田光世は米国からキューバに赴き、1907年2月に英国に渡った。前田はまずニューカッスルで試合をした]

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 前田の評判はイギリスにまで聞こえていたから、挑戦者には事欠かなかった。前田光世は、クリニックclinicという英語が当地では「誰の挑戦でも受けて立つノールール・マッチ」という意味に使われることを知った。(p.55)

[前田はニューカッスルで2人のレスラーをチョークで下した。次にグラスゴーで3人と戦って勝った。ピーターソンという体重190ポンド(86kg)のレスラーが「目潰し、金的あり」の試合を挑んできた。地元のギャングが彼の側に5000ポンドを賭けているといううわさだった。前田は腕十字で楽勝した。]

[前田は次にバーミンガムで戦い、ロンドン郊外のクロイドンでも試合をした。当時はタイムズ紙にレスリングの記事が出ており、前田の活躍も詳しく報じられた。(1901年12月18日に夏目漱石はプロレスの試合を見たが、その結果は翌日のデイリー・テレグラフ紙に詳しく出ていた。当時は一流紙がプロレスを記事にしていた。柔道か柔術か(5) http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/5_fc54.html 参照)]

 クロイドンの劇場主から前田に手紙が来た。当地で定例のオープントーナメントを開催するから、前田センセイにはそのあとでクリニックを開いていただきたい(すなわち、ノールール・マッチで挑戦を受けて欲しい)というのだ。
 前田の相手はブランドンというプロボクサーだった。前田はもちろん挑戦を受けて立った。
 前田はこれまでボクサーと戦ったことはなかった。ブランドンは強力なパンチを持っているらしい。
 当日の夜(何年何月何日かが原文に書いてない。タイムズ紙でも報じられたというのだから、日付を書くべきだ)、劇場には労働者階級を中心とした観客が詰めかけたが、立派な服装の紳士たちも混じっていた。この珍しい異種格闘技戦は、タイムズの報道もあって、イギリス中の注目の的だった。
 前田はいつものように短い袖の柔道着姿でリングに上がった。ブランドンはタイツとボクシンググラブを身につけている。細身ではあるが腕や肩の筋肉がすばらしく発達した黒人である。
 第1ラウンドが始まった。(p.p.58-9)

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2009年12月27日 (日)

新々英文解釈研究

402. If I had been less cautious I might have been more wise, but I was half crazy with fear that you should learn the truth. (Conan Doyle)

747. Working as he did rather for the love of his art than for the acquirement of wealth, he refused to associate himself with any investigations which did not tend towards the unusual, and even fantastic.  (Conan Doyle)

 出典は402が『黄色い顔』747が『まだらの紐』。シャーロック・ホームズの英語は結構むつかしい。コナン・ドイル(1859-1930)が愛読した歴史家マコーリー(1800-59)の文もある。

306. What the horns are to the buffalo, what the paw is to the tiger, what the sting is to the bee, what beauty, according to the old Greek song, is to the woman, deceit is to the Bengalee. (Macaulay)

 これなど「さあ今すぐ訳してみろ」と言われるとちょっと困るでしょう。
『新々英文解釈研究』には、これくらいの解釈問題が1031題収められている。1冊仕上げれば、まずたいていの英語は読めるようになる。
「はしがき」を見ると、この本の前身『英文解釈研究』は大正元年(1912年)が初版である。それから60年以上にわたって受験参考書の定番だった。
 最近になって、昭和40年版の復刻が出たのだけれど、今ではむつかしすぎるのかな?

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2009年12月26日 (土)

ラフカディオ・ハーンの柔術論(2)

 わたくしが、とくに諸君の注意をうながしたいのは、柔術の達人になると、自分の力というものにはけっしてたよらないという事実だ。そういう達人になると、最大の危機にのぞんでも、自分の力というものは、ほとんど使わないのである。それじゃ何を使うかというと、相手の力を使うのである。敵の力こそ、敵をうち倒す唯一の手段なのだ。つまり、柔術が諸君に教えるものは、勝利を得るには、かならず相手の力のみにたよれ、ということなのだ。そして、相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。それについて、今でもわたくしは憶えているけれども、あるとき、柔術の大師範のひとり*から聞かされた話で、大いに驚いたことがある。それは、わたくしが柔術のことはなんにも知らずに、ただ自分ひとりの考えだけで、クラスの中ではあれが一番かなと思っていた、ある力の強いが生徒がいたが、ところが、その大師範に言わせると、その生徒にはどうもやってみると、非常に技が教えにくいというのである。なぜでしょうかといって聞いてみたら、こういう答えであった。「あの男は、自分の腕力にたよりおって、それを使いよるのでなあ」と。「柔術」という名称そのものが、すでに、「身を捨てて勝つ」という意味なのである。

 *嘉納治五郎。嘉納氏は、数年前、「アジア協会紀要」誌上に、柔術の歴史について、ひじょうにおもしろい記事を寄稿されたことがある。(p.p. 201-202)

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 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、この大師範、すなわち嘉納治五郎から話を聞いて「柔術」を書いたのである。
 ハーンと嘉納は英語で話したに違いないが、嘉納治五郎は一貫してJiujutsuという単語を使ったようだ。この「柔術」一篇のどこにも「Judo 柔道」という単語は出てこない。
 柔道/柔術の呼称の問題については、昔は「柔道か柔術か」やかましい区別はしなかったのだ、と私は書いてきた。谷幸雄のような古流出身者が柔術家を名乗ったのは当然として、講道館出身者も「柔術家」を名乗る場合があったはずだ、と書いた。
「前田光世が柔術家を名乗ったのは講道館を破門されていたからだ」などは憶説である。
 http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/1_fced.html
に始まる「柔道か柔術か」の連載の初めの方で、英語の例文も挙げて、そういうことを書いた。
「柔道か柔術か」をやかましく区別した――と思い込んでいるのは、フィクションの影響だ。
 しかし嘉納治五郎は矢野正五郎ではない。だから自身が平気で講道館柔道を「柔術」と呼んだのだ。ご本尊が「柔術」と言っているのだから、前田光世のような弟子たちが「柔術」と言うのに何の不思議もないのだ。
 
 
 

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2009年12月25日 (金)

ラフカディオ・ハーンの柔術論(1)

  柔術
  一
     
 官立高等学校の校庭に、ほかの校舎とひときわ建てからのちがった建物が、ひと棟ある。この建物は、紙のかわりに、ガラスをはめた障子が入れてあることだけを除けば、あとは、純日本風な建物だといってさしつかえない。間口もひろく、奥行きもふかい、一階建ての建物で、なかは、だだっぴろい、百畳敷きの部屋がひと間あるきりである。この建物には名前がついている。日本の名前で、「瑞邦館」――「浄らかな国の大広間」という意味だ。その名前を漢字であらわしたものが、皇族の一親王の手によって、玄関のうえの小さな額に書かれてある。中へはいってみると、部屋のなかには、家具調度の類は、なにひとつない。ただ、壁間にもう一枚、べつの額がかかっており、ほかに絵が二枚かけてあるきりである。その一枚の方の絵には、かの維新の内乱のおり、主君のために、みずから進んで死を選んだ、十七名の少年からなる、有名な「白虎隊」の図が描いてあり、もう一枚の方は、これは油絵で、本校の漢文教授、秋月氏の肖像が描いてある。秋月氏は、老来、いよいよ、人の敬愛を集めておられるが、この仁も、年若いころには、そのころ武士や身分ある人士をつくることが、こんにちよりももっと多く要求された時代であったが、秋月氏は、その当時から、すでにひとかどの武士だった人である。なお、壁間の額には、勝伯の書で、漢字が幾字か書かれてある。「深い知識は最上の財産である」という意味の文字である。
 ところで、このだだっぴろい、飾りけのない部屋で教えられる学問は、いったい、なんであるかというと、それは柔術と申すものである。しからば、柔術とは、いったい何であるか?
(『東の国から・心』p.p. 197-198)

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 この「官立高等学校」は熊本の五高である。ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は1890年(明治23年)40歳で来日し、島根県松江の中学校教師となった。
 1891年(明治24年)、32歳の嘉納治五郎は五高の校長となり、英語教師としてハーンを招聘した。
「柔術」は1893年に書かれ、1895年刊のOut of the Eastの一章となった。
「瑞邦館」を建てて柔術を教え始めたのは嘉納治五郎である。嘉納は弟子の肝付宗次と有馬純臣を助手として使った。
 嘉納治五郎に出会って初めて柔術のことを知ったラフカディオ・ハーンは、1893年にJiujutsu(柔術)というエッセイを書いた。
(嘉納は1882年(明治15年)に講道館を開き柔道を創始していた。) 

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2009年12月24日 (木)

リングサイド(3)

『リングサイド』は歴史の本になり損ねている。
 素材は面白いのだ。たとえば、19世紀の終わりごろ、ソラキチ・マツダという日本人レスラーがいたという話が出てくる。

(グレコローマンのチャンピオンだったマルドゥーンは)1884年には、グレコローマン・スタイルと相撲スタイルの両方で、同じ日の夜にショウキチ・ハマダ、ソラキチ・マツダの両名と対戦したいむねの挑戦状を出している。1889年、パンチも頭突きも許されるノールールでソラキチと対戦したときには、興奮した観客が両者に殺到し、試合終了となった。
 最終的にマルドゥーンはソラキチと親しくなり、いくつかの試合で、ソラキチのセコンドをつとめた。極端な差別主義者だったリチャード・フォックスでさえ、個人的見解はさておき(彼はつねにソラキチを"ジャップ"と呼んでいた)、ソラキチの技量には感服し、ソラキチを《ポリス・ガゼット》のミックスド・スタイルの王者に選定した。……

 こんな漠然とした記述では困る。「いつ、どこで、誰が、何を、どうした」のか?1880年代ならば新聞記事がある。ソラキチ・マツダはどういう試合をしたか?
 ショウキチ・ハマダというレスラーもいたのか。浜田庄吉なら『笹まくら』だ。丸谷才一とプロレス!

 現代のアメリカのプロレスは、ビンス・マクマホンというプロモーターが牛耳っているのだそうだ。アメリカの低級文化は本当に凄まじく低級だ。プロレスの味方なんか出てきそうもない。

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2009年12月23日 (水)

リングサイド(2)

(1)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは「何でもあり」の意味だった。
→catch-as-catch-canをその意味で使った例文を出せ。

(2)サブミッションありだった。
→サブミッションで決着がついた試合が、いつ、どこで、誰と誰の間で行われたか、記録を出せ。

(3)柔術を取り入れていた。
→何という名の柔術家がいつ、どこで、誰と戦ったか、記録を出せ。

 国際レスリング連盟FILAのホームページでFREESTYLE WRESTLINGを見てみよう。
http://www.fila-wrestling.com/index.php?option=com_content&task=view&id=33&Itemid=75&lang=en
    
 フリースタイル・レスリングでは、脚に対するホールドが常に許される。
 フリースタイル・レスリングは英国と米国でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンという名前で発達し、19世紀に縁日やお祭りで人気のある呼び物になった。このレスリングの目的は相手の肩を地面に付けることであり、ほとんどあらゆるホールドが許されていた。米国においてレスリングはきわめて人気のあるスポーツだったので、ジョージ・ワシントン、ザカリー・テイラー、ユリシーズ・グラント、アンドルー・ジョンソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンなどの大統領もレスリングをしていた。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン=フリースタイルだと分かるはずだ。
 アメリカでは、19世紀の終わりから、柔術を取り入れたサブミッションありの独自の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が、がぜん勢いづいてきた?
 しかし、山下義韶がセオドア・ルーズベルトの前で柔術という不思議な技を披露してアメリカ人を驚嘆させたのではなかったか?

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  これをたとえばニューヨーク・タイムズ紙がどう報じたかは、私が「アメリカにおける山下義韶(2)」で紹介している。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-3ca6.html
 
 あるいはニューヨーク・タイムズのような一流メディアは把握していなかったけれども、19世紀の終わりごろから日本人移民で柔術を使う者がいて、アメリカのレスラーと戦い、プロレスの形成に影響を与えた? それなら、具体的な記録を出せ。漠然と「柔術を融合させた」は駄目だ。
 本書の原題はRINGSIDE――A History of Professional Wrestling in Americaだ。「歴史」のつもりなら歴史記述の作法があるだろう。

 一次史料を使ってプロレスの歴史を描いたのは、たとえば私が「アングルの王者」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/3-986f.html
 で引用したSvinth氏である。
 彼は20世紀初めのアメリカの新聞からプロレス記事を取り出してみせた。19世紀後半の新聞なら同じように調べられるはずだ。

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2009年12月22日 (火)

ブラジルを目指した柔道家たち

 ゴング格闘技の増田俊也氏連載『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』がますます面白くなってきました。
 前田光世の1904年より早い1902年に渡米した福岡庄太郎という古流柔術家がいた。この人は6尺以上、体重は100キロ近い巨漢であるという。増田氏提供の写真によれば、前田光世よりかなり大きい。http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/

 私はとりあえず増田氏によって前田光世伝の翻訳の間違いを訂正しました。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/1-fbcf.html 以下

「前田光世はなぜ柔術と名乗ったのか」
については、私にも言うことがある。これについては、「ラフカディオ・ハーン・ハーンの柔術論」
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/2-cfbf.html

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リングサイド(1)

 十九世紀が終わるころに(アメリカで)がぜん勢いづいてきたのが、ランカシャー・スタイルを土台にラフ・アンド・タンブルのテクニックと柔術を融合させた、なんでもありという意味のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンという形式である。グレコローマンとはちがって、腰から下へのホールドが許され、フォールとギブアップの意思表示で勝負が決まるため、動きが速く刺激にあふれ、暴力的でさえあった。……

……こうしてキャッチ・スタイルは、起源をイギリスに持ち、日本の武術を採用したものであるにもかかわらず、アメリカ固有のレスリング形式であると考えるようになった(現代では、アメリカのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイル、としばしば留保がつけられる)。キャッチ・スタイルは生粋のアメリカ産だ、とするキャッチ信奉者の主張にはあいまいなところがあったが、グレコ・ローマンといういかにも非アメリカ的な名称を持った形式よりは、よほど北アメリカ的な出自を感じさせた。……
(p.p. 59-61)

 本書によれば「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」は

(1)「どこを掴んでもよい」ではなく、「何でもあり」という意味だった。
(2) サブミッションありだった。
(3) 柔術を取り入れていた。

 ということになる。
  これは通説とは大いに異なる。これだけのことを言うのならば何か証拠を挙げるべきだろう。
 たとえば(1)は、私が「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの意味」http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/1-5cb0.html
 などで、英語の例文を挙げて詳しく論じた。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」は要するに「どこを掴んでもよい」ということで、フリースタイルの別名だった。ただ例文は英国のものに片寄っていた。あるいはオックスフォード英語辞典などの辞書編集者の目が届かない米国用法があったのかも知れない。それなら教えて欲しいものだ。

「十九世紀が終わるころ」に「なんでもありという意味のキャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が「がぜん勢いづいてきた」と言うのならば、たとえばそのころの新聞記事をいくつか引用するくらいの手間はかけてもよいはずだ。
 しかし筆者はそういうことは考えても見なかったようだ。

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2009年12月21日 (月)

アメリカにおける山下義韶(4)

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……前章で見たように、1879年(明治12年)、嘉納治五郎は前大統領ユリシーズ・グラントの前で天神真楊流を代表して柔術の演武を行った。
 25年後の1903年(明治36年)、嘉納は門弟の中から山下義韶を選んでアメリカに送り、セオドア・ルーズベルト大統領に柔道を紹介させることにした。山下はまもなくこの熊みたいな「テディ」大統領と親しくなった。(テディベアはルーズベルト大統領をモデルに作られた。)

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 ルーズベルトは大学時代にはレスリングの選手だったが、山下の技に感銘を受け、自分も柔道を習うことにした。彼は柔道をアナポリス海軍兵学校のカリキュラムに取り入れるべきだと考えた。
 しかし海軍は大統領の言うことでもなかなか聞くものではない。後にフランクリン・ルーズベルト大統領(1933-45)は、海軍と議論するのはマットレスを叩くようなものだ、こちらが疲れ切るまで叩いても相手は少しもダメージがない、と言った。セオドア・ルーズベルトの提案に対して海軍は「よその国のものは駄目です」と、NIH(Not Invented Here)を盾にとって反対した。
 しかし大統領はプラグマティストらしく、誇り高き海軍が拒絶できない提案をした。アナポリスの方で代表選手を選んで山下と戦わせてみればいいじゃないか、というのだ。代表はすぐ決まった。32歳の海軍大尉ジョージ・グラントが選ばれた。彼は6フィート9インチ(2メートル)で320ポンド(145kg)だった。
 対する山下義韶は41歳、5フィート7インチ(170cm)、150ポンド(68kg)である。観客から失笑が漏れた。日本人がかわいそうじゃないか。グラントにのしかかられたらつぶれてしまうぞ。
 グラントも同じ考えだった。彼は山下に向けて突進したが、柔道の投げをくらって仰向けに倒れた。山下はすぐにチョークに入った。
 西洋式レスリングではチョークは反則なので、グラントはどう防げばよいか分からない。しばらくもがいたが、賢明にもすぐにタップした。
 試合は2分でケリがついた。アナポリス側としては、恐れ入りましたと言うほかなかった。しかし海軍も優れたものが実証されれば納得する。年俸4000ドルで山下義韶を海軍兵学校の格闘技教官に雇うことにした。当時としては大変な高給で閣僚級のサラリーだった。

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(山下義韶と筆の夫婦と米国人の弟子)

 ノリ・ブナサワとジョン・マレー共著の前田光世伝『The Toughest Man That Ever Lived 世界最強の男』の42-43頁です。山下義韶の成功を受けて、嘉納治五郎は第二陣として富田常次郎と前田光世たちを米国に派遣した(この話はまた)。
 

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2009年12月18日 (金)

センセーショナルな文学? (3)

「これはなかなか大変な事件だよ。僕は弁護士ジョン・ガリデブ氏の正体を突き止めた。誰あろう『殺し屋エヴァンズ』なのだ。極めつきの大凶状持ちだよ」
「と言われても僕には分からんが」
「ああ、ニューゲイト・カレンダーを覚え込んでおくのは君の商売じゃないね。……」

 しかしホームズの商売には、ニューゲイト・カレンダーは不可欠だった。
 The Newgate Calendarは、ロンドンのニューゲイト監獄における死刑執行の記録をもとに編集した「大犯罪者列伝」である。

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(ニューゲイト監獄前における死刑執行)

 有名な大悪党の行状とその処刑までを詳しく語り、挿絵を添えた。1774年に全5巻の「第一次総集編」が出版され、1824年と1826年に続編が出た。
 
 ニューゲイト・カレンダーの本文は、気持ちが悪いので私は読んでいないけれども、先進国イギリスの犯罪者はさすがにすごく、日本などとは比べものにならないようだ。
 
Newtp http://tarlton.law.utexas.edu/lpop/etext/newgate/newtp1.htm

 目次の一部を見てみよう。第1巻37頁からは17世紀初めジェームズ一世の治世に処刑されたソーニー・ビーンを取り上げている。彼はスコットランドの洞窟に妻、子、孫など48人とともに住み、1000人以上を殺して食べていたという。

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(洞窟の前に立つソーニー・ビーン。妻らしき女性が左手に人間の脚を持っている)

   このニューゲイト・カレンダーは日本語で読める。この翻訳は大変な仕事だったと思う。訳者の藤本隆康氏は語学ができて神経が丈夫な人なのだろう。

 ホームズは外国の犯罪にも通暁していた。ドイツ語とフランス語は堪能なので(ゲーテやフローベールを原文で引用している。しかし「文学の知識ゼロ」のはずだけれどなあ)、独仏の犯罪実録も書架に常備していたに違いない。だから、グルーナー男爵やブルヴァールの暗殺者ユレなどにも十分対抗できたのだ。

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センセーショナルな文学? (2)

 Knowledge of Sensational Literatureを正しく訳しているのは、私の知る限り、創元推理文庫の阿部知二訳だけだ。

九、異常事件の文献にかんする知識――該博、とくに今世紀におこった恐ろしい犯罪についてすべて詳細に知るもののようである。

  ホームズ曰く。
「理想的な探偵に必要な資質が三つあるが、彼はそのうちの二つを備えている。観察力と推理力はある。ただ知識が足らないだけだが、これはそのうちに身につくだろう」

 フランスの探偵フランソワ・ル・ヴィラールをこう評したのだった。知識が大切というが、何の知識か?

「事件は遺言に関わるもので、なかなか面白いところがあった。僕は彼によく似た事件を二つ教えてやった。一つは1857年のリガの事件、もう一つは1871年にセントルイスで起きたものだ。この二つをヒントに彼は正しい結論に辿り着いたのだよ」

 過去の事件の知識があれば、歴史は繰り返すので、新しい事件も「ああ、あれと同じだな」と分かることが多い。事件は「凶悪犯罪」事件に限らない。次は何の事件でしょうか?

「僕はよく似た事件をいくつか記録してある。もっとも、前に言ったように、これほどの急展開は初めてだが。調べてみると推測が確信に変わった。状況証拠が確証に近いこともある。特にソローの言葉を借りれば、牛乳に鱒が一匹入っていたなどという場合は」
「しかし君の聞いたことは僕も聞いたのだぜ」
「しかし君は古い事件を知らない。僕にはそれが前例としてずいぶん役に立つのだが。何年か前にアバディーンでよく似た例があったし、普仏戦争の翌年にミュンヘンでそっくりのがあった。……」

 もちろん『独身貴族』の事件であって、このときは犯罪は起こらなかった。
 しかし、過去の凶悪犯罪の詳細を知っておくことは、諮問探偵として絶対に必要なことだ。犯罪相互間にはfamily resemblanceがある、とホームズはヴィトゲンシュタインと同じ言葉使いをしている。だから彼は「異常事件の文献」をよく読んでいた。
 たとえば何という文献を読んだか? ホームズ自身が自分はこれだけは読んでいるという意味のことを述べている。

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2009年12月17日 (木)

センセーショナルな文学?(1)

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Sherlock Holmes -- his limits
1. Knowledge of Literature. -- Nil.
2. Knowledge of Philosophy. -- Nil.
3. Knowledge of Astronomy. -- Nil.
…………
9. Knowledge of Sensational Literature. -- Immense. He appears to know every detail of every horror perpetrated in the century.
…………

シャーロック・ホームズの特異点
一、文学の知識――ゼロ
二、哲学の知識――ゼロ
三、天文学の知識――ゼロ
…………
九、通俗文学の知識――該博。今世紀に起きた恐るべき犯罪はすべて詳細に知っている。
……
(『緋色の研究』延原謙訳)

 1881年(明治14年)、ワトソンはたまたま同居人となったシャーロック・ホームズという男が地動説や太陽系のことも知らないのにびっくりして、彼の知識の限界を確定しようと一覧表を作ってみた。
 しかし「通俗文学」とは何だろうか? この訳語を光文社文庫の新訳も踏襲しているが。

九、通俗文学の知識――幅広い。今世紀に起きたすべての凶悪犯罪事件に精通しているらしい。
(日暮雅通訳)

 数年後のストランド・マガジンにThe Scandal of Bohemiaという短編が載ることになる。これは「通俗文学」か?
 通俗文学の反対は「純文学」か? 
 英語ではpure literature?  これは辞書に書いてあるけれども、ちょっと怪しい。グーグルでフレーズ検索してみると(世界中にアンケートを取るようなものだ)、この英語は日本の「純文学」の訳語専用に近いようだ。
 英語では芥川賞向きか直木賞向きかなんて区別はせずに、単にLiteratureというのではないだろうか? 区別したければ通俗文学はpopular literatureくらいでしょう。
 英語でどう言うかはひとまず措くとしても、「文学の知識はゼロ」と断定しておいて「通俗文学の知識は該博」はおかしいでしょう。「文学」は高級文学、低級文学、純文学、通俗文学など全部含むはずだ。
「今世紀に起きたすべての凶悪犯罪事件に精通」するために読むべきは通俗文学(犯罪小説など?)ではない。

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2009年12月15日 (火)

アメリカにおける山下義韶(3)

「コングラチュレーションズ、プロフェッサー・ヤマシタ」
 ルーズベルトは、そう言いながらにこやかに笑って、ホワイトハウスの仮設道場に現れた柔道師範、山下義韶六段(四十歳)の手を何度も強く握りしめた。
(ライオンの夢p.63)

Theodore

 これは1905年(明治38年)5月28日のことだった。大統領は、前日27日の早朝に始まった日本海海戦が日本の圧勝に終わったという知らせを受けたのだ。
 山下義韶は前年1904年(明治37年)の3月にセオドール・ルーズベルト大統領に紹介されて柔術を教え始めた。1905年1月からは、アナポリスの海軍兵学校で柔術を教えた。再び『ライオンの夢』を引用すると

……アナポリスは柔道を正課として採用し、山下は二年契約、年俸四千ドルで兵学校の教員として迎えられる。当時の為替レートは一ドル=二円弱。日本の海軍中尉の年俸が約四百円程度だったというから、四千ドル=八千円弱は途方もない高給だった。折からの日露戦争勝利の報にも重なって、山下柔道はますますアメリカ中で輝いていくことになった。
(p.77)

 柔道/柔術がアメリカやイギリスだけでなく世界中でもてはやされたのは、山下義韶、前田光世、谷幸雄などが強かったからだが、日露戦争(1904年2月6日-1905年9月5日)の影響も大きかった。

『ライオンの夢』で神山典士氏は「柔道」と書いているが、先に見たようにアメリカでは「プロフェッサー・ヤマシタ」は「柔術」の教師であると報じられていた。柔術がすでにかなり知られていたので、山下義韶もわざわざ「いや、違います。柔道です」と訂正する必要を認めなかったようだ。これは1904年末に渡米した前田光世の場合も同じであった。
 ラフカディオ・ハーンの『東の国から Out of the East』(1895)にはJIUJUTSUという一章がある。

 すでに1880年代から、移民として渡米した柔術家がプロレスラーと戦っていたようだ。(これについてはまた)

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2009年12月14日 (月)

身長について(4)

 福沢諭吉について調べてみると、意外なことがずいぶん多い。びつくりする。
 たとへば彼の身長は一七三センチ、体重は六七・五キロ。当時の日本人の体格から見ると、大男である。(丸谷才一)

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 確かに大きいですね。右側の学生は150センチあるかないかというくらいだろう。
 福沢諭吉は1834年に生まれている。学生は明治になってからの生まれだろう。これで当時としては小人(こびと)というほどでもなかったらしい。

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2009年12月12日 (土)

アメリカにおける山下義韶(2)

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(山下義韶と妻山下筆、1904年ごろ)

ニューヨーク・タイムズ紙1904年(明治37年)12月29日(木)

 アナポリス海軍兵学校におけるJiu Jitsu (柔術)
 
新方式の教師、山下、兵学校に着任

メリーランド州アナポリス。12月28日――海軍兵学校で柔術を教えるY・山下は、本日、日本大使館海軍武官の竹下勇中佐に伴われて当地に着いた。山下は竹下中佐を通じて任用された。この新たな攻撃防御の方法は、来月初めから兵学校の体育授業の一部として取り入れられる。

ニューヨーク・タイムズ紙1904年(明治37年)12月31日(土)

 大統領、柔術を試す
日本人の専門家に偉い弟子
 アナポリス兵学校での授業

ワシントン。12月30日――日本の山下教授は、本日、日本大使館海軍武官の竹下中佐によって大統領に紹介された。山下教授はハーバード大学でも柔術の授業を行っているが、数週間前にすでに大統領に会っており、現在運動家の注目を集めているこの技術(science)について何度かレッスンをした模様である。大統領の柔術の腕前については教授は言明を避けたが、偉い弟子を誇りに思っていることは明らかである。
 山下教授はモートン海軍省長官をも訪問し、兵学校生徒に対する柔術の訓練について話し合った。この技術をアナポリスに導入する取り決めがなされ、今回山下教授が任用されたものである。任務の詳細については、山下教授が明日モートン長官および兵学校校長のブロンソン大佐と協議する。

 アメリカにおける山下義韶
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6168.html
 では、三種類の記述を挙げたが、そのうち英語版ウィキペディアが上記のニューヨーク・タイムズ記事に矛盾せず、一番正確であるらしいことが分かる。
   ニューヨーク・タイムズ12月31日付けの記事では、山下が30日に大統領に紹介されたが、数週間前にすでに会っている――としているが、3月にすでに紹介されていることを同紙は知らなかったものと見える。
   山下対ジョージ・グラントの対戦は1904年3月に行われたものであろう。

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2009年12月11日 (金)

身長について(3)

 夏目漱石は身長158cm、森鴎外は161cm。これは私がこのブログに書いている。白状すると、どこかで(インターネットではなく活字で)読んだうろ覚えを確かめずに書いたのです。
 伊藤整の『日本文壇史』に作家の身長が一々書いてあるという。興味がある人は確かめて下さい。

 三島由紀夫の身長は163cm。これは死体検案書の引用をインターネット上で確かに見た覚えがある。Hugo Strikes Back! という素晴らしいサイトがあって、ここからリンクを辿って行き着いた。ところがHugoさんのサイトが消え、検案書も消えている。三島由紀夫 死体検案書 で検索すると、私の「至近距離で見た有名人(1)三島由紀夫」
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/1__ce51.html
がトップに来る。
 三島由紀夫の身長は、死体検案書では163cm、河出書房編集者によれば162cm、丸谷才一氏の印象では161cm。
 私の印象ではもっと低かった。173cmの私が1メートルの距離から見て「自分より二回りばかり小さい」という感じ。160cm未満だろうと思った。想像より小さいのでびっくりして実際より低く見積もったのだろう。
 1970年に45歳で163cmならば別に小男ではない。みんなが「三島さんは小さかった」と言うのは、「大作家」にしては、ということでしょう。

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2009年12月10日 (木)

身長について(2)

 西郷隆盛の五尺九寸も二十九貫も目分量に決まっている。

「西郷どんは大きいなあ。六尺あるだろうか?」
「うーむ、六尺はなかろう。九寸かな」
「それくらいだろう」

Pkmzyrjs

 という具合に、崇拝者たちがご本人のいないところでうわさしたのだ。体重も同じでしょう。西郷さんが身長を測ったり体重計に乗ったりはしないと思う。
 グーグルの検索窓に入力すると
 
5尺 9寸 = 1.78787879 メートル
29貫 = 108.75 キログラム

 と出る。だからといって、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgはいけません。
 そもそもむかしの人は身長体重をそんなに正確に知る必要はなかったはずだ。四捨五入して「五尺の体」というくらいだ。体重も1貫=3.75kgという大まかな単位を用いた。
 我々は自分の身長をセンチ単位で把握している。これは中学や高校を卒業するまで毎年1度は身体検査があるからだ。
 明治維新後かなり早い時点で、徴兵を視野に入れて学校での身体検査が始まったのだろう。兵士としては身長五尺(151.5cm)は欲しい。明治十三年式村田銃は全長130cm、銃剣をつけると170cm以上になったから、あまり小さい兵隊では困る。しかし徴兵検査をしてみると五尺に足りない男がかなりいたらしい。日露戦争では、徴兵基準を5尺から150cmに引き下げたくらいだ。(日露戦争の主力装備の三十年式歩兵銃は村田銃より短く軽かった。この銃を改良したのが大東亜戦争まで使われた三八銃だ。)

 相撲取は身長体重を正確に計った。栃若時代まで五尺何寸何分、二十何貫という表示だった。これを換算すると若乃花は179cm、栃錦は177cmという具合になる。センチ未満はもちろん四捨五入。

 西郷隆盛については

丈が高くて百八十センチくらゐはあつたといふ。

 といふ具合に書くべきでせう。

 谷幸雄について、英語の資料に「体重は9ストーン」と書いてあったので、これを柔道か柔術か(13)では、57.15kgと換算してしまった。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/13_5b63.html
 これはよろしくない。辞書によれば「体重のときは1ストーンは通例14ポンド(6.35kg)」だ。日本の貫以上に大まかな単位を用いるのは、だいたいどれくらいかが分かればよろしい、ということでしょう。
 ウィキペディアの「谷幸雄」の項目を書いた人が「身長160cm未満、体重は60kg未満」としたのは賢明だ。

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2009年12月 9日 (水)

身長について(1)

……たとへば西郷隆盛の身長は一七八・八センチで、体重は一〇八・七五キロであつた。これは先々代若乃花の身長と体重にほぼ近い。このことは前にも書いた(『青い雨傘』所収)。
 夏目漱石の身長・体重はわかりませんね。森鴎外も不明。
 三島由紀夫は、これは体重はわからないが、身長ならわかる。
 自称によれば一六五センチですが、実は一六二センチであつたといふ藤田三男さんの証言があります。藤田さんは河出書房の元編集者。でも、わたしがどこかの劇場ですれ違つたときの印象で言へば、一六一センチくらゐだつたなあ。あれぢや権力意志が高まつて、自衛隊に突入したくなるよ。(『人形のBWH』p.197)

 丸谷才一の最新エッセイ集におさめる「ロンメル戦記」の一節。「砂漠の狐」と呼ばれたドイツのエルヴィン・ロンメル将軍(1891-1944)の戦記のことだけれど、わずか数行の間にも西郷隆盛から三島由紀夫まで話があちこちに飛ぶのが丸谷流だ。
 西郷隆盛の身長体重については、たしかに『青い雨傘』に書いてあった。

 史料によれば、西郷隆盛は、身長五尺九寸、体重二十九貫ですね。これを換算して、現代の力士と比較してみます。……

(換算すると、五尺九寸=178.8cm、二十九貫=108.75kgになるらしい。先々代若乃花が179cm、105kgであった。)

Mrt0812201246001p1

……つまりおほよそのところ、若乃花(先々代)すなはち前双子山親方くらゐだつたと思へばいいわけです。おや、小兵ぢやないか、などと言ふなかれ。幕末から維新にかけての日本人は今よりもずつと丈が低かつたから、当時としては西郷はものすごい巨漢だつたでせう。威風あたりを払ふものがあつたに相違ない。

 しかし、西郷隆盛が178.8cm、108.75kgというのはどんなものでしょう? 丸谷才一とも思えない。上手の手から水が漏れたか? 
 西郷隆盛が身長と体重の測定を受けたか? 相撲取や学生じゃないんだから、そんなことはしない。
「西郷さん、あんたの身長と体重はどれくらいかな?」
なんて、失礼なことは勝海舟だって聞けなかったでしょう。

Katsusaigou

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2009年12月 7日 (月)

樹木崇拝の起源(2)

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 日本では現在も樹木は生命力の象徴として尊ばれ崇拝されている。
 しかし、キリスト教は、クリスマス・ツリーを許容するくらいを限度として、樹木崇拝を異教として退けている。
 たとえば、ドイツにキリスト教を伝えた聖ボニファティウス(672頃-754)は樹木崇拝に反対したことで知られている。

 ボニファティウスは672年ごろ、ウェセックス王国(現在のイングランド)に生まれた。本名はウィンフリードといった。ウィンフリードは719年に教皇グレゴリウス2世からボニファティウス(善行をなす者)の名を与えられ、フランク王国での布教にあたった。以下ウィキペディアを引用する。

 723年、ボニファティウスはガイスマー村(Geismar、現ヘッセン州北部のフリッツラー)にあったトールへ捧げられた聖なるオークを切り倒した。この際、預言者エリヤを念頭におき、もしこの木が「聖なる」ものであるならば自らに雷を落とせとトールに呼びかけたという。ボニファティウスの同時代人で、その最初の伝記記者となった聖ウィリボールドによれば、ボニファティウスがオークの古木を切り始めると、まるで奇跡のように突然大風が起こり、オークをなぎ倒したという。トールの雷がボニファティウスに落ちなかったのを見て、人々はキリスト教へと改宗した。ボニファティウスはこの地にこの木から礼拝堂を建て、現在ではここにフリッツラー司教座聖堂が建つ。

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 ボニファティウスはオークの大木を切り倒して見せて、異教の神トールがキリスト教の前には無力であることを示したのである。キリスト教はもともと砂漠の宗教であるから、木を切って自然破壊をすることなど平気だったのだろう。
 トール(Thor)は北欧神話の雷神で、英語読みではソアである。正典に『ソア橋 The Problem of Thor Bridge』がある。

『樹木崇拝の起源』は、これより前の時代を扱ったものであるから、よほどの珍本だろう。老人は後でワトソンの診察室を訪ねてきたが、ほかにBritish Birds, Catullus, The Holy Warなどという稀覯本を持っていて、売りつけようとしたのだった。ところが……

 ここまで書いて念のためにグーグルで検索してみたら、国立国会図書館の雑誌記事索引が見つかった。面白そうですね。real titleというのは、「樹木崇拝の起源」とは真っ赤な偽り、実は別のタイトルだったという話かな? どんな物凄い本だったのか?http://opac.ndl.go.jp/articleid/9743966/jpn

記事情報 雑誌記事索引(1/1件目)

論題   「樹木崇拝の起源」--老人の所持していた書物は何か?
他言語論題   The real title of the book which the elderly man had
著者   吉岡 正和(ヨシオカ マサカズ)
     
請求記号   Z71-B435
雑誌名   ホームズの世界
  The world of Holmes
出版者・編者   日本シャーロック・ホームズ・クラブ / 日本シャーロック・ホームズ・クラブ 編
巻号・年月日   (通号 31) [2008]
ページ   61~68
     
本文の言語コード   jpn: 日本語
記事登録ID   9743966
雑誌記事ID   747572300

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2009年12月 5日 (土)

樹木崇拝の起源(1)

 1894年(明治27年)3月30日の夜、伯爵令息ロナルド・アデアがきわめて異常かつ不可解な状況で殺害された事件は、ロンドン中の関心をかきたて上流社会を震撼せしめた。
 それから数日後の夕方、往診を終えたジョン・H・ワトソンは、「この事件はさっぱり分からん。ホームズが生きていたらなあ」などと考えながら、パークレインのアデア家を見物に行った。
 家の前は野次馬でごった返していた。彼らは背の高い男(私服刑事らしい)が事件についてトンデモ説を述べ立てるのに聞き入っている。ワトソンはうんざりして踵を返そうとしたが、後ろに立っていた老人にぶつかって彼の抱えている本を落としてしまった。

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「これは失礼いたしました」と拾って返した本の中に『樹木崇拝の起源The Origin of Tree Worship』という題名の一冊があったのが妙に印象に残った。
 それからどうなったかは、ワトソン自身が『空き家の冒険』という題で記録している。

 樹木崇拝は、日本では特別珍しいことではないので、特にその起源を主題とした本などないだろう。

Hkibunep1040205_7

 国立国会図書館目録http://opac.ndl.go.jp/Processで、タイトル欄に樹木崇拝と入力してみると

 和図書 1-1(1件) 
   1.  フランス小説に描かれた花と樹木 / 加来一丸. -- 大学生協京都事業連合ブックプリントセンター, 2000.4 

 と出る。クリックすると書誌情報が出る。

 請求記号     KR84-H23 
タイトル     フランス小説に描かれた花と樹木 
タイトルよみ     フランス ショウセツ ニ エガカレタ ハナ ト ジュモク 
責任表示     加来一丸著 
出版地     京都 
出版者     大学生協京都事業連合ブックプリントセンター∥ダイガク セイキョウ キョウト ジギョウ レンゴウ ブック プリント センター 
出版年     2000.4 
形態     183p ; 21cm 
注記     表紙の出版者:花空書房 
内容細目     スタンダールの樹木崇拝 
内容細目     幻視者バルザックの花束・風景 
内容細目     ジョルジュ・サンドの《田園小説》を読む 
内容細目     回想の詩人ウジェーヌ・フロマンタンの風景画 
内容細目     プルーストの花と樹木 
(以下省略)

「スタンダールの樹木崇拝」とは何だろうか。面白そうだ。しかし西洋で樹木崇拝の起源といえば、もっと古い話になるはずだ。

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2009年12月 4日 (金)

英語を学べばバカになる(4)

 タイムやニューズウィークを読むために勉強している人の例。アマゾンのブックレビューをコピーしておいたのだけれど、肝心の「どの本のレビューか」が分からなくなってしまった。ともかく、たくさんある「タイムを読むための英語教室」というような本の読者レビューです。

(以下引用)
この本には参った。評者はTIMEやNewsweek、その他の数多くの英文記事を20年以上読んできた者として、告白しなければならない。実は英文記事を100パーセントは理解していなかった。理解していなかったことすら気づかなかった。多少速く読めることで勝手に満足していたのだ。
この本を読んで、その自己満足が打ち砕かれた。そして強力な知識を身に付けた。とくに役に立ったのは9章「前提と焦点」、10章「有意志・無意志」、11章「中間命題」。とりわけ11章の「中間命題」には、目からうろこが全部落ちてしまった。だからNewsweekには、AndであるべきところがButになっている英文があったのか。
もしこの本を手に取ることがなかったらと思うと、ぞっとする。TIMEやNewsweekの英語を心の底から理解したい人は、必ず読むべきだろう。とくに自己満足気味の上級者に薦めたい。(引用終わり)

 どうですか。「英語を学べばバカになる」が正しいことがお分かりになったでしょう。
「理解していなかった」英語を20年以上も読み続けたのだそうだ。分からなければ読むな。
 TIMEやNewsweekの英語を心の底から理解したい? 週刊誌を「心の底から」理解してどうする。アメリカ人なら、ニューヨークの場所を知らなくてもタイムやニューズウィークは完全に理解する。日本人が日本語の雑誌を理解するのと同じだ。そういうものを「前提と焦点」「有意志・無意志」「中間命題」などで武装して読めというのか。
 グローバル馬鹿もここに極まれり。
 英語の「学び方」を間違えるとバカになるのだ。
 正しい学び方? 少なくともバカにならない学び方は、あるでしょう。読む値打ちのあるものを読めばよいのだ。

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2009年12月 3日 (木)

英語を学べばバカになる(3)

 タイムを読んでみることにして、図書館で適当にバックナンバーを借りてきた。

Time_aug102009

 今年8月の時点で「中国は世界を救えるか?」が特集とはどういうセンスかね。私はたとえば三橋貴明氏などの方を信用するけれどなあ。

 まあ、読んでみるか。18頁からChina Flies Highという特集がある。上海の摩天楼の写真付きだ。書き出しは

On a steamy saturday afternoon just outside Shanghai, Zhang Yi is in a blessedly cool General Motors showroom, kicking the tires of the company’s newer models. He’s not there to beat the heat. He drives a small Volkswagen now and wants to upgrade. A middle manager at a state-owned steel company, Zhang has no worries about his job or China’s economy. “Things are still pretty good,” he says. “I have no problem now affording one of these,” nodding toward the array of gleaming new Buicks nearby.

 Zhang Yi(漢字?)という人がどうこうしたという書き出しは、タイムのような雑誌の常套手段だ。日本を扱った記事なら「食品会社に勤めるサラリーマンのヤマグチ・トクゴローは……」というように書く。ヒューマンインタレスト? しかし下品だ。
 英語がまずい。私が編集長なら少なくとも1箇所は書き直させる。just outside Shanghaiとは何だ。仮にjust outside Tokyoと書いてあったらどうだ? 「それはどこだ。そんな曖昧な書き方があるか」と誰でも言うだろう。上海のことは読者がよく知らないからこれで通ると思っているのかな。次の段落

There aren’t a lot of places in the world these days where consumers speak with that kind of confidence. With the U.S., Japan and all of Europe mired in the worst global recession in 30 years, China has shown a restorative strength that six months ago many doubted it had. A devastating slump in exports crippled growth late last year, but on the back of a $586 billion government stimulus program――about 13% of GDP, spread over two years ? China has snapped back. The economy grew 7.9% in the second quarter and will now probably expand 8% or more this year. Evidence of increasing momentum appears almost every day. Factory production has begun to edge up, in part because Chinese consumers continue to spend money at a healthy pace. Auto sales, helped significantly by government subsidies for small-car purchases, hit an all-time record in April and will easily surpass those in the U.S. this year. Overall, retail sales in China this year are up 16%.

 どうも問題だね。8パーセント成長は怪しい。そもそも約56兆円(=$586 billion)の景気刺激策なるものが怪しい、という見方があるのに、知らんぷりをするのか。

    この2段落はChina Digital Times
http://chinadigitaltimes.net/2009/08/bill-powell-can-china-save-the-world/
に引用してあるのをコピーした。
 中国はタイムがこういう記事を書いてくれたのを大いに徳としているようだ。「中国はいつ崩壊するか?」などと書かれてはますます外資が逃げてしまう。アメリカ側にも思惑があって、「持ちつ持たれつ」だろう。
 こういうもので英語を学べばバカになることは間違いない。
 ところが驚いたことに、こういうのを一生懸命勉強する人がたくさんいるらしい。

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2009年12月 2日 (水)

英語を学べばバカになる(2)

(1)駅前またはその他の場所にある英会話学校に通う。
(2)TOEFULやTOEICの点数を上げるために問題集などで勉強する。
(3)タイムやニューズウィークを読めるようになるために一生懸命勉強する。

「英語を学べばバカになる」が当てはまる学び方の代表が上の三つです。一応は学習なのだから、(1)(2)(3)などの活動自体に「頭脳劣化作用」が内在するわけではない。しかし、こういうことをしていると確実にバカになります。
 このうちでは(3)が一番高級そうに見えるのかな?
 しかし、週刊誌を読むために勉強する?
 アメリカ人に日本語を教えるとして、週刊朝日や週刊文春を読ませますか? 
 アメリカの大学院で日本語を学んだくらいでは、週刊誌は読みこなせない。知らない単語が頻出するし、何より固有名詞が厄介だ。
「長嶋茂雄は読売巨人軍の三塁手だった」「工藤静香と荒川静香は女で亀井静香は男だ」「キムタクは金という韓流スターではない」なんて情報を知らないと、よほど語学力があってもチンプンカンプンだ。
 それなら読むな。
 せっかく勉強するのだったら、夏目漱石や小林秀雄や丸山眞男や柄谷行人などを読め。村上春樹を読むのもよい。
 英語の勉強だって同じでしょう。
 タイムやニューズウィークなどは、日本の週刊誌より高級だ、と言われるか?
 そんなことは断じてない。低級だ。読めないから高級みたいに思うだけなのだ。
 タイムは何百万部も売れていて、沢山のアメリカ人が読んでいる。ところが「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」(町山智浩)のですよ。

 町山氏の本から引用する。
(琥珀色の戯言http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20081126 をコピーさせてもらった。)
 
「バイブルベルト」とはアメリカ南部から西部にかけて広がるキリスト教信仰の篤い地域。………車から降りずに礼拝ができる「ドライブスルー教会」、ハンバーガー屋の駐車場にチューンナップしたアメ車が集まる「ホットロッド教会」、二つに分かれた紅海やゴルゴダの丘でパターを決める「ミニチュア・ゴルフ教会」、「カウボーイ教会」、「スケボー教会」。ディズニーワールドの近所には聖書遊園地「ホーリーランド」がある。
 伝道師もアメリカンだ。「キリストをパーティに呼ぼう。水をワインに変えてくれるよ」とつまらんアメリカンジョークが売りの「コメディアン伝道師」、逆エビ固めを受けながら「キリストが十字架にかけられた痛みに比べればこんなもの!」と叫ぶ「プロレス伝道師」、「ハートブレイクは神が癒すぜ」と歌う「エルヴィスそっくり伝道師」。
 笑ってばかりいられない。バイブルベルトのフリーウェイ沿いには、こんなメッセージを書いた看板が並んでいる。
「聖書以外を信じるな」
「進化論は悪魔の嘘」
「中絶は殺人」
「ゲイは地獄に行く」
 バイブルベルトには、「福音派」が多く住む。彼らは'80年代以降、急激に政治活動に右傾化し、穏健な地元教会を捨て、TV伝道師の下に統合されていった。3000万の信者を抱えるNAE(全米福音派教会)は、コロラドに2万人収容のメガチャーチ(巨大教会)を持ち、バンドやレーザー光線を駆使したその礼拝はロック・コンサートそのもの。「ゲイは聖書に反する行為だ」と説くNAEの総帥テッド・ハガード牧師は「聖書に従う者の性生活は最高ですよ」と胸を張る。
 福音派は自分の子どもを通常の学校に行かせない。科学を教えられたくないからだ。代わりに福音派だけの大学を作り、聖書に基づく教育システムを作っている。
「この大学の目的はアメリカをキリスト教徒の手に取り戻す戦争の兵隊を養成することだ」福音派大学の創始者ジェリー・フォルウェル牧師はそう語る。「我々福音派は全米の人口の3分の1ほどだが、この国を動かしている」。彼らはバイブルベルトの州では多数派で、78%が投票に行く。「議会を共和党に支配させ、ブッシュを大統領にしたのは我々だ。その力を次はヒラリーに思い知らせてやる」フォルウェルは胸を張る。

「福音派は全米の人口の3分の1」もいるのだ。残りの3分の2の程度も知れるじゃないか。
 ともかく町山氏の本を読んでみて下さい。ほかにも「いかにアホか」の例がたくさんあります。
 こういうアメリカ人が読む週刊誌が高級のはずがない。
 実際に読んでみたか? 読んでみた。やはり低級だ。

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2009年12月 1日 (火)

日本人か西洋人か

 余談だが、かれが日露戦争後、ロシアのコサック騎兵の大集団をやぶったことで世界の兵学界の研究対象になり、多くの外国武官が日本に見学にやってきた。その武官のなかには、
「日本の騎兵がコサックをやぶれるはずがない。おそらく西洋人の顧問がいるのだろう」
 そううたがう者があり、彼らが千葉の陸軍騎兵学校にゆくと、果たしてそれを見た。そこにいた秋山好古である。好古の顔をみて
「やはり、西洋人がいた」
と、かれらはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという。

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 秋山好古の若いころの写真。確かに日本人には見えない。
 日本人なのに西洋人のように見える顔はあるものだ。たとえば

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