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2010年1月31日 (日)

ふれあい

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車内でもふれあいを励行しよう。

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さわりあい会館も活用しよう。

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2010年1月30日 (土)

小沢一郎の金脈

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週刊現代2009年1月31日号

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2010年1月29日 (金)

ガンジーのターバン

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 モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(1869-1948)は、1893年23歳のときから南アフリカで弁護士として働いた。初めのうちはアラブ人の真似をしてターバンをかぶっていた。
 1915年46歳のときにインドに帰国した。

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2010年1月28日 (木)

コナン・ドイル、ゴルフをする

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 アメリカで初めてゴルフをしたのはコナン・ドイルらしい。
 1894年、コナン・ドイルはアメリカに講演旅行に行った。彼はヴァーモントにラドヤード・キップリング夫妻を訪ねて一泊した。

 私はクラブを持って行ったので、キップリングにゴルフを教えた。ニューイングランドの田舎者どもは遠巻きにして眺めていた。何だか変なことをしていると思ったようだ。当時アメリカではゴルフは知られていなかったのだ。ともかく、キップリングとは親しくなった。この訪問はアメリカどさ回り中のオアシスであった。(The visit was an oasis in my dreary pilgrimage as a lecturer.)
(ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝より)

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2010年1月27日 (水)

フリースタイル・レスリングの歴史

 英連邦アマチュア・レスリング協会のウェブサイトで、「フリースタイル・レスリングの歴史」を見てみよう。
http://groups.msn.com/CommonwealthWrestling/historyofwrestling2 
 このサイトを訳してみる。(柔道か柔術か(59)から(69)の再録。ただし上記英文サイトは消滅した。
移転先:
http://commonwealthawa.multiply.com/journal/item/67
http://commonwealthawa.multiply.com/journal/item/68/HISTORY_OF_WRESTLING_-_Free-Style_-_page_2

15世紀から21世紀のフリースタイル・レスリング

 国際式フリースタイル・レスリングの歴史はグレコローマンの歴史より複雑である。フリースタイルは特に珍しいスポーツではないので、世界中に同様のレスリングがある。その中でもよく知られているものを挙げれば、北インドとパキスタンのプシュティ、トルコの三種類のペールヴァンラー・グレ(英雄的レスリング)、イランのクシティまたはパーラヴァニ・レスリング、オーストリアのザルツブルグ近辺のラングレン、スイスのシュヴィンゲンなどがあり、インドシナにもいくつかよく似たレスリングがある。しかし、近代オリンピックのフリースタイルはイングランド北西部が起源である。

 ランカシャー・レスリング、すなわちキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(これがフリースタイルの正しい呼び方である)は、ランカシャー中で村祭りの呼び物として、パーリング(脛を蹴り合うスポーツ)と人気を競っていた。
 ランカシャー北部では、バックホールド・レスリングの方が人気があった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはランカシャーの中部と南部で、イングランド全体で中世からひろく行われた着衣(ジャケット)レスリングから発達したものと思われる。

 ランカシャーのレスリングを表したもの最古のものは、Halsall教会の特免室(ミゼリコルド)にある浮き彫りで、15世紀にさかのぼる。二人の男はいずれもパンツと腰の周りにベルトを締めている。互いに右四つに組んで、右手で相手のベルト、左手で相手の(パンツの)左腿のあたりを掴んでいる。シンクレア氏は『ウィガンの歴史』で、1570年ごろにはレスリングの際に特別のきついジャージーかジャケットを着ることになっていたが、「下層階級はそういうものをあつらえる余裕がなく、ふつうはパンツだけはいて裸でレスリングした」と書いている。

寝技 Ground Work (フランス語ではPar Terre)
 
(タッチフォールではなく)ピンフォールという考え方は、初期のグレコローマンやその他の未発達のレスリング・スタイルで、敗者の肩がきちんとマットに着いたことを観客に確認させるために生まれたのであろう。

 ヨーロッパの多くの国でキャッチ・レスリングあるいはフランス語でle catchという言葉は「見世物としてのニセのレスリング」を指している。
 しかしcatch-as-catch-canという英語はランカシャーの方言で「どこでも掴めるように掴む」というだけの意味である。国際レスリング連盟がキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルの競技会を開催し始めたころには、ルールはフランス語で書かれており、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをフランス語に訳するとlutte libreとなった。これをもう一度英語に訳すると「フリー・レスリング」であり、その結果、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは国際的には「フリースタイル」と呼ばれるようになった。

百科事典は信頼できない

 フリースタイル・レスリングは人工的なレスリングである、と一部アメリカ人は主張し、エンサイクロペディア・ブリタニカにもそう書いてあるが、これは正しくない。国際レスリング連盟の試合ではグレコローマンと同様に(ピンフォールではなく)タッチフォールで勝負をつけるから、フリースタイルは人工的だという主張であるが、これは歴史的に間違っている。プロのレスラーは試合前にルールを契約で決めたのであり、19世紀と20世紀初めの英米の重要な試合の多くはタッチフォールによって勝敗を決めている。アルハンブラ劇場で行われた大きな試合もポイント制を採用し、1908年のロンドン五輪は国際レスリング連盟が結成されるより4年前であったが、タッチフォールを採用している。

国際的発展

 国際的な発展は、1870年、スコットランド人のレスラー兼怪力男のドナルド・ディニー(1837-1916)のアメリカ巡業とともに始まった。ディニーは、グレコローマン、スコットランドのバックホールド、コーンウォール・デボン式(着衣レスリング)、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンなどの各種レスリングの選手たちと巨額の賞金をかけて異種格闘技戦を盛んに行った。当時アメリカではグレコローマンが一番盛んだったが、北東部の州ではイングランドから輸入した各種着衣レスリングも人気があった。このうち「カラー・アンド・エルボー」は、アイルランド起源であるとよく言われるが、それは正しくない。

 イングランドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスラーたちはアメリカを巡業して大きな成功をおさめた。1879年にはエドウィン・ビリー、1881年にはジョゼフ・アクトン、1888年にはトム・キャノンが渡米し、彼らの活動がこのスタイルのレスリングの人気を高めた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、それまでアメリカで行われていた独自の着衣レスリング、コーンウォール・デボン式、グレコローマン式などと比べてはるかに柔軟で活動的だったからだ。アメリカでも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの人気が高まるにつれてその他のスタイルへの関心は薄れて行った。トルコの強豪レスラーたちがフランス巡業を経てアメリカにやってきたことも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに対する一般の関心を高めた。中でもビッグ・ジョゼフとして知られたコカ・ユスフ(1857-1898)は特に有名だった。彼が海難事故で死んだとき、 抜け目のないプロモーターは、ユスフは泳ぎが達者なのにレスリングで獲得した賞金1万ドルの金貨(25kg)を腹帯に入れていたので溺れ死んだのだという話をでっち上げた。

 フランク・ゴッチ (1878-1917)は、アイオワ州に生まれたドイツ移民の子だった。彼はアメリカのスポーツの偶像となっている。彼が二度にわたってジョージ・ハッケンシュミットに勝ったことがきっかけで、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはアメリカで重要なスポーツとなった。第一回の試合は、1908年4月3日にシカゴのデクスターパークで1万人の観客を集めて行われた。 ゴッチが不正行為や反則をしたという主張がなされたが、アメリカのファンにはそんなことはどうでもよかった。大切なのはアメリカ人のチャンピオンが勝ったことだった。
 リターンマッチは1911年9月4日にシカゴのコミスキー球場で行われ3万5千人を集めた。ゴッチの勝利はアメリカ人の琴線に触れた。熱狂的な愛国心がはやった時代に何でもアメリカがベストだという確信を与えたから。フランク・ゴッチは史上最強のレスラーで「世界チャンピオン」だということになった。
 ゴッチのレスリング・キャリアには芳しからざる点もあったのだが、ともかくこの勝利はアイデンティティを求めていた若いアメリカを刺激しレスリング熱が盛んになった。今日レスリングはアメリカで7番目に人気のあるスポーツで、何千という競技者がいる。 ノースダコタ州で開かれるジュニアの(高校生の?)レスリング大会は世界一の規模で、約4千人が参加する。2003年には8日間にわたって23面の国際式マットを使用して7118試合が行われた。地元経済に与える効果は1000万から1200万ドルであるという。

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン

  19世紀を通じて英国は最強の軍事力を誇り、広大な大英帝国内の各地、特にインドでは現地人の兵士が大量に募兵された。これらの現地人兵士が何よりも興味を示したスポーツはレスリングだった。インドでは各地域ごとに少しずつ異なるルールがあった。1937年になって公平な試合を促進するため、英印軍は兵士用の標準キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールを制定した。インドの藩王たちはレスリングを愛好した。多くの藩王がそれぞれ30人ほどのレスラーを抱え、他の藩王のお抱えレスラーと戦わせた。英国軍将校の中にもお抱えレスラーを持ち、巨額の金を賭けて藩王のレスラーと戦わせる者がいた。

英国における発展

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、ランカシャーではずっと人気が高かったが、南部では20世紀初めにはまだ盛んではなかった。それでもミュージックホールに出演して生計を立てるプロはいた。当時一番人気があったのはコーンウォールのジャック・カーキークというプロレスラーで、ロンドンのアルハンブラ劇場に毎晩出演していた。ところが、レスリングへの一般の関心をにわかに高めプロレスの黄金時代を現出することになる事件が起きた。カーキークは常々「世界中のどんなレスラーの挑戦でも受けて立つ」と公言していた。1902年3月2日の夜、客席から正装の男が4人、舞台へ上がってきた。観客を驚かせたのはそのあとから筋骨たくましい金髪の巨人が現れたことであった。誰あろう、グレコローマン世界チャンピオンのジョージ・ハッケンシュミットであった。
 カーキークは前言を翻してハッケンシュミットとの対戦を拒否した。この出来事はたちまち大評判になった。ハッケンシュミットは一躍人気者になり、ミュージックホール・レスリングのブームが起きた。これは第一次大戦の勃発まで続いた。ジョージ・ハッケンシュミットは大金持ちになった。彼が英国に来た当初の稼ぎは週に7ポンドで一般労働者の週給の7倍程度であったが、まもなく週に350ポンドを稼ぐようになった。

世界チャンピオン決定戦

 1904年のセントルイス五輪にはレスリングがあったが、これはフリースタイルだけだった。距離の問題もあり(当時は船旅)、グレコローマンがなかったこともあって、ヨーロッパのレスラーはわざわざ渡米しなかったから、これは実質的には全米選手権だった。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及にとって重要な年は1908年だった。この年、ロンドンで開かれた三大イベントがキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及を促した。まず、2月1日までアルハンブラ劇場で行われた世界チャンピオン決定戦、次にヘングラー・サーカスのトーナメントは5月6日に始まり8週間続いた。それが終わって2週間後にロンドン・オリンピックが開催された。

 イングランドで最も権威のある全国スポーツクラブ(National Sporting Club)は、新聞で「世界チャンピオン」「全英チャンピオン」「連邦チャンピオン」などの称号が乱用されているのを憂慮して、ライト、ミドル、ヘビーの3階級で真の世界チャンピオンを決定することにした。第5代ロンズデール伯爵(1857-1944)が同クラブの会長であり、世界チャンピオン決定戦の役員は(選手はプロだったが)全員アマチュアであった。役員の一人は英国アマチュア・レスリング協会会長のA・H・サザーランドであった。このチャンピオン決定トーナメントは毎年アルハンブラ劇場で開催するものとし、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの正統なチャンピオンを決定するプロのための大会であった。当時ヨーロッパ大陸の諸国はグレコローマンだけでよいと主張していたのである。この大会は当時のテクノロジーの許す限り広範囲に広告され、有力選手には 招待状が出された。しかし、ハッケンシュミット、谷幸雄、スイスのシェルピロなどの有名選手は参加を断った。もし負ければミュージックホール・レスリングでの稼ぎがフイになると考えたからである。

 大きな大会ではよくあることだが、いくつか番狂わせがあった。ライト級で本命だったドイツのピーター・ゴッツ (1887-1944)が減量に失敗したが、ミドル級に出て2位になった。日本の弘前出身のヤマト・マエダ(前田光世1874-1944)はヨーロッパにいる日本人では最強であり、柔道の世界的普及に最も功績があった人物であるが、ミドル級に出てオーストリアのヘンリー・アースリンガーに1ラウンドで負けた。ところが彼はヘビー級にも出て、こちらでは2位になった。
 これは初めてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン国際選手権戦であった。イングランド、スコットランド、アイルランド、オーストリア、ドイツ、イタリー、スイス、日本の8カ国からレスラーが参加した。

成績は次の通り。 (全員がプロレスラー)

ライト級-10ストーン (63.5kgs)
1位 ジャック・キャロル 2位 F・トンゲ 3位 J・ベントレー
ミドル級-12ストーン (76.2kgs)
1位 ジョー・キャロル 2位 ピーター・ゴッツ 3位 H・アースリンガー
ヘビー級
1位 ジミー・エッソン 2位 ヤマト・マエダ(前田光世) 3位 J・ストックリー

 アルハンブラ劇場で行われたこの世界チャンピオン決定戦の5週間後に、ヘングラー・サーカスのトーナメントが行われた。これは8週間続き4重量級に135選手が参加した。このトーナメントの終了後に1908年ロンドン五輪が開催された。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは大成功で、5カ国のレスラーがメダルを獲得した。グレコローマンでメダルを得たのは7カ国のレスラーだった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)のバンタム級で銅メダルを得たカナダのオーベール・コテ選手はカナダ初のメダリストであった。彼は自分の農場を抵当に入れてロンドンまでの旅費を捻出していた。
 大英帝国のアレクサンドラ王妃がホワイトシティ・スタジアムで優勝者にトロフィーを授けたとき、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは遂に国際的なアマチュアスポーツとして認められたのである。
 1908年ロンドン五輪では、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイル・レスリングは次の階級で行われた。

バンタム級 (54kgs)
フェザー級 (60.30kgs)
ライト級 (66.6kgs)
ミドル級(73kgs)
ヘビー級 (73+kgs)

オリンピックでの認知

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイングランドでアマチュアスポーツとして公式に認められたのは1888年にアマチュア体育協会によりオリンピック用のスポーツとして受け入れられて以来である。これは英国オリンピック協会のS・ド・カーシー・ラファンの努力による。彼は1914年のパリの会議でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをオリンピック種目に含めるべく論陣を張った。しかしその数日後に第一次大戦が勃発したのだった。
 英国は1908年ロンドン五輪の成功を以後繰り返すことはできなかった。外国では政治的イデオロギー的理由でアマチュアスポーツの支援を強化し、アマチュアリズムを逸脱するに至っているが、英国の政治家はオリンピックの理想を信じてか超然たる態度を取ってきた。近年ようやく変化に兆しが見えてきたが、もう英国のレスリングは手遅れだろう。レスリングの競技人口は激減し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングのスポーツとしての存続は誕生の地で脅かされている。

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2010年1月26日 (火)

キャッチ・アズ・キャッチ・キャン再論

(1)レスリングのスタイルとしての「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」は、「フリースタイル」の古い言い方に過ぎない。
(2)この点を日本人の多くは誤解している。catch-as-catch-canの語は現在は余り使われないので、英米人でも誤解している者がいる。
(3)20世紀初めの英国では、現在のフリースタイルとほぼ同じレスリングが、プロとアマを問わず「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の名前で行われていた。
(4)1908年には、アマチュアはロンドン五輪で「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」レスリングを行った。
(5)同じ1908年、ロンドンでプロの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン国際選手権大会」が開かれ、前田光世もレスラーとして参加した。この大会は記録があり、現在のフリースタイルとほぼ同じルールだったことは分かっている。
(5)1910年のガマ対ズビスコのプロレスの試合も、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=フリースタイル)だった。(→インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンhttp://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/1-9dc9.html)
(6)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、フォールを奪うことを目的として現在のフリースタイル・レスリングと同じような戦い方をするレスリングだ。
(7)アームロックのような関節技でサブミッションを狙う戦い方は「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」ではなく、より新しい「オールイン」の一部だ。(→オールインについてhttp://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-8e47.html
(8)キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、カール・ゴッチやビル・ロビンソンのレスリングだ――というのはとんでもない誤解だ。

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 というようなことを、本ブログの「格闘技」カテゴリーhttp://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/cat1911706/index.html に書いてきた。
 しかし「柔道か柔術か(1)」
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/1_fced.html は、嘉納治五郎、姿三四郎、夏目漱石という話だったのに、柔道か柔術か(68)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/68-10b1.html まで連載するうちに話は「フリースタイルレスリングの歴史」にまで飛んでしまった。
 自分でもどこに何を書いたか、把握できないくらいだ。

「フリースタイルレスリングの歴史」を一つにまとめたものを次に載せる。これを見ればプロレスファンの「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」論がとんでもない間違いだと分かるはず。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-d1c0.html

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2010年1月25日 (月)

前田光世の伝記(4)

 丸島隆雄氏の『前田光世 世界柔道武者修業』は『格闘技通信』に連載したものだという。
 こちらではハック・スミスではなくジョージ・ハッケンシュミットと書いてある。
 前田に挑戦された経緯は、神山氏の前田光世伝とほぼ同じである。ただ、ニュアンスが少々違う。丸島氏によれば

 ハックにしてみれば前田は格下の存在である。又、イギリスで少しばかりブームになったとはいえ、ヨーロッパではレスリングに比べれば柔道の存在は余りにも小さかった。勝って得るものよりも、負けて失うものの方が大きい。そんな試合をするようなハックではなかった。(丸島p.179)

 これならば猪木が「格下」の挑戦を受けない理由としても通用する。1997年より前の格闘技通信に、ハッケンシュミットをスミスにして前田光世の前で「縮み上がった」などと書いたら大変だったろう。プロレスファンという人種は21世紀になってもまだ死滅せずに生き残っているくらいだ。
 しかし神山氏と丸島氏は同じ史料を使ったのだと思う。
 前田光世がイギリスから友人の薄田斬雲宛てに手紙を書き、それをもとにして薄田が『世界横行 柔道武者修業』(明治45年博文館)を出した。
 前田光世は相手のレスラーが「姓はスミス、名はハッケン」だと思っていたに違いない。薄田斬雲もハッケン・スミスと書いたのだろう。
 丸島氏は神山氏と違ってプロレスを知っているからハッケン・スミスをちゃんとハッケンシュミットに直したのだ。
 英語の前田光世伝はどうなっているか? 変なことになっている。

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 プロレスファンの逆鱗に触れるのを恐れて「前田光世が英国でプロレスラーに挑戦して謝らせた」という挿話は残して、名前だけ変えてしまった。ハッケン・スミスでもハッケンシュミットでもなくエッソンというレスラーが前田から逃げたことになっている。
「プロレスファンはうるさい」のは日米同じらしい。
 フランク・ゴッチとジョージ・ハッケンシュミットはプロレス史上大切な名前で軽々しく扱うと大変らしい。

  しかし、ハッケンシュミットが谷幸雄に何度も挑戦されて断ったのは事実だ。柔道か柔術か(65)など参照。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/65-cf0d.html これは英国の新聞記事などに記録が残っているはずだ。柔道か柔術か(16)にも書いていた。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/16_2bb5.html
 前田光世の挑戦は一度だけらしいし記録は前田の「ハッケン・スミスというレスラーが云々」という手紙くらいしかないのかも知れない。しかしハッケンシュミットが「縮み上がった」のかどうかはともかく、柔術家二人の挑戦を避けたことは確かだろう。少なくとも「負ける危険がある」と考えたのだ。

  おまけ。「前田光世伝説」というサイトの引用。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/4125/coma.htm
 以下は私が書いたのではありません

大会後、当時ヨーロッパ最強と言われていたロシア人レスラーハッケン・スミスが新聞上で
「大会を席巻した東洋の小柄な柔道家もレスラーの前では相手ではなかった」等と口撃。
それを見た前田は興業を打っていたスミスの試合会場に乗り込み対戦要求。しかしスミスは縮みあがって
「あの記事は私が言ったことではない、記者が勝手に付け加えたんだ。私はレスラーだ、職業選手だ。流儀が違うと言っても柔道と勝負して負けたら自分の職業に影響する。ハッケン・スミスが負けたと新聞に書かれたらそれでおしまいだ。どうか察してくれ。」と懇願し敵前逃亡。
これは、前田の強さを証明するエピソードであるとともに、スミスの「ショーアップされたプロレス」と前田の「真剣勝負の凄み」の違いを物語っており現代と重ねてみてもとても興味深い。
ちなみに、スミスは前田との対面直後1908年4月3日、アメリカのシカゴで4万人の観衆を前にフランク・ゴッチ(言わずと知れたプロレスの神様カール・ゴッチのお父さん)と現在のプロレス史の端緒になるといわれている伝説的な試合を行った。

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2010年1月24日 (日)

ご指導ご鞭撻

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ご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
Please whip me.

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2010年1月23日 (土)

前田光世の伝記(3)

 ハッケン・スミスの話は神山氏の本の110頁から112頁に出ている。
 アルハンブラ劇場での大会が終わったころ、
「ロシアのレスラー、ハッケン・スミスが一週間の興行を行っていた。当時スミスはキャッチ・アズ・キャッチ・キャン式のレスラーとしては、ヨーロッパで並ぶ者なしといわれる強豪だった。」

 ロシアのスミスは、いかにも変でしょう。
 このスミスが新聞に日本の柔術も大したことはないという署名記事を出した。前田はすぐに彼が興行している会場へ乗り込み、「ここで勝負しろ」と迫った。

  するとロシアのライオンと呼ばれたスミスが縮み上がって、
「いやそういう申し込みをされても困る。あの記事は私が言ったことではない。記者が勝手につけ加えたものだ」
 と言って、わざわざ新聞記者を呼んで弁明につとめた。どんな条件でもいいと前田が言っても、スミスは決して勝負に応じようとはしなかった。
(p.111)

  112頁の記述を見ると、このスミスなる者は、ジョージ・ハッケンシュミットのことだと分かる。

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 ハッケンシュミットはドイツ系ロシア人で、Hackenschmidtは複姓である。複姓はFischer-Dieskau(バリトン歌手)やBarton-Wright(バリツ創始者)のようにハイフンを入れることが多いが、単にくっつける場合もあるようだ。Hackenは「かかと」の意味、Schmidtは「鍜冶屋」で英語のSmithである。
 英国ではHacken Smithと呼ばれることが多かったのだろう。ハッケンがファーストネームだと思われて、ハックと略することもあった。
 ハックスクワットは、ハッケンシュミットが好んで行ったスクワットだ。

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2010年1月22日 (金)

西松建設

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2009年3月6日(金)「しんぶん赤旗」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-06/2009030615_01_0.html

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前田光世の伝記(2)

 いずれも1997年(平成9年)刊行である。
 神山典士氏の『ライオンの夢』は小学館ノンフィクション大賞を受賞している。さすがに取材が行き届き文章がしっかりしている。
 たとえば

 ロンドンのレスター図書館には、19世紀後半からの『TIME』紙が、マイクロフィルムで残っている。1908年の記事によれば、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン式のレスリング世界大会は、ロンドンのナショナル・スポーティング・クラブの主催で行われ、当時レスター・スクエアに聳えていた3500名を収容するバレエ劇場「アルハンブラ」を会場として、1月27日から2月3日まで行われた。(p.108)

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(=フリースタイル)のプロレスの世界大会について、神山氏はイギリスに取材に行って新聞The Times(TIMEと書いてあるのは間違い。アメリカの週刊誌とイギリスの日刊紙を混同してはいけない)の記事を調べたのだ。
 この世界大会については柔道か柔術か(66)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/66-979c.html
から(68)http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/68-10b1.html
 まで、本ブログで英連邦レスリング連盟の『フリースタイル・レスリングの歴史』の翻訳を載せている。
 神山氏はタイムズ紙の記事に直接当たってYamato Maidaと名乗っていた前田光世の活躍を確かめた。
 前田は中量級でヘンリー・アースリンガーと戦って敗れた。タイムズ紙
「最も注目された試合の一つは、中量級のヘンリー・アースリンガー(オースリア)とヤマトの戦いだった。驚いたことに、オーストラリア人が勝利を収めた。」
 前田は重量級にも出て決勝戦まで進んだ。決勝では体重135キロを越えるジャック・エッセンと戦い、敗れたが、タイムズ紙は前田を「素晴らしい技術で善戦した」とほめた。(当時の英国では一流紙がプロレスの記事を載せていた。猪木対タイガー・ジェット・シン戦でどちらが勝ったかは、東京スポーツにしか載らなかったはずだ。)

 神山典士氏は正統的なノンフィクション作家であって、格闘技マニアではない。前田光世伝としても後半はブラジル移民の推進者としての業績に重点を置いている。格闘技やプロレスのマニアからは苦情が出そうな記述もある。
 たとえば、前田光世がミスター・ハッケン・スミスというレスラーを謝らせたという話などはどうだろう。

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2010年1月21日 (木)

前田光世の伝記(1)

 1993年(平成5年)11月にUFCの第1回大会が開かれ、ホイス・グレイシーが優勝してグレイシー柔術が有名になった。ブラジリアン柔術の始祖として前田光世の名前が一般に知られるようになったのはそれからだ。それまでは忘れられていたはずだ。
 横田順彌氏が1989年(平成元年)に光風社出版から上梓した『明治バンカラ快人伝』の快人第二が「世界柔道武者修業者 前田光世」である。快人第一は「自転車世界無銭旅行者 中村春吉」である。

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 この本はいまアマゾンではちくま文庫版が入手できる。実に痛快な本だ。
 前田光世通信、薄田斬雲編『世界横行 柔道武者修業』博文館明治45年 は国立国会図書館のデジタルライブラリーで見ることができる。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075639&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 

 1997年(平成9年)に前田光世伝が2冊出ている。

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2010年1月20日 (水)

前田光世対ボクサー(3)

▲扨て勝負の事だが、僕も外国の剛力な大男共を投げ付ける丈けでは物足らない一流の拳闘家(ボキサー)と戦って、一攫千金を得たいが、却々(なかなか)甘く行かない。第一柔道とボキシングとは、ゲームの形式が異う。ヘボな拳闘家なら、幾らも相手は出て来るが、やって見て更に面白くない。自分が面白くないから、見て居る方でも面白くなかろう。突いてくるのを捉える迄で勝負は瞬間に決する。観客は大不平だ。と言って、此方も突かれるのは厭やだから、捉えては直ぐ投げ付けて押さえて降参させる。
▲外人は勝負を見物するにしても、同じ種類の競技で、同じ技倆を持った二人の闘うのを喜ぶが、異ったゲームの、併かも一瞬に勝負の付くのでは呆気ないから文句を言っては、演技場を叩き壊すなどの乱暴を始める。だから、我々も、世界一の拳闘家と覇権を争わんとするには先ず拳闘を練習して、拳闘の勝負を申し込まねばならぬ。つまり、後進国が見くびられて居るので、彼らに向かって『汝の拳闘は、そんなに結構なものなら、乃公(おれ)の柔道と闘って見よう』と言うと、彼等は、内心疑惧しながらも、柔道は拳闘の相手にはならぬなどと逃げを張る。
▲だから、僕は柔道を全世界に紹介して各国人に了解せしめ、柔道拳闘の優劣論を沸騰させ、自然の勢いとして、実地勝負で以て優劣を決せしむる形勢を作りたいと思う。そうなると一流の拳闘家も、僕の挑戦に応じない訳には行かなくなる。
(p.p. 144-5)

 前田光世が博文館の〈冒険世界〉という雑誌に『世界柔道武者修業通信』(大正三年五月~六月号)として発表したものの一部である。横田順彌氏のおかげで読めたので、一部をお裾分け。
 大正3年は1914年である。英語版ウィキペディアによると(その翻訳が前田光世伝(11)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/11-a4c7.html)、前田光世は1914年11月14日に佐竹、上西、大倉、清水の仲間と一緒にブラジルに到着した。それまでは1913年からエルサルバドル、コスタリカ、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、エクアドル、ペルーの諸国を巡業していたらしい。
 英語版ウィキペディアは上記は英語、ポルトガル語、スペイン語の資料によっているようだ。
 日本語の資料としては、上のように前田光世自身が書いたものがあり、さらに
『世界横行 柔道武者修業』薄田斬雲編(明治45年博文館)
『世界横行第二 新柔道武者修業』薄田斬雲編(大正元年博文館)
 がある。
 そのほかにも日本語の資料はすべて検討して文庫本で75頁にまとめたのが横田順彌氏の「世界柔道武者修行者 前田光世」である。この前田伝をおさめる『明治バンカラ快人伝』は読まなければ損というような本だ。
 
 格闘技ファンとしては「前田がどういう戦いをしたか」を東京スポーツの記事風に書いたのを読みたい。しかし百年前のことだから、これはまず無理だ。その無理を敢えてやってみた(潤色をまじえた)のが英語版の伝記である。 

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2010年1月19日 (火)

前田光世対フランク・ゴッチ(2)

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 フランク・ゴッチがハバナにいるのならば、本当にそんなに強いのか、確かめてみよう。前田はゴッチが滞在しているホテルを訪ねた。慌ただしく挑戦状を認めてゴッチの部屋に送り付けた。
 ところがゴッチは前田に会おうともしない。返書は無礼なものだった。曰く。
 ハバナには妻を連れて二三日の予定で来ただけだ。貴殿と会う時間はないし、誰とも戦うつもりはない。挑戦は受けられない。それに柔道家の相手はもうウンザリだ。
 前田は腹を立て失望した。彼はゴッチが長年の婚約者と結婚したばかりだということを知らなかった。ゴッチは妻のグラディスを連れてキューバにはハネムーンに来たのだった。

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 前田もこれを知っていれば紳士らしく振る舞っただろう。しかし知らなかったのだ。
 挑戦を受けないというのならば、待ち伏せしてストリートファイトを仕掛けようか? 
 しかし妻のオルガはどう思うだろう? 柔術にはずいぶん理解があるのだが、ストリートファイトなんて、そんな野蛮なことをしたら決して許してくれないだろう。(「野蛮」はNeanderthalと書いてある。)
 嘉納治五郎先生がもしこの話を聞いたらどうだろう? 西郷四郎先輩は破門されたのではなかったか。
 
 結局、前田は待ち伏せは取り止め、プロモーターを通じて正式に挑戦を申し入れたが、ゴッチはすでにキューバを去っていた。
 前田光世がこのときまでゴッチの名前を知らなかったのは、英語がほとんど読めなかったからだ。東京専門学校(早稲田)でもう少し勉強しておけばよかったのだ。英語さえ分かれば、ゴッチばかりかズビスコやガマなどに挑戦するチャンスもあったかも知れない。
(p.p. 204-5)

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2010年1月18日 (月)

前田光世対フランク・ゴッチ(1)

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 1911年(明治44年)、前田光世は前年に結婚した妻オルガをメキシコに置いてキューバに「単身赴任」していた。
 ある日、弟子のラファエルという男が駆け込んできた。
「お、親分、じゃなかった先生、てえへんだ、てえへんだ!」
「どうした、ラファエル、騒々しいぞ」
「ゴッチが来たんでさあ」
「ゴッチって誰だ?」

 前田光世はフランク・ゴッチのことを知らなかった。奇しくも前田と同じ1878年(明治11年)に生まれたフランク・ゴッチは、1908年、ハッケンシュミットを下し、1911年9月4日の再戦にも勝ってレスリング世界チャンピオンを名乗っていた。

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 しかもゴッチは柔道家とも戦って勝っているという。青柳初段がシアトルでゴッチに挑戦したが、体落としに入るところを後ろ投げに返されて失神した。ニューヨークでは東二段が手もなくひねられた。続いて鈴木四段がニューオリンズの万博会場でゴッチに挑戦したが、敵わなかった。
「なかなか興味深い話だね、それが本当ならば。しかし、ずいぶん昔に遠い北米で起こったことだろう。今さら騒ぐことはない」
「センセイ・コマ、さっきから言ってるでしょう。来たんですよ、ゴッチが、このハバナの町に」

 前田は、イタリアにいる大野秋太郎に国際電話をかけた。大野は自身がプロレスラーとしてリングに上がっていたから、ゴッチが世界チャンピオンだということを知っていた。講道館の柔道家三人に続けて勝ったという話も聞いたばかりだという。
 このゴッチというレスラーはかなり強そうだ。
(p.p.202-3)

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2010年1月17日 (日)

メンドーザ

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 ダニエル・メンドーザ(1764-1836)は、ユダヤ人のプライズファイター。科学的ボクシングの父と言われる。コナン・ドイルの『ロドニー・ストーン』にも登場する。

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2010年1月16日 (土)

天網恢々

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子曰、天網恢々、接而不漏。

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2010年1月15日 (金)

オラス・ヴェルネのアトリエ

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L'Atelier d'Horace Vernetはシャーロック・ホームズ(1854-)の大伯父、エミール・ジャン・オラス・ヴェルネ(1789-1863)の作品。フェンシングをしている右の男がヴェルネ画伯。

「僕の先祖は代々田舎の地主で、その階級にふさわしい大同小異の生活を送っていたらしい。だが、僕のこの特別な能力はやはり血統から来ているのだ。フランスの画家ヴェルネの妹だった祖母から受け継いだものらしい。芸術家の血統というものは、とかく変わった人間を生み出しがちなものだからね」(『ギリシャ語通訳』)

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2010年1月14日 (木)

ワトソンの山高帽

 ワトソンはコロスと同じように常に舞台上の出来事を見ている。この点では読者と同じ立場にあるはずだ。しかしコロスと同じように、恐るべきたくらみを見破ることはできない。

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 そして、このワトソンのしるしは何か? それは彼の山高帽である。これはただの山高帽ではない。彼の祭服であり聖務のしるしなのだ。ホームズはほかの帽子をかぶることもある。しかしワトソンは山高帽を脱がない。深夜のダートムアでも、ライヘンバッハの断崖上でも。掌院やラビが冠を欠かさぬように、ワトソンは山高帽をかぶり続ける。これを脱がせるのはサムソンの髪をデリラが刈り取るようなものだ。ピフプフ氏は言う。「ワトソンと彼の山高帽、これは切り離せない」。これは単なるウールの冠り物ではない。彼のペタソスであり、司教冠であり、三重宝冠であり、光輪である。この山高帽は、不易不動のもの、法と正義、全き秩序、人倫の道、獣性に対する人間性の勝利を象徴するのだ。俗悪無惨な犯罪界を見下ろして、この山高帽は亭々とそびえ、恥じ入らせ、癒し、聖別する。その縁の曲線は完璧な均斉の曲線であり、頭頂の丸みは世界の丸みである。サバリニオーネ教授は言う。「依頼人たちの帽子からはその習慣や性癖が分かる。ワトソンの帽子からはその品性が分かる」。ワトソンはホームズにとってすべてである。彼の主治医であり、引き立役であり、哲学者であり、親友であり、同志であり、伝記作家であり、司祭である。しかし彼が歴史にその名を残すとすれば、それは不撓不屈の山高帽着用者としてなのである。
(ロナルド・ノックス「シャーロック・ホームズ文献の研究」――平凡社新書『シャーロック・ホームズの愉しみ方』に収録) 

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2010年1月13日 (水)

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させていただきます(4)

 呉善花さんのところにある日ある会社から電話がかかってきて、「お金(原稿料か講演料らしいが英訳ではsome money)を振り込ませていただきますので、口座番号を教えていただけませんか」と言った。そこまでへりくだるのかと、びっくりしたという。
 韓国ならばこういう場合「お金を振り込んであげます」と言うのだそうだ。
 私がこの会社の振込係であったとしたら、どう言うか?
 韓国式は論外だ。では、ふつうに「振り込みます」でよろしいか? よろしいはずだけれど、それで通したら顧客から苦情が出て私は首になるだろう。やはり「振り込ませていただきます」と言うほかはないのじゃなかろうか。実に変な言い方だけれども、仕方がない。営業用の敬語だ。
 この言い方の英訳は、変な日本語を変な英語に直しておいた。
 
   Once I received a phone call from a certain company.  I was astonished when I heard someone on the line use sasete itadaku and say, "We would like to take the liberty of putting some money into your account.  Will you please tell me your account number?"  They would like to take the liberty!  If they were going to pay me money, surely they were entitled to announce their intention in a more dignified manner. 

(今ならば翻訳の原稿は添付ファイルで来るのだけれど、むかしは宅急便で送って来る習慣だった。だから和文が残っていない。)

 日韓の比較によって日本文化の特質を明らかにするというのが呉善花さんの方法だ。最近の『日本の曖昧力』などでは、日本は大変結構であるということらしいが、そうかなあ?

 韓国式の「振り込んであげます」と日本式の「振り込ませていただきます」では、日本式の方がまだマシかな? しかし英語なら単に「振り込みます」で済むのでは? ドイツ語は? 中国語だったらどうだ? 外国語はよく知らないから困るのだけれども、「威張るか・へりくだるか」「相手とどういう関係に立つか」に余り神経を使わなくて済む言語があれば、そういう言葉を使って暮らしたいような気もする。

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2010年1月12日 (火)

させていただきます(3)

 呉善花さんの講演『日韓関係の新時代――わさびの文化と唐辛子の文化』を英訳したのは十数年前のことだ。原文は日本語で、これを私が英訳した。
 日本語原稿は残っていないので、英訳から一部を復元してみる。

……日本語で敬語を使うときは「させていただきます」を使わなければならないことが多いのです。
 韓国では「してあげます」や「して差し上げます」に当たる言い方をします。
 この二つの言い方は意味はだいたい同じでしょう。でも心の持ち方がまったく反対ですね。
 日本の会社でアルバイトをしていたとき、よく上司に「させていただきます」を使いなさいと言われましたが、これはとってもむつかしかった。日本人はなぜそんな入り組んだ言い方をするのだろう? 簡単に「してあげます」とか「します」とか言えばいいのに。
 この敬語を使おうとすると頭が混乱してくるのでした。でもこれは日本の習慣だし、会社のイメージにかかわるから、使わないわけには行きません。毎日こういう言い方をしているうちに、だんだんと心の持ち方が変わってきました。
 たとえば、この講演ですが、「こうやって講演をさせていただくのは……」という言い方をしますと、韓国式に言うのとは心持ちが全然違ってきます。
 韓国ならば、「講演をしてあげる」というふうに言います。すると自然に胸を張って、内心では「みなさん何もご存じないから、私が教えてあげます」というふうに思ってしまいます。
 反対に「させていただく」を使うと、自分を低い位置に置くことになります。「私は何も知らなくて、本当はみなさんの前でお話しする資格なんかないのですが……」そういう心持ちになると、体の方はどうなるか? 「させていただく」を使うと、自然に低くなってお辞儀してしまいます。(笑) 分かった。自分を低くすればいいのだ。そうすると自然に膝が曲がってくるのですね。(笑)
 
 営業用の敬語である。ところが呉善花さんは初めは違和感があったのに、だんだん日本化してきて、「させていただく」という言い方が心地よくなってきたのだそうだ。
 呉善花さんの話は、物事のとらえ方が具体的で論理が明快で分かりよい。しかし「させていただきます」が結構だというのは、いくら何でも日本びいきが過ぎるのではないだろうか。
 私は「させていただきます」は使わない。しかし、使わなくて済む立場にあるというだけのことなのか?

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2010年1月10日 (日)

させていただきます(2)

 敬語はむつかしいか? 私はむつかしいとは思わない。
 よその人に自分の父親の言葉を伝えるのに、「お父さんがこうおっしゃいました」と言ってはいけなくて「父がこう申しました」と言う――というようなことは子供の時に覚えた。敬語はこれだけ覚えればよろしい。
 私はちゃんと敬語を使いこなしているのに、鳩山さんは使いかたがおかしい。私の方が賢いからか。まさか。

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 鳩山さんの場合は、営業用の敬語が必要なのでむつかしいのだ。政治家というのは大変な商売で、友愛政治を宣言するにも言い方に気をつけないと「上から目線だ」などと非難するやつが出てくる。
 とりあえずへりくだっておくのが安全だ。しかし無闇に謙遜するのもまずい。一度、鳩山さんが沖縄基地問題でアメリカに「申し上げる」というようなことを言ったことがある。いかにも属国の首相で情けないと思っていたら、注意する人がいたと見えてその後言わなくなった。
 
 営業用の敬語という問題に気がついたのは、前に呉善花さんの講演を英訳した時のことだ。

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2010年1月 9日 (土)

させていただきます(1)

「させていただきます」は何といっても鳩山由紀夫さんですね。「鳩山さんのさせていただきますか、させていただきますの鳩山さんか」というほどであった。
 ところがこの前、民主党代表選挙の時にたまたまテレビを見ていたら、期待に反してちっとも言わないんだね。だいぶ笑われたんで、こりゃまずいとやめちゃったのかもしれない。
(p.70)

「民主党代表選挙」というのは10年以上前のことだ。
 高島先生がこれを書いたのは週刊文春1999年11月25日号だった。「キライなことば勢揃い」という題。読者の「キライなことば」のトップに「させていただきます」が来た。
 鳩山由紀夫氏は野党民主党の代表になったのだった。与党は自民党で総理大臣は小渕さんだった。
 しかし、今でも鳩山さんは「させていただきます」と言っているようだ。去年の所信表明演説。
 
「青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を離そうとしない、一人のおばあさんがいらっしゃいました。」

「大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただきます。

 なぜ「させていただく」なんて言うのか? 一説によると、仏教と関係があるのだそうだ。
 遊説に行って大勢の方々と握手したのは、ふつうに考えると政治家が自分の意志で握手したように思えるが、それは違う。すべては阿弥陀如来のお計らいによって握手ということをさせていただいているのである。ありがたい絶対他力の教えなのだ! 南無阿弥陀仏。

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2010年1月 7日 (木)

前田光世と大学

[1909年7月23日、前田光世はハバナからベラスケス行きの汽船に乗った。メキシコシティでレスラーの挑戦を受けた。]

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  試合中、いつものように観客席を見回すと、見覚えのある日本人がいるのに気がついた。早稲田の先輩、ホリグチ・クマイチではないか。若い金髪の美人を連れている。
(p.116)
 試合後に控え室を訪ねてきたホリグチと前田は再会を喜んだ。ホリグチはメキシコの公使をつとめていて、一緒にいた金髪美人は公使館で働いているフランス人だという。前田光世は公使館のパーティに招待され、この女性、オルガ・フーシェと交際し始めた。(p.p.116-129)

 しかし、この記述は変だ。
 明治42年ごろに早稲田出身の外交官がいたか? ホリグチ・クマイチ? 
 これは著者の間違い。樗沢憲昭氏は在米の柔道家で格闘技には精通しているが、前田光世の行動範囲が広すぎるので調査不十分もあるのはやむを得ない。
 
 
 
 堀口九萬一(1865-1945)は、今では詩人堀口大学(1892-1981)の父親として知られている。
 東京帝国大学を卒業し、1894年(明治27年)外交官となった。息子は大学在学中に生まれたので大学と名付けた。堀口大学を産んだ妻の死後、九萬一はベルギー人女性と再婚した。1909年にはメキシコ公使館の一等書記官で臨時代理公使をつとめていた。彼は柔道をたしなんだので前田光世のことを知っていて、13歳若い前田をかわいがった。
 前田光世は堀口九萬一の世話でオルガ・フーシェと結婚した。前田は21歳のときに結婚しすぐ離婚しているので再婚だった。オルガ・フーシェは前夫との離婚が未成立だったので、前田とは結婚式は挙げたが内縁の関係だった。前夫との間にセレステという女の子がいた。
 前田は1910年7月に単身でキューバに戻った。以後しばらくは妻子をメキシコにおいて南米各地を巡業し、休暇を一緒に過ごした。
 1911年、19歳の堀口大学は慶應を中退して父の任地メキシコに渡った。前田光世と堀口大学が顔を合わせることがあっただろうか?

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2010年1月 6日 (水)

前田光世、グレーシーに柔術を教える

[前田光世は1914年(大正3年)に佐竹信四郎、大倉、清水、上西貞一とともにブラジルでの巡業を開始した。前田はたちまちブラジルでも有名になった。1916年、彼はアマゾン川下流の町ベレンに落ち着いた。]

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 1919年には41歳の前田は半ば引退していたが、上流のマナウスで挑戦試合を行うことになった。伝説の格闘家コンデ・コマが再びリングに戻れば客を呼ぶことができた。前田はもちろん金が必要だったのだ。
 このとき相手のレスラーを手配したのが、ガスタオン・グレイシーであった。グレイシーはスコットランドからの移民2世の実業家であった。前田とグレイシーはすぐに親しくなった。
 グレイシーは、長男カーロス(1902-1994)が不良少年で手を焼いている、前田先生、愚息を柔術で鍛えてやってくれませんか、と頼み込んだ。
 前田は「柔術は日本人にしか教えないことにしている」と断った。しかしグレイシーが息子のためなら先生の道場のあるベレンに引っ越すとまで言うので引き受けることにした。
 前田光世はカーロスに、喧嘩や暴力行為の禁止のほか、柔術を他人に教えないことを約束させて弟子にした。カーロスはときどき兄弟を連れて道場に来た。末弟のエリオはまだ6歳から8歳で喘息があったので見学していた。
 カーロスは柔術の腕が上がるとともに素行が改まった。ガスタオン・グレーシーは前田光世に感謝した。
 やがてグレーシー一家はサンパウロに引っ越した。1925年、カーロス・グレーシーは「柔術を他人に教えない」という約束を反故にして自分の道場を開き、やがてグレーシー柔術を名乗るようになった。

 The Toughest Man Who Ever Lived 260頁から271頁までの要約。ほかにレスラーとの試合の描写、日本人移民受け入れ事業の話、前田光世の三度目の結婚の話など。
  著者の一人、樗沢憲昭氏の紹介などがhttp://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/600686/
にあり。 

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2010年1月 5日 (火)

前田光世対カンフー

[前田光世は1908年12月にキューバに渡った。前田は翌年にかけてハバナで地元レスラーたちの挑戦を受け、いずれも楽勝した。切り札として出てきた205cmで180kgの巨人ペネタリオにはさすがに苦戦したが、巴投げからチョークを見せ技にして腕拉ぎ十字固めに仕留めた。キューバ人にはコンデ・コマに挑戦しようという者はいなくなった。]

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[当時キューバには3万人ほどの中国人が砂糖黍農園の労働者として滞在していた。そのなかの周というカンフー使いが前田に挑戦した。前田は回し蹴りに空を切らせ、相手が後ろ向きになった瞬間に飛び込んで裏投げで叩きつけた。]

 ここが決め所だ。前田は腕拉ぎ十字固めに入った。周の関節は巨人ペネタリオより柔らかかったが、極まってしまえば逃れられない。周の顔色が変わり、前列の観客にはミシミシといういやな音が聞こえた。
(マネージャーの)クリストファーは、相手がタップの仕方を知らないことに気づいた。彼は中国人の通訳に叫んだ。
「おい、試合を止めたかったらマットを手で叩けと言ってやれ」
 さらに自分でマットを叩いてみせた。
 通訳からコーチへ、コーチから周へ話が伝わり、周はすぐにマットを叩いた。
 しかし遅すぎた。周の左腕はだらりと垂れ下がっていた。
 レフリーが勝者前田の手を挙げた。前田は相手のコーナーまで行き無事な右手を握って慰めた。
 観客はこれがおかしかったらしく、大声で笑った。観客というのは身勝手で残酷なものだ。(百年前も今も変わらない。)
(p.108)

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物価について(4)

 こうして完成した『緋色の研究』の原稿を、ドイルは意気揚々と出版社に送付した。しかし、どこからも色よい返事がなく、原稿の引き取り手がないという最悪の状態に陥った。ようやくワード・ロック社に採用されたものの、印税契約はお断り、著作権付きの買い取りで25ポンド*という条件。現在のお金に換算して60万円くらいだろう。しかし、翌1887年に発表された記念すべきホームズの第1作は、さっぱり注目されなかった。
 *ポンド
 イギリスの通貨。現在の十進法ポンドと異なり、補助通貨はシリングとペニーの2本立て。当時の1ポンドを現在の2万4000円で計算した。(p.21)

 諸兄邦香氏の換算率は小林・島氏の倍である。

 シャーロック・ホームズが初めて登場する作品には『もつれたかせ糸』という題をつける予定だったが、結局『緋色の研究』に改めた。この作品が完成すると、ドイルは『コーンヒル』誌の編集長ペインに原稿を送って連載して貰えまいかと訊いてみた。ペインはドイルに、この作品は『コーンヒル』誌に一括掲載するには長すぎるし、連載するには短すぎる、と言って断わった。ドイルは自信を失わずに、原稿をまずアロースミス社、それからウォーン社へと送ったが採用されず、最後にウォード・ロック社が独占掲載料として二十五ポンド[三十万円]支払ってくれることになった。(新潮選書p.p.47-8)

『緋色の研究』の買い取り料金は60万円か30万円か? どちらにしても安すぎる。ドイルがこの原稿に関して受け取った1886年11月2日付の手紙がヘスキス・ピアソンのドイル伝に出ている。

拝啓
 昨日付貴翰拝受致しました。御申越の印税御支払については、混乱を生ずる恐れ有り、遺憾ながら御意に適いかねます。御作は小社年鑑に掲載致すべく、25ポンドにて版権買取の当初条件通りとさせて戴きたく存じます。
              We are, dear Sir,
                  Yours truly,
                  Ward, Lock & Co.

 というわけで、『緋色の研究』は1887年にBeeton's Christmas Annualに一挙掲載された。その後版を改めてずいぶん売れたのに、ドイルは25ポンド(30万円? 60万円?)以上は一文も受け取らなかった。

 諸兄氏のホームズ研究では、正典に出てくるポンドを一々邦貨に換算してある。
 ボヘミア王がシャーロック・ホームズに当座の費用として渡したのは1000ポンドだから、2400万円! 小林・島式では1200万円。
 アイリーン・アドラーが持っている写真については
「あの写真が手にはいるならば、余は王国の一州を割き与えるも厭わぬつもりでおる」
と仰せになるのだから、王様としては2400万円だろうが1200万円だろうが、どちらでもよい。余は金に糸目はつけんぞ。(むかしはアメリカン・エキスプレスなんかなかったから、現金を持ち歩いたのですね。)

 ウィルソンさんがエンサイクロペディア・ブリタニカの筆写の報酬に赤毛連盟からもらったのは週に4ポンド。諸兄式で10万円。小林・島式で5万円。微妙な差ですね。しかし質屋はあまり儲からなくなっているので、5万円でも大変にありがたい。

 初めにかえってチャールズ・ドイルの年俸240ポンドは?
 やはりこれは286万円ではないだろうか? 諸兄氏の換算率で年俸576万円ならば御の字ではないか。貧乏とは言えない。
 マイクロフト・ホームズは弟に言わせると
「時には兄が英国政府そのものだといっても過言ではない」
ほど本当は偉いのに、年俸450ポンドの薄給に甘んじている。これは540万円の方が1080万円よりもかえって凄みがあるでしょう。ホームズ家は先祖代々の地主だから、マイクロフトには遺産から上がる不労所得が別にあることは言うまでもない。給料など問題ではないのだ。

 諸兄邦香氏の『シャーロック・ホームズ 大人の楽しみ方』はおすすめです。相当のマニアでも知らない新知識がある。ただ、邦貨換算率はちょっと考えなおした方がよろしい。

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2010年1月 4日 (月)

物価について(3)

 ヴィクトリア朝の物価については専門家の研究がある。
 たとえば、日本銀行金融研究所/ 金融研究/ 2002.3に収録する北村行伸『物価と景気変動に関する歴史的考察』。
http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/2002/kk21-1-1.pdf

 上記5頁の図1 イギリスの消費者物価指数1264-1954 というグラフがある。
 グラフについて次のような説明がある。

 Phelps-Brown and Hopkins[1955, 1956]は、1264年から1954年までの物価・賃金指数を計算している。図1はイギリスの消費物価指数を表している。1264年=1とした場合、価格が10倍になるのは1795年である。すなわち、年率で3%以下の上昇しかしていない。その傾向は20世紀に入るまで続き、実際に1932年の物価水準は1795年よりも低かったことが知られている。全体としてみると、大幅な物価上昇がみられたのは第1次大戦以後であることを認識しておくことが必要である。

 この段落に下記のような注がついている。

 この間の物価の安定を捉えて、Fischer[1996]は、ヴィクトリア女王(1819~1901年)の生きた時代にほぼ重なる時期(1820~96年)を取り上げて、「ヴィクトリア均衡」と呼んだ。
 Fischer[1996]によれば、物価(上昇)革命期には、人口増加、実質賃金低下、所得格差拡大、資本収益率上昇などの共通点がみられ、物価(安定)均衡期には、ほぼその逆の現象が観察されている。
 ところがヴィクトリア均衡期には、それまでの期間とは違うダイナミックな変化があった。すなわち、人口が増加しつつ、それを上回る経済成長があり、さらに、すでにみたように産業構造が大きく変化し、国際的生産要素(資本、労働)移転も進んだ。このような状況で、実質賃金は上昇し、金利は低下、土地資産価格は変動をしつつも長期的には安定していた。
 さらにジニ係数で測られる所得分布は長期的に平等化していた。その間、金銀の国際準備残高は急上昇したが、一般価格は安定的であるかやや低下したこと、等が各種の統計資料を使って説明されている。

 シャーロック・ホームズが活躍したのはイギリスの黄金時代だった。ホームズのような中流上層の人間は快適な生活ができた。この「ヴィクトリア均衡期」には、「実質賃金は上昇し」「ジニ係数で測られる所得分布は長期的に平等化していた」というから、下層階級の暮らしも楽になってきた。エスコットという名前の配管工などは商売繁盛で景気がよかった(『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』)。ベーカーストリート・イレギュラーズの子供たちも、ディケンズの時代ほどは悲惨な目に遭わないで済んだ。

「Phelps-Brown and Hopkins[1955, 1956]は、1264年から1954年までの物価・賃金指数を計算している」というのは、物価・賃金指数の計算方式を明らかにしているということだ。1264年と1795年では物価が10倍になっているというには、計算の根拠があるはずだ。たとえば、小麦粉1ポンドの値段、リンネル1ヤールの値段、大工の1日の手間賃などいくつもの名目価格を調べて、適当な計算式で物価指数を出しているはずだ。
『シャーロック・ホームズの生れた家』の翻訳者は、1ポンド=約1万2000円の根拠を明らかにしていない。もちろん、翻訳者がそんなことをする必要はない。ただ、別の換算率もあり得ることは頭に入れておいてよいと思う。

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2010年1月 3日 (日)

物価について(2)

 ロナルド・ピアソールの『シャーロック・ホームズの生れた家』の特長は、チャールズ・ドイルの年俸240ポンドが286万円というように、金額が出てくるごとに訳者(小林司氏と島弘之氏)が現在の邦貨ではいくらにあたるかを示してくれていることだ。
 240ポンド=286万円
ならば、むかしのイギリスの1ポンドは現在の日本ではだいたい1万2000円ということになる。
 この換算率が妥当だとすると、コナン・ドイルの生涯だけではなく、シャーロック・ホームズの活躍についても色々なことが分かって便利だ。
 ホームズのもとに持ち込まれる事件は、煎じ詰めればまず「金の問題」に帰着する。

Roylott

『まだらの紐』でロイロット博士の義理の娘たちが結婚するかどうかが大問題だったのは、亡くなったロイロット夫人の遺産の配分が絡んでいたからだ。

「亡くなった夫人の遺言書を見てきたよ。遺産の内容を正確に知るためには、遺言状に関わる投資物件の、現在の評価額を知らなければならない。死亡当時の彼女の年収は千百ポンド近くあったが、いまは農産物の価格が下落したため、七百五十ポンド足らずになってしまっていた。ふたりの娘は、結婚したらそれぞれ年に二百五十ポンドずつもらう権利がある。つまり、娘がひとり結婚しただけでもあの男には相当な痛手だが、ふたりとも結婚してしまったら、それこそわずかな収入しか残らないわけだ。……」(日暮雅通訳)

 「1100ポンド近く」は約1300万円
 750ポンドは約900万円
 250ポンドは約300万円

 となる。これは確かに深刻な問題だ。
 
 チャールズ・ドイルが年俸240ポンドの収入で結婚した1855年ごろと色々な事件が盛んにホームズのもとに持ち込まれるようになった19世紀の終わりごろとでは、物価が変わっているのではないか?
 これについては心配しなくてよろしいようだ。シャーロック・ホームズが1854年に生まれてから1903年に引退するまで、物価は安定していたと考えてよい。専門家の研究がある。

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2010年1月 2日 (土)

物価について(1)

(アーサー・コナン・ドイルの父)チャールズは、この輝かしい兄たちと肩を並べるわけにはいかなかった。彼は公務員になり、生涯の大半をエディンバラ市の工務課で過ごした。余暇には絵を描き、夢見がちな性格で冷たい面があり、経済面では家族をいささか苦労させた。年収二百四十ポンド[二百八十六万円]と、絵を売って得る六十ポンドとで、夫婦はつましく暮らし、自分たちの輝かしい家系が心の支えになる一方では、重荷でもあり、チャールズはドイル一家の中ではだめな人間であると嘆いていた。(新潮選書 p.11)

 ドイルの父チャールズがメアリ・フォリーと結婚したのは1855年のことである。彼はその少し前に19歳でエディンバラ市のGovernment Office of Works(「工務課」)に就職した。このときの給料が年俸240ポンドであったらしい。(ヘスキス・ピアソンのドイル伝による。)
 当時の英国の給与体系では年功序列は考慮されず、職務給であり、チャールズはいつまでたっても昇進しなかったので昇給もなかったようだ。絵を売って得る金は、ヘスキス・ピアソンによれば50ポンドであり、しかも確実に見込める収入ではなかった。
 
 
 森永卓郎氏だって若いころは年収300万円だったのだそうで、若い二人ならば何とかやって行けた。しかし1859年に長男アーサー・コナン・ドイルが生まれ、その後も次々と子供が生まれると生活は困窮した。(続く)

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2010年1月 1日 (金)

謹賀新年

Tyge_tyger

Tyger! Tyger! burning bright,
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Could frame thy fearful symmetry?

In what distant deeps or skies
Burnt the fire in thine eyes?
On what wings dare he aspire?
What the hand dare seize the fire?

And what shoulder, and what art?
Could twist the sinews of thy heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand, and what dread feet?

What the hammer? What the chain?
In what furnace was thy brain?
What the anvil? What dread grasp
Dare its deadly terrors clasp?

When the stars threw down their spears,
And watered heaven with their tears,
Did he smile his work to see?
Did he who made the Lamb, make thee?

Tyger! Tyger! burning bright,
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Dare frame thy fearful symmetry?

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