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2010年1月27日 (水)

フリースタイル・レスリングの歴史

 英連邦アマチュア・レスリング協会のウェブサイトで、「フリースタイル・レスリングの歴史」を見てみよう。
http://groups.msn.com/CommonwealthWrestling/historyofwrestling2 
 このサイトを訳してみる。(柔道か柔術か(59)から(69)の再録。ただし上記英文サイトは消滅した。
移転先:
http://commonwealthawa.multiply.com/journal/item/67
http://commonwealthawa.multiply.com/journal/item/68/HISTORY_OF_WRESTLING_-_Free-Style_-_page_2

15世紀から21世紀のフリースタイル・レスリング

 国際式フリースタイル・レスリングの歴史はグレコローマンの歴史より複雑である。フリースタイルは特に珍しいスポーツではないので、世界中に同様のレスリングがある。その中でもよく知られているものを挙げれば、北インドとパキスタンのプシュティ、トルコの三種類のペールヴァンラー・グレ(英雄的レスリング)、イランのクシティまたはパーラヴァニ・レスリング、オーストリアのザルツブルグ近辺のラングレン、スイスのシュヴィンゲンなどがあり、インドシナにもいくつかよく似たレスリングがある。しかし、近代オリンピックのフリースタイルはイングランド北西部が起源である。

 ランカシャー・レスリング、すなわちキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(これがフリースタイルの正しい呼び方である)は、ランカシャー中で村祭りの呼び物として、パーリング(脛を蹴り合うスポーツ)と人気を競っていた。
 ランカシャー北部では、バックホールド・レスリングの方が人気があった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはランカシャーの中部と南部で、イングランド全体で中世からひろく行われた着衣(ジャケット)レスリングから発達したものと思われる。

 ランカシャーのレスリングを表したもの最古のものは、Halsall教会の特免室(ミゼリコルド)にある浮き彫りで、15世紀にさかのぼる。二人の男はいずれもパンツと腰の周りにベルトを締めている。互いに右四つに組んで、右手で相手のベルト、左手で相手の(パンツの)左腿のあたりを掴んでいる。シンクレア氏は『ウィガンの歴史』で、1570年ごろにはレスリングの際に特別のきついジャージーかジャケットを着ることになっていたが、「下層階級はそういうものをあつらえる余裕がなく、ふつうはパンツだけはいて裸でレスリングした」と書いている。

寝技 Ground Work (フランス語ではPar Terre)
 
(タッチフォールではなく)ピンフォールという考え方は、初期のグレコローマンやその他の未発達のレスリング・スタイルで、敗者の肩がきちんとマットに着いたことを観客に確認させるために生まれたのであろう。

 ヨーロッパの多くの国でキャッチ・レスリングあるいはフランス語でle catchという言葉は「見世物としてのニセのレスリング」を指している。
 しかしcatch-as-catch-canという英語はランカシャーの方言で「どこでも掴めるように掴む」というだけの意味である。国際レスリング連盟がキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイルの競技会を開催し始めたころには、ルールはフランス語で書かれており、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンをフランス語に訳するとlutte libreとなった。これをもう一度英語に訳すると「フリー・レスリング」であり、その結果、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは国際的には「フリースタイル」と呼ばれるようになった。

百科事典は信頼できない

 フリースタイル・レスリングは人工的なレスリングである、と一部アメリカ人は主張し、エンサイクロペディア・ブリタニカにもそう書いてあるが、これは正しくない。国際レスリング連盟の試合ではグレコローマンと同様に(ピンフォールではなく)タッチフォールで勝負をつけるから、フリースタイルは人工的だという主張であるが、これは歴史的に間違っている。プロのレスラーは試合前にルールを契約で決めたのであり、19世紀と20世紀初めの英米の重要な試合の多くはタッチフォールによって勝敗を決めている。アルハンブラ劇場で行われた大きな試合もポイント制を採用し、1908年のロンドン五輪は国際レスリング連盟が結成されるより4年前であったが、タッチフォールを採用している。

国際的発展

 国際的な発展は、1870年、スコットランド人のレスラー兼怪力男のドナルド・ディニー(1837-1916)のアメリカ巡業とともに始まった。ディニーは、グレコローマン、スコットランドのバックホールド、コーンウォール・デボン式(着衣レスリング)、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンなどの各種レスリングの選手たちと巨額の賞金をかけて異種格闘技戦を盛んに行った。当時アメリカではグレコローマンが一番盛んだったが、北東部の州ではイングランドから輸入した各種着衣レスリングも人気があった。このうち「カラー・アンド・エルボー」は、アイルランド起源であるとよく言われるが、それは正しくない。

 イングランドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスラーたちはアメリカを巡業して大きな成功をおさめた。1879年にはエドウィン・ビリー、1881年にはジョゼフ・アクトン、1888年にはトム・キャノンが渡米し、彼らの活動がこのスタイルのレスリングの人気を高めた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、それまでアメリカで行われていた独自の着衣レスリング、コーンウォール・デボン式、グレコローマン式などと比べてはるかに柔軟で活動的だったからだ。アメリカでも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの人気が高まるにつれてその他のスタイルへの関心は薄れて行った。トルコの強豪レスラーたちがフランス巡業を経てアメリカにやってきたことも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに対する一般の関心を高めた。中でもビッグ・ジョゼフとして知られたコカ・ユスフ(1857-1898)は特に有名だった。彼が海難事故で死んだとき、 抜け目のないプロモーターは、ユスフは泳ぎが達者なのにレスリングで獲得した賞金1万ドルの金貨(25kg)を腹帯に入れていたので溺れ死んだのだという話をでっち上げた。

 フランク・ゴッチ (1878-1917)は、アイオワ州に生まれたドイツ移民の子だった。彼はアメリカのスポーツの偶像となっている。彼が二度にわたってジョージ・ハッケンシュミットに勝ったことがきっかけで、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはアメリカで重要なスポーツとなった。第一回の試合は、1908年4月3日にシカゴのデクスターパークで1万人の観客を集めて行われた。 ゴッチが不正行為や反則をしたという主張がなされたが、アメリカのファンにはそんなことはどうでもよかった。大切なのはアメリカ人のチャンピオンが勝ったことだった。
 リターンマッチは1911年9月4日にシカゴのコミスキー球場で行われ3万5千人を集めた。ゴッチの勝利はアメリカ人の琴線に触れた。熱狂的な愛国心がはやった時代に何でもアメリカがベストだという確信を与えたから。フランク・ゴッチは史上最強のレスラーで「世界チャンピオン」だということになった。
 ゴッチのレスリング・キャリアには芳しからざる点もあったのだが、ともかくこの勝利はアイデンティティを求めていた若いアメリカを刺激しレスリング熱が盛んになった。今日レスリングはアメリカで7番目に人気のあるスポーツで、何千という競技者がいる。 ノースダコタ州で開かれるジュニアの(高校生の?)レスリング大会は世界一の規模で、約4千人が参加する。2003年には8日間にわたって23面の国際式マットを使用して7118試合が行われた。地元経済に与える効果は1000万から1200万ドルであるという。

インドのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン

  19世紀を通じて英国は最強の軍事力を誇り、広大な大英帝国内の各地、特にインドでは現地人の兵士が大量に募兵された。これらの現地人兵士が何よりも興味を示したスポーツはレスリングだった。インドでは各地域ごとに少しずつ異なるルールがあった。1937年になって公平な試合を促進するため、英印軍は兵士用の標準キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・ルールを制定した。インドの藩王たちはレスリングを愛好した。多くの藩王がそれぞれ30人ほどのレスラーを抱え、他の藩王のお抱えレスラーと戦わせた。英国軍将校の中にもお抱えレスラーを持ち、巨額の金を賭けて藩王のレスラーと戦わせる者がいた。

英国における発展

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、ランカシャーではずっと人気が高かったが、南部では20世紀初めにはまだ盛んではなかった。それでもミュージックホールに出演して生計を立てるプロはいた。当時一番人気があったのはコーンウォールのジャック・カーキークというプロレスラーで、ロンドンのアルハンブラ劇場に毎晩出演していた。ところが、レスリングへの一般の関心をにわかに高めプロレスの黄金時代を現出することになる事件が起きた。カーキークは常々「世界中のどんなレスラーの挑戦でも受けて立つ」と公言していた。1902年3月2日の夜、客席から正装の男が4人、舞台へ上がってきた。観客を驚かせたのはそのあとから筋骨たくましい金髪の巨人が現れたことであった。誰あろう、グレコローマン世界チャンピオンのジョージ・ハッケンシュミットであった。
 カーキークは前言を翻してハッケンシュミットとの対戦を拒否した。この出来事はたちまち大評判になった。ハッケンシュミットは一躍人気者になり、ミュージックホール・レスリングのブームが起きた。これは第一次大戦の勃発まで続いた。ジョージ・ハッケンシュミットは大金持ちになった。彼が英国に来た当初の稼ぎは週に7ポンドで一般労働者の週給の7倍程度であったが、まもなく週に350ポンドを稼ぐようになった。

世界チャンピオン決定戦

 1904年のセントルイス五輪にはレスリングがあったが、これはフリースタイルだけだった。距離の問題もあり(当時は船旅)、グレコローマンがなかったこともあって、ヨーロッパのレスラーはわざわざ渡米しなかったから、これは実質的には全米選手権だった。

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及にとって重要な年は1908年だった。この年、ロンドンで開かれた三大イベントがキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの普及を促した。まず、2月1日までアルハンブラ劇場で行われた世界チャンピオン決定戦、次にヘングラー・サーカスのトーナメントは5月6日に始まり8週間続いた。それが終わって2週間後にロンドン・オリンピックが開催された。

 イングランドで最も権威のある全国スポーツクラブ(National Sporting Club)は、新聞で「世界チャンピオン」「全英チャンピオン」「連邦チャンピオン」などの称号が乱用されているのを憂慮して、ライト、ミドル、ヘビーの3階級で真の世界チャンピオンを決定することにした。第5代ロンズデール伯爵(1857-1944)が同クラブの会長であり、世界チャンピオン決定戦の役員は(選手はプロだったが)全員アマチュアであった。役員の一人は英国アマチュア・レスリング協会会長のA・H・サザーランドであった。このチャンピオン決定トーナメントは毎年アルハンブラ劇場で開催するものとし、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの正統なチャンピオンを決定するプロのための大会であった。当時ヨーロッパ大陸の諸国はグレコローマンだけでよいと主張していたのである。この大会は当時のテクノロジーの許す限り広範囲に広告され、有力選手には 招待状が出された。しかし、ハッケンシュミット、谷幸雄、スイスのシェルピロなどの有名選手は参加を断った。もし負ければミュージックホール・レスリングでの稼ぎがフイになると考えたからである。

 大きな大会ではよくあることだが、いくつか番狂わせがあった。ライト級で本命だったドイツのピーター・ゴッツ (1887-1944)が減量に失敗したが、ミドル級に出て2位になった。日本の弘前出身のヤマト・マエダ(前田光世1874-1944)はヨーロッパにいる日本人では最強であり、柔道の世界的普及に最も功績があった人物であるが、ミドル級に出てオーストリアのヘンリー・アースリンガーに1ラウンドで負けた。ところが彼はヘビー級にも出て、こちらでは2位になった。
 これは初めてのキャッチ・アズ・キャッチ・キャン国際選手権戦であった。イングランド、スコットランド、アイルランド、オーストリア、ドイツ、イタリー、スイス、日本の8カ国からレスラーが参加した。

成績は次の通り。 (全員がプロレスラー)

ライト級-10ストーン (63.5kgs)
1位 ジャック・キャロル 2位 F・トンゲ 3位 J・ベントレー
ミドル級-12ストーン (76.2kgs)
1位 ジョー・キャロル 2位 ピーター・ゴッツ 3位 H・アースリンガー
ヘビー級
1位 ジミー・エッソン 2位 ヤマト・マエダ(前田光世) 3位 J・ストックリー

 アルハンブラ劇場で行われたこの世界チャンピオン決定戦の5週間後に、ヘングラー・サーカスのトーナメントが行われた。これは8週間続き4重量級に135選手が参加した。このトーナメントの終了後に1908年ロンドン五輪が開催された。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングは大成功で、5カ国のレスラーがメダルを獲得した。グレコローマンでメダルを得たのは7カ国のレスラーだった。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(フリースタイル)のバンタム級で銅メダルを得たカナダのオーベール・コテ選手はカナダ初のメダリストであった。彼は自分の農場を抵当に入れてロンドンまでの旅費を捻出していた。
 大英帝国のアレクサンドラ王妃がホワイトシティ・スタジアムで優勝者にトロフィーを授けたとき、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは遂に国際的なアマチュアスポーツとして認められたのである。
 1908年ロンドン五輪では、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンすなわちフリースタイル・レスリングは次の階級で行われた。

バンタム級 (54kgs)
フェザー級 (60.30kgs)
ライト級 (66.6kgs)
ミドル級(73kgs)
ヘビー級 (73+kgs)

オリンピックでの認知

 キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイングランドでアマチュアスポーツとして公式に認められたのは1888年にアマチュア体育協会によりオリンピック用のスポーツとして受け入れられて以来である。これは英国オリンピック協会のS・ド・カーシー・ラファンの努力による。彼は1914年のパリの会議でキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをオリンピック種目に含めるべく論陣を張った。しかしその数日後に第一次大戦が勃発したのだった。
 英国は1908年ロンドン五輪の成功を以後繰り返すことはできなかった。外国では政治的イデオロギー的理由でアマチュアスポーツの支援を強化し、アマチュアリズムを逸脱するに至っているが、英国の政治家はオリンピックの理想を信じてか超然たる態度を取ってきた。近年ようやく変化に兆しが見えてきたが、もう英国のレスリングは手遅れだろう。レスリングの競技人口は激減し、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリングのスポーツとしての存続は誕生の地で脅かされている。

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