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2010年2月10日 (水)

明治初期の柔術(3)

 明治15年、嘉納治五郎は23歳で学習院の教師となり、自分より年上の生徒を教えた。同じ年に講道館を創立した。
 明治18年、27歳で学習院教頭になった。学習院長は谷干城、続いて大鳥圭介という大物だったから、実質的には嘉納が校長として学校を切り回した。
 若いうちに指導的地位を占めたのは、もちろん東京大学卒業の威力である。

 夏目漱石は嘉納治五郎より7歳若く、大学卒業は12年おそい明治26年であったが、まだ東京大学の威力はあった。すぐに高等師範学校の英語教師の口が決まった。この時の高等師範の校長が嘉納治五郎である。(夏目漱石対嘉納治五郎http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-6f22-1.html

 漱石が41歳になった明治41年(1908年)ごろになると、東京大学の値打ちもいくらか下がってきていた。漱石は前年に東大講師をやめて朝日新聞に入社し、明治41年9月から12月まで『三四郎』を新聞に連載していた。
『三四郎』の登場人物では、広田先生が漱石の自画像に近い。
 三四郎は広田先生が病気と聞いて柿を買って見舞いに行く。すると

 座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は必定喧嘩と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の袴をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、肘の関節を表から、膝頭で押さえているらしい。先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴の襞を正しく、いずまいを直した。見ればりっぱな男である。先生もすぐ起き直った。
「なるほど」と言っている。
「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
 三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。

 もちろん柔術の実演をしていたのだ。これは柔道か柔術か(1)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/1_fced.html
でも引用しました。続いて

「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」
「ええ、もうよろしい」
 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

 この先客は一高で広田先生に英語を習ったのだろう。それから東京大学を卒業して地方の中学の教師になったが失職したらしい。大学在学中に講道館に通って柔術をしたのだろう。嘉納治五郎は忙しくて直接指導はしなかったはずだ。
 三四郎も漱石のころと違って卒業(明治44年=1911年の予定)すればどこかから口がかかるというわけではない。学校へ行って講義を聴いているのだが

講義のあいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争している噂だなどと話している者があった。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。……

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