« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月27日 (土)

インド独立裏面史(6)

 ふつうのイギリス人から見てインド人は「クロンボ」であり「土人」だった。
 1857年のインド大反乱をイギリス人はどう見たか。
『四人の署名』では、ジョナサン・スモールがセポイの反乱を
「何百という黒人の鬼めらが、赤い軍服をつけたままで、燃え上がる家の回りをわめきながら踊り狂っている」
と描写している。
 30年後の1888年にロンドンで「アグラの財宝」をめぐる殺人事件と大捕物があったのだが、財宝が故モースタン大尉の娘メアリに帰属することは誰も疑わなかった。本当はインド人のものなのに。
 インド大反乱が始まるとパンチ誌1857年9月号にJusticeと題するテニエルの絵が載った。テニエルは『ふしぎの国のアリス』の挿絵だけではなく、こういうものも描いていたのだ。

Justicetenniel1857punch

 正義の女神がイギリス兵に味方して悪い土人を懲らしめている。二度と反抗しないように思い知らせてやる必要があるのだ。
 イギリスはインド大反乱を鎮圧し、ムガール皇帝を廃位してインドの直接統治を始めた。反抗する現地人は徹底的にやっつけた。相手は劣等人種なのだから、白人相手にはできないような残虐行為も辞せなかった。

20071126151909vereshchaginblowing_f

 ロシア画家ベレシチャーギンが英軍が大反乱の捕虜を大砲で処刑する様子を描いている。何年にどこで起こった出来事かは調べることができなかった。イギリス人は自国の悪いところはできるだけ隠そうとする。日本人以外はどこの国の人でもそうする。(日本人がアジアでどんな悪いことをしたかは、虚実まじえていくらでも情報がある。)だからざっと調べたのでは分からなかったのだが、ロシア人によるでっち上げではない。記録はあるはずだ。
 インド人が土人視されていたことは確かだが、ほかの有色人種とは少し違う面もあった。インド人の少なくとも一部は「白人」なのではないか? 印欧語比較言語学の知見も考慮しなくてはならないし……

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月26日 (金)

インド独立裏面史(5)

 ビルマはインドより遅れて1948年に独立した。
 独立運動の指導者はアウンサン(1915-1947)だった。

51jp6mk8dkl_sl500_aa240_

 大東亜戦争開戦後、アウンサンは日本軍の支援を得てビルマ独立義勇軍を創設した。日本軍とともに戦い、1942年7月にはビルマから英軍を駆逐した。
 その後、日本の敗色が濃厚になると連合国側に寝返り、1945年3月、日本軍に攻撃を加えた。
  しかし戦後イギリスはビルマに独立を許さなかった。
 1948年1月にビルマはようやく英連邦を離脱してビルマ連邦として独立した。アウンサンは前年の7月に暗殺された。
 
Historyofburma0
1948年1月4日、ビルマ独立式典。イギリス人総督とビルマ初代大統領Sao Shwe Thaik(発音?)。
 
 インドとの扱いの違いが分かるはずだ。総督夫人なんか登場する余地がなかった。
 一つには人種の違いがあったのだと思う。ビルマ人は日本人と同じ黄色人種だが、イギリスから見て、インド人の一部は「白人」だったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月25日 (木)

インド独立裏面史(4)

Nehruhug

 イギリス人というのは偉いものだ。インドから追い出されるにしても「立つ鳥跡を濁さず」にしておきたい。独立後もインド人にはイギリスを慕っていて欲しい。マウントバッテン総督とネルー首相が緊密に協力して新生インドを作り上げた――という風にインド人に思わせたい。そのためには何でもする。妻との間はすでにopen marriageなのだから、妻が「ネルーと寝る」のも厭わない。

9974939_1_2

 どうやら、この作戦は成功したらしい。
 これは相手がインドだったからだ。ビルマは1948年に独立したが、ずっと地味だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

インド独立裏面史(3)

 越智道雄氏はネルーとマウントバッテン夫人エドウィーナの関係について
「その時点でこの情事が暴露されていれば、分離どころか印パ戦争の引き金にもなりかねなかった」
と書いている。しかし、「暴露」されたかどうかはともかく、周囲は知っていたのではないだろうか。二人の写真はどう見ても「デキている」という雰囲気である。

Nehruedwina23

 それに「実は情事があった」という話が何年も後に明らかになったのではないようだ。ウィキペディア英語版のLouis Mountbattenには次のように書いてある。

 マウントバッテンがインド総督を務めていたときに、彼の妻はインドの初代首相ジャワハルラル・ネルーと関係があるという噂があり、今日でもこれは広く信じられている。またネルーが後に訪英したときに二人の関係にまた火が付いたとも言われている。リチャード・ハフが1980年に書いたマウントバッテンの伝記『現代の英雄』にもそう書いてある。しかしマウントバッテン家筋はこの情事を否定している(夫妻の間がopen marriageでありほかの人物と関係があったことは認めているが)。マウントバッテン卿の女婿、前海軍補佐官のブラブーン卿は、2000年2月12日付けのインドの新聞パイオニア紙で、義母とネルー首相の間にかわされた多数の手紙に触れて「両家の関係者以外では、(新しい伝記を書いた)フィリップ・ジーグラーとジャネット・モーガンの二人だけがこの手紙を全部見たのだが、二人とも肉体的関係があったとはしていない」と述べた。

Pandit_nehrutakingafag

 なかなか微妙である。しかし、マウントバッテン卿は「彼の奥さんとネルーの仲が怪しい」という噂が立っても平気だったらしい。インド人をなだめるのに役立つという高度の政治的判断があったのではないだろうか。
 ネルーもマウントバッテンも彼の妻も、一筋縄では行かない人物だったようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月23日 (火)

インド独立裏面史(2)

Mountbatten

 ヴィクトリア女王の曾孫で最後のインド総督になったルイス・マウントバッテン伯爵(1900-1979)はどういう人物だったか。
 彼はもともとバッテンベルグというドイツ人だった。第一次大戦で英独が戦ったので、マウントバッテンに改姓したのだ。石橋がブリジストーンになったようなものだ。英国の王室もハノーヴァー王家だったのがウィンザー王家と改称した。
 越智道雄氏によれば

 マウントバッテンは、ヴィクトリア女王の曾孫、エリザベス二世の夫フィリップの叔父にして、皇太子チャールズの傳役(もりやく)を務めた。大戦中は勇猛果敢な海軍指揮官だったが、作戦遂行にミスが多く、アジア戦線でやっと修練の成果を上げ始めた。最後のインド総督(副王の称号を持つ)、国防参謀長などを歴任、最後は1789年夏、アイルランド共和国軍(IRA)暫定派の爆弾テロで倒れた。(p.28)

  マウントバッテンはチャールズ皇太子が道楽者的側面を見せると、「ウィンザー公の轍を踏むな」と厳しく諭した。そのくせ、チャールズに「野生の燕麦を蒔くこと(若気の放蕩)」を勧め、メディアその他にかぎつけられないよう手配りまでしてのけた。
 マウントバッテン自身が流した浮名は数知れない。両刀遣いで、夫人エドウィーナも夫の了承のもとに不倫を敢行した。夫のインド総督時代、夫人は対抗的に夫妻の親友で後のインド首相ネルーと関係を持った。マウントバッテンはインドをヒンズー圏とイスラム教のパキスタンに分離する大仕事を手掛けたが、その時点でこの情事が暴露されていれば、分離どころか印パ戦争の引き金にもなりかねなかった。インド独立承認の儀式の写真を見ると(→インド独立裏面史(1))、総督夫妻の玉座から数段下で、マウントバッテンとネルーが政権返還の文書を読み上げ、総督妃の座席の前では妃殿下のティアラをつけ、盛装したエドウィーナが起立して二人の男の後ろ姿を見守っている。つまり、こういうことだ。この返還式典の前に、マウントバッテンは妻をネルーから「返還」されていたことになる。(p.29)

 どうも偉いものですね。ネルーとの関係は有名だったらしい。

Nehru_edwina_mountbatten_070411

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月22日 (月)

インド独立裏面史(1)

 第二次大戦終了後の英国では、戦争を指導したチャーチルの保守党が選挙に負け、1945年8月にクレメント・アトリーの労働党政権が発足した。
 アトリー首相は、独立後の政体についてインド人の間で合意が成立すればすぐに政権をインドに委譲すると表明した。インドの独立は不可避だった。
 インド内部ではヒンドゥーとムスリムの対立が激化していた。ムハマンド・アリー・ジンナー(1867-1948)のインド・ムスリム連盟はパキスタンの分離独立を求めていた。ヒンドゥーとムスリムの過激派が多くの都市で暴動を起こした。
 宗教対立をおさえるためにガンジーは必死の努力をした。

469973_f520

(1947年)二月、アトリーは下院で、英国は統一の如何に関わらずインドに政権を委譲する用意があると述べた。三月、政権委譲の指揮を執る総督として、ヴィクトリア女王の曾孫、ルイス・マウントバッテン卿がニューデリーに着任した。六月、新総督は、約千マイル離れた二地域、西パンジャーブ(およびシンド、北西辺境州、バルチスタン)とムスリムが多数を占める東ベンガルがパキスタンとなってインドから分離するか否かについて、立法参事会議員に賛否を問う投票の手続を公布した。折衝を重ねた後、会議派もムスリム連盟も分離に賛成票を投じた。…………
……八月十五日、インドは独立し、同時にパキスタンが誕生した。ガンディーは独立式典に参加しなかった。彼は三十二年の事業が「不名誉な終わり」を迎えたと思った。十月、七十八歳の誕生日の祝賀を述べる人々に、彼はこう言った。「お祝いなど無用です。この際、お悔やみをいただいた方がよいでしょう。……かつては、私が何を言っても民衆はついてきてくれた。今では、私の声に誰一人応えない」
(『ガンディーと使徒たち』p.225-226)

469972_f520_2

インド独立式典。中央白い軍服姿がマウントバッテン伯爵。その左がネルー首相。二人の後にマウントバッテン夫人

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月20日 (土)

貞操について(2)

 姦通が白昼公然と、いやこれは言い過ぎか、ともかく白昼に行われる場合があった。「午後の訪問」という大変に便利な制度が活用された。
「午後の訪問」については(リリー・ラントレーと英国皇太子についても)、丸谷才一『猫だって夢を見る』にある「彼らの尊皇」に詳しく書いてある。

 ここでは別のソースを見てみよう。
 An Edwardian Lady and her Fashion Wardrobe
http://www.fashion-era.com/the_society_hostess.htm
 というサイトに「エドワード朝のティーガウンEdwardian Tea Gowns」という記事がある。
 ティーガウンというのは、図のような服装である。

Tealadyx26

 この記事によると

 午後3時から6時の間、上流階級の夫は余所の家を訪問してお茶をよばれることになっていた。妻の方は自宅にいてホステス役をつとめ、男女の客を迎えた。この3時間ばかりの間には、ロマンスと性的冒険のチャンスがずいぶんあった。
 ティーガウンというのは、薄い絹製のふんわりしたワンピースで、たっぷりレースが付いていて、コルセットは着けなかったから、ホステスは男心をそそる姿だった。このゆったりしたワンピースは、着用が楽でアクセスが容易であり大変女らしいものだった。だからスカート丈などはずいぶん変動したが、ティーガウンは1875年ごろに現れて1920年代まで用いられた。

 3時から6時の間に「午後の訪問」が行われ、その間夫は自宅にはいないのが暗黙のルールだった。妻が誰と会って何をしても眼をつぶる。自分も余所で似たようなことをすればよろしいのだった。

 ヴィクトリア朝からエドワード朝の上流女性は、ふつうコルセットを着用することになっていた。

Gone_with_wind

 スカーレット・オハラは南北戦争(1861-65)時代のアメリカ人であるが、イギリスでも同じで、メイドに手伝わせてウェストを締め上げた。
 一日中締め付けていては健康によくないから、午後はティーガウンを着てコルセットなしで過ごしたが、これは便利な服装でもあった。盛装でコルセットを着けていたのでは、いったん脱いだ服を着るにはメイドの手伝いがいる。ティーガウンならそんな面倒はないのだ。

 T・S・エリオットにWhispers of Immortalityという詩がある(1920年)。http://www.bartelby.com/199/22.html
 第5連

Grishkin is nice: her Russian eye
Is underlined for emphasis;
Uncorseted, her friendly bust
Gives promise of pneumatic bliss.

グリシュキンはよい女、ロシア女の瞼の下に
アンダ・ラインがさっと引いてある、
コルセット抜きの友愛の胸元が
霊魂の至福を約束している。
(深瀬基寛訳)

 コルセット抜き(Uncorseted)というのは、やはりティーガウンを着ていたのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月19日 (金)

貞操について(1)

 変な題をつけちゃった。前に書いた『プロの美人たち』の補遺です。たとえばhttp://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/10-51e1.html
「一定の条件」を満たせば、姦通公認の場合があったという話だった。
 ヴィクトリア朝後期からエドワード朝(1901-10)の話である。
 その一定の条件とは何かは、まだ研究していない。
 必要条件の一つは、「上流階級であること」だ。
 医学博士ジョン・H・ワトソンと陸軍大尉の孤児メアリー・モースンは1888年に結婚した。この夫婦は中流階級だから、当然互いに貞節だったはずだ。でなければ結婚は破綻する。
 
 上流でも結婚前は絶対に処女でなければならなかった。
『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』の事件(1899年)の依頼人は、レディ・イーヴァ・ブラックウェルだった。ホームズによると

「この前のシーズンに社交界にデビューした中では一番の美人だ。ドーヴァーコート伯爵との結婚を二週間後に控えている。ところがこの女性がむかし若い貧乏地主に少々軽はずみな手紙を何通か書いてね。それが悪党ミルヴァートンの手に渡ったのだ。手紙は軽はずみという以上のものではないのだ、ワトソン。それでも、破談になるには十分だろう。大金を払わなければ手紙を伯爵に送りつける、とミルヴァートンは言う。それで僕がきゃつに会って値段を交渉してくれと頼まれたのだ」

 社交界にデビューしてすぐ伯爵との結婚が決まったのは大成功だ。せっかくうまく行ったのに「軽はずみな手紙」で破談になる恐れがある。挙式二日前になってモーニングポスト紙に「結婚はとりやめになりました」という短い記事が出たりしては大変だ。だからホームズも嫌悪を押し殺して恐喝王チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンに会おうというのだ。

Chas01

 結婚してからは、チャーチルのお母さんのように自由な立場になることもあった。条件の一つに「跡継ぎの男子を産んでいること」があったようだ。チャーチル夫妻には長男ウィンストンが生まれていた。弟は誰か別の人の子だったようだが、それで差し支えなかったらしい。

 ところが
「たった二行しかない手紙を持ち込んだ召使に、ミルヴァートンは七百ポンド支払った。その結果は、ある貴族の破滅だった」
 という事件をホームズは知っているという。これは既婚婦人だった。
  ホームズとワトソンは大変な事件の目撃者になるが、この事件に関わったのも既婚婦人だ。

Chas04

 しかし、上流の既婚婦人であって一定の条件が満たされれば、厳格な貞操の義務はなくなり、姦通が公認される場合があった。姦通の制度化である。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月10日 (水)

明治初期の柔術(3)

 明治15年、嘉納治五郎は23歳で学習院の教師となり、自分より年上の生徒を教えた。同じ年に講道館を創立した。
 明治18年、27歳で学習院教頭になった。学習院長は谷干城、続いて大鳥圭介という大物だったから、実質的には嘉納が校長として学校を切り回した。
 若いうちに指導的地位を占めたのは、もちろん東京大学卒業の威力である。

 夏目漱石は嘉納治五郎より7歳若く、大学卒業は12年おそい明治26年であったが、まだ東京大学の威力はあった。すぐに高等師範学校の英語教師の口が決まった。この時の高等師範の校長が嘉納治五郎である。(夏目漱石対嘉納治五郎http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-6f22-1.html

 漱石が41歳になった明治41年(1908年)ごろになると、東京大学の値打ちもいくらか下がってきていた。漱石は前年に東大講師をやめて朝日新聞に入社し、明治41年9月から12月まで『三四郎』を新聞に連載していた。
『三四郎』の登場人物では、広田先生が漱石の自画像に近い。
 三四郎は広田先生が病気と聞いて柿を買って見舞いに行く。すると

 座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は必定喧嘩と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の袴をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、肘の関節を表から、膝頭で押さえているらしい。先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴の襞を正しく、いずまいを直した。見ればりっぱな男である。先生もすぐ起き直った。
「なるほど」と言っている。
「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
 三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。

 もちろん柔術の実演をしていたのだ。これは柔道か柔術か(1)
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/1_fced.html
でも引用しました。続いて

「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」
「ええ、もうよろしい」
 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

 この先客は一高で広田先生に英語を習ったのだろう。それから東京大学を卒業して地方の中学の教師になったが失職したらしい。大学在学中に講道館に通って柔術をしたのだろう。嘉納治五郎は忙しくて直接指導はしなかったはずだ。
 三四郎も漱石のころと違って卒業(明治44年=1911年の予定)すればどこかから口がかかるというわけではない。学校へ行って講義を聴いているのだが

講義のあいだに今年の卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争している噂だなどと話している者があった。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せるようなにぶい圧迫を感じたが、それはすぐ忘れてしまった。……

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 9日 (火)

明治初期の柔術(2)

 嘉納治五郎は1860年に生まれ、1873年(明治6年)はじめて親元を離れて東京の芝にある育英義塾という学校の寄宿舎に入った。ここで腕力の強い者にいじめられるので

  日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法であると聞いていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた。
(p.12)

 ところが柔術の先生は簡単には見つからなかった。明治10年(1877年)に東京大学が創立され、嘉納治五郎は数え年18歳で入学した。創立というと新しい学校を作ったようだが、嘉納が在学していた東京開成学校が東京大学と名前を変えただけらしい。ともかく嘉納治五郎は東京大学の一期生である。
 この年、整骨(骨接ぎ)は柔術家の仕事だと聞いたので、整骨の看板を掛けている所を訪ねては、柔術をしますかと聞いたが、なかなか柔術家には出会わなかった。あちこち探してようやく天神真楊流の福田八之助を見つけて入門した。福田は元幕府の講武所の柔術教師で維新後は整骨が本業だった。道場は9畳で、門人は毎日来る人が一人、一日おきに来る人が一人、たまに来る人が四、五人だった。

Series14_06_1
18歳ごろの嘉納治五郎

 明治12年に福田八之助が亡くなった。20歳の嘉納が伝書一切と道場を嗣ぐ形になった。しかしまだ一本立ち出来ぬと思ったから、福田の師匠に当たる磯正智に入門した。  
 明治14年(1881年)東京大学文学部を卒業した。専攻は政治学と理財学(経済学)であった。この年に磯正智が亡くなったので、起倒流の飯久保恒年に入門した。
 明治15年、嘉納治五郎は数え年23歳である。五月に講道館を創立した。この年に学習院の教師となった。月給80円だった。生徒はたいてい嘉納より年上だった。4歳上の生徒もいた。

406pxsugata_sanshiro_poster  
   姿三四郎では、三四郎が二十代前半、矢野正五郎は四十代に見える。大河内傳次郎が堂々たる貫禄だ。
 三四郎のモデル、西郷四郎は1866年生まれだった。嘉納より6歳若い。明治15年に17歳で講道館に入門したらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 8日 (月)

明治初期の柔術(1)

 明治初期に多くの柔術師範が藩指南役等の立場を失ったため、柔術は指導されなくなったように言われているが、実際には全国的に地方の村落などで逆に柔術が流行し、娯楽の一種のように受け入れられ大変広まった。特に柔術が盛んだった地方では、一つの村落に幾つもの道場が存在し、集落の若者の大部分が入門していたことが様々な記録に残っている。この時期の奉納額が多くの寺社に残っている。(ウィキペディア)

 ウィキペディアには上のように書いてあるが、本当だろうか。地方の村落などで逆に柔術が流行し? どこの地方?
 柔術は少なくとも東京では廃れていたようだ。

 当時こういう武術をやる人は、相当に残ってはいたが、世間のだいたいからいうと、武術などほとんど省みられない状態であったから、武術は極端に廃れていたといってよい。それ故、武術家は糊口の道にすら困って来て、かの有名なる剣客榊原健吉でさえ、撃剣試合を興行して、木戸銭をおさめて糊口の資となし、ある柔術家は、相撲取と取り組んで木戸銭をあつめたということがあった時代だ。
(p.18)

 嘉納治五郎の言葉なら信じてよいだろう。
 榊原健吉(1830-1894)はものすごく強くて有名な剣客だった。明治27年日清戦争の始まる年まで生きたのだから、さぞ困ったことだろう。

Kyosai_sakakibara_kenkichi_2

「どうもご無沙汰を致しました。しばらく」と御辞儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。頭だけで評すると何か緞帳役者のようにも見えるが、白い小倉の袴のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪らしく穿いているところは榊原健吉の内弟子としか思えない。従って東風君の身体で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。「いや暑いのに、よく御出掛だね。さあずっと、こっちへ通りたまえ」と迷亭先生は自分の家らしい挨拶をする。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月 7日 (日)

レディのための柔術

Pict2

Judo_women7_b

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 6日 (土)

容積の問題(3)

『青いガーネット』がストランド・マガジンに載った1892年(明治25年)ごろの西洋では
「容積が大きければそれだけ頭がよい」
と専門家も一般人も考えていたらしい。もちろん日本人も西洋人にならってそう考えていた。
 しかし、もっと昔の日本人は、現代人と同じように
「極端に頭が小さくてはよくないが、大きいからといって知能がすぐれているとは限らない」
という常識的な考え方をしていたのではないだろうか。

「拝領の烏帽子梶原縫い縮め」
という川柳がございますな。

Kajiwaranokagetoki

 梶原景時は源頼朝お気に入りの家来だった。弟の源義経とは例の逆艪論争などで対立したから、悪人だと言われたけれども。
 その梶原が主人の頼朝から烏帽子を拝領したが、サイズが大きすぎたので縫い縮めてかぶったというのですな。頼朝という人は頭が大きいので有名だった。
 もし拝領の烏帽子をそのままかぶったとしたら、シャーロック・ホームズがヘンリー・ベーカー氏の帽子をかぶったときみたいに、すっぽりと鼻まできただろう。
 しかし
「さすが頼朝公、これだけ大きな頭をもっておられる。なかみも相当あろうじゃないか。征夷大将軍になるお方は家来よりずっと頭がいい」
 なんてえことは、むかしの日本では誰も言わなかった。
 もちろん源頼朝は尊敬されていた。知能も優秀のはず。しかし知能と頭のサイズは別だ。頼朝には「大頭どの」という仇名があった。偉い人だが極大頭は滑稽だ。
 むかしの日本人は19世紀末から20世紀初めの西洋人と比べてはるかに常識があったのだ。
「頭大なれば知能優秀」というトンデモ説が流行ったのは、白色人種優越説と関係があると、私はにらんでいる。
 内村裕之教授は
日本人および欧米人の平均した脳重量は、男子で1370グラム前後、女子はこれより120-130グラム軽い」
と書いている。
 1941年になると日本人と欧米人の脳重量は同じだと分かっていたので、ぜひ書いておかなくては、と思ったのだろう。
 それより前、たとえば19世紀末には、十分なデータも集めずに、脳の重量/容積では、白人>黄色人種>黒人だ、という説が行われたようだ。
 長与又郎は1904年東大医学部を卒業してフライブルグ大学に留学したが、ドイツで「西洋人の脳は日本人より大きい」という説を聞かされたらしい。

 長與又郎が、「『東洋人の脳は、西洋人に比べ小さい』という説に憤慨」して、「『日本民族の優秀性』を実証する事例として集めた」「『傑出人の脳』のコレクション」の中に、漱石の脳の標本も含まれる。長與は、1939年「傑出人脳の研究」で、「生前優れた能力を示した人の脳は、一般人よりも重く」と結論づけていたが、「今は、脳の大きさと頭の良さは関係ないというのが常識」というのは、唐沢俊一も書いている通り。(http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-376.html)(唐沢俊一氏はあちこちで批判されている。よほど偉い人なのだろう。)
 
 しかし、このあたりの行文は「だろう」「らしい」「ようだ」ばかりで、白人脳が重いという論文はいつ誰が書いたか、具体的に書けないのが残念だ。
「顔面角」について、同じような憶説があったことは「毛むくじゃらのアイヌ人」で触れました。http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/6-e104.html

 ホームズもワトソンも活躍したのは百年以上前だ。現代から見れば「トンデモ」の学説を信じている場合もあったのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年2月 5日 (金)

容積の問題(2)

 内村裕之教授によれば、「傑出人脳の研究」は、日本では東大医学部病理学教授であった長与又郎(1878-1941)が始めたものだという。
 長与又郎は夏目漱石の主治医であり、1916年(大正5年)、漱石の死後、鏡子夫人の希望で遺体を解剖した。漱石の脳は取り出され、東大医学部に保存されているそうだ。脳の重さは1425グラムだったという。平均よりやや重いくらいだ。
 内村裕之教授のエッセイに出てきた傑出人は

ツルゲーネフ(1818-1883)  脳重量2012グラム
ビスマルク(1815-1898)        1807グラム
アナトール・フランス(1844-1924)   1017グラム
桂太郎(1847-1913)              1600グラム
 
 19世紀後半から20世紀初めにかけて、「容積が大きければ(重ければ)頭がよい」という仮説を検証すべく、傑出人脳の重量を量るということが行われたらしい。内村教授もこう書いている。

 ことに1900年の初頭以後には、著名な傑出人の脳研究が相次いだ。ことさらに知名な人を二三拾ってみると、物理学者ヘルムホルツ、化学者ブンゼン、同じくメンデレーエフ、画家メンツェル、作曲家ルドルフ・レンツらである。(p.31)

ヘルムホルツ(1821-1894)
ブンゼン(1811-1899)
メンデレーエフ(1834-1907)
メンツェル(1815-1905)
ルドルフ・レンツ(?)

 しかし、最近は傑出人脳の重量を量ったという話は聞かない。湯川秀樹が亡くなったのは1981年だけれど、湯川博士の脳が重かったかどうかなどは話題にならなかった。
「容積が大きければ頭がよい」とも「頭がよければ容積が大きいはずだ」とも言えない――これが現代の常識ではないだろうか。ふつうの人はそう信じているのではないか。脳研究の専門家に聞けば何と答えるか。やはり断定を避けるだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 4日 (木)

容積の問題(1)

「僕の頭のわるいのはよく承知しているが、それにしても君のいうことはさっぱりわからないよ。たとえばこの男の知能のすぐれていることが、どうして分かるんだい?」
 答える代わりにホームズは、帽子をとって自分の頭にかぶってみせた。帽子はすっぽりと鼻まできた。
「容積の問題だよ。これだけ大きな頭をもつ男だったら、なかみも相当あろうじゃないか」
(延原謙訳)

Blue01

 ホームズとワトソンは、ヘンリー・ベーカーという紳士のものらしい帽子をめぐって話し合っているのだった。『青いガーネット』はストランド・マガジンの1892年1月号に載った。
 この時代には「頭の容積が大きければ大きいほど頭がよい」と考えられていたらしい。百年以上前には、ホームズやワトソンも真面目にそう信じていたようだ。
 頭の容積と知能の関係について考え方が変わってきたのはいつごろからだろうか?
 昭和16年(1941年)の東京朝日新聞に、東京大学医学部精神科の内村裕之教授が『傑出人脳のこと』というエッセイを載せている。

 日本人および欧米人の平均した脳重量は、男子で1370グラム前後、女子はこれより120-130グラム軽いのであるが、傑出人脳にははなはだ重いものが稀ではない。ツルゲーネフの2012グラム、ビスマークの1807グラム、わが国では桂太郎公爵の1600グラム等が、巨大な脳髄として知られる。
 しかし重量についても種々の例外がある。従来知られているもっとも巨大な脳髄は、ある癲癇患者の2850グラムであるし、また傑出人中ではアナトール・フランスの1017グラムというように、平均脳重量を遙かに下回るものもある。もっともフランスのように80歳もの高齢者となると、老齢による萎縮のために重量減少を見込まねばならない。1000グラム以下の脳重量で普通人たるの精神機能を営んだ人の脳を研究した学者があるが、それによると、一定の脳容積中にある神経細胞数が、通常脳の三倍以上に増加して、小さい脳容量を補っていたということである。
(中公文庫p.32)

 頭の容積(重さ)と知能の関係について内村教授は断定を避けているようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 3日 (水)

高尚な柔術と捕手風の柔術

 昔は柔術は幾流にもわかれていて、或る流儀は仕方も高尚であり、したがって、身分ある人も、これを学んだのであるが、また、足軽、その他社会の下層におる人々の間に行われた柔術もあって、それらは多く、逆と取るとか、喉をしめるとか、捕手捕縛に用うるような技術を主として教えたのである。それ故、この類の柔術は、武芸の中でも、幾分か、重んぜられぬおもむきがあったのである。しかるに、社会の多数の人には、高尚な柔術はあまり知られずに、捕手風の柔術が、多く知られておったような関係から、柔術は、剣術・槍術等に比し、武術としてやや下った位にあるもののような感を抱くものが多かった。
……自分は高尚なる種類に属する柔術諸流にわたって研究をつみ、柔術というものは、その方法によっては危険のないばかりでなく、体育として大いに価値のあるものであることを認むるに至ったのであるが、世人には、さようのことは、容易に解らない。世間の人々に、これらのことを了解せしむるまでには、相当の年月を要した。
(p.95)

Art191857printfree

  図は世界のレスリングというサイトhttp://www.wrestlingsbest.com/collectibles/wrestuffartwork001.html より。このサイトでは1857 Japanese Printと書いてある。しかし画風は西洋風でありキャプションから見ても、来日した外人が日本の捕手(とりて)をモデルに描いたものだろう。
 昔は岡っ引きはもちろん与力や同心も「不浄役人」として下に見られていた。1967年の東京都知事選挙で、美濃部亮吉陣営の参謀、中野好夫が「秦野はやっぱり警察官」というスローガンを提案したのは差別感情が残っていたからだ。

20090406165145468

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

嘉納治五郎の柔術

 嘉納治五郎が明治23年(1890年)31歳のとき、欧州からの帰国船中で力持ちのロシア人士官を投げて見せた話がある。

 このときかのオランダ人とスイス人とが前日自分が話をした柔術の話を思い出して、一つの動議を出した。かねて柔術の話を聞いていたが、どうして投げるのか。この際実演をして見せてほしい、とこういうのである。……
 いよいよ立ちあがると、彼の士官は自分の背に両手を組み合わせ、右に左にねじ倒そうとした。自分は最初一二度それをうけて、適当なはいりこむ機会を狙ったが、やがて機を見て、半ば腰投げ、半ば背負い投げの形で投げ倒した。その時、当たり前ならば頭から落ちるのだが、自分はすばやく手をもって支えて、頭から落ちないように助けてやった。そこで彼は、腰から先に落ちて、怪我がなくてすんだ。
 船中大喝采。この士官も至極悪びれず、ていねいに握手を求めて快くわかれた。その後この人とは上海まで仲よく話し合うて来た。船中はそのことあって以来、人々から一層親しまれ、これまで冷淡にして通りすがりにも見ぬふりをした人々まで、翌日から皆ねんごろに挨拶をするという具合で、大いにもてた。
 ある英人のごときは、自分が相手を助けたのを見て、試合に勝ったことは術であろうが、あの場合敵を助ける余裕を示されたのは感服のほかはないといって賞嘆した。ここに殊に着眼したのは、いかにも眼のある人と見えた。
(p.p. 227-8)

220pxkano_jigoro_age_28

 嘉納治五郎、強かったのですね。
 明治15年に柔道を創始したのに、ここでは外国人に対して英語では「柔術」と言ったようだ。
 嘉納治五郎自身が「柔道か柔術か」の区別をやかましく言わなかった。
 それに「ジュージツ」の方が外国人に通じやすかった。
 嘉納が1889年に外遊する以前に、すでに柔術家が渡欧していたのではないだろうか。この柔術家に習っていたから、シャーロック・ホームズは1891年5月4日、ライヘンバッハの滝から生還できたのか?

Mor01

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 1日 (月)

嘉納治五郎と総合格闘技

 武術からいうても、いつ相手が蹴ってきても、突いてきても、体をかわすことも出来、身体が自由かつ軽快・敏捷に働くということでなければならぬ。講道館では、乱取をする際、襟をつかみ袖を捕らえて稽古するが、これは初心者を導くに必要なので、これを最後まで用うべき形というのではない。仮に袖を捕り襟を握っても、きわめて軽く握り、これに力を入れてはいかぬ。しからざれば、急速に身体をかわすことが出来ない。
 以上の注意に着眼して稽古をするならば、立っている場合に、今日往々にして見るごとき、むやみに力を入れてねじくり合うと言うことがなくなって、ボクシングをやるものの姿勢などに類した一種の姿勢が、乱取の姿勢になり得るのである。西洋の角力の姿勢は、先方で当て身をせぬと言うことがあらかじめ決まっているから、あのような姿勢でするけれども、もし当て身を予期するならばボクシングのようにせねばならぬはずである。
 柔道は突くばかりではなく、投げもする、また逆も取るから、ボクシングのように、つねに離れていなければならぬのではない。或いは接近して着物をつかみ、手を捕らえ、また首をとらえる。この場合においても、相手が突いてきたり、蹴ってきたときに応じ得る身構えをして接近せねばならぬ。(p.p.55-6)

Susumu36

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »