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2010年3月31日 (水)

海を渡ったサムライたち(1)

 ゴング格闘技5月号の特集「海を渡ったサムライたち」が素晴らしいですね。
 増田俊也氏の『木村政彦はなぜ……」が、まず凄い。木村対エリオ・グレイシー戦は、たとえば下記で見てください。
http://www.youtube.com/watch?v=44wd7GXgep4
 高島学氏によるホリオン・グレイシーのインタビューを読むと、木村が今でもどれだけ尊敬されているかが分かる。

 続いて柳澤健氏の記事が3本ある。
『小野安一という男』では、ブラジリアン柔術の謎の一つが解き明かされる。

(英語版ウィキペディアの前田光世伝によれば、1917年に前田が当時14歳のカーロス・グレイシーに柔術を教え始めたという。グレイシー兄弟の末弟エリオはまだ幼く病弱だったので見学していて、前田光世から直接教わったのではない。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/13-927a.html )

 エリオ・グレイシーは、「ブラジリアン柔術の技はすべて自分たちの工夫したものだ」と主張していたようだが、そうではない。
 小野安一(1910-2003)は、17歳のとき岡山県で起倒流の金光弥一兵衛に入門した。金光弥一兵衛は旧制第六高等学校でも教えていたから、小野はここでも稽古して、当時新しく開発された「三角締め」を身につけた。
 小野安一は1929年にブラジルにわたり、エリオ・グレイシーと試合して引き分けた(試合内容では圧倒した)。ブラジリアン柔術で多用されている三角締めは実は高専柔道の技なのだ――という具合に要約しても面白さは伝わらないだろうな。柳澤氏の記事をともかく読んでみて下さい。あと2本もすごい。

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2010年3月13日 (土)

休止中

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 都合によりしばらく休止中です。できるだけ早く復帰したいのだけれど……

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2010年3月 6日 (土)

白兵戦について(1)

(インド独立裏面史の続きのつもりだったけれど、少々休みで別の話題とする)

 この日、二〇三高地の西南角にあるロシア軍堡塁に香月中佐の連隊が反復突撃し、ついに白兵戦をもってロシア兵をたたき出した。白兵戦の闘技は、日本兵はロシア兵よりもはるかにまさっていた。日本には古来、槍術の伝統があり、それを基礎にしてころころすでに銃剣術の技術が完成していた。
(坂の上の雲 文春文庫版(五)p.p.40-41)

 日本兵はロシア兵より白兵戦が強かった? 本当に?
司馬遼太郎は偉い人だが、この話題に限っては、個人的な実感として「違う」と思う。
 私の祖父は日露戦争時(明治37、38年)に徴兵適齢期だった。長男で高等師範学校学生だったから徴兵されなかったようだ。もし兵隊に取られたとして、祖父が銃剣でロシア兵をやっつけられたか。身長は170cm以上で当時としては大柄だが、ロシア兵より強かったとは思えない。
「槍術の伝統」? 私の友人知人の祖父や曾祖父はかなり従軍したらしいが。九割以上は平民でもと百姓町人だった(わが祖父も同じだ)。ロシア兵を相手に銃剣で戦って勝てたか。
 百姓町人出身兵が白兵戦でからきし弱かったことは、司馬遼太郎自身が書いている。明治10年の西南戦争では、鎮台兵は薩摩兵の切り込みに恐慌を来した。銃剣で対抗なんてできなかった。官軍は火力重視で、単発銃に弾を詰め替え詰め替え撃ちまくった――というような記述が確か『翔ぶが如く』にあったはずだ。
 日本はその後明治27年、28年の日清戦争で勝っているが、相手が弱すぎた。
 ロシアを含むヨーロッパ諸国は19世紀を通じて戦争ばかりしていて、白兵戦で鍛えられていたはずだ。(続く)

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2010年3月 1日 (月)

インド独立裏面史(7)

 20世紀になっても、インド人は土人だった。
 ガンジーの非暴力による抵抗運動が功を奏したのは相手が文明的な英国だったからで、ドイツや日本のような野蛮な帝国主義が相手では通用しなかっただろう――という意見がある。これは正しいだろうか?
 英国と日本は1919年(大正8年)に植民地で事件が起きている。
 1919年3月1日、朝鮮で三一暴動が起こった。
 1919年4月13日にはインドのアムリッツァル市で虐殺があった。

 ガンジーは第一次大戦を戦う英国に協力し、インド人志願兵の募兵まで行った。戦後の自治拡大を期待していたからだ。ところがインド総督府は1919年3月、ローラット法を成立させ自治(独立ではない)を求める運動の取締を強化した。ガンジーは4月6日に24時間のハルタール(ゼネスト)を提案した。インド人の一部は暴徒化した。暴動のもっとも激しかったパンジャーブ州アムリッツァル市では、英国人女教師が暴徒に襲われた。レジナルド・ダイヤー准将が駆けつけ、集会の禁止を命令した。

 四月十三日、約五千人の市民が禁止令を無視して、周囲を建物に囲まれた(アムリッツァル市の)ジャリヤーンワーラー・バーグの公園で集会を開いた。ダイヤー准将は公園の入口を軍隊で封鎖し、発砲を命じた。閉じこめられ武器を持たぬ群衆は恐怖に駆られて逃げまどった。十分のうちに、少なくとも四百人が殺され、千二百人が負傷した。翌日、ダイヤー准将は、英国人女教師が襲われた現場ではインド人は償いとして「四つん這いに這って歩け」という命令を下した。さらに彼は、インド人が英国人に対して十分な敬意を示さないときは(たとえば牛車に乗っておれば直ちに降りて敬礼しなければならない)、公開笞打ち刑に処すと宣告した。
(p.191)

 どちらが暴虐だったか? 日本人にはここまではできなかったはずだ。「日鮮同祖論」も迷惑だったには違いないが……
 しかし、インド人の一部は白人(あるいはアーリア人)であるという考え方は19世紀からあったのだ。インドでも一種の「同祖論」があったようだ。(続く)

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