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2010年4月29日 (木)

嘉納治五郎

 柔道の父・嘉納治五郎は教育者です。高等師範学校、後の教育大学、筑波大学の校長を20年も務め、さらに文部省参事官をも兼務しました。講道館の興隆期は、嘉納治五郎が教育界の大ボスに上りつめた時期にピッタリと重なっています。……
……教育者である嘉納治五郎先生は、相手を勢いよく倒して背中をつければ一本、30秒(もしくは1分)押さえ込めば一本という画期的なルールを考案しました。
 ギブアップや失神KOといった、明確ではあっても野蛮な決着よりも、近代的でエレガントな勝負判定法を採用したのです。
 ここに古流柔術と近代柔道の決定的な差があります。
(柳澤健『光の柔道、影の柔術』より)

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(高等師範学校への就職の話で)嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。
 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。……
 しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんもあなたはあまり正直過ぎて困ると云ったくらいですから、あるいはもっと横着をきめていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向な所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けたお話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。
(『私の個人主義』より)

 校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。宿屋へ五円やったから財布の中には九円なにがししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶代なんかやらなければよかった。惜しい事をした。しかし九円だって、どうかならない事はない。旅費は足りなくっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。そのくらいよく知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。

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2010年4月24日 (土)

世界最強 ヒョードル格闘技教本(4)

 英語では柔道や相撲の技や組み手を的確に表す語句がないようで、『ヒョードル格闘技教本』のアメリカ人ライターも苦労している。
 たとえば、132-3頁の技は「右四つから右大内刈り」であることは、連続写真を見れば分かる。しかし英語では「右(左)四つ」に当たるフレーズはないらしい。大外刈りはOsotogariでよいが、Ouchigariは通じないようだ。見出しはInside Leg Trip from Over-Under Controlである。「上・下コントロールからの内側足刈り」であって、言葉だけでは分からない。
 この項では、右四つに組み合った互角の体勢から右大内刈りをかけて重ね餅に倒れ、上体を起こして左手でパウンドを打っている。
 大内刈りがInside Leg Tripなら、小内刈りはどういうか? 146-7頁で、もう少し浅く組んだ体勢(柔道の右組みに近い)から変形の右小内刈りをかけている。この項の見出しは、Cross-Body Inside Leg Tripである。
 大内刈りと小内刈りの区別もつけられないのだから、英語も不便だね。
 しかし、パンチとキック、首相撲、投げ技、タックル、寝技、パウンドなど、ヒョードルの使う技とコンビネーションを百種類以上も網羅してカラー図版付き260頁にする徹底性が、アメリカ式の本作りの偉いところかも知れない。日本ではここまでしつこく手間をかけられないのじゃなかろうか。

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2010年4月22日 (木)

世界最強 ヒョードル格闘技教本(3)

 ヒョードルが通訳を通して「人生の最初の2年をウクライナに過ごした」と言ったからといって、そのまま書いていては世話はない。
 すぐに「何年生まれですか?」と反問しなくては。あるいは後で調べて書いてもよい。いずれにせよ、読者の身になって具体的なデータを提供してくれなくては困る。たとえば

柔道では、1997年ロシア国際トーナメントと98年全ロシア柔道選手権に優勝し、99年にはロシア国際柔道選手権とブルガリア国際柔道選手権で3位になった。サンボでは、1998年にAクラス国際トーナメントに優勝、ロシア軍サンボ選手権に準優勝し、99年にモスクワ国際トーナメントに優勝、Aクラス国際トーナメントで3位になった。2000年には全ロシアサンボ選手権で3位になった。

 というのは、ウィキペディアを見て私がでっち上げたのだ。原文では漠然と「プロになる前にはサンボの大会に何度も出て優勝した云々」と書いてある。柔道には触れていない。サンボの説明として「柔道やアマレスに似たロシアの競技」と書いてあるだけだ。アメリカ人は柔道のことなどよく知らないらしい。
 英語の語法も間違っている。ヒョードル対ミルコ戦がなかなか実現しなくて、面倒なことになり

It turned out to be a bit of physiological war at first.

「少々心理戦の様相を呈してきた」と言うつもりか。しかし
心理的psychologicalと生理的physiologicalを混同するのはお粗末だ。
 アメリカの格闘技ライターの水準はあまり高くないらしい。
 いや、待てよ。私は格闘技の本を英語でそんなに読んでいるわけではない。この本のほかに最近読んだのは、前田光世伝のThe Toughest Man Who Ever Livedくらいだ。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/1-2c8c.html など
 
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 この前田光世伝も、題材はいいのに詰めが甘い。たとえば、レスラー相手の戦いでは「相手に柔道着を着せる」ことを条件としたのだが、そういう肝心のことがきちんと書いてない。私が知っているのは神山典士氏や丸島隆雄氏の本を読んだからだ。

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2010年4月21日 (水)

世界最強 ヒョードル格闘技教本(2)

Fedor: The Fighting System of the World's Undisputed King of Mixed Martial Arts
 は、ご存じヒョードルにアメリカ人の格闘技ライター(エリック・クラウスとグレン・ゴンドーザ)が話を聞いて書いた本である。
 27cm×23cmの大判で263頁。ヒョードルが同僚のロシア人ヘビー級選手を相手にパンチとキック、テイクダウン、寝技、パウンドを実演して見せ、説明を加える。

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  およそ百種類ほどの技やコンビネーションを披露している。
 たとえばp.196-7では、ヒョードルがスパーリングパートナーを相手に「Shoulder Lock from Half Guard Topハーフガードから腕絡み」を極めるところをカラーの連続写真で示し、解説をつけ加えている。この解説(「腕絡み」を見出しではshoulder lock、本文ではkimura lockと書いている)が適切かどうかは、ブログ筆者には判断しかねる。
 腕絡みなどヒョードルにはお手の物だけれども、英語のテキストはアメリカ人のライターが通訳を通じてヒョードルに話を聞いて書いているのである。二人のアメリカ人筆者は格闘技の経験者であろうし、目の前でヒョードルが実演してみせればそんなに間違ったことは書かないだろうとは思う。
 しかし、この二人のアメリカ人ライターは英語があまり上手ではないのだ。この本のはじめにヒョードル自身が語ったという触れ込みのIntroductionがついているが、昨日の「はじめに」はその忠実な翻訳ではない。
 Introductionの第一段落を忠実に訳してみると

 私は人生の最初の二年間をウクライナで過ごしたが、その後私の家族はロシアのベルゴグラード地方の工業都市スターリーオスコル(モスクワの500マイル南)に移った。私はまずふつうの子供だった。余暇は音楽のレッスンと友達とのサッカーで過ごし、あらゆるスポーツマンをアイドル視していた。プロのスポーツマンの生活こそが栄誉に満ちたものだと思った。大人になったら何になろうかと考えると、最高のヒーローであるユーリ・ウラソフの生き方に心が引かれるのだった。

  これは書き換えなければ分からないだろう。

 私は1976年に旧ソ連のウクライナ共和国で生まれ、2歳の時に家族とともにロシア共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコル市に移った。私はごくふつうの子供だったが、当時のソ連でステート・アマチュアとして活躍していた競技者たちにあこがれていた。特に重量挙げヘビー級のユーリ・ウラソフ選手が私のアイドルだった。 

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2010年4月20日 (火)

世界最強 ヒョードル格闘技教本(1)

はじめに 

 私は1976年に旧ソ連のウクライナ共和国で生まれ、2歳の時に家族とともにロシア共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコル市に移った。私はごくふつうの子供だったが、当時のソ連でステート・アマチュアとして活躍していた競技者たちにあこがれていた。特に重量挙げヘビー級のユーリ・ウラソフ選手が私のアイドルだった。

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  ウラソフ選手は眼鏡をかけて学者みたいな風貌だが、ソ連邦スポーツマスターの称号を得ていた。彼は1959年から1963年に出場したすべての大会で優勝した。1960年のローマ五輪ではクリーンアンドジャークで世界新を三度更新し、歴史上初めて200kg以上(202.5kg)を差し上げた。彼は6年連続でヨーロッパ・チャンピオンとなり、「地球上最強の男」と呼ばれた。ウラソフ選手の活躍は私の生まれる前だったが、ソ連(1991年に崩壊)はスポーツマンが尊敬される国で、彼は老年になっても英雄だった。私は彼のようになりたいと思っていた。
 11歳のとき、この夢を実現するきっかけが訪れた。ある日私は母が教えていた学校を訪ね、母の同僚の先生で放課後にサンボと柔道を教えている人に紹介された。この先生はしばらく私と話してから、君も練習してみないか、と誘ってくれた。これほどうれしかったことはない。我が家は豊かではなく、これまでは課外活動にうちこむ余裕はなかったのだが、ようやくスポーツで名を挙げるチャンスを得たのだ。
 練習を始めると、すぐに自分より天分がある子供がいることに気づいた。しかし私はくじけず、ますますやる気が出るのだった。自分の弱点を克服するために全力を尽くした。ほかの子供が帰ってからも正しい動きを身につけるまで技を研究した。やがて努力が報われるようになってきた。
 父が試合を見に来てくれるとうれしかったが、大変なプレッシャーでもあった。大会で優勝したときの喜びは大きかった。自分は格闘技をするために生まれてきたのだと思った。少しでも時間があればサンボと柔道の練習に当てた。17歳になると子供たちを教えるようになったが、指導は自分の技の向上にも役立った。
 1994年、18歳で専門学校を卒業すると、翌年ロシア陸軍に入った。男が一人前になるためにはぜひとも軍隊に入るべきだと私は思う。私は責任の観念を覚え祖国のために戦う覚悟ができた。格闘技から学んだことは多いが、私が本当に男になったのは軍に入ってからだ。人生観が変わり、体の中から力がわき出してくるような気がした。
 軍での1年目は消防隊に、2年目は戦車隊に配属された。特に戦車隊では覚えることが多かった。暇さえあればトレーニングしたが、そもそも暇はほとんどなかった。軍にいた2年間で大会に出たのは一度だけ、1996年の全ロシア柔道選手権だったが、幸いにも優勝することができた。
 曹長に昇進して1997年に退役すると、すぐに柔道とサンボの両方の大会に出始めた。
 柔道では、1997年ロシア国際トーナメントと98年全ロシア柔道選手権に優勝し、99年にはロシア国際柔道選手権とブルガリア国際柔道選手権で3位になった。サンボでは、1998年にAクラス国際トーナメントに優勝、ロシア軍サンボ選手権に準優勝し、99年にモスクワ国際トーナメントに優勝、Aクラス国際トーナメントで3位になった。2000年には全ロシアサンボ選手権で3位になった。
 しかし問題は経済面だった。かつてのソ連のようにステート・アマチュアとして国から資金が出るのだったら、柔道でオリンピックを目指していたかもしれない。しかし今ではプロになるべきだった。2000年初めに、私は日本の「リングス」で活躍していたヴォルク・ハンのジムで総合格闘技の練習を始めた。
  2000年5月、モスクワの南方にあるトゥーラ市で初めて総合格闘技の試合に出た。このときは8分で勝った。9月には初めて日本で試合し、高田浩也選手に9秒でKO勝ちした。2001年8月のリングス世界選手権では、準決勝で本命のレナート・ババルに判定勝ちし、決勝は不戦勝で初代リングス世界ヘビー級王者になった。
 2002年にリングスが活動を停止すると私はPRIDEに参戦した。これは日本の総合格闘技組織で、9万人もの観衆を集める世界最大のイベントだった。世界中から最高レベルの選手が集まってきた。
 PRIDEでの初戦は2002年6月、オランダのセーム・シュルトが相手だった。シュルトは身長212cmの巨人でリーチも30cmの差があったが、判定勝ちをおさめることができた。2003年3月、初代PRIDEヘビー級王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに挑戦した。この試合ではパンチとパウンドで主導権を握り、3-0の判定勝ちでタイトルを獲得した。2004年にはヘビー級GPトーナメントに参加し、大晦日のノゲイラとの再戦で判定勝ちしてGP王者となった。
 しかし私が真に「最強の男」となるには、倒すべき敵が一人残っていた。ミルコ・クロコップだ。キックボクサー出身のクロコップは、左ハイキックでKOの山を築いていた。対クロコップ戦は2003年からの懸案だったが、私の負傷などによって延び延びになっていたのだ。しかし遂に2005年の8月に試合が行われることになった。
 これは対ノゲイラ戦と並んでもっともタフな試合になることは分かっていたから、オランダでキャンプを張った。私は優秀なキックボクサーを招いて十分に対策を練った。試合では作戦通りに打撃で攻め立てグラウンドをも制して判定勝ちした。私は遂に格闘技界のトップに立った。

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 2007年4月にPRIDEが活動を休止した後は米国に主戦場を移したが、日本でも戦い、ロシアでコマンド・サンボの大会にも出て優勝している。現在私はストライクフォースと契約している。2009年11月7日には、ブレット・ロジャースと初めて金網で戦ったが、2ラウンドに右クロスでTKO勝ちをおさめた。
 格闘技は私にすべてを与えてくれた。子供のころ、私と弟は二人で一枚のセーターをかわりばんこに着てロシアの冬をしのいだものだ。格闘技のおかげで今では私も家族も金の心配がなくなった。ピョートル大帝勲章を受章し、プーチン大統領にも会うことができた。子供のころ私はユーリ・ウラソフ選手にあこがれていた。今では私が格闘技を志すロシアの若者たちに夢を与えることができるのだ。
 私は2003年末からレッドデビル・スポーツクラブに所属し、仲間たちと森の中のジムで合宿して、週に6日、1日に3回厳しいトレーニングに励んでいる。
 1日3回は必ずトレーニングするのがロシア流だ。ジムでパンチとキック、組技、寝技の練習をし、森の中を走り、急な坂道を駆け上がり、ハンマーで古タイヤを叩く。最新式の器具などは使わない。ただ徹底的に汗を流すのだ。
 この本では、私がいつも使っている技を丁寧に説明する。地味だが効果は実証済みの技ばかりだ。私はこのような技を使って、柔道、柔術、レスリング、キックボクシングなどさまざまのバックグラウンドを有する世界の強豪を降してきた。格闘技で頂点に立つために必要なツールはすべてここにある。成功するかどうかは、君のやる気次第だ。

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2010年4月19日 (月)

煙草を吸わなければ

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いい人だとは限らない。

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2010年4月18日 (日)

みなさまのNHK

 わたくしNHKの受信料をいただきに参りました。そうです。みなさまのエネーチケーです。あなたが中にいらっしゃることはわかっております。どれだけ息をひそめていても、それはわかるのです。長年この仕事をしておりますから、本当にお留守なのか、居留守をきめこんでいるのか、見分けられるようになります。……

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 4月16日の朝のニュースでは
「村上春樹さんの『1Q84』が発売になりました。」
 と報じていたが、夜のニュースでは何も言わなかった。読んだからだろう。

 そこで今回の君の任務だが、村上さんに代わって「みなさまのNHKの集金人」の制服をデザインしてくれたまえ。

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2010年4月17日 (土)

牛河の煙草

「牛河さん」と相手は言った。そして何度か咳き込んだ。「申し訳ないんですが、煙草を消していただけませんか?」
「煙草?」、牛河は自分の指にはさまれたセブンスターを見た。その煙は静かに天井に向けて立ち上っていた。「ああ、たしかに煙草は吸っているけれど、でもこれは電話だよ。どうしてそんなことがわかるのかな」
「もちろん匂いはここまではきません。でもそういう息づかいを電話口で耳にしているだけで、呼吸が苦しくなるのです。極端なアレルギー体質なものですから」

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 笑っちゃった。ふかえりなら「かわいそうな牛河さん」と言うだろうか?
 ここまで読んで、第7章のタイトルが〈牛河〉となっていることにやっと気づいた。私はうかつにもBOOK1, 2と同じように〈青豆〉と〈天吾〉の章が交互に現れるのだと思い込んでいた。
 第1章が〈牛河〉だった。書き出しは

「煙草は吸わないでいただけますか、牛河さん」と背の低い方の男が言った。

 以下、〈牛河〉〈青豆〉〈天吾〉の三交代制である。
 牛河視点の導入は成功だ。
 しかし『ねじまき鳥』の方がよかったように思う――というのは、あくまで私の好みだけれど……

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2010年4月16日 (金)

タイガーをあなたの車に

 青豆はシートに身をもたせかけ、静かに呼吸をしながら、すっかり見慣れたエッソの広告看板に目をやった。虎が横顔をこちらに向け、微笑みながら給油ホースを手にしている。「タイガーをあなたの車に」とそこにはあった。
「タイガーをあなたの車に」と青豆は小さくつぶやいた。
「なんでしょう?」と運転手がミラーの中の彼女に向かって尋ねた。
「なんでもない。独り言」
 あと少しここで生きて、何が起こるのか見届けよう。死ぬのはそれからでも遅くはない。おそらく。
(p.40)

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さあ、どうなるのでしょうか。これから読むところです。

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2010年4月15日 (木)

インド独立裏面史(8)

 ウィンストン・チャーチル(1874-1965)は1881年(明治14年)に小学校に入学した。自伝『わが半生』によると、入学第一日に校長先生から

mensa, mensae, mensae, mensam, mensa, mensa
テーブルが、~の、~に、~を、~によって、テーブルよ

 という表を渡されて「これを覚えなさい」と言われた。
「テーブルが」から「テーブルによって」までは分かるけれども、「テーブルよ」とは何だろう? 
 質問してみると「テーブルに呼びかけるときに使う」という答えだった。「そんな馬鹿な。僕はテーブルに呼びかけたりしません」と言うと、「生意気なことを言うと鞭でひっぱたくぞ」と脅かされた。
 この年から1893年(明治26年)にサンドハースト陸軍士官学校に入学するまで、チャーチルはラテン語に苦しんだ。入学試験には二度落第して、受験予備校へ通ってやっと合格したのだった。(そういう予備校の一つで数学を教えていたのが、シャーロック・ホームズの宿敵、モリアーティ教授であった。)
→モリアーティ元教授の職業(2)など参照
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/2_dc10.html

 当時は勉強と言えばラテン語とギリシャ語を覚えることだった。チャーチルよりやや先輩のアーサー・コナン・ドイル(1859-1930)も、ストーニーハースト校でギリシャ語とラテン語をたたき込まれた。医者になるのに備えて自然科学を勉強しておくという考え方はなかったようだ。ドイルは「ギリシャ語とラテン語に費やした時間はまったく無駄だった」と回想している。

「テーブルが」から「テーブルよ」までは、主格、属格、与格、対格、脱格、呼格という格変化である。格変化する言語を屈折語という。
 英語の場合は一応、主格、所有格、目的格があるけれども、tableという形だけ覚えれば済む。これは格変化が退化したのだそうだ。
 ドイツ語だとテーブルはTischという男性名詞で、定冠詞derも変化して

der Tisch, des Tisches, dem Tische, den Tisch
テーブルが、~の、~に、~を

 の4格に屈折するのだった。
 イギリスに限らずヨーロッパ諸国では、複雑な格変化を有するラテン語とギリシャ語の勉強が重んぜられた。一つには、ラテン語ギリシャ語が欧州諸語の祖型をとどめていると考えられたからだ。
 ところが、18世紀末から19世紀に、インドのサンスクリットも「インド・ヨーロッパ語族」の古い言葉らしいということが分かってきた。

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2010年4月12日 (月)

白兵戦について(7)

(第一次世界大戦の)宣戦布告の当時、(パブリック・スクールの)在学生の大半は兵役を志願するには年齢が不足であったが、いずれも適当な口実を藉りて従軍の素志を果たし、そのあるものは遂に生還しなかった。後には徴兵制度に変わったが開戦当初、志願によっていた頃、オックスフォード、ケムブリッジ両大学やパブリック・スクールの学生など、いわゆる、特権階級の子弟が率先して国難に馳せたことは周知のことである。政治上の特権はほとんど失われていたが、なお、社会的には特異な待遇を受けていた彼等の、特権を裏返してそこにともなう義務を潔く果たそうとする希願より出でたことに外ならない。いわゆる『ノブレス・オブリージ』の精神である。
 ピーター・ブレナンの自叙伝の一節であるが、たまたまハロー校で博物学の教師を務めていた彼が、夏休みを利用して教え子の某伯爵の一人息子と自転車旅行に出ている。宣戦布告のニュースを聞くと、二人はそのまま、旅先から自転車を走らせてロンドンに駆けつけ、従軍志願者の長い行列に並ぶ。彼は無事に通るが、少年は十六歳を二十歳と詐ったのを見破られて拒ねられる。ぐるっと回って、また、行列の尻尾につく。三度目に遂々業を煮やした曹長がわざとそっぽを向いている中に、勇躍、関所を通り抜けてしまう。
 それから四年半の後、一人は片脚になって帰り、一人は遂に帰らない。
 ああ勿体ない、イギリスに自転車が二台、余分になった。帰還した日に埠頭ではじめて愛弟子の戦死を聞かされると、ニヤッと笑ってそんな独白をいう。こんな場合ひねくれたことをいってみる癖がイギリス人には多分にある。他人に涙なんか見せられものか。(p.p. 74-5)

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『君死にたまふことなかれ』とはずいぶん違う。「学徒出陣」とも違う。
 しかし、第一次大戦時のイギリス兵も多くは機関銃に向かって無謀な銃剣突撃をさせられて死んだのだ。上層部が愚かだったのは日本陸軍だけではない。

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2010年4月 8日 (木)

白兵戦について(6)

 日露戦争には欧州各国が観戦武官を派遣していた。機関銃を装備した敵に対しては銃剣突撃は無意味である――という報告がなされて、欧州で陸軍戦術の革新が行われたか? 

 1913年になってもなお、(第一次大戦で仏軍の総司令官になる)ジョフルは戦術に関し、フランス陸軍の任務をこう書いている。
「フランス軍は、その伝統に立ち返り、今後は攻撃以外の方策を認めない。(中略)この成果は尊い血の犠牲があってこそ得られるべきものである。これ以外の考え方はどんなものであろうと、戦争の本質に反するものとして排除されるべきだ」
 ドイツの考え方も似たり寄ったりだった。1899年に定められた歩兵軍規が、ほとんど手を加えられずに1914年まで受け継がれていた。それには攻撃について、こう書かれている。
 
 後方にいる司令官が突撃の決定を下すと、その指示に「構え銃」の号令が出される。(中略)突撃の先陣の隊列が整いしだい、全ラッパ手が「前進、駆け足」の合図を吹き鳴らし、全鼓手が太鼓を打ち鳴らし、兵士たちは全員、捨て身の覚悟で敵に突撃する。この時、敵陣につっこむ瞬間まで支援部隊に追いつかれないようにするのが、散兵の面目である。敵陣が目前に迫ったときには、かけ声もろとも銃剣で突撃し、つっこんでいくべし。
(p.p.95-6)

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 1915年6月の英軍の突撃のシーン。もちろん銃後の画家が想像で描いたものだ。
 イギリスでは、機関銃の採用には独仏以上に消極的だった。1914年の開戦時、歩兵一個大隊にヴィッカーズ機関銃が2丁あったが、実戦に使う用意はできていなかった。
 司馬遼太郎によれば「日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった」というが、これは日本陸軍だけの伝統ではなかった。

 機関銃に対する軍の反応は、技術的あるいは財政的配慮にもとづいた理論的なものではなく、時代錯誤的な士官団の伝統に根差すものだった。士官たちの戦争に対する観念は、未だに昔ながらの白兵戦と個人の武勇という信念が中心になっていた。自分たちは戦場で相見えるのであり、そこでは主役は未だ人間であり、勇気と覚悟さえあれば必ず勝てるものだと思っていた。幸運にもイギリス人、あるいはフランス人、ドイツ人に生まれたからには、当然それにふさわしい気質にも恵まれているはずだ。そうした者が、単なる機械に昔ながらの自分たちの特権を奪われるのを容認するわけにはいかない。そこで、機関銃を無視することになった。第一次世界大戦前夜のイギリスの司令官にとっては、機関銃はただ単に存在しなかった。
(機関銃の社会史p.126)

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2010年4月 6日 (火)

白兵戦について(5)

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺の街のあきびとの
舊家をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、
十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 解説はhttp://www.geocities.jp/sybrma/62yosanoakiko.shi.html

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 お祖母さんと孫だから、よく見ると似てますね。
「すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね」なんて、すごい。よく発禁にならなかったものだ。
 第一回の総攻撃で死傷者1万5800人(戦死者5017人、負傷者10843人)という損害がいかに衝撃的だったかが分かる。

 兵頭二十八氏によると、乃木希典は旅順要塞を攻め落とすのに15400人の戦死者を出したことの責任を取って、明治帝に殉死したのだという。(西南戦争で軍旗を奪われた責任、というのがこれまで言われてきたことだ。)
 ところが、日本ではそれまで一会戦の戦死者が1万人を越えることはほとんどなかったという。

関ヶ原の合戦(1600)で、敵味方合わせて六千人。
大坂夏の陣(1615)では、豊臣方から一万四千~一万八千人の戦死者。徳川方は不明。
戊辰戦争(1868-9)では、東軍7400人。薩摩と長州が千人ずつ。東征に参加した他藩では二百人程度。
西南戦争(1877)では、薩摩側6239人、政府軍4653人。
日清戦争(1894-5)では、1264人の戦死。

 ヨーロッパでは桁が違う。

 1812年6月、皇帝ナポレオンは、フランス国民兵四十五万三千を率いてニエメン河を渡河し、ロシアに侵攻した。
 同年十一月、ナポレオンは攻撃発起点まで戻ってきた。しかし、その退却につきしたがっていたフランス兵の数は、一万以下に減っていた。(兵頭p.57)

 しかし
ロシアに三十万~四十万の死体を捨て逃げ帰ってきたナポレオンを、フランス国民は見捨てなかった。フランス国民の外敵に対する戦意は、以前と変わらず維持されたのだった。(p.58)

 アメリカの南北戦争(1861-65)では、南北双方で六十万~七十万の戦死者が出た。日露戦争の戦死者は56162人で、「大坂夏の陣を含む近代以前の大戦争の記録は、塗り替えられた」(p.62)

このあと、日本は第一次大戦の大殺戮には本格的には参加せずに、第二次大戦に参戦するのである。軍事が分からないのも無理はないだろう。兵頭二十八氏の本を読むべし。

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2010年4月 5日 (月)

白兵戦について(4)

 乃木軍がいよいよ第一回総攻撃をはじめたのは、(1904年)八月十九日からであった。瀋陽会戦の開始よりすこし前であった。ところがこの攻撃が、弱点攻撃をもって対要塞戦の原則とするにもかかわらず、もっとも強靱な盤竜山と東鶏冠山をえらび、その中央を突破して全要塞を真二つに分断しようというほとんど机上案にちかい作戦をたて、実施した。 
 この実施によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛攻で死傷一万五千八百人という巨大なものであり、しかも敵にあたえた損害は軽微で、小塁一つぬけなかった。
(坂の上の雲 文春文庫版(4)p.p.176-7)

 第一回総攻撃では、日本軍の銃剣突撃をロシア軍が機関銃でなぎ倒したのである。
「日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった。」(p.176)
乃木将軍無能説は司馬遼太郎によって定着した。
ところが軍学者の兵頭二十八氏によると、必ずしもそんなことは言えないという。旅順のような要塞を1904年8月19日から翌年1月1日まで半年足らずの短期間で陥落させたのは上出来で、死傷者も多すぎはしない。この辺は詳しく説明してもらわないと素人には分かりかねる。
 しかし、旅順での死傷者数に衝撃を受けたのは、当時の日本人がヨーロッパの諸国民と比べて「戦死」に慣れていなかったからだ――という兵頭説ははじめて聞いたが、説得力がある。明治の日本ではヨーロッパより命の値段が高かったらしい。(続く)

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2010年4月 4日 (日)

煙草!

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2010年4月 3日 (土)

白兵戦について(3)

 司馬遼太郎の『竜馬が行く』には、ゲベール銃、ミニエー銃、スナイドル銃、シャスポー銃など、色々な銃の名前が出てきて、どれがどれか分かりにくい。
 戊辰戦争の少し前に、西洋ではつぎつぎと新しい銃が発明されていた。当時はクリミア戦争(1853-56)、インド大反乱(1857-58)、南北戦争(1861-65)などが終わったところで、欧米では銃が余っていた。グラバーのような武器商人が日本に売り込みに来て、坂本竜馬や河合継之助などがどんどん銃を買い付けた。
 ゲベール銃というのは要するにマスケット銃であるらしい。マスケット銃の撃ち方はhttp://geopoli.exblog.jp/10585806/
 ミニエー銃は1849年に発明された。先込め式の銃であるが、銃身は滑腔式ではなくてライフルが刻んである。弾は直径が銃身内径より小さいから銃口から込められるが、発射すると膨張してライフルに食い込んで回転を与えられる。これで射程距離も命中精度も飛躍的に向上した。

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ミニエー銃の銃弾

 スナイドル銃やシャスポー銃は元込め式のライフル銃である。当時はまだ単発だったこと、黒色火薬を用いたことを除けば、現代のライフル銃とほとんど変わらない。
 戊辰戦争では、火縄銃から最新式のライフル銃まで各種の小銃が混用された。
 西洋では、イギリスを例に取れば、ナポレオン戦争でマスケット銃、クリミア戦争でミニエー銃、ボーア戦争(1899-1902)でスナイドル銃を使い、命中精度も発射速度も向上していったが、銃剣は重要な武器だった。ただ、ボーア戦争では相手がゲリラであったから、銃剣突撃の機会はほとんどなかったようだ。

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2010年4月 2日 (金)

白兵戦について(2)

 19世紀のヨーロッパ諸国の陸軍は、いずれも「白兵戦の闘技」を重視していた。
 ナポレオン戦争(1804-1817)では、銃剣が歩兵の主武器だった。当時の小銃はマスケット銃である。これは先込め式の滑腔銃(銃身にライフリングがない)であり、火縄銃との違いは、点火に火縄の代わりに燧石(フリント)による火花を使うことだった。
 マスケット銃は命中精度が低いので狙撃には使わず、照準用の照門がなかった。日本の火縄銃は近距離の狙撃に用いられ、50m以内では百発百中だったという。(この項は兵頭二十八氏の本による。ただし私が勝手にまとめたので、詳しく知りたい人は自分で兵頭氏の本を読むべし。)

 ナポレオン戦争時代の歩兵は、銃剣付きでは全長2m以上になるマスケット銃を持って戦った。両軍が銃を構えたまま歩調を取って互いに近づき、数十歩の距離になると指揮官の号令で一斉射撃する。命中する弾は少ないが、二発目を込める余裕はないから、そのまま銃剣突撃に移る。

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 ナポレオン戦争の時代は、日本では文化年間(1804-1817)である。次の文政年間(1817-1829)と併せて化政時代は町人文化の全盛時代であり、銃剣で突き刺して殺し合うなどという残酷なことは、もちろん行われなかった。

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2010年4月 1日 (木)

海を渡ったサムライたち(2)

 シャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンのことはご存じでしょう。
 いずれも20世紀初頭に大人気を博した探偵小説シリーズです。
 ホームズもルパンも実は柔術の使い手でした。……
(柳澤健)

 73頁からの『光の柔道、影の柔術』では、柳澤氏はシャーロック・ホームズの「バリツ」から話を始めて、まず柔術家谷幸雄の活躍をゴン格の読者に紹介する。
 私はグレアム・ノーブル氏のThe Odyssey of Yukio Tani
http://ejmas.com/jalt/jaltart_Noble_1000.htm
を一部翻訳して(柔道か柔術か(13)http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/13_5b63.html から)、日本語では自分が最初に紹介したのだと思っていたが、そうではなかった。
 柳澤氏が月刊秘伝という雑誌の2007年7月号に『もう一人のコンデ・コマ"スモール・タニ"谷幸雄』として翻訳を載せている。
 ゴン格の記事は、嘉納治五郎が教育者として「柔道の品格」を重んじ寝技を嫌ったために実戦から離れていった経緯を解明している。(柳澤氏は「柔道の品格」とは書いていない。)

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