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2010年4月20日 (火)

世界最強 ヒョードル格闘技教本(1)

はじめに 

 私は1976年に旧ソ連のウクライナ共和国で生まれ、2歳の時に家族とともにロシア共和国ベルゴロド州スタールイ・オスコル市に移った。私はごくふつうの子供だったが、当時のソ連でステート・アマチュアとして活躍していた競技者たちにあこがれていた。特に重量挙げヘビー級のユーリ・ウラソフ選手が私のアイドルだった。

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  ウラソフ選手は眼鏡をかけて学者みたいな風貌だが、ソ連邦スポーツマスターの称号を得ていた。彼は1959年から1963年に出場したすべての大会で優勝した。1960年のローマ五輪ではクリーンアンドジャークで世界新を三度更新し、歴史上初めて200kg以上(202.5kg)を差し上げた。彼は6年連続でヨーロッパ・チャンピオンとなり、「地球上最強の男」と呼ばれた。ウラソフ選手の活躍は私の生まれる前だったが、ソ連(1991年に崩壊)はスポーツマンが尊敬される国で、彼は老年になっても英雄だった。私は彼のようになりたいと思っていた。
 11歳のとき、この夢を実現するきっかけが訪れた。ある日私は母が教えていた学校を訪ね、母の同僚の先生で放課後にサンボと柔道を教えている人に紹介された。この先生はしばらく私と話してから、君も練習してみないか、と誘ってくれた。これほどうれしかったことはない。我が家は豊かではなく、これまでは課外活動にうちこむ余裕はなかったのだが、ようやくスポーツで名を挙げるチャンスを得たのだ。
 練習を始めると、すぐに自分より天分がある子供がいることに気づいた。しかし私はくじけず、ますますやる気が出るのだった。自分の弱点を克服するために全力を尽くした。ほかの子供が帰ってからも正しい動きを身につけるまで技を研究した。やがて努力が報われるようになってきた。
 父が試合を見に来てくれるとうれしかったが、大変なプレッシャーでもあった。大会で優勝したときの喜びは大きかった。自分は格闘技をするために生まれてきたのだと思った。少しでも時間があればサンボと柔道の練習に当てた。17歳になると子供たちを教えるようになったが、指導は自分の技の向上にも役立った。
 1994年、18歳で専門学校を卒業すると、翌年ロシア陸軍に入った。男が一人前になるためにはぜひとも軍隊に入るべきだと私は思う。私は責任の観念を覚え祖国のために戦う覚悟ができた。格闘技から学んだことは多いが、私が本当に男になったのは軍に入ってからだ。人生観が変わり、体の中から力がわき出してくるような気がした。
 軍での1年目は消防隊に、2年目は戦車隊に配属された。特に戦車隊では覚えることが多かった。暇さえあればトレーニングしたが、そもそも暇はほとんどなかった。軍にいた2年間で大会に出たのは一度だけ、1996年の全ロシア柔道選手権だったが、幸いにも優勝することができた。
 曹長に昇進して1997年に退役すると、すぐに柔道とサンボの両方の大会に出始めた。
 柔道では、1997年ロシア国際トーナメントと98年全ロシア柔道選手権に優勝し、99年にはロシア国際柔道選手権とブルガリア国際柔道選手権で3位になった。サンボでは、1998年にAクラス国際トーナメントに優勝、ロシア軍サンボ選手権に準優勝し、99年にモスクワ国際トーナメントに優勝、Aクラス国際トーナメントで3位になった。2000年には全ロシアサンボ選手権で3位になった。
 しかし問題は経済面だった。かつてのソ連のようにステート・アマチュアとして国から資金が出るのだったら、柔道でオリンピックを目指していたかもしれない。しかし今ではプロになるべきだった。2000年初めに、私は日本の「リングス」で活躍していたヴォルク・ハンのジムで総合格闘技の練習を始めた。
  2000年5月、モスクワの南方にあるトゥーラ市で初めて総合格闘技の試合に出た。このときは8分で勝った。9月には初めて日本で試合し、高田浩也選手に9秒でKO勝ちした。2001年8月のリングス世界選手権では、準決勝で本命のレナート・ババルに判定勝ちし、決勝は不戦勝で初代リングス世界ヘビー級王者になった。
 2002年にリングスが活動を停止すると私はPRIDEに参戦した。これは日本の総合格闘技組織で、9万人もの観衆を集める世界最大のイベントだった。世界中から最高レベルの選手が集まってきた。
 PRIDEでの初戦は2002年6月、オランダのセーム・シュルトが相手だった。シュルトは身長212cmの巨人でリーチも30cmの差があったが、判定勝ちをおさめることができた。2003年3月、初代PRIDEヘビー級王者アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラに挑戦した。この試合ではパンチとパウンドで主導権を握り、3-0の判定勝ちでタイトルを獲得した。2004年にはヘビー級GPトーナメントに参加し、大晦日のノゲイラとの再戦で判定勝ちしてGP王者となった。
 しかし私が真に「最強の男」となるには、倒すべき敵が一人残っていた。ミルコ・クロコップだ。キックボクサー出身のクロコップは、左ハイキックでKOの山を築いていた。対クロコップ戦は2003年からの懸案だったが、私の負傷などによって延び延びになっていたのだ。しかし遂に2005年の8月に試合が行われることになった。
 これは対ノゲイラ戦と並んでもっともタフな試合になることは分かっていたから、オランダでキャンプを張った。私は優秀なキックボクサーを招いて十分に対策を練った。試合では作戦通りに打撃で攻め立てグラウンドをも制して判定勝ちした。私は遂に格闘技界のトップに立った。

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 2007年4月にPRIDEが活動を休止した後は米国に主戦場を移したが、日本でも戦い、ロシアでコマンド・サンボの大会にも出て優勝している。現在私はストライクフォースと契約している。2009年11月7日には、ブレット・ロジャースと初めて金網で戦ったが、2ラウンドに右クロスでTKO勝ちをおさめた。
 格闘技は私にすべてを与えてくれた。子供のころ、私と弟は二人で一枚のセーターをかわりばんこに着てロシアの冬をしのいだものだ。格闘技のおかげで今では私も家族も金の心配がなくなった。ピョートル大帝勲章を受章し、プーチン大統領にも会うことができた。子供のころ私はユーリ・ウラソフ選手にあこがれていた。今では私が格闘技を志すロシアの若者たちに夢を与えることができるのだ。
 私は2003年末からレッドデビル・スポーツクラブに所属し、仲間たちと森の中のジムで合宿して、週に6日、1日に3回厳しいトレーニングに励んでいる。
 1日3回は必ずトレーニングするのがロシア流だ。ジムでパンチとキック、組技、寝技の練習をし、森の中を走り、急な坂道を駆け上がり、ハンマーで古タイヤを叩く。最新式の器具などは使わない。ただ徹底的に汗を流すのだ。
 この本では、私がいつも使っている技を丁寧に説明する。地味だが効果は実証済みの技ばかりだ。私はこのような技を使って、柔道、柔術、レスリング、キックボクシングなどさまざまのバックグラウンドを有する世界の強豪を降してきた。格闘技で頂点に立つために必要なツールはすべてここにある。成功するかどうかは、君のやる気次第だ。

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