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2010年5月29日 (土)

コナン・ドイルの博士号

 ブッシュ・ヴィラで変わったことは、外の真鍮の表札であろうか。いまや「医学博士A・コナン・ドイル」である。結婚式の数カ月前に「エディンバラ大学医学博士取得のための医学士および外科医学修士A・コナン・ドイルによる論文『脊髄癆における血管運動の変化および交感神経系の働きの影響』を書き上げた。脊柱への血流の収縮についての問題という内容から言っても、広く読まれそうな内容ではない。だが、幸い医学部では好感を持たれた。コナン・ドイルは一八八五年七月に口腔の検査を受けにエディンバラへ出かけ、博士号を携えてサウスシーに帰ってきたのだった。(スタシャワー邦訳版p.98)

「口腔の検査」はいけません。むかしのイギリスには随分変な習慣があったけれど、博士候補に対して「お口をあーんと開けなさい」と言って検査してから「はい、合格。あなたには博士号をあげます」なんてことはなかった。
 原文にはoral examinationと書いてあるのだと思う(ひょっとしてexaminationの代わりにinspectionかも知れない。意味は同じです)。
 もちろん「口頭試問」「口述試験」ですね。
 博士論文の審査にも、医学部の卒業試験にも口頭試問はつきものだ。
 我田引水いたしますが、ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝にも出てきた。
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/5_f6ec.html

 やがてドイルは卒業試験の恐怖を味わうことになった。戦々兢々ではあったが、口頭試問の前の情景はやはり喜劇だった。学生たちは控室で順番を待っていた。「彼らがいかにも自信がある、不安などないというふりをしてみせるのは痛々しかった。天気が気になるとでもいうように空を見上げたり、壁に刻まれた大学の沿革などをさも興味深げに見つめたりするのだ。もっと痛々しいのは、誰かが思いきってつまらぬ冗談を言うと、みんなが一斉にこれ見よがしにしゃべり出したことである。危機にあってもユーモアだけは忘れないぞというつもりなのだ。ところが誰かがちょっと試験のことを口にしたり、あるいは昨日ブラウンなりべーカーなりがこれこれの問題を聞かれたなどと言おうものなら、無頓着の仮面はすぐに剥げ落ちて、全員が黙ってその男を見つめるのだった」。なかには意地の悪い学生がいて、むやみに難しい問題を持ち出してこれが試験官の十八番なのだと言ったりした。たとえば
「おい、カコジルのことは知っているか?」
「カコジルだって? 大昔の爬虫類か何かだろう」
「違うね。有機物だ。爆発性の化合物だよ。カコジルのことを聞かれるぜ」
 こう言いい捨てておいて、まごついている相手を置き去りにするのである。 

 医学部では学期試験でも口述試験をするらしい。
 某大学医学部の口述試験
「クランケはかくかくしかじかの症状である。君ならどうするかね?」
「はい、すぐに救急車を呼びます」

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2010年5月28日 (金)

ワトソンの資格(5)

 エディンバラ大学医学部を卒業して医学士号を得たドイルは、できることならすぐに開業したかった。しかしそれには資金が要るので、まず船医になって金を貯めることにした。
 しばらくは船医の口がなかったので、「いっそ陸軍か海軍かそれともインド政庁にでも入ろうか」と思った。
 陸軍か海軍に入るというのは軍医(army surgeonまたはnavy surgeon)になることで、ネトリー病院で研修を受けることになったはずだ。「ネトリーに進む」のに博士号は要らなかった。
 ワトソンがBachelor of Medicineと書くべきところを何らかの理由でDoctor of Medicineと書いてしまったのでは――という疑問が生ずる余地はあるのだ。博士ではなく学士だ、と断言することもできないが。
 しかし、むかしのイギリスの医学博士号は、現代日本の医学博士号とは少しくおもむきを異にするようだ。ドイルは大学院で研究したのではない。1881年に卒業してから1885年に博士号を得るまでは、開業医兼小説家として多忙を極めていた。
 ドイルは、エフティさんのご教示によると(http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/2_0ed9.html のコメント欄)

'An Essay upon the Vasomoter Changes in Tabes Dorsalis'
 「脊髄癆における血管運動神経の変化に関する試論」

 という論文を提出して博士号を得たという。どんな論文だったのか。ちょっと読んでみたい。読んでも分からないだろうが。

 すでに『リボンの騎士』などを連載していた手塚治虫が『タニシの異形精子の電子顕微鏡的研究』で医学博士号を取ったのと似ているのかも知れない。
 手塚治虫の博士号については、小島秀明氏と鈴木浩氏の『医師としての手塚治虫』http://www14.ocn.ne.jp/~kojima3/PDF/195_6.pdf 参照。
 タニシの精子の電子顕微鏡写真をもとにして手塚治虫が描いた図について、小島・鈴木氏は

「このシェーマは紛れもなく手塚が描いた図であるが,われわれはこのシェーマをみたとき,全身の血が逆流するような衝撃を受けた.この作業は人間のなせる業ではない.」

 と驚嘆している。

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2010年5月27日 (木)

ワトソンの資格(4)

 アーサー・コナン・ドイル略年譜

1859 アーサー・イグナシウス・コナン・ドイル生まれる。
1877 エディンバラ大学医学部に入学。
1881 エディンバラ大学医学部卒業。学位は医学士。マユンバ号の船医となる。
1882 プリマスで友人ジョージ・バッドのパートナーとして開業するが喧嘩別れ。ポーツマスのサウスシーでG.P. (general practioner)として開業。
1883 『北極星号の船長』などを発表。
1884 『J・ハバクック・ジェフソンの証言』などを発表。『ガードルストーン商会』を書き始める(85年11月完成)。
1885 8月、ルイーズ・ホーキンズ嬢と結婚。同年、エディンバラ大学から医学博士号を得る。
1887 『緋色の研究』をビートンのクリスマス年鑑に発表。
1890 『四人の署名』『北極星号の船長、その他の短編』『ガードルストーン商会』出版。
1891 ハーレー街の外れで眼科専門医(eye specialist)として開業。『シャーロック・ホームズの冒険』の最初の6篇を「ストランド・マガジン」に載せる。小説家専業となる。

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 ドイルは1881年8月にエディンバラ大学医学部を卒業した。ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝によると
http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/1_b2f2.html 以下に一部翻訳あり)

 ドイルは1881年に卒業試験に合格したが、成績は「まずまずのところで、優等ではなかった」。その年の8月に医学士号、1885年には博士号を得た。彼はまず船医としてスタートするつもりだったが、これは世の中を見ておきたいということが一つ、また開業資金を貯めるつもりもあった。それで客船の船医の口を探したが、2ヶ月ばかり何も手がかりがなかった。いっそ陸軍海軍かそれともインド政庁にでも入ろうかと思っていると、月給12ポンドでアフリカ蒸気航海社の汽船マユンバ号の船医のポストがあるという電報が届いた。ドイルは1881年10月22日にリバプールから出航し、アフリカ西海岸の港から港へと航海する船に乗って生涯でもっとも惨めな4ヶ月を過ごした。

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2010年5月26日 (水)

ワトソンの資格(3)

  ワトソンの資格、医学博士、元陸軍軍医補、開業医を一つ一つ検討してみよう。
 ワトソンは

 1878年にロンドン大学の医学博士号を取った。
In the year 1878 I took my degree of Doctor of Medicine of the University of London…

 と『緋色の研究』の冒頭にはっきりと書いている。
 ところが、1878年時点ではワトソンは本当は医学博士(M.D.)ではなく、医学士(M.B.すなわちBachelor of Medicine)の資格しかなかったという説がシャーロキアンの間に根強くあるという。
 水野雅士氏がまとめたものを見せてもらおう。
 http://www5.ocn.ne.jp/~shworld/18_endless_adventure/2/watson_3.html

 なかなかむつかしいところがあるようだ。しかし、

(1)ワトソン自身がmy degree of Doctor of Medicineと書いていることは無視できない。チャリングクロスのコックス銀行の地下室にあるブリキの文書箱にJohn H. Watson, M.D.とペンキで名前を記してあるとも書いている。ワトソンはときどき不正確なことを書くので有名だが、博士か学士かは大きな違いだ。書き間違えるだろうか?
(2)ワトソンはほかの医師についても博士号の有無を正確に書き留めている。『バスカヴィル家の犬』では、ジェイムズ・モーティマーという医師が事件の依頼者として現れる。ところがホームズが「ドクター・モーティマー」と呼びかけると彼は

"Mister, sir, Mister -- a humble M.R.C.S."
「ドクターではありません。私は王立外科医学校免状を持っておるに過ぎません」
 と答えている。

 ワトソンと同時代に活躍した医師、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)の場合はどうだったか。

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2010年5月25日 (火)

ワトソンの資格(2)

 ワトソンは医師としてどういう資格を持っているか?
『緋色の研究』の記述が正しいとすると、ジョン・H・ワトソンは

 1878年(明治11年)にロンドン大学から医学博士の学位を取り、陸軍軍医のための課程を履修すべくネトリーのロイヤル・ヴィクトリア・ホスピタルに進んだ。

 Royalvic
   このネトリー病院は、ヴィクトリア女王の勧めで1856年に設立された。クリミア戦争(1854-56)の負傷者が悲惨な目にあったことが問題となり、イングランド南部の港町サウサンプトン市近郊のネトリーに軍事病院が設置されることになったのである。
 ワトソンはこの病院での研修を終えて、第五ノーサンバランド・フュージリア連隊に軍医補として配属された。当時同連隊はインドに駐留していたが、ワトソンが赴任する前に第二次アフガン戦争が勃発していた。1878年9月、アフガニスタンに派遣されたインド総督の使節がカイバル峠で阻止されたのが契機となって戦争が始まった。 
 ワトソンはボンベイに上陸し、カンダハルで連隊に追いつき直ちに任務についた。これが何年何月だったかは記録がない。しかし、ワトソンは着任後間もなくマイワンドの戦い(1880年7月3日)で負傷し後送された。

Kandahar_2

 マイワンドの戦いについては、別宮暖朗氏の研究がある。http://ww1.m78.com/topix-2/secondafganwar%20maiwand.html
 上図は別宮氏の同サイトより。

 ワトソンは臨時に第66バークシャー連隊に配属されていたため、バロウズ准将指揮下の2566名の分遣隊の一員として「凶暴な回教兵」の攻撃に晒されたのだった。ワトソンはジザイル銃弾で肩を負傷したが、勇敢な従卒のマレーが彼を助けてくれたのだった。

『瀕死の探偵』の事件は、ベアリング=グールドの考証によれば1887年のことであるという。
 この事件の当時、医師ワトソンの「資格」は

・医学博士
・元陸軍軍医補
・開業医

 というところだ。「そこそこの資格」?

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2010年5月24日 (月)

ワトソンの資格(1)

「きみの友情はたしかに信頼しているさ。しかし、事実は動かしようがないよ、ワトスン。なんといってもきみは、ごく限られた経験とそこそこの資格しかない一介の開業医にすぎない。こんなことを言わなくちゃならないのはつらいが、きみが言わせたことだぞ」
(『瀕死の探偵』光文社文庫『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』p.266)

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 シャーロック・ホームズがちょっとひどいことを言ったが、これはワトソンがよくないのだった。前頁でワトソンは

「病人というのはほんの子供とかわらないんだから、ぼくにまかせておきたまえ。きみがいやがろうがどうしようが、診察して治療をするぞ」(p.265)

 と、ホームズに対して医師としてpaternalisticな態度を取った。(今なら「上から目線」というのかな? 変な言葉が流行るね。)

 しかし、ホームズの言葉に戻ろう。ワトソンの「そこそこの資格」って何だ? 

  "In your friendship, certainly. But facts are facts, Watson, and, after all, you are only a general practitioner with very limited experience and mediocre qualifications. It is painful to have to say these things, but you leave me no choice."

「君の友情は信頼している。しかし事実は事実だ、ワトソン。結局のところ、君はただの町医者で経験も少ない。腕も大したことはない。こんなことを言うのは僕だってつらいが、君が言わせたのだ」

 くらいで、どうでしょう?
 ワトソンの資格? 

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2010年5月20日 (木)

漢字検定のアホらしさ

Okotobabetsu3

……ところがこの漢字検定ときては、ただのパズルである。実用的意義はまったくない。こんなものができても、美しく端正な日本語の文章を書くために何の役にも立たない。かえって、ヘンテコリンな文章を書いて失笑されるのがオチだろう。
 どういうばかばかしい問題が出るのか、一つ例をごらんに入れよう。
「列車がに出発するところだった。」
 この傍線部分にふりがなをつけよというのである。
 漢文に「方」が出てくれば、前後の文脈によって「マサニ」と訓読するばあいがある。しかし日本語の現代口語文で、「列車がまさに出発するところ」を「方に出発するところ」と書くことはない。言葉にも文字にも使いどころというものがある。これではムチャクチャである。
(p.14)

 高島俊男対漢字検定では勝負にも何にもならない。高島先生にとっては赤子の手をひねるようなものだ。
 文藝春秋2009年4月号が高島俊男先生に『漢字検定のアホらしさ』を書いてもらったのは、「牛刀をもって鶏を割く」じゃないだろうか。アホらしいことぐらい不肖私でも分かるもの。と思ったけれど、そうでもないらしい。
 財団法人日本漢字能力検定協会のホームページを見てみよう。悪は滅びていないのだ。
http://www.kanken.or.jp/frame/h01.html

 漢検には3つのメリットがあるのだそうで、その第一は

2010年度入試において、「漢検」取得を人物評価、能力評価の基準のひとつとしている大学・短期大学は、 全国で461校1015学部・学科あります。(平成21年12月2日当協会発表)
評価内容は学校によって異なりますが、中には一般入試で「漢検」を評価する学校や、理系の学部で評価対象に採用するところもあります。

 まあ中洲産業大学なんかが漢検を入試に使うのは仕方がないか。

『お言葉ですが……別巻3』は、白川静対藤堂明保論争、和辻哲郎の『澁江抽斎』評など、面白いもの満載。
 とりあえず「高島先生の新しい本が出ました」という報告です。

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2010年5月19日 (水)

ワトソンは女だった(7)

 まず名前ですが、ホームズ自身が用いた通りの方法で推理を進めてみましょう。不滅の物語の筆者はワトソンであります。したがって、ワトソンが自分の名前の手掛かりを残しているとすれば、それは物語の中にあるはずです。我々の求めているのは彼女の性格などではなく、名前、すなわち何と呼ばれたかであります。だから物語が何と呼ばれたか、すなわち題名を見ればよろしい。
 物語は全部で60あります。まずこの60篇を時間順に並べて1番から60番まで番号をつけます。それから何番を最初に取り上げるかを考えましょう。

 ワトソンがこの60の題名群の中に苦心して自分の名前を隠そうとしたのは、我々読者を神秘で惑わそうとしたからです。したがって、まず取り上げるべきは神秘の数、すなわち7であります。さらに確実を期してこの7を自乗します。七七、四十九で、49番目の物語は The Adventure of the Illustrious Clientであります。もちろん最初の4語 "The Adventure of the"は、たいていの話に共通ですから省いてよろしい。残りはILLUSTRIOUS CLIENT

 ワトソンについて次に重要なことは何か。起こったことをそのまま正確に語っているのだ、と読者に信じさせたがっていることです。すなわち話はsquare(まっとう)であると言いたがっているのです。それでは最小のsquareな数(平方数)は何か? 4ですね。4番目の物語の題名から得られるのは RED-HEADED LEAGUE

 続いて消去法を用いましょう。人が何かをして成功する、その成功に寄与するファクターのうち、ホームズがいつも度外視した、消去したのは何か? Luck(幸運)であります。賭け事でlucky numbers(ラッキーナンバー)は何か? 7と11ですが、7はもう使ったので除外すると、11が残ります。11番目の物語は ENGINEER'S THUMB

 次に、ベイカー街に住み始めたときのホームズの年齢は? 27歳でした。27番目の物語はNORWOOD BUILDERの冒険だった。ワトソンの年齢は? 26歳。26番目の物語はEMPTY HOUSEの冒険だ。
 この先は、分かりきったことをくどくど説明する必要はないでしょう。ホームズがひとたび手掛かりを得れば踊る人形の暗号を簡単に解読したように、私が方法を説明しましたから、みなさんもご自分でさらに必要な取捨選択を行えるはずです。結果は必ずや次のようになるはずです。

Illustrious Client
Red-headed League
Engineer's Thumb
Norwood Builder
Empty House

Wisteria Lodge
Abbey Grange
Twisted Lip
Study in Scarlet
Orange Pips
Noble Bachelor

 これをどう解読するか。簡単であります。もちろん折句であります。
 むかしの日本に「かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて旅の心をよめ」と言われて

からごろも 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ

 とよんだという話がありました。あれと同じですw。

 縦に頭文字を続けて読めば、彼女の名前がIrene Watsonだったと分かります。

 しかし慌てる乞食は貰いが少ない。この結果をチェックする方法があるか。彼女の名前を別の方法で、アプリオリに発見できないか。やってみましょう。シャーロック・ホームズの物語を書いたのは女であることは証明済みです。その女はホームズの妻であった。ホームズ物語の中に彼が一目置いた女、惚れ込んだ女が登場するだろうか。もちろん登場する。『ボヘミアの醜聞』の書き出しは、

「シャーロック・ホームズにとって、彼女は常に「あの女」である。……ホームズの眼から見ると、彼女は女性全体を顔色なからしめ圧倒する存在である」

「あの女」の名前は Ireneだったのだ!

 しかしIrene WatsonではなくてIrene Adlerだったと言われますか? 
 しかし、ワトソンなる女の意図は、徹頭徹尾、自分の正体について読者を混乱させ欺くことでありました。苗字をよく見てください。Adlerとは何か。ふつうは addlerと綴ります。Addlerとはaddleする者、すなわち人の頭を混乱させる者であります。見事な手際です。ホームズにふさわしい。我々読者を混乱させ欺きながら、彼女は大胆にも自分の意図を吹聴するような苗字を使って見せたのです。

 この『ボヘミアの醜聞』のアイリーンは、語り手によればホームズにとって「あの女」であったというのですが、彼女についてはさらに興味深い傍証があります。すなわち、彼女がエッジウェア・ロードの聖モニカ教会で結婚式を挙げたとき、まさにホームズがその場にいたことであります。彼は証人だったと書いてありますが、これまったくのナンセンスであります。ホームズ自身が言っているではありませんか。
「僕は祭壇の前へ引きずって行かれ、自分でも何だかよく分からないうちに返答をつぶやいていた」
 これはもちろん証人なんてものじゃない。渋々ながら籠絡され同意させられた男であります。要するに新郎であります。聖典の全1323頁を見ても、ホームズ自身が出席した結婚式はこれだけであります。

 以上、簡略ながら述べてまいりましたが、この問題につきましては、更に論考を加え証拠を十分に検討し不可避の結論を出すべく資料を集めております。これが完成すれば2巻本になるはずであります。第2巻においては、二人の長きにわたる結婚生活――幸福な生活とは言い切れないのが遺憾でありますが、その具体的な結果について考察をいたします。たとえば、ピーター・ウィムジー卿は、世紀の変わり目辺り、『第二の汚点』が出たころに生まれたはずでありますが、その両親はどうなっているか。これなどは検討に値する問題であるかと存じます。

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2010年5月18日 (火)

ワトソンは女だった(6)

 ホームズとワトソンとワトソンは二人でローヌ川沿いに遡り、ロイクで横へ逸れてゲミ峠を越え、インターラーケンを経てマイリンゲン村に向かったのでした。
 この村を出てから、ものすごい深淵の上の狭い山道を歩いて行ったのですが、ワトソンはニセの手紙でホテルへ呼び戻されます。ニセ手紙だと気づいて、すぐにとって返したけれども、ホームズはいなくなっていた。影も形もない。残っているのは「まことに残念だけれど君とはこれでお別れだ」という手紙だけだった。シガレットケースを重しにして岩の上に置いてあった。手紙には、モリアーティ教授に追いつかれた、彼が自分を滝壺に落とそうとしている、と書いてあったのでした。
 これも相当ひどいですね。しかし『空き家の冒険』の方を見てみましょう。あれから三年がたっている。シャーロック・ホームズが突然前触れもなくロンドンに現れてワトソンなる人物はショックで気絶する。かくも長き不在の理由の説明がふるってるじゃありませんか。
 ホームズはあの狭い山道でモリアーティ教授と取っ組み合いになり、相手を滝壺に投げ込んだという。危険な敵、セバスチャン・モランに対して優位に立てるように、自分も崖から転落したように見せかけることにした。濡れた道に足跡を残さずに戻るのは不可能だから、崖を上へよじ登るほかはない。登っているときにセバスチャン・モランが上から顔を出し、岩を落としてきた。ホームズは超人的な力を振り絞ってモランの攻撃をかわし山を越えて逃げた。それから三年間、ホームズはペルシャ、チベット、フランスを渡り歩いていた。兄のマイクロフト以外には誰とも連絡を取らなかったのは、セバスチャン・モランに自分は死んだと思わせるためだった――というのですが、変ですねえ。ホームズ自身の話によれば、モランはホームズが無事に逃れたことを知っているはずでしょう。
 ホームズの話はこうだったと、ワトソンが言っているのです。しかし、まったくのタワゴトで、村の白痴以下のレベルですな。シャーロック・ホームズともあろうものが正気の相手にこんな説明をするなんて、考えられますか。仮に相手が馬鹿だとしても、こんな説明は自分の頭脳に対する侮辱です。あり得ない。ホームズがこんなことを言ったなんて、私は信じません。ワトソンが息を吹き返したときに、ホームズはこう言ったのでしょう。「ねえ、僕たち、やり直そうよ」ホームズは情が深い男です。ワトソンが辻褄を合わせようとして、こういうトンデモ話をでっち上げたのです。

 とすると、この「ドクター・ワトソン」を筆名に持つ人物はいったい誰か? どこから来たのか。どんな風な女だったか。ホームズをつかまえる前の名前は何だったか。

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2010年5月17日 (月)

ワトソンは女だった(5)

……夜になるまでベイカー街には帰らなかった。居間に戻ってきたときは、もう九時近くになっていました。
 ドアを開けたとき、一瞬、火事だと思いました。だって部屋中もうもうと煙が立ちこめて、テーブルの上のランプまで霞んで見えたのですから。でも中に入ってみて安心しました。強い安煙草のいがらっぽい煙が喉に来て咳き込んだだけと分かったから。ドレッシングガウンを着たホームズが黒い陶製のパイプをくわえてアームチェアに丸まっているのが、煙越しにボンヤリと見えました。周りには紙を丸く巻いたものが散乱していた。
「風邪を引いたの、ワトソン?」と彼は言いました。
「違うわ、この有毒ガスのせい」
「そういえば、かなり煙いね」
「煙いだなんて。よく平気でいられるわね」
「じゃあ、窓を開けたらいい」

 どう見ても夫婦でしょう。こういう陳腐なシーンを読めば、誰だって疑問の余地はないと言うはずです。これ以上の証拠が必要でしょうか?

 まだどうしても信じられんという人がいますか。それならいくらでも証拠を挙げられます。たとえば、ホームズにコカインをやめさせようと骨を折ったことは聖典のあちこちで触れています。これは細君が亭主を調教しようとして、とうとう成功した、満足満足というのですよ。
 
 同じように説得力のある証拠があります(少々複雑ですが)。すなわち、ホームズの有名な失踪事件の顛末は『最後の事件』で、その理由は『空き家の冒険』で説明していますが、この説明なるものが奇妙というか本当に仰天ものなのです。こういう途方もない欺瞞がずっと昔に暴かれなかったのは何故でしょうか?

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2010年5月15日 (土)

ワトソンは女だった(4)

「……シャーロック・ホームズが机の向うから私に微笑みかけていたのです。私は立ち上がり、しばらく呆然として彼を見つめていたけれど、それから気絶してしまったみたい」
(空き家の冒険)

「私みたいに辛抱強い人間はいないでしょう」
(恐怖の谷)

「このころには、私たち二人の関係は奇妙なものになっていました。彼は習慣の人でした。狭く凝り固まった習慣があり、私もそういう習慣の一つになっていた。ヴァイオリン、シャグ煙草、古い黒いパイプ、索引帳、そのほかもっとイケナイものごとと同じように、私も欠かせない仕来りみたいな存在になっていました」
(這う男)

 こういうものを男が書いたことになっていたとは! 「久しぶりにホームズに会って気絶してしまいましたの」と彼女は率直にこだわりなく認めているじゃありませんか。「私みたいに辛抱強い人間はいない」というのは、女房が使う決まり文句として世界最古です。アイスキュロスも使った。原始人だって、こういうのを聞かされて歯ぎしりしたに違いない。それに「古い黒いパイプみたいに仕来りになってしまった」なんて、まったく陳腐な嘆き節じゃありませんか。

 どう見ても結婚生活の話です。彼女は妻だったのです。そして古い黒いパイプ自体が手掛かりになっている。『バスカヴィル家の犬』にどう書いてあるか、見てみましょう。

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2010年5月14日 (金)

ワトソンは女だった(3)

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……私がいつもより少し早めに起きていくと、シャーロック・ホームズはまだ朝食の最中でした。……私の分はまだ食事もコーヒーも準備ができていなかったので……私はちょっと腹を立ててベルを鳴らし、ぶっきらぼうにまだですかと催促しました。テーブルから雑誌を取り上げて時間をつぶそうとしましたが、その間、私の伴侶(my companion)は黙々とトーストを噛んでいました。

 何という恐ろしい光景! これがいかにリアルな描写であるかは、お互い、身にしみて分かりますな。ちょっと文体を変えれば、これはほとんどリング・ラードナーのラブストーリーですよ。シャーロック・ホームズでさえも、他の男と同様に、こういうふうな朝食を取っていたというのは、使徒にとってはなかなか認めるのが辛いところですが、事実には直面しなければならない。ここに引用した一節については、それがワトソンがレディであった、つまり女だった、という確信を強めるのみならず、ホームズが長年にわたって不義の生活を送っていたはずはないという期待を裏打ちしてくれること――これこそが大切であります。男が愛人と朝食をともにしているのならば、「黙々とトーストを噛む」なんてはずがない。もしそんなことをしているのだったら、まもなく新しい愛人をこしらえますね。ところがホームズは彼女に、それとも彼女がホームズにか、ともかくお互いに四半世紀にわたって忠実であった。後年の関係について書いてある箇所をいくつか見てみましょう。

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2010年5月13日 (木)

ワトソンは女だった(2)

 夜は十時過ぎまで起きていることはめったになく、朝は必ず私の起きる前に食事を済ませて出かけていました。(『緋色の研究』p.9)

  これを読んで私は名状しがたいショックを受けました。これほどまでに明白な手掛かりが長年にわたって何百万もの読者に見逃されてきたとは! これは女が男のことを語っているのです。読み直してみて下さい。この口調は明らかに妻が夫の――いや、単に憶測をめぐらせるのでは駄目ですね。事実を確定する証拠が必要だ。女が男のことを語っているのには疑問の余地がないが、妻と夫なのか、それとも愛人同士が……恥ずかしくなってきた。私はシャーロック・ホームズのために赤面して、本を閉じたのであります。しかし、好奇心の火が体内で燃え上がり、すぐに同じ頁を開いてみた。すると次の段落には

 この男の人がどれほど私の好奇心を刺激したか、また、自分については何一つ話そうとしない彼の沈黙の壁をやぶろうとどれほど苦労したか、その一部始終を語ったら、読者は私のことを度し難い詮索好きと思うでしょう。

 ひどいものだ。気の毒なホームズ! せめて「彼をもっと理解したいと思ったのです」とか「彼と共有したいものがあったのです」なんて月並みの婉曲語法を使えばまだかわいらしいのですが、彼女は野蛮なまでに単刀直入に「沈黙の壁をやぶろう」というのですよ。私はおののきふるえ、生まれて初めて、シャーロック・ホームズが神ではなく人間である、苦悩する人間であることを感じたのであります。この一ページでワトソンなる人物の性別の問題は確定したのであります。明らかに女であります。しかし、妻か愛人か? さらに先を読んでみました。二ページ先にはこう書いてある。

 彼のヴァイオリンの腕前は……私が頼むと彼はメンデルスゾーンの無言歌などを弾いてくれるのでした。

「メンデルスゾーンの無言歌を弾いてくださらない?」なんて、男が男に頼みますか!
 さらに次のページにはどう書いてあるか。

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2010年5月12日 (水)

ワトソンは女だった(1)

      レックス・スタウト 
   1941年  ベーカーストリート・イレギュラーズの定例集会にて

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 ガソジーン、タンタラス、ボタンズならびにイレギュラーズの諸君。
 恒例の「二番目のワトソン夫人に乾杯」には、私は参加を拒否いたします。これは良心の問題でありますから、ご容赦いただきたい。虚偽を末代にまで伝えるのは黙過できぬのであります。二番目のワトソン夫人なる者は存在しなかった。最初のワトソン夫人もいなかった。いや、ドクター・ワトソンがそもそも存在しなかったのであります。
 お平らかに。椅子から立たないで下さい。

 忠実な使徒として私も聖典を――俗人どもはシャーロック・ホームズ物語とも呼んでおるようでありますが、これをいつも読み返して記憶を新にしております。ところが最近また始めから終わりまで読んだところ、「夜の犬」を思い出させる奇妙な事実に気づいたのであります。夜の犬に関する奇妙な事実は、我々がよく知っているように、吠えなかったことであります。夜のホームズに関する奇妙な事実は、彼が寝るシーンがないことであります。物語の作者、ワトソンなる人物は、かの有名な高等下宿の生活のあらゆる細部について、夕食、朝食、家具の配置、雨の晩なども含めて、繰り返し詳しく説明しておるのであります。ところが、ホームズもワトソンも寝るところだけは一度として描かれていない。何故か? 日常茶飯事の一部について、一番楽しかるべき一齣なのに、何故これほどまでに不自然で頑固な抑制、いや隠蔽が必要なのか?
 怪しいのであります。
 ホームズが入れ歯だったとか、ワトソンがカツラだったなどという不快な可能性も頭に浮かびましたが、あまりにも馬鹿げていて受け入れられない。あまりに見え透いていて、何というか、不気味でなさ過ぎるでしょう。しかし、獲物がとびだしたので跡を追った。そして他のところでは駄目なので、結局聖典自体にあたることになった。まず取っかかりで、『緋色の研究』の9頁で、次のような一節を見つけました。(続く)

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2010年5月 5日 (水)

インド独立裏面史(10)

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(どなたの作図ですか。お借りします)
 
 アーリア人が紀元前1500年ごろにインドに侵入して先住民を征服し、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラの四身分からなるカースト制(厳密には「ヴァルナ制度)を作った――という歴史は、英国に都合がよかった。
 インドに来たアーリア人は、印欧系の言語を話しコーカソイド(白色人種)の特徴があった。英国のインド侵略は3000年後に同じことを繰り返したに過ぎない。インド人は我々に支配してもらってありがたいと思うべきだ。こちらもネルーのような上流のインド人にはそれなりの待遇をする――というのが英国の言い分だった。

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 ガンジーはヴァイシャ(平民)の出身で色も黒かったが、コーカソイドだった。母語はグジャラーティー語で、ヒンディー語やウルドゥー語などとともにインド・ヨーロッパ語族に属する。
 インド人は英国人に差別されたが、ビルマ人などのモンゴロイド(日本人もその仲間)とは扱いが微妙に違うところもあった。
 ガンジーがインド人のために戦い始めるのは、1893年23歳のときに南アフリカに渡って苛烈な人種差別を体験してからのことだ。それまではノンポリで、英国支配下で出世したいと思っていた。
 ガンジーは1888年に18歳で英国に留学して法律を学び1891年に法廷弁護士の資格を得て帰国した。

 ロンドンでは、しばらくの間、休暇旅行中にブライトンで会った老未亡人の家に日曜日に昼食に行っていた。彼は独身の振りをしていたので、未亡人は適齢期の若い女性たちをガンディーに紹介してくれた。やがてガンディーはそのうちの一人と日曜毎に二人きりになり、次第に事態が緊迫してきた。どうやら未亡人は、ガンディーが女性に求婚することを期待しているようだ。ガンディーは愕然とした。彼は未亡人に手紙を書いた。「インド人留学生は結婚していることを隠す者が多く、私もつい真似をしてしまいましたが、今では後悔しております。私はまだ子供のうちに結婚し、息子が一人あるのです」彼はもうお宅に伺うのは止めると言ったが、未亡人は聞き入れず、日曜日の昼食は続いた。(p.131)

「適齢期の若い女性」で、「あのガンジーさんとなら結婚を視野に入れておつきあいしてもいい」という人がいたらしい。相手がビルマ人や日本人ではこうは行かなかっただろう。

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2010年5月 3日 (月)

戦争を放棄する

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 フィリピン1935年憲法
http://www.chanrobles.com/1935constitutionofthephilippines.htm
より

ARTICLE II
Declaration of Principles

    Section 1. The Philippines, is a republican state. Sovereignty resides in the people and all government authority emanates from them.
    Section 2. The defense of the State is a prime duty of government, and in the fulfillment of this duty all citizens may be required by law to render personal military or civil service.
    Section 3. The Philippines renounces war as an instrument of national policy, and adopts the generally accepted principles of international law as part of the law of the Nation.

 第2条第3節
「フィリピンは国家政治の手段としての戦争を放棄し、国際法の一般に認められた原則を国家の法の一部として採用する。」

 しかし、同条第2節で
「国防は政府の第一の義務であり、この義務の完遂のためにすべての市民は自身で軍事的または市民的奉仕を行うことを法により求められることがある。」

 と規定しているのと矛盾する。
「フィリピン共和国は戦争を放棄した」のに「フィリピン人には兵役義務がある」のだ。
 フィリピンがどういう国かは言うまでもない。しかし、下の1935年憲法締結記念写真はちょっと露骨すぎるのでは?

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2010年5月 2日 (日)

インド独立裏面史(9)

 東インド会社支配下のインドで裁判官だったウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)は、インドの古典語サンスクリットを研究して、これがギリシャ語やラテン語と共通の起源を有する可能性があることに気づいた。
 ジョーンズは1786年に"On the Hindus"という論文を発表した。

「サンスクリットは、その古さもさることながら、驚くべき構造をしている。ギリシャ語より完璧であり、ラテン語より豊富であり、そのどちらよりも精巧だが、動詞の起源や文法の様式において、これらの言語と偶然とはとても思えないほどの強い類似性を持っている。実際、その類似性の強さは、どんな言語学者でもその3言語をすべて調べれば、おそらくは既に消滅してしまった共通の祖語から派生したのだと信じずにはいられないくらいである。同様に、ギリシャ語やラテン語ほど顕著ではないが、ゴート語とケルト語も、他の言語との混合も見られるが、サンスクリットと同じ起源を持っていたと思われる。さらに、今日のテーマが古代ペルシャを論じるものであったなら、古代ペルシャ語を同じ仲間のリストに加えてもよかっただろう。」(ウィキペディアより)

 ジョーンズの研究は大反響を呼んだ。ここから印欧語比較言語学が始まり、19世紀に大いに発展した。サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語などの古典語だけでなく、インドとヨーロッパの多くの言語が一つの祖先(印欧祖語)から分化してきたらしいことが分かった。ウィキペディアの「インド・ヨーロッパ祖語」を一部引用すれば

 インド・ヨーロッパ祖語とは、インド・ヨーロッパ語族の諸言語の共通の祖先とされる理論上の言語である。
 クルガン仮説によれば6000年前にロシア南部で、アナトリア説によれば9000年前にアナトリア高原で話されていた。
 英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・ロシア語・ギリシア語・ペルシア語・サンスクリット・ヒンディー語・ウルドゥー語などの言語はすべてこのインド・ヨーロッパ祖語から派生して成立したとされ、細部はともかく、その存在は定説となっている。

 ここから、印欧祖語を話していた人種がヨーロッパ人と上位カーストのインド人の共通の祖先ではないか――という説が出て、英国のインド支配の正当化に役立った。
  英国人から見て、最上位カーストのバラモン出身のネルーなどは「我々白人の仲間ではないか」という見方もあったらしい。

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