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2010年7月19日 (月)

ワトソンの資格(8)

 現代のイギリスでは、専門医の資格にはやかましい規定があるらしい。昔はその辺がいい加減だった。
 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝

(1890年、コナン・ドイルはロベルト・コッホが結核の新療法を開発したと聞いてベルリンに取材に行った。)
 ベルリンまでの列車の中で、ドイルはハーレー街に診察室を構えるマルコム・モリスという皮膚科の専門医と一晩中話して過ごした。モリスはドイルにこう言うのだった。あなたほどの人が田舎医者ではもったいない。眼科に興味がありますか。それなら、ウィーンへ半年ばかり勉強に行けばよい。あちらで箔をつけてくればロンドンで眼科専門医(eye specialist)として十分やって行けます。上等の暮らしができて暇もたっぷりあるから文学もやれますよ、というのだ。サウスシーに戻ったときは、ドイルは「生まれ変わったような気がしていた」。モリスに言われたことが頭の中で鳴り響いていた。妻も賛成してくれたので、娘はお祖母さんのところに預けることにして出発の準備をした。「後始末は簡単だった。医院はごく小規模のものだったから誰かに売るなどは考えられず、畳んでしまえばそれでよかった」。1890年12月12日、ポーツマス文芸科学協会の会員たちはグローズヴナー・ホテルでドイルの送別会を開いてくれた。数日後、ドイルは8年半前にやってきたときの興奮を思い出しながらブッシュ・ヴィラに別れを告げた。自由と冒険がまた始まるのだ。
 二人は1891年1月5日月曜日にウィーンに着いた。吹雪でひどく寒かった。眼科専門医としてスタートする日だというのに幸先が悪い。ところが講義が始まると実際に前途は多難だった。ドイルは前もってドイツ語の術語を覚えておかなかったので、なかなかついて行けなかったのである。ドイルは1891年1月から始めて20年ばかり日記をつけていたが、これはごく簡単なもので、特に後年になると収入金額とクリケットの結果しか書いてないので、ここから分かることは少ない。ところがこの1891年、彼の「驚異の年」に限っては、日記が大いに役に立つのである。ウィーン到着の翌日、1月6日には、「ラッフルズ・ホー書き始める」とある。その後しばらくは何も記入がなく、1月23日に「ラッフルズ・ホー書き終わる」とある。またしばらく空白があって、2月3日に「ラッフルズ・ホー150ポンド」とある。
 ウィーン到着と同時に書き始めて旅行の費用を捻出しようというのはいかにもドイルらしい。しかしこの小説は、これまで彼の作品の中では一番できが悪い。『ラッフルズ・ホー行状記』の主人公は化学者で、彼は卑金属を金に変える方法を発明して億万長者になる。ところが彼は善行をなすのが自分の使命だと思って貧しい者を援助する。その結果はどうなったか。彼は勤勉な男を怠け者に変え、不平不満の空気を醸し出し、熱心な画家をぐうたらにし、恋愛結婚をつぶし、人一人気違いにし、全般的に社会を堕落させた。最後まで読んでみると、ドイルは化学の知識をひけらかすためにこのテーマを選んだのではないかという気がする。
 自伝には、ウィーンでは妻と二人で社交とスケートで楽しい4ヶ月を過ごしたと書いてあるが、日記を見ると実際はそうではなかったことが分かる。ウィーンには6ヶ月はとどまるべきだと言われてきたのに2ヶ月で滞在を切り上げている。講義はほとんど理解できなかったようで、8週間の間スケートと社交で時間をつぶした後、良心のとがめを感じ始めたらしい。その証拠は日記にある。

 3月9日 ゼンメリング行き
 3月10日 ヴェニス行き
 3月16日 パリ着
 3月24日 ロンドン着

 ロンドンへ帰ってきたときには『コーンヒル・マガジン』に『白衣の騎士団』の連載が始まっていたので、ドイルは自信を得た。 しかし金を稼ぐにはやはり医者ではなくてはと思っていたから、モンタギュー街に住居を構えてから、ハーレー街の近辺で眼科専門医として看板を上げられる場所を探した。ウィンポール街の端に理想的な物件があった。家賃は年に120ポンドで、デボンシャー・プレイス2番地の正面の一部屋(プラス裏の一部屋の共同使用権)を借りることができた。4月6日月曜日の日記には「診察室準備完了」とある。しかしその三日前、4月3日金曜日の日記に、文学史に残る記述がある。
「『ボヘミアの醜聞』をA.P.ワットに送る」

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